2013年5月14日火曜日

最強の猛者はケリ

  先日、平城宮跡で鷹狩の鷹が鴉(カラス)に襲われたと書いたが、鷹が鴉に執拗に追われている光景は日常的に普通に見られる。
  鴉は通常は集団で鷹を追いかけるが、一羽だけのときもしばしば見かける。鴉一羽だけでも攻撃を仕掛けている。見上げた根性である。
  要は「ここは俺たちの縄張り(シマ)だ」と鷹に対して思い知らせようとしているようである。
  まもなく野鳥の子育ての時期を迎えるが、鴉に卵や雛を喰われる各種親鳥たちを見ていると可哀想でたまらない。必死に抵抗し悲鳴を叫ぶが、ほとんど勝敗は決まっている。
  そんな中で、鴉に反撃し、鴉に「痛い目」を思い知らせるまで追撃するのはケリだけではないかと思う。私の街の周辺ではそうである。
  これでもチドリ類かと思うほど気が強く、繁殖中などは人間にも襲いかかるし、鴉同様、周辺の仲間が助け合って集団で攻撃する。
 不思議なことにその実力の故か、写真のとおり人相?もヤンキーのようでもある。
 眼も飲みすぎて充血しているように赤い。
 これからしばらく、夜中や明け方でも、ケケケケケケケケと強烈な鳴き声を町中に響かせる。
 卵や雛を守るために必死に反撃している様子が浮かんでくる。
 「季節を代表する音」のひとつだろう。
 私の街にはコンドルも盗賊カモメもいない。だから、最強の猛者、少なくとも暫定一位はケリに与えよう。
 ケリは田圃に巣をつくる。計算したように田圃に水が満たされる直前に巣立っていく。
 季節が毎年同じように繰り返される自然を見ているとホッとする。
 去年と同じ季節を見られているのは、考えてみれば、当たり前のことではなく、奇跡的なことではないのだろうか。この歳になると、ふとそのように考える。

2013年5月11日土曜日

赤い蟻

  「城崎にて」ではないけれど、子供の頃、屋根の雀に石を投げたら当たって落ちてきた。
  その時の「えらいことをしてしまった。」という後悔の感情は、今でも思い出すことができる。
  私の愛読書の「虫捕る子だけが生き残る」(小学館101新書)は、子供の頃に感じた殺生の後ろめたさが豊かな精神を養うとあり、(昆虫採集のようにリアルに)虫を殺さなかった人間がゲーム感覚の戦争で人を殺す・・・という談論風発振りには共感の笑いが止まらなかった。

  さて、季節は百花繚乱の春(立夏を過ぎたが)である。
  ところが、近年は、どうも我が家を訪れる昆虫が少ないように感じている。
  そして、それ以上の絶滅危惧種は昆虫採集少年かもしれない。
  だから、婆ちゃんは正しい昆虫採集少女に導くべく、孫の夏ちゃんと庭で乏しい昆虫を探していた。
  「赤い蟻やねえ」「小さい蟻やなあ」と聞こえてくる。
  赤い小さい蟻?そんなのがこの辺りにいたかなあ?と思って、家の中から「大きさは?」と尋ねたら、1ミリぐらいだと言う・・・・・。おいおい、それはダニ※やないか。
  で、夏ちゃんに、不本意ながら「これはダニ」「これは石ころで殺してもええ」と教えて『ダニ殺し』の遊びを教えてしまった。(大きな声では言いたくないが、小さな石ころでダニをプチプチ殺す手つきはいい。)
  原体験がダニ殺しになったのでは虫嫌いになってしまいそうで心配だが、現実に毛虫や刺す虫もいるから、その都度、遊ぶ昆虫、掃う昆虫、駆除する昆虫をリアルに教えるのが王道だろう。
  虫捕る子の養成は口で言うほど簡単なことではない。
  ※ これはタカラダニで、今のところ人間への危害は報告されていない。ということは、このタカラダニに限っては冤罪で、このダニ殺しは理不尽なものかもしれない。

2013年5月9日木曜日

史跡の保存

  先月末に平城宮跡の「整備」を考えるシンポジウムがあった。
大極殿の上を乱舞するツバメたち(一昨年)
  国交省の大規模舗装工事に危機感を抱いた方々が集まっていた。
  その危機感は的外れではないと私は思う。
  国宝級の木簡が静かに眠っていて「地下の正倉院」と呼ばれる平城宮跡の「整備」を、文化庁ではなく国交省が行うことの方が的外れだと思う。(大規模舗装で地下水位が低下すると千数百年間冬眠していた木簡は朽ち果てるのだ。)
  私が想像するに、・・・ここで復元された首里城が思い起こされるのだが、私は率直に言うと首里城は安物のテーマパークのような印象だった。あれと同じことがここで起こるに違いないと直感している。

  さて、私が書きたいことは、そのシンポジウムで各氏が「史跡保存の実際の難しさ」を率直に語られていたことだ。
  つまり、中国やヨーロッパと違い、基本が木造建築である我が国の史跡の展示方法である。
  その昔は発掘時に写真を撮って埋め戻してお終いだったが、「それではチョッと」というので柱穴跡に柘植の木を植えたり、コンクリート製の背の低い円柱を立てたりしていた。あとはその上の建物を「各自が想像しなさい」という感じだった。
  しかし「それではなあ」というので、この地でいえば、大極殿、朱雀門、東院庭園などが復元された。
  正直に言えば、素人の私などはこの復元は良かったと思っている。イメージがはっきりした。だから私は復元や整備を全否定するものではない。
  ところが研究者は警鐘を鳴らすのである。
  「例えば大極殿は、厳密に言えば入母屋か寄棟か、単層か重層か、基壇の高さも、屋根の勾配も不明なんだ」と、それを原寸復元してしまうと、「この通りと独り歩きしてしまう」と。
 だから、「原寸復元はランドマーク的なものに絞り、後は、模型やCGやジオラマや映像等で補強すればよい。」「先だって奈良大学が大仏殿で行ったように、端末機をかざすと甦るようなバーチャルリアリティーの活用も有効だ。」と。・・・・これは傾聴に値する。
 平城宮については、これまでの研究成果をもっとしっかりと展示した方が良いというのは発表者に共通している。
 そのうえで各氏の復元に関する「許容度」が微妙に違っているのも誠実さの表れと感じられた。全体としてこれらの議論は、私には非常に冷静で学術的と思われた。

  蛇足ながら、国交省は大極殿周囲に高さおよそ8mの築地塀も復元するという。となると、「築地塀があった」という歴史には忠実かもしれないが、現在の平城宮跡が持っている、東に若草山や春日の山々、南に葛城や吉野・大峰の連山を遠望という、ある意味、古都にふさわしいイメージや開放感が閉ざされることになる。はてさて、それが古都を訪れた観光客のニーズに応えることになるのかどうか。問題は次々に生まれている。

  結論を急げば、「学術的正確さと、一般観光客のニーズとのバランスのとれた「整備」を市民も含めたオープンな場で協議を深めよう」という議論の方向であった。私は賛成する。
  その前に問答無用で強行しようとする国交省の「整備計画」には反対だ。

 蛇足の蛇足を言えば、ツバメが日本語を話せないことをよいことに、国交省は問答無用で、本当に問答無用で・・・、近畿で2番目の規模といわれる燕の塒(ねぐら)の葦原(湿地帯)をもう破壊した。ツバメに代わって代理訴訟をしたいくらいだ。
 
 奈良は「日本国」発祥の地である。歴史と文化こそ財産でないか。
 それを、「儲かる」「儲ける」を最高の価値観として破壊していって良いのだろうか。
 一緒に呟きませんか。「本当のことは眼には見えないんだよ」って。

 蛇足の蛇足の蛇足。GWに行われた平城京天平祭で鷹狩が披露されたとき、鷹がカラスに追われて大極殿の窓ガラス(?????)に激突して行方不明になったという。
 鷹匠もショックだし、2週間以内に鷹が見つからない場合鷹の生存が難しいらしいが、「足に革紐や鈴がついているので見つけたら連絡を」という大切な記事をマスコミ(奈良版)は全く報じない。
 ここに書いたとおりの微妙な話題の的である平城宮跡で行ったイベント主義が引き起こした不祥事ということで、奈良県が恥じていることが不掲載の圧力になっているのだろう。下種の勘繰りと批判を受けたいが、県庁と記者クラブの実情から結構的を射ていると私は想像する。

  これを凶事と言わずしてなんとしよう。よって、「平成」改め「護憲」と災異改元を提案したい。

2013年5月7日火曜日

菖蒲の鉢巻

  私は、5月5日の端午の節句に菖蒲を軒に上げる。(今年は基本どおりそうしたが、多くの年は5月4日にする。)
 その夜の露を受けた菖蒲で5月6日に菖蒲湯をたてる。(多くの年は5月5日にする。)
 そして、お湯から上がるときに菖蒲を1本抜いて、それぞれが頭に鉢巻をするのが我が家の恒例である。
 菖蒲の臭気で邪気を払うとか頭痛にならないというのは全く不合理で迷信めいた因習かも知れないが、季節のけじめのように続けてきたし、今年は長男ファミリー、長女夫婦も含めて全員で鉢巻をして夕餉についた。ちょっと壮観であった。
 このブログを書いてから、こういう行事が各お家ではもうされていないことを知って驚いた。私は少なくとも関西ではほぼ全ての家庭で行われているものと思い込んでいた。つい最近まで本当にそう思っていた。
 日本を代表すると言いながら、その実、多国籍企業・無国籍企業である財界とその代弁者が口を開けばグローバル化だグローバル化だと耳蛸である。
 菖蒲の鉢巻で夕餉を囲んだりしていたら、そういう人々から、極東の時代遅れと叱られるのだろうか。



2013年5月5日日曜日

奈良の名産

  奈良というと大阪のターミナルから数十分の地でもあるが、その吉野地方はというと本州最後の秘境の趣もある。
  先日ここの名産を手に入れた。アマゴの卵と鹿肉の燻製である。
  アマゴの卵の醤油漬けはイクラを一回り小さくしたようなもの。
  だから見た途端にアマゴがサケ科サケ目の陸封型であることが納得できる。(成魚では普通は誰もそうは思わない。)
  要するに卵は、見た目も味もイクラの一種と言えるだろう。
  だが、その粒の殻は相当固い。
  その分、イクラよりもある意味新鮮な感覚(「へたってない」という感じ)があるし、何よりもプッチンプッチンという歯ごたえが素晴らしい。
  ということは「イクラ丼」には合わず、ご飯はご飯、卵は卵と口の中で別々に主張する。
  驚いたことに、2歳の夏ちゃんがこれを非常に気に入った。
  外のおかずをホッポリ出してこれに手を伸ばし、プッチンプッチンと食べ止まなかった。


  鹿肉の燻製の方は、正直に言うと牛も馬も鹿も同じであるが、桜のチップが良いのだろう。よい香りで、そして、あんまりカチカチでなく味がある。
  牛肉のジャーキーは普通に有名だが、鹿のこれは、市場一般にあるビーフジャーキーのような、あんなに固くなく程よく柔らかい。
  大阪では馬肉の燻製を「さいぼし」といって、知っているものには超有名?であるが、要するに鹿の「さいぼし」である。でも、そう言ってしまうと身も蓋もない。
  だから、「さいぼし」を知っている者には説明の必要がないぐらい、文句なく美味しい。
  で、ご想像のとおり夏ちゃんが滅茶苦茶気に入ったので、「はい!もうおしまいよ。」「他のおかずを食べよう。」と何回もイエローカードを乱発しながら、目のつかないところに隠してようやく夕飯を進めた次第。
 爺ちゃんは波長の合う孫の味覚に喜んでころこんでいる。

  自然保護の現実は複雑で、鹿の食害で畑が荒らされるだけでなく貴重な植物体系が絶滅寸前という個所も多い。
  結論・・・、吉野の鹿の燻製をみんなで食べて、バランスの良い自然保護に寄与しませんか。

2013年5月3日金曜日

行基さんの仏教

  連休の谷間(といってサンデー毎日の私にはほとんど無関係だが)に、生駒山の麓を散歩した。
 鶯の囀りが時雨のようだった。

  堺の小学校低学年の頃、確か「歩く遠足」で家原寺に行った記憶がある。つまり、我が家や学校から「家原の文殊さん」はそれほど遠くはなかった。家原寺は行基さんの生家である。
  その後、結婚してから長期間奈良に住むようになったが、近鉄奈良駅前の行基像は、バードウォッチング等の待ち合わせ場所として馴染んでいた。
  行基さんが亡くなったのは奈良の菅原寺(喜光寺)であるが、ここの管主様から母が長寿を祝う色紙を戴いたご縁がある。
  そして、行基さんの墓のある竹林寺が荒れ果てていたのを再興した中心人物の故Nさんが妻の遠縁にあたるので、お正月の読経に出席させていただいたこともある。

竹林寺にある行基の墓
 さらに、行基さんが火葬された地と伝えられている、竹林寺近くの往生院は中世から続く生駒谷11か村の郷墓で、妻の家の古い古い墓石のいくつもがそこにある。

  ということで、行基さんには何となく親しい感情がある。
 
 一般の書物でも・・・、その時代の国家鎮護の仏教界(イコール国家)から禁を犯してまで飛び出して民衆に布教した。
 集団で、ため池や港や橋や布施屋等の建設という社会事業を行った。
 ついには大仏建立の勧進僧に抜擢され史上初の大僧正にまでなった。と、悪い噂は一つもない。(正確には日本霊異記には肯定的でない記述もある。)
  しかし、私は勉強不足で、というよりも全く勉強しないものだから、何でこんなドラマチックな話が実現したのかということが判らなかった。つまり、行基さんの思想がどういうものか判らなかった。
  で、好き勝手に夢想した次第。

  行基さんは若い頃生駒山で修業したと言われている。とすると、同時代に役行者も周辺で修業していたことになる。(竹林寺や往生院を少し上ると役行者が鬼を捕まえた地・鬼取の集落がある。)
 役行者から現代の修験道につながる思想のルーツが道教にあるのは疑いないところでもあるし、だから、この時期の「いわゆる仏教」の中には、道教に限らず大陸の諸子百家にルーツを持つ種々の思想が混じっていたのだろう。そしてそれらは、公式のルート以外にも多様なルートで入ってきていたと考える方が自然だろう。
  そも、行基さんの家系のルーツは百済王の子孫と伝えられている西文氏(かわちのふみ)系の高志氏。母方も渡来系の蜂田薬師(はちだのくすし)。
  両方とも土師氏周辺ということもあるから、文筆、外交、土木、製陶、医学、薬学等に関わる最新の技術に触れられる立場にいたことになる。
往生院にある行基の供養五輪塔
  仏教が自然科学系の理論や技術と不可分であった時代である。

  ということから私の意識は、春秋戦国時代の墨子(墨家)に興味が飛んだ。
  白川静氏の言葉を借りれば・・・、墨家は下層にある工人のギルド的集団を母体にしていた。築城や兵器製造の高い技術を持っていた。墨子はつねに賤人の立場で発言していた。墨者のもつ驚くべき行動力は、その強固な結社性と、信仰的な団体に近い奉仕的な精神にあった。ときにはほとんど狂に近いものであった。というのである。
 そう、行基さんの仏教は、・・・・・行基さんの思想は墨家のそれではなかったか?(役行者が仏教の奥に道教を見つけたように。)
 くどいようだが、行基さんが学んだ仏教経典類の中に、実は墨子の思想もあったのではなかろうか?
  私には社会事業や国土建設にまい進する「行基集団」と墨家のそれとがどうも重なって見えるのだが。
 伎楽なども、遥か昔に中国では消滅したものが我が国に伝わって今も残っているということもある。
 だったら墨家の思想も・・・・・。

  「それで、その説はどんな先生のお説なの」と妻が聞いた。
  「いや、今私が思いついた」と答えたら、「紀元前のことと奈良時代を結び付けるなんて、あほかい な」と一笑に付された。
 でもねえ! 「全ての真理は始は少数派だった」とも言いますから。
 この着想、荒唐無稽ですか?



 あとがき(8:50補足)
 墨子については主に白川静著「孔子伝」から孫引きした。
つい先日の安倍首相
  そこには「墨子は・・・兼愛非攻の実践を追及してやまなかった」とある。
 もとより、片言隻句を引いて断定するのは避けなければならないが、子が現代を見、この写真を見たならどう嘆いたであろうか。
 今日は憲法記念日である。
 96条改正論議は、彼に白紙委任状と実印を渡すようなものではないだろうか。

2013年5月1日水曜日

土手のすかんぽジャワ更紗

  (1) 今回このブログを書いてみようとして調べてみたら、なんと北原白秋作詞、山田耕作作曲という由緒?正しい歌であった。
 酸模の咲く頃、・・・こんな題だっただろうか? 私は小学六年生という題だとばかり思っていた。
   土手のすかんぽ ジャワ更紗
   昼は蛍がねんねする
   僕ら小学一年生 今朝も通って またもどる
   すかんぽ すかんぽ 川のふち
   夏が来た来た ドレミファソ
 原詩は「小学尋常科」で、私の記憶は「小学六年生」だった。
 戦後の学校唱歌としては何か異質な、古臭くて偉そうな、そんなアンマッチが心地よい歌だった。

 スカンポはスイバの別名でもありイタドリの別名でもあるが、私のここでいうスカンポはイタドリの方である。
 茎のところをポンと折って皮をむいてしがむのだが、ただ酸っぱいだけで美味くもない。
 よく本の中には「子供が喉が乾いたらしがむ」とあるが、私の周りでは、遊び以外では不味くてそんなことはしなかった。

 今回、妻がスカンポを折って帰ってきた。
 そして本を参考に、皮をむいてサッと湯がいて鰹節と出汁醤油をかけて出してくれた。
 さっぱりとした立派なお浸しだった。
 なるほど、昔、渓流釣りに誘われた時に釣り師たちがいっぱい手折って持って帰っていたことがようやく理解できた。
 確かそのときは「塩漬けにしておいてお漬物にする」と言っていた。
 スカンポのお浸し・・・これはいけます。

 (2) 畑わさびが大きくなった。当尾の里では手造りのポン酢漬けで売られている。
 だが、それを食べたときも、そして同じように作ってみたときも、どこかわさび本来の味が薄まっていて少々不満であった。
 それで今回、ネットでレシピを探してみたら、ただの醤油漬けながら目に留まったものがあった。
  それに基づいて・・・・、70度程度のお湯をかけて一瞬湯がき、お湯を切って思いっきり鍋の中で振り回し、さらに水気をきってタッパに入れ、醤油を入れてまた振る。・・・その間蓋を開けないこと、思いっきり振ること、何よりも手際よくスピーディーに行うこと、というのを真似て一日冷蔵庫で寝かしてみた。
 おそるおそる開けてみたら、これが意外に大成功。
 辛みと香りが十分に残っていた。
 田舎の宿でこんなんが出てきたらもうたまらんやろなと自画自賛。・・・これもいけます。

 (3) 「4割の得票で8割の議席」という非民主的な小選挙区制のおかげで、近頃の政治は眉をひそめたくなるような品のない右傾化が顕著である。
 北朝鮮や中国の悪口を繰り返している人々のロジックが単語を入れ替えれば彼らと瓜二つなのも悲しい限りだ。
 このワサビの醤油漬けが一番必要なのは政治かもしれない。
 今日はメーデー。127年前1886年5月1日にアメリカの労働者が8時間労働の要求を掲げてストライキを決行したことに因んだ日。
 1999年にILO総会で採択されたディーセントワーク・働き甲斐のある人間らしい労働・・・、みなさん、厚生労働省を分割して労働省を独立させませんか。
 
 

2013年4月29日月曜日

セイヨウカマツカ

  「殿様蛙という名前ですが殿様ではありません。」というようなCMがあったが、西洋鎌柄という名前ではあるが、鎌の柄にはなりそうもなく、細くてどちらかというとヒョロヒョロと弱々しい木である。
  それが4月下旬から満開で、よく見ると可愛い花が小手毬のように寄せ集まってなかなかに風情があるのだが、如何せん、この時期一斉に咲き誇っている町中の派手な木々の陰で、どちらかというと目立たないのが可哀想に思う。
  しかし、花には子孫保存のための重大な目的がある。「控えめな立ち居振る舞いを好んでくれる昆虫(むし)さんだけに判ってもらえればいいの。」などとお淑やかに構えてはいられないはず。
  ということなのだろう、窓を開けるとムッとするほどの蜂蜜の匂いがする。と、私が思ってしまうのも逆立ちをした認識で、花の蜜が集まって蜂蜜になっているのだから、蜂蜜の匂いではなくストレートに花の蜜の匂い・・・・・・と、判ってはいるがやっぱり蜂蜜の匂いである。そして、どういうわけか些か官能的である。
 そう、臭覚というものは原始的というか本能に近いものであるらしく、理屈では分かっていても「蜂蜜の匂い」と脳の別の部分が倒錯して認識するらしい。

  そして私が見ている限り、椿をはじめ蜜いっぱいのこれらの木々をいちばん利用しているのは、蜂や蝶や小型の小鳥でなくて何となく好きになれないヒヨドリで、木々の蜜を食べ廻りながら、花の芯まで齧って捨てまくっている。
  だから、そんなときは愛鳥家のネームプレートを横に外して、ヒヨドリだけはチョッと脅かして追っ払っている。
  えこひいきかも知れない。

 ムッとする蜜の匂いをお届けできる筆力がないのが口惜しい。

2013年4月27日土曜日

執念を味わう

  一昔前までは、「弥生以降日本人はもっぱら米を食べてきた。」という日本文化論が当たり前であったが、詳細な史料から、それが如何に暴論であるかということを私に教えてくれたのは網野善彦氏の「日本論の視座」をはじめとする諸論であった。
  この列島の先人は、考えられないほど多くの植物を主食に、あるいは準主食にしてきている。
  その多くは稲作の困難な山間部や水不足、温度不足の飢饉に関連したものであるが、五穀以外に、そのままでは有毒である栃の実や、はては彼岸花まで、その毒抜きの加工技術の苦労の痕は、森浩一氏編「日本の食文化に歴史を読む」等の本を読んでいても心を打つ。
  ところが、そういう貧しい物語とは別種の『毒抜き技術の最高峰』が我が国には存在する。
  「食に知恵あり」(日経ビジネス人文庫)の中で小泉武夫先生は次のように断言されている。
  「これまで食べた世界の食べ物の中で最も奇怪な食べ物は何でしたか」という質問をよくされる。私はちゅうちょもせず「それは石川県のフグの卵巣のぬか漬け。あれにかなうものはない。何せ猛毒を持った卵巣を食べてしまうのですからね。地球広しといえども、これにまさるものなどありません」と答える。・・・・と。
 フグの卵巣はそれ1個で25人相当の致死量がある。
 それを3年以上の年月をかけて発酵によって解毒・・・と言われているが、解毒に至る詳しいメカニズムは今でも不明とされている。ほんとうである。
 それでも「経験則に基づく結果よし??」で、全国で石川県だけで製造が許可されている。(寄り道だが、フグの肝は大分県(別府)では調理提供が禁止されていない。)
 私には、栃の実加工への先人の努力は理解できるが、このフグの真子(まこ)解毒にかけた先人の執念には半分は感心するが半分以上あきれ返ってひっくり返る思いがする。

  息子のお嫁さんは「加賀の女(ひと)」である。
  帰省から戻って来た時に「お爺ちゃんが好きらしいので」と、これを提げて帰って来てくれた。
  糠をとると「表面は魚の内臓を包んでいる薄皮」である。当たり前である。このままでは(見た目は)あまり食欲は出てこない。
  しかし、それをお刺身のように切ると「山吹色の粒々」(小泉先生の形容)が浮き出てくる。
  食感は鯛の真子(卵巣)や明太子に近いが、「へしこ」に似た強い香りが鼻をくすぐる。(糠漬なのだから当たり前か)
  鮒ずしの香りよりも上品?な芳香で、ワインを飲みながら、「日本酒に合う!」「日本酒に合う!」と何度もつぶやいた。
 妻は「アンチョビみたいにピザに乗せたら絶対いける!」と断言した。
  提げて来たお嫁さんは「う~ん」と言って一口食べたが、老夫婦は「もったいない、もったいない」と何回も繰り返しながらパクパクといただいた。
  もちろん、その報告をこうして書いているのだから、テトロドトキシンは完全に分解されていた。
  聞くと、目玉が飛び出るほど高価なものではないらしい。
  だからみなさん、機会があればお酒のアテに一度入手されることを心から推薦する。ほんとうに美味しい。
 私はあと半分を冷蔵庫に隠している。
 今夜、義母にも食べてもらおうと思っている。いったいどんな感想を言ってくれるだろう。 
 詳細は http://www.aburayo.jp/  をご覧あれ。 フグの子はほかの商店にもあるし、YouTubeにも少なくない情報がある。   

2013年4月25日木曜日

裏見葛葉

葛之葉稲荷大神
  先日、陰陽師の世界にタイムスリップして暫し楽しんだことを書いた。
  で、陰陽師といえば・・・、そのトップスターが安倍晴明であることには誰も異論はないものと思う。
  父は現大阪市阿倍野区に住んでいた安倍安名。母は和泉の国信太の森の狐であった(浄瑠璃 蘆屋道満大内鑑)が、正体のばれた母は、「恋しくば たづねきてみよ和泉なる 信太の森の うらみ葛のは」と障子に書きつけて去っている。
  私は、この阿倍野区で働いていたこともあるし、信太山は青春時代、キャンプやピクニックによく遊んだ懐かしい地である。

  さて、この浄瑠璃の元となった、一般に「信太妻」と呼ばれる昔話がどの様に全国に広まり内容が豊かになっていったのであろうかという考察はいろいろされているが・・・、
  先ず、清少納言が例によって「森は信太の森!」と言い放った信太の森は、その地の聖神社の森である。
  そこの神官藤村家が宝暦5年に禁止されるまで販売していたのが「泉州暦(信太暦)」である。
 中央から没落して、それ故に後には「民を惑わす不届者」と賤視されるようになったアウトサイダーの陰陽師なのだろう。
  もしかして、その暦を売り歩いていたのは、近在の、舞いや説教節や説教人形に長けた放浪と語りの芸能集団だったのではないだろうか。

 暦の販売は別にしても、この地の説教節等の芸能集団が、全国に散在していた「きつね女房」の話を「信太妻」に練り上げ、そして全国に広めたのではないか。
 ここから阿倍野の地までは「蟻の熊野詣」で有名な小栗街道で一直線だから話にはリアリティーが増してくる。
  そして、自分たちに繋がる(気分の)陰陽師のトップスターが主演であるから力が入る。
 さらに、多々見聞きしたであろう結婚差別と離縁にまつわる情念で脚色されていったのでは・・・。
 加えて、近郷・堺の三味線に西宮の戎舁きという芸能の存在・・・・となると、漂泊の門付芸(説教節)が練り上げられながら最終的には都会の浄瑠璃や歌舞伎にまで成長する要素は十分であったと想像する。
  (以上、沖浦和光氏、松本芳郎氏、篠田正浩氏らの所論を参考にしながら思ったことを書いてみた。)
 
 この神社は、普通には「葛之葉稲荷」とか「信太森神社」と呼ばれている。
・・が、その「森」は小さく小さくなっている。
  これだけの由緒である。もっと観光のPRをすればよいのにと歯噛みする思いだが、近くのJRは熱意がなさそうだ。
  蛇足ながら・・・、葛の葉は風が白い葉裏を見せることから、裏見=恨みにかかっている。

2013年4月23日火曜日

地名は史料

  先日、巧みな「法話」で超有名な奈良のお坊さんのお話を伺った。
  今年が癸巳歳(みずのと み)に当たることから、特に巳に関わって話が進み、(巳さんで有名な)「三輪山の麓から出る雲を出雲といい、ここが出雲の国の原点だ」とおっしゃった。
  確かに、伊勢よりも歴史が古いと言われ、オオモノヌシを祀る三輪の信仰と記紀神話を考えると肯(うなず)かされる相当有力な一説ではあるが、奈良には出雲以外にも吉備、石見、丹波、但馬、丹後、上野、武蔵、上総、伊豆、三河、美濃、飛騨、土佐、豊前、薩摩等の地名があるので、ここは(・・・地名を根拠にする論は)「後の律令制下の諸国の徴発民の住居より生じた」という直木孝次郎説の方に説得力を感じる。
  それにしても、字(あざな)を含め地名というのは歴史の生き証人であり、考古学的物証と地名から「ここは〇〇であった。」と推論を展開されている大論文も多い。
 事実、奈良には記紀や延喜式に見える地名や人名がいたるところに残り、ミヤ、ゴショ、ミカド、ミササギ等々に関連する名も数多い。そもそも、現在、平城宮大極殿が復元されているが、彼の地は「大黒の芝」と呼ばれていたらしい。
  我が家のそう遠くない場所に「石のカラト古墳」があるが、この地を「佐保」と呼んでいたなら藤原不比等の墓である蓋然性が非常に高い。ただ、現在の佐保の地から数キロは離れているので、もし「ここまでの広範囲を佐保と呼んでいた」とか「ここも佐保と呼ばれていた」という記録が見つかれば書き換えられることになると、白石太一郎先生が(そういう記録を見つけられないのが)悔しそうに語っておられた。そういう進行形の話を聞くのは楽しい。

  このように地名というのは非常に重要な史料であり、京都や奈良が古い地名を残してきたのは、その地に蓄積されてきた教養の結果であろうか。
  それに比べて、大阪市が過去に大幅な地名変更をしてしまったことや、平成の大合併等で安直な自治体名が全国に出現したことは肯けない。
  そんな思いをぼんやりと抱いて奈良町を歩いていたら、陰陽町という町名を見つけて嬉しくなった。おまけに、その地に鎮宅霊符神社が鎮座・・なのだから、中世の、ズバリ陰陽師の世界にタイムスリップしたようだ。
  そんなヒマジンのタイムスリップを大歓迎してくれているように、ここの狛犬はどう見ても大笑いをしておった。

2013年4月21日日曜日

別れの挨拶

  ■別れの挨拶■ まもなくバードウィークがやってきてキビタキなど夏鳥の求愛の合唱が始まるが、その前に、冬鳥たちが北へ、あるいは高山へと帰っていく。
  また、南北に旅をする旅鳥がひと時顔を見せる。今はそんな季節である。

  路を歩きながら、ここによくいたシロハラも居なくなったなあ!と思ったりしていたが、突然シロハラが我が家に飛んできて、積み上げてある枯れ草をバサッバサッと掻き回した。
 旅行前の栄養補給に必死なのだろう。
 窓の内側から「ほらほら旅立ちの挨拶に来た」と言いながら夫婦で感激して見守った。

 翌日、ベニカナメの植込みの中や土の上に忙しなく動く影を見つけた。
 色合いと背中の模様からビンズイも挨拶に来たのかなと思ったが少し違う。
 ビンズイは植込みの中をウグイスのように動き回らないように思う。
 念のためカメラを引っ張り出しに走った。
 という間に、歩道上のケヤキの枝に止まって、今度は見事に美しい声で囀りだした。聞いたことのあるようなないような・・・・。 あわてて写真に切り取った。

 それから、「これは確か・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と、去年のブログを探してみた。
 あった。 2012年4月13日の記事に『柳上のアリアの主は』と題してアオジのアリアを書いていた。 間違いない。
 もしかしたら同じ個体だろうか。
 野鳥たちは人間たちより律儀に挨拶してくれるようだ。

 ■出会いの挨拶■ 5月下旬の気候の翌日に3月の気候になった。私も体調が変だった。可哀想なのは彼女である。
 我が世の春のつもりで羽化したところが木枯らし紛いの浮世の風。
 「がんばれキアゲハ」とエールを送ったが、「同情するなら暖をくれ」と言いたそうだった。




2013年4月19日金曜日

叫び

  小学校1年の参観日に「コメ作り」の流れを紙芝居風に絵に描いて発表したことを思い出した。
  田植えの場面を描くのに困って、悩んだ挙句、真ん中に田圃を描いて、周囲の人々を正面向きのまま、左右の人々は左右に90度寝かせて、手前の人は頭を下にして描いた。
  『佐原真の仕事3「美術の考古学」:岩波書店』を読むと、これは「幼児の多視点画・展開描法」というものらしく、ヨーロッパの旧石器時代から、古代エジプト、メソポタミア、ギリシャ、そして我が国の縄文、弥生の絵にしばしば見られるものらしい。
  だから当時の私の絵画の能力は、よくいって縄文土器か銅鐸の絵画レベルだったのだろう。

銅鐸の絵
左や上の鹿は半回転している
  この本では「子供の絵の発達段階」についても述べられているが、美術教育の研究者(らしい)トムリンソン、ローエンフェルド、東山明、大谷恵子、東山直美等の諸氏(申し訳ないが門外漢のため諸氏のことは全く存じ上げないが)は、何れも「2歳ぐらいは『なぐり書きの時期』」だと規定されている。

  話はここからが本題となる。
  写真は、2歳前の夏ちゃんが「お父さん」を描いたものである。
 お母さんが、「お爺ちゃんが一番喜ぶだろう」からと額に入れて持ってきてくれた。
  それでお爺ちゃんは確信した。「これはもう写実主義を突き抜けてムンクに並んだ!」と。
 もちろん我が家の特等席に飾ってある。

2013年4月17日水曜日

菫の花筵

  今年、家の前の歩道に突然スミレの群落が出現したので驚いたが、近所の田圃にそれ以上にびっくりするようなスミレの「花むしろ」を見つけた。
スミレの花むしろ。全景はこれの20倍以上。
  写真を撮りながら田圃のお向かいの小父さんに聞くと、「たまに草だけ刈りにきやはる休耕田です」ということだ。
  このスミレというもの・・・・見事に美しい典型的な虫媒花中の虫媒花らしい花にもかかわらず実を結ぶことが少ないらしい。その代りに閉鎖花といって初夏の頃から花びらのない蕾を作り自家受粉して実をつけるという。
  モノの本によると、その実には蟻の大好物のエライオソームというものが付いており、蟻がその実を運んでくれることになっている。そう言えば、確かに、歩道橋のてっぺんのアスファルトの切れ目などからスミレが咲いていたりして、「どうしてこんなところに?」と不思議であったことが多々あった。
 というよりも、そう言えば、今年、家の前に突然出現した群落の場所は、私が草引きをしたときに大きな蟻の巣のあった場所だった。私がそうして大規模に土を混ぜ返した場所だった。思い返せば感動的に納得できる解説である。
  こんな見事なメカニズムを考えると、単純な進化論を疑いたくなり(というほど最新の進化論を知っているわけではないが)、スミレ一族が会議を開き、「進歩への冒険(春先の虫媒花)と、保険としての閉鎖花という二段戦略を選択し、その上に蟻を利用しての確実性の高い新世界の開拓」をかんかんがくがくの議論の末、満場一致採用したと信じたくなる。
  この話を妻にしてみたが、草花をよく知っている妻でさえ「スミレの閉鎖花」は知らなかった。
  植物の生態は奥が深い。

東大寺天皇殿紫鷺苔
  東大寺の天皇殿特別拝観があったとき、お庭の枝垂桜も素晴らしかったが、ここも一面の「スミレの花むしろ」・・・と一瞬思ったが、説明書きでは「紫鷺苔(ムラサキサギゴケ)」らしい。屋内からのため詳細に見ることができなくて残念だった。
  帰ってみると、渡辺一枝著「草の絵本」(講談社カルチャーブックス)には載っていた。
  というように、知っている方は昔からご存知だったのだろうが、私は初めて知った草花である。
  ほんとうに草花は園芸品種でなくても奥が深いと痛感させられる。

2013年4月14日日曜日

枚方宿 くらわんか舟

  東海道五十六次目の枚方宿のハイキングに行ってきた。
  ここは京街道(東海道)の宿場町であるとともに三十石船最大の港であり、その船に小舟で引っ付き「めしくらわんか」「さけくらわんか」と商売をした「くらわんか舟」でも有名である。
  江戸時代、幕府の許可書(過書)を持って淀川を上下した船を過書船(かしょぶね)という俗説を学芸員が説明していたが、今も昔も歴史をねつ造するものが多いのは困ったことである。
  そもそも歴史書は勝者が書いたという大前提を忘れる者が多い。
  真実の歴史を言えば、大坂夏の陣の折、家康が真田幸村に追い詰められ最後は後藤又兵衛の槍によって絶命したのは天下公知の事実で、家康の墓は有名な堺の南宗寺にある。
  そして、大久保彦左衛門と家康の替え玉(身代わり)がほうほうの体で逃げる途中、ここ枚方の葦原で鍵屋の小者に助けられて命拾いをして江戸に帰って幕府を開いた。
  その小舟の底にかくまってもらった折り、偽家康は「恩賞は望みに任す」とお墨付きを与えたので、天下統一後、鍵屋たちに飲食物販売舟(くらわんか舟)の権利と「不作法天下御免(河内弁おとがめなし)」の特権を与えたが、その折、「恩賞望みどおり」とは書いては見たが、「それなら副将軍にしてくれ」と言われればしなくてはならなかったので偽家康は冷や冷やしたと言われている。
  で、「恩賞望みどおり」とは『書き過ぎた』と反省したので、淀川の許可船を過書船というようになったというのが歴史の真実である。
  という正しい歴史を、確か三代目旭堂南陵や桂米朝に教えてもらったことがある。
  そのため、アカデミックなガイドさんの説明を聞きながらも、「どこかに難波戦記の片鱗が転がっていないか」と探しながら歩いている自分がいた。

2013年4月12日金曜日

言葉の海

  私は無趣味が趣味のようなものだが、あえて言えば、唯一、乱読が趣味である。
  ところが、けち臭い話で、ここに文字にするのがはばかられるが、小説は単行本で買うのがもったいなくて(例えベストセラーと言われておろうが)文庫本になるのを待つのを常としている。
  そんな中、単行本が文庫本になる前に、三浦しをん著「舟を編む」が映画化され、この13日から上映されるという。なんということだ。
  自称活字派としては読書の前に鑑賞というのは許せないし、それに映画はシニア2人で2000円だから、この本の場合、単行本といっても1575円。それならとりあえずは「単行本を購入するのも可」と蔵相の許可が出た。(けち臭い話でお恥ずかしい。)
  で、スキップをしながら本屋に行った。
 キャッチコピーは「辞書編集部で織りなされる個性的な面々の人間模様」で、その昔、少し関連する書物であった赤瀬川原平著「新解さんの謎」を読んだときほどの驚きはなかったが、「本屋大賞」を裏切らない肩の凝らない楽しい小説ではあった。(欲を言えばもうちょっと肩こりを覚えたかったが・・)

  さて、言葉の海へ漕ぎ出すと言えば・・・、私は戦後一期生である。
  私が小学生であった時代は、ほんの数年前が戦中であったのだし、そのため、私の小学時代は国中が民主主義を模索していた渦中であった。
  だから私の好きな教頭先生は、軍国教育を支えた麗々しい漢文調が嫌いで「漢字廃止ひらがな主義者」だった。
  そして、4,5,6年担当のH先生は、戦前教育の反省から、文語体、美文調、常套句を徹底して嫌う「生活綴り方(詩を含む)教育」を礼賛した。
  そして私はというと、魅力的なこういう先生方の忠実な教え子だった。
  だから、私は今でも比較的自由な発想に戸惑いがないし、それは小学校の教育のおかげだと喜んでいるし恨みはない。
  だがしかし、客観的には、大人になってからも世間で常識とされる文章が書けず(それは中学以降の怠惰のせいだが)、少し上の世代からは「ボキャブラリーの乏しい奴だ」と嘲笑われた。
  そんな私が、近頃はテレビに向かって「なんというボキャブラリーの貧困か」と呟いているのもおかしなもんだが、今では「亀の甲より年の功」などという紋切り型の決まり文句で居直って呟き続けている。

2013年4月9日火曜日

ブラックボックス漂流

源平枝垂れ花桃を知ってますか
  先日、何人かが集ったとき、「今どき携帯を持っていないなんて」と上から目線で笑った人が、「運転免許持ってない人に言われたないわ」とお返しされていたが、社会の中の技術の変化はいったいどこまで向かうのだろう。そして私は、どこまでついていけるのだろう。

  一昨日、ケーブルテレビのBSのチャンネルが動かなくなったので、昨日、新しい機械と交換してもらうことになった。
  ところが、来た人は我が家の機械を見て、「どこも壊れてません」と言う。
  「そんなことはない。こういうことが以前にもあった。」
  「その時間にBSの録画をしてませんでしたか?」
  「BSの録画中にその機械を通じてはチャンネルを変えられないことぐらいは知っている。」
  「おかしいですねえ」
  で、録画の記録を表示すると・・・・
  「昨日電話された時間に録画していた記録がありますね。」
  「・・・・・・・・・・・・・#$%&」
  結局、リモコンをあれこれ動かしている途中で知らない間に録画予約をしていただけのことだった。
  ・・・・年寄りの早とちりを丁寧に詫びて帰ってもらった。

  そのあと、携帯が壊れたので機種の変更のため販売店(ショップ)を訪れた。
  ケーブルテレビと光電話とセットにした料金の割引制度があるはずなので申し出たが、「固定の光電話はどんな契約ですか?」と尋ねられても判らない。それは、向こうさん同士で確認してもらうことになった。
  そして、簡単な説明書をもらって帰ってきた。
  その説明書には「先ずIDを登録しましょう。」とあるが、今度はそれがなかなか判らない。
  そのため、もう一度販売店に引き返すと、「それは済んでいます。」という。ああ。
  今日は電話とメールの仕方がわかったからこれでよい。疲れた。
  あとはじっくりとこの小さな玩具と付き合うことにした。ああ、ああ。

 妻は落ち込んでいる私を見て、「デジタルのことが判らなかっても花や鳥のことはよう知ってる。」と慰めた。*▽@???

2013年4月6日土曜日

これもこれも花見

  「4月6日の天気予報の詳細は如何」と友人を介して気象台の専門家(友人)に問い合わせたところ、「昼前から雨が降り出す」(裏返すと午前中はOK)とのことであったので、「それなら前倒しで開始すれば」と、かねてから予定していたお花見は「小雨決行」とあいなった。
  主催者側の一員となると数日前から購入等を行うから、決断した限りは「それをどう成功させるか」しか選択肢はなく、朝8時過ぎに鶴橋駅ですでに雨ではあったが「川の中で鞍替えするな」はリーダーの鉄則と言われている。(と言うほど大袈裟なものではないが。)
  で、写真のとおりブルーシートを張ってのお花見となったのだが、このブルーシートの屋根は完璧に雨を遮断して快適で、向こう側は大阪城天守閣を借景に満開の桜であるから、中で酒盛りをしている限りは雨など信じられないというほどに、・・・・きっと誰もが「記憶に残る」であろうお花見となった。
  参加者は、「爆弾低気圧との予報に迷った」とか「駅に運行中止もあると張り紙があった」とか「お早めにお帰りくださいと車内アナウンスがあった」とか笑いながら、・・・・それでもやって来たお人好しばかりである。
  参加者のみなさんありがとう。

  天気予報というと、・・・・1941年12月8日、真珠湾攻撃の日から、いわゆる天気予報がなくなった。報道管制である。
  そして、その間、それがために多大な台風被害が発生したし、関連して大地震の被害も闇にほおむり去られた。これこそが学ぶべき歴史である。
  先日、維新の会の代表が「日本は軍事国家になるべきだ」と朝日新聞の紙上で堂々と主張したが、一将功成りて万骨枯る」風景が脳裏をよみがえる。
  天地予報は大切である。歴史は大切である。そして、春にはお花見も大切である。

2013年4月4日木曜日

これも花見

  月曜日、家からそんなに遠くない、ほんのちょっと車で走った川沿いの桜並木に義母を連れだした。
 「土日は俗人どもに開放したのでウィークデーは私たちで楽しませていただきましょう。」という若干萎びたご同輩たちしかいないので、静かな花見を満喫できた。
 そんな大層な親孝行をしたということではないが、満開の桜並木は、義母にはひとときの夢の世界だったようだ。
 現職の皆さんは年度替わりで大変だろうが、要介護認定を受けておられる親がおられるお方は、ウィークデーにお花見がおすすめだ。
 修身の教科書的で写真の掲載を迷ったが、素直に私たち夫婦が母を連れて楽しい花見をしたと、報告することにした。
 

2013年4月1日月曜日

ネギマを伝承する

  若い頃、東京で、「やきとり」という暖簾の掛っているお店で「焼鳥」を注文したら「豚のもつ」だったので驚いたことがあるが、当時の東京の人々がそれを全く不思議がらないこともさらに驚きだった。(という状況は今も基本的には変わっていないようだ。)
  そんな昔話を子供たちに話していたところ、子供たちが「ネギマ」というと「白ネギと鶏を串に刺した焼鳥のこと」と思っていることが判ってショックを受けた。(そう言えば、大手スーパーの総菜売り場にはそのように表示されている。だから全くの頓珍漢ではないが・・・ああ)
  しかしこれはスーパーの責任ではなく、・・・つまりは親の責任である。
  正当なネギマを正しく伝承してこなかった世代が若い世代をけなすのは天に唾するものである。猛省。

  という自戒を込めて、孫のやってくる日に「かんとうだき」をつくり、「ネギマ」をつくって入れることにした。
  こうなれば罪滅ぼしに隔世伝承に務めるのが我が夫婦の責任であろう。
  ネギマのマは当然マグロのマだが、適当な素材がなかったので上等なお刺身用の柵を使用した。もちろん贅沢なものだから誰もが美味しいと見直してくれた。・・・で、所期の目的は達することができたようでホッとした。(しつこいようだがネギマのマの字はマグロのマの字だ!)

  さらに、こうなりゃ昔飲み歩いた経験を無駄にせぬよう、ポツポツ思い出しながら「かんとうだき」の各種材料を増やしてみた。

  え~っと、昔の「かんとうだき」で思い出すのは「さえずり(鯨の舌)」だったが、私の住んでいるこんな中途半端な田舎では手に入らない。で、ここは泣く泣く「コロ」にした。(ここで驚いたのは「コロ」が結構な高級食材になっていることだった。そして正直に言うとコロはサエズリよりも少ししつこい。私はその味が懐かしくて万々歳だったが、妻は「もひとつなあ」とダメを出した。)

  次に、遠い記憶の「たこ梅」の「蛸」に挑戦した。柔らか煮のレシピには叩いて柔らかくするとか、重曹で煮るとかいろいろあったが、なんか邪道のような気がしたので、ここは、ただひたすら沸騰させない鍋でことことことこと煮込んだ。(柔らかく美味しくなったが、ただ見かけは少しモロモロになる。これも難しい。)

  あとは日頃の基本形以外に何か楽しませてやれと思って「巾着ラーメン」を作ってみた。
 近頃、奈良の餅飯殿で有名になった「巾着きつね」の盗作で、小型の「巾着ラーメン」・・薄揚げの中に生ラーメンを詰めたものである。(これがショックなことに、生ラーメンどおしが引っ付いて半分団子の感じになった。「いやいや巾着餅の美味しいヴァージョンや」と家族は私の顔を見て同情して慰めてくれたが、チャレンジャーとしては悔いの残る結果であった。皆様にはつるつるの細うどんでの挑戦をお勧めする。)

  あとはホタテやギンナンや、日頃の我が家の「かんとうだき」では入れないようなものも足してみた。この辺になると、まあ、どうでもよい男の遊びである。

  という爺ちゃんこだわりの「かんとうだき」だったが、孫が一番喜んだのは「りらっくまの蒲鉾」とコーンであった。とほほほほ。

2013年3月30日土曜日

今年は軽い

  世の中には花粉症なるものがあるそうな。きっと自然と親しまず乳母日傘で育ったものが罹るのだろう。と、その昔私は思っていた。
  食生活や生活習慣に偏りがなく、かつ、アウトドアもこなす私には無縁だと信じていた。
  だから、体力的にも充実していた30代中ごろに、歩くスキー(クロスカントリースキー)に手を伸ばし、杉林の中で春スキーを楽しんだりしていた。
  同時に、杉等の林の中にログハウスを造って遊んでいた。
  そして突然に発症した。
  これが「量質転化の法則」だろうか?(こんな卑近な例えはおかしいか?)
  三浦しおん著「神去なあなあ日常」にも「屈強な林業従事者が突然発症する」とあったし、そういう症状の「発火点」があるに違いない。
  私は、歩くスキーやログハウス造りで発火点を超えて花粉を浴びたに違いない。
  それ以来、いろんなドクターをショッピングしてきたが、私の経験から言えば、内科や耳鼻咽喉科よりもアレルギー科が一番私には合っていた。そして、その時の処方箋でもって現在かかりつけ医から投薬を受けている。
  エバステル錠を毎朝服用。眠気その他の副作用もない。
  症状のひどい時のみフルメトロン点眼薬とナゾネックス点鼻薬を使っている。
  この三点セットのお陰で、今年はあまり症状はひどくない。
  あまりマスクもせず、それ用のサングラスもせず、結構外出したり土いじりもしている。
  花粉症は花粉という異物の侵入に対する過剰な防御作用(免疫作用)であるから、妻は私の今年の症状を、「加齢により免疫力が低下したために症状がおさまったのだ」と笑っている。つまり、異物の侵入を阻止しがたいほど老化が進んだのだと。
  なんとでも言うがよい。今年私は花粉症の症状がひどくない。
  皆様は如何? そして、有効な薬等があれば教えてください。
 杉については以上のとおり。さて、檜はどうなることやら。

2013年3月28日木曜日

奈良一番桜

  奈良市内で午後に受講したい講座があった。
  天気予報は午後から雨と報じている。
  しかし考えようによってはこれは吉報「花曇り」かも知れないと考え直し、急遽おにぎりを握り、だし巻き卵を焼き、冷蔵庫からなんやかんやと缶ビールを引っ張り出して、少し早い目に奈良公園に行ってみた。

  近頃は腹の立つニュースが多い。
  娯楽番組も、同じようなお笑い芸人を雛段に並べて「ええかげんにせい」と言いたいものばかり。
  そんな中での奈良公園散策は最高の神経の休養だと思う。
  外国人を含む県外と思しき行楽客が鹿に追われて大声を出している図は平和なものである。
  今日は中国語も韓国語もロシア語も飛び交っていた。この地には尖閣も竹島も四島もない。
  奈良公園で外交交渉をすれば穏やかに話が進みそうな夢を見る。
  小さい子が鹿せんべいをバサッと取られた時には横から取り返してやり、大の大人がバサッと取られた時には「こちらの負けでんな」と笑って話しかけ、公園のベンチでビールとお弁当を広げた。
  ご 同輩と話をすると、「奈良公園はトイレが綺麗し数も多いのでここへ来ますねん」とのことで共鳴。あ~あ。

  奈良国立博物館の向いという一等地にあるが、周りがあまりに有名すぎる大仏殿や春日大社のため、日ごろは閑古鳥の鳴いている氷室神社が、一年で一番賑っているのは奈良一番桜のためである。
  一番桜とは奈良で一番早くに咲くとの理由による。
  京都丸山公園の枝垂桜はあまりに有名だが、あの周辺はいわゆる花見の場所取りと安物の商業主義で俗っぽいことこの上ない。
  それに比べると、ここの枝垂桜は神社の境内ということもあって品が良い。
  俗っぽい花見もよいが(いや結構好きだが)こういう花見も悪くない。
  奈良公園の染井吉野はまだまだこれからである。
  ストレスに疲れたお方はここでの休養をお勧めする。

2013年3月25日月曜日

おうち鍋

  アベノミクスと呼ばれる投機刺激策で(実体経済とは無関係に)物価がジワリと上がる一方、福祉や年金が改悪されていくなかで、この冬、我が家の蔵相が選択した自衛策は「おうち鍋※」の多用であった。(※お家で鍋をする夕食)
  元々、ゆず胡椒(orもみじおろし)&ポン酢の水炊きも好きだし、うどんすき、ちゃんこの類も嫌いでないから私に文句はない。
  そのうえ、大型スーパーには「〇〇鍋のスープ」なるものが「これでもか」と並べられている。
 この「〇〇鍋のスープ」なるもの・・・・、トマト味やカレー味など、食べてみるまで私は「それはないやろ」と拒絶していたが、試してみるとこれが結構いけるので正直驚いた。・・・・と言うほど種類を試してみたわけではないが・・・・。
 ただし、私の独断と偏見で言えば、ここのスーパーのプライベートブランドは、どの〇〇鍋と言わず、全てどことなく安っぽい味で二度とは買っていない。(安っぽい味かどうかは紙一重であるが、私の家族の感想を言えば、多くは紙一重くどくしつこいという印象)(つまり、食品メーカーのものの中に美味しいものが多かったと思っている。)

  先日、孫の夏ちゃんから「夏ちゃんの曾祖母ちゃん」まで、家族が全員集合したが、総料理長は「簡単で栄養があるから“鍋”にする」と宣言し、具体的なレシピを私に命じた。
  で、ひらめいたのは「北海道ではラムしゃぶがメジャー」というテレビか何かで聞いた記憶である。
  そうして、水炊きのイメージを基本に、ニラと黄ニラと、自家製の菊菜、水菜をふんだんに投入し、懐にやさしいラムを大盤振る舞いし、味噌ポン酢等々いろんなつけダレを並べて楽しんだ。
  出来栄えは、初挑戦のためほんの少し心配だったが、「ラムの臭味なんか何も感じなかった。」「返っていい香りで美味しかった。」とは娘の弁。この感想を世間一般の評価とまでは誇大広告をする気はないが、「豚より美味しい。」というのが我が家の結論である。(何しろ夏ちゃんも「美味しいなあ」と言って食べたのだから)
  なお、ご多分に漏れずこの地の「有名ありきたりショッピングセンター」にはラムのスライスはない。
  少し離れたデパ地下まで行く必要があるが、それでも良いなあと思うほどラムの水炊きが我が家のメニューに堂々追加されたことは間違いない。

  追伸1 そして、この冬の我が家の鍋の〆の堂々第一位は、『マルちゃん鍋用ラーメン』。
  えっ、そんなことは知ってる? 既に数年前から大阪の常識ですか・・・・???

 追伸2 土鍋はどうして火を消してからの方が「グラグラ」「シュー」と煮えたぎるのですか。その理由を誰か教えていただけませんか。いつも不思議に思っています。


2013年3月23日土曜日

歴史漫画

  知らない人は知らないが知っている人には超有名ということは多々あるもので、・・・というか、世の中の多くの事柄はそうである。
  近所の奈良大学も文化財学科や史学科の世界では超有名というオタクっぽい大学で、全国の自治体の教育委員会の発掘現場等にその卒業生が多い。
  何回かこの大学の公開講座等に参加している関係で、先日はオープンキャンパスの目玉の「宮下英樹先生を囲む講演会&座談会」の案内をいただいたので参加した。
  ところで、戦国歴史漫画家の宮下英樹先生というのも私は知らなかったし、戦国武将というのも私の興味の外であったが、講談社のヤングマガジンでデビューし500万部以上の売り上げを誇る有名な戦国歴史漫画家だという。(後日、大型書店を覗いてみたら目の高さの段にセンゴクシリーズというのが並んでいたから、本当にベストセラー作家なのだろう。)
  特徴は、ズバリ通説に寄りかからず、「最新の学説ではこうだ。」とか、「俗説通りの戦はありえなかった。」とか、精密な時代考証と大胆な仮説の提起などを含む「常識を覆すリアルな戦国合戦譚」と評されているらしい。(この部分は受け売り)
  という漫画家と大学教授や、大学の城郭研究会の学生等も交えての松永久秀と信貴山城の話は面白かった。
  ただ、この講演会に限らず歴史講座の受講生は圧倒的に高齢者である。大学としては来年度の 進路を考えている高校生を集めたいのだろうが、その多くはご同輩の皆さんで、心なしか大学側の表情は微妙であった。

 写真はオマケで信長をスラスラと描く宮下氏。
 見ていると、その漫画の読者というかファンと思しき青年たちは眼をキラキラと輝かせて見入っていた。
 現実社会には非正規雇用という暗い壁が立ちはだかっているが、レキジョ(歴女)という言葉が市民権を得たように、青春時代からこのように「歴史をやりたい」という具体的な夢を持つことのできた青年たちは少しうらやましかった。

  それはさておき、(1) 以前の講義で聞いたことだが、普通の県なら「〇〇城址」等は熱心に発掘調査され、あるいは復元されたりしているが、ここ奈良県は「古代以前でないと歴史でない」「古代の発掘さえあと100年以上かかるだろう」という土地柄。もっと悪く言えば「中世なんか歴史でない」とでも言うような冷淡さで、中世城郭の調査はほとんど手がついていないと言われている。だから、奈良の城郭を研究するといくらでも論文が書けるという冗談がある。青年たちがんばれ。

 (2) 常山紀談(じょうざんきだん)巻之四
 「東照宮(とうしょうぐう) 信長に御対面のとき、松永弾正久秀、かたえにあり、信長、この老翁は世人(せじん)のなしがたきこと三つなしたるものなり、将軍を弑(しい)し奉り、またおのが主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚(やき)たる松永と申すものなり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり、」・・・・これについては、河内将芳教授が「史料も疑って検討しろ」とのこと、納得。

 (3) フロイス日本史
 「都の統治は、この頃、(次の)三人に依存していた。第一は公方様で、(中略)第二は三好殿で、(中略)第三は松永霜台(そうたい)で、大和国の領主(であるとともに)また三好殿の家臣(にあたり)、知識、賢明さ、統治能力において秀でた人物で、法華宗の宗徒である。彼は老人で、経験にも富んでいたので、天下すなわち「都の君主国」においては、彼が絶対命令を下す以外は何事もおこなわれぬ(有様で)あった。・・・・という史料もある。さて平蜘蛛の茶釜を抱えて爆死した乱世の梟雄だったのか有能な文化人だったのか。

 (4) 久秀と堺
 私の故郷堺に関わって言えば、権勢をふるっていた久秀は永禄9年三好義継や三好三人衆等に堺で囲まれて窮し会合衆に講和を頼み込んだ。会合衆は三好方に「三好方が勝ったこととして堺を去らなければ松永方に付く」と宣言。義継は後々の軍資金の徴発を考えて勝鬨をあげて去ったという。自治都市堺の面目躍如たる話も伝わっている。 

2013年3月21日木曜日

大阪の中の蛙

  大阪市中央区で働いていたことが度々あった。(転勤が多い職場だったので「度々」になる。)
  そんなとき、東京の本社の「偉いさん」をお迎えするのは新大阪駅で、そのあと車で御堂筋を南下するのだが、47都道府県を回っているであろう少なくない「偉いさん」が銀杏並木の御堂筋を「美しい」「立派な道だ」と褒められるのは少し意外だった。
  地元の人間としては、ミナミの戎橋筋あたりの方が馴染みがあり、どちらかと言えば企業社会の顔であったり東京と同類の街並みだと思う御堂筋は『唄の世界』を除いては感心の少ない場所であった。私の感覚では・・・・。
 しかし、客観的にはなかなか他に見られない美しく立派な道路(左右のビルも含めて)なのだ。私は大阪の中の蛙だったらしい。

  御堂筋は大正15年に着工し昭和12年に完成した道路だが、船場の心斎橋筋で商売をしていた私の祖母などは、① お客さんが立ち退いた。 ② 同時に進んだ職住分離で旦那衆は芦屋あたりに引っ越して通勤をするようになった。 ③ 道路幅約45mの横断が困難なため西側のお客さんが遠のいた。・・・と、半ば恨めしく語っていたと、母を通じて聞いている。
  それは、家族史の一コマだったが、社会史的には八百八橋に代表される運河からモータリゼーション対応の道路へと舵を切った先進的な都市計画だった。
  そして今や文句なしの大阪のメーンストリートである。

  さて、大阪市の都市計画審議会専門部会は、御堂筋の原則50メートル、最高60メートルというビルの高さ制限を撤廃することを決めた。
  市長就任直後から「高層マンションを建てて人口を増やしたい。」と言っていた橋下市長が「議論を押し切った。」と朝日新聞は報じている。

  仕事柄、私も近畿2府4県の県庁所在地をよく知っているが、古都の京都、奈良はもちろん、大津も和歌山も県都にふさわしい雰囲気を持っている。
  木津川計氏はそういう文化も含めた都市の風貌を、人格になぞらえて「都市格」と言われているが、それぞれが「高さ制限」を含め、都市格を大事にしているように見える。

  そして、兵庫であるが、神戸市役所周辺の旧居留地を大阪市の皆さんはご存知だろうか。
 一言で言って「品が良い都会」だと私は思う。大阪人としては正直に言って「敗けた」という感じがするほどセンスが良い。
  関西人の夢は「神戸に住んで、大阪で稼いで、京都で遊ぶこと」だと言われたことがあるが、説得力を持っていた。
  かつて首相であった森喜朗氏は「大阪はたんつぼだ」と言い放ったが、御堂筋の景観すら大事にしないなら、大阪の都市格はますます低下するだろう。
  たかだか高さ制限解除の話であるが、大阪の知性が異議申請するのを期待したい。

2013年3月19日火曜日

鳥の目草

鳥の目草
  ここ1週間ほどで花々が咲き始め、街じゅうがいっぺんに華やかになってきたが、その少し以前から足下では瑠璃色の小さな花がいっぱい咲いていた。
 その美しさから外国では、キャッツアイ(猫の目草)とかバーズアイ(鳥の目草)と呼ばれているらしいが、ところが我が国の先人は、こともあろうにその実の形からその草をオオイヌノフグリと命名した。

オオイヌノフグリの実
  そのせいか、「雑草中の雑草」という感じで、通勤経路の街路樹の根元にびっしり咲き誇っていても、ほとんどの人々に見向きもされていない。
 それで思い出したが、娘がまだ小学校低学年のとき、その名前の由来を私に聞いてきた。友達が「オオイヌノフグリって大きな声で言うたらあかんで」と教えてくれたらしいが、それが何故なのか解らずに悩んでいたらしい。
  そこで私が、「そのとおり、それは犬の金玉ということやで。」と答えたが、横にいた妻が「ええっ 知らんかった。」と驚いた。
 それも当然、そんな言葉は学校でも日常会話でも出てこない。私だって小さい頃は知らなかったし、十分に大人になってから知ったことだった。
 だから、友達の〇〇ちゃんの家ではなんとハイレベルな会話をしているのかと感心したことを覚えている。
  (あいにくの雨であったので、写真はネットからお借りした。)

2013年3月17日日曜日

だったん帽いただかせ

  「〇〇となると春が来る」的な決まり言葉はいろいろあるが、大阪あたりで最もメジャーな決まり文句は「お水取りが終わると関西に春が来る」というものだろう。
  事実、3月になると在阪テレビ局各局が夕方のニュースで、「古都奈良に春を呼ぶお水取りが・・」というワンフレーズを毎年繰り返す。
 その東大寺二月堂のお水取り(修二会)の各種行法の中で一番絵になるのは「達陀(だったん)の行法」と言われている。
 何しろ国宝だらけのお堂の周囲を松明が行き交うだけでも驚きだが、そう広くないお堂の中で松明を振りかざして飛び跳ねるのだから驚愕としか言いようがない。
 その行法に使用された達陀帽(だったんぼう)を参詣者にかぶせて健康や来福を授ける「だったん帽いただかせ」という行事が修二会明けの15日に二月堂であった。

  実はこの行事については「ひげ親父」さんが、去年「行ってみたい」と呟いておられたが、私は「初孫の行事にとっておいたら」と助言したのだった。
 そして今年、私が一足先に、天下晴れて“夏ちゃん”を連れてこの行事に参加した。
 「身体健康、無病息災、なんやらかんやら、むにゃむにゃむにゃ」と唱えて金襴の帽子を被せていただくのだが、多くの小さな子供はその何となく異様な雰囲気に泣いている。それがまたカメラマンの格好の的になっている。
 そして我が夏ちゃんはというと一切泣くことなく、ただその変な帽子を力の限り払いのけたのだ。権威に迎合したりせず主体性のある子でなんとも頼もしい。
 で、代わりに爺ちゃんが「いただいた。」
 せっかく奈良近辺に住まいし、孫を授かったのであるからというレベルの『参加』の動機なのだが、1262年間続いた宗教行事の(松明の煙の先の)端っこに参加させていただいて喜んでいる。

2013年3月15日金曜日

花の木

  以前にレインボー メープルのことを書いた。
 その美しい名前と、それにふさわしい七色の紅葉という説明書きの庭木だったので、小さな庭の主木にするつもりで・・・主木らしい値段で・・・購入したが、少なくとも我が家のその木に関しては期待していた紅葉がからきしパッとしない全くの「木偶の坊」だった。
 それに引き換え、あまり期待せずに購入したアメリカハナノキ(ベニカエデ)の紅葉は見事で、我が家の庭とも言えない空地では、初夏のヨーロッパブナの芽吹きと、晩秋のアメリカハナノキの紅葉は非常に気に入っている。
 と書くと、どんな立派なものか・・と誤解を生むが、どちらも自分で車に積んで買ってきて植えたものだし、何年もたった今でさえ、せいぜい2メートルちょっとのなんということもない木なのだが、本人が気に入っているからそれでよい。
 なお、こんな外来種を植えて喜んでいると宮脇昭先生に叱られるだろうから、あまり大きな声でブログに書くのははばかられるから、小さな声で書いている。

 落葉樹の芽の膨らみが目立ってきた3月上旬、そのハナノキが突然花を咲かせた。
 俗に「心(立心偏)が亡びると書いて忙しい」と言われるが、去年までは、つい「忙しい」と下から眺めて「普通の雑木らしい地味な花だな」と思ってやり過ごしていた。が、ヒマジンになった今年、じっくりと近寄って眺めてみると、これが結構可愛い花だった。
 それで、いろいろ本を繰ってみたら「春先に綺麗な花を咲かせるから『花の木』・・」とあった。
 な~んだ!であるが、そんなことを知らずにというか、その名前に「?」を抱かずに植えてきた己の鈍感さを再確認した。
 皆さん、つい「忙しい」「忙しい」って言っていませんか。
 足元に小さな花がいろいろ咲いています。
 現職の皆さん、カローシ防止とメンタルヘルスのために声を掛け合い助け合ってくださいね。

2013年3月13日水曜日

さりげなく

  3月7日の「あれから2年」に書いたが、10日に原発ゼロを求めるデモ行進に参加してきた。
 今だ避難先に居る被災者と代わることはできないが、せめてもその気持ちをちょっとでも行動に移すべきだと思ったからである。
 プラカードを兼ねた紙袋を作って参加したが(と言っても「ちひろ美術館」提供のポスターをダウンロードして貼り付けただけのものだが)、とても『出来が良い』ので翌11日にこれを提げてショッピングモールへ買い物に出かけた。
 「あまりにデザインが完成しているので、返ってインパクトがないなあ」とは妻の贅沢な感想。
 それでもよい。「さりげなく、息長く」がキーポイントだと思う。

 その買い物のときにこの紙袋を提げて本屋に寄ると、新書の新刊のコーナーに面白い本があったので、妻にせびって買い求めた。
 さて、2月23日に「続 戌亥の隅にどっさりこ考」を書いた私である・・・。
 大和朝廷にとって戌亥の方角とは出雲であったと・・・。
 で、そこにあった本は、村井康彦著岩波新書で『出雲と大和――古代国家の原像をたずねて』とある。
 「これは私に買ってくれと・・置かれてたんや」「こんな題名を付けられたら買わんわけにいかんやろ」と妻に言ったら、「そらそうやな」と諦めた。

 いっきに読み進んでいる。内容は面白すぎて口外できない。

2013年3月11日月曜日

撮らせてくれない河原鶸

  自慢ではないが野鳥を見分けるガイドブックは、日本野鳥の会の本や山と渓谷社の本など、ちょっとしっかりしたものを数冊持っている。・・と、自慢している。
  これがないと名前のわからない時もあるし、うろ覚えの知識で「あれだ」と思っても、季節や場所でありえないということも何回かあった。

  そこでカワラヒワを引くと、何れも「体はオリーブ褐色」だとか「風切は黒く基部が黄色」とか、ごく普通にカワラヒワを上から眺めた特徴を書いている。・・・不満である。


  私の印象からすると、カワラヒワが頭の上を飛んで行くときに、羽に黄色いセロハンのような美しい『透かし』が出るのが一番の特徴だと思う。
  上からだとマヒワの黄色い模様の方が綺麗かもしれないが、私は頭上を飛ぶカワラヒワの『透かし』に軍配を上げる。・・・これは文学的であって自然科学(ガイドブック)には馴染まないのだろうか。
  ということで、頭上を飛ぶカワラヒワの美しい『透かし模様』を撮りたいと思い続けているのだが、そうは問屋が卸さず、カワラヒワにキリリリキリリリと「簡単に撮らせてやるものか」と嘲笑されている。
 今回も、なんともケッタイナ写真に終わって肝心の『透かし模様』は写っていない。
 一番下のは昨年撮ったもの。これがちょっと『透かし』らしいかも。


 *** 先週、気温が上がったとたん鶯が正しく鳴きだした。イソヒヨドリも昨日までの鳴き声とは一転した美声で囀りだした。文句なく季節は春になった。しかし、昨日の午後からちょっと寒すぎる。


2013年3月9日土曜日

「自然死のすすめ」と言われても

  幻冬舎新書・中村仁一著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んだ。
 役員をしている老人ホームの家族会の次年度方針案を議論していたとき、「この先生の学習会はどうやろう」という意見があったので興味を持ったからである。
 各章の大見出しを並べると・・・、
 第1章 医療が“穏やかな死”を邪魔してる
 第2章 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
 第3章 がんは完全放置すれば痛まない
 第4章 自分の死について考えると、生き方が変わる
 第5章 「健康」には振り回されず、「死」には妙に抗わず、医療は限定利用を心がける
・・・と言ったところである。
 著者は、「水だけ飲む日が一再ならずあり」という苦学の末に医者になり、病院長や医師会、病院協会の役員までなりながら、病院の理事長を辞し老人ホームの常勤医になったという。
 その老人ホームは、理事長が永観堂の管長で、副理事長は清水寺の執事長らしい。
 こんな重いテーマを一言で語ることはできないから、興味の湧いたお方は直接お読みいただきたい。
 重すぎる・・というお方は読まない方が良い。

 実母は100歳を超える大往生であったし、数時間前まで話ができていたほどに認知症も軽かったのだが、しかし、それまでの老老介護の日々には本当にいろんなことがあった。
 まず、老人ホームに入所した際に「どこまでの治療を希望するか」と尋ねられ、その旨の署名押印を求められたときには正直に言って驚いた。そして、心は騒いだ。
 一般論としてはその種の問題に直面する状況がありうることは解かっていた。
 しかし、実際の老老介護は突然やってくるのだった。

 その後も、数か月ごとのホームとの協議の席や、そして、症状がいよいよ深化した際に、再度、再再度「どこまでの治療か」を念押しされた。
 そのたびに私は、手術は不要、それに結びつく入院・検査は不要、チューブによる人工栄養は拒否と書いて署名押印をしてきたが、「私は正しい判断をしているのかどうか」と煩悶しなかったと言えば嘘になる。

 結果論だが、私は尊厳死というか自然死を選択した。
 こんな重いテーマの模範解答は判らないが、この本が私の心を慰めてくれたことは確かである。
 そして、このテーマは、そろそろ自分自身について決断のときを迎えつつある。
 先日は夜中に「マラソンでゴールに倒れこんだ」ような呼吸が止まらないという不整脈に襲われ妻は119番に電話した。これは「そろそろ考えても早くはありまへんで」というシグナルに違いない。

2013年3月7日木曜日

あれから2年

  あれから2年。
 3.11が近づいてきた。
  あの津波を、再生されたニュースとしてではなく、・・・ちょっとショウ的な臭いのする言葉で嫌だが・・・ライブ(実況)で見たショックは今もある。
  そして、フクシマ第1発電所の原発事故が起こった。
  「メルトダウンはしていない」「ただちに影響が出るレベルではない」とのアナウンスが繰り返される中で人々は被曝し故郷を奪われた。

  私は高校の文化祭で原爆のことを深く考えさせられた。
  その後、原水禁世界大会や3.1ビキニデーにも出席したし平和行進にも参加した。
  しかし、恥ずかしいが原発は違うと思っていた。人類の制御が可能でエネルギーの選択肢の一つだと・・・。
  愚かであった。

  そういう自分の半生の反省から、これからは原発ゼロを目指す立ち位置を確固としたいと考えている。
  だから、金曜日の夜に関電に脱原発を求めて集う人々の最後尾にできる限り参加することにした。
  体調の悪い時や気候のひどい日もあった。
  「私一人が行かなくても大勢に影響はない」とか「これだけが市民運動ではないだろう」とか考えなかったと言えば嘘になる。
  総選挙の後の極寒の金曜日は、家を出るまでに頭の中で二人の自分が論争した。
  だから偉そうなことは全く言えない。
 過大に誤解されると困るが皆勤ではもちろんなく、孫が来た日には“孫あっての脱原発”などと没論理的な屁理屈を付けて休んでいる。
  しかし、誰に頼まれたのでもない行動はある種気分がいい。
  そして、自分自身を励ますために、できるだけ楽しいステッカー、美しいステッカーを手作りして参加することにしている。

  この3月10日には全国で脱原発の行動が取り組まれる。
  そのために今回は、ちひろ美術館が提供した美しいポスターを貼り付けた紙袋や、花粉症対策のちょっと笑ってもらえそうな「さよなら原発マスク」を相当数作成した。参加者に配りたい。もらってくれるかな。
  そして、セミプロ音楽家の友人が「花は咲く」の歌唱指導をしてくれることになった。ありがたい。
 ♪ 花は花は花は咲く 私は何を残しただろう。
    花は花は花は咲く いつか恋する君のために。
 過去は変えられないが未来は変えられる。
  しかし、何もしなければ変わらない。

【左の写真は追加】

 好評だった花粉症マスク
 写真の上でクリックすると拡大できます。
 文字のところは貼っています。
 牛さんは浮いています。

2013年3月5日火曜日

錦糸玉子当番

80年以上は経っていると
思われる擂鉢と擂粉木
  先日のひな祭りに「ちらし寿司」を作るから「錦糸玉子を焼くよう」我が家のシェフから指示があった。
 錦糸玉子を焼く当番はいつの頃からかおおむね私となっている。
 姿よりも「美味しい玉子を焼け」というので、今回は少し丁寧に取り組んだので書いてみる。
 「レシピ紹介」みたいなブログが続いて少し恥ずかしいが・・・・、

 先ず、ほんとうは白身魚だが、そんな本格的なことはできないから、ツナ缶を3缶使用した。
 オイルをよく切ってから擂鉢で嫌というほど擂る。はんぺんの種のようというか団子と見間違うほどにまで擂りあげる。
 最初は日常使いの小型の擂鉢でスタートしたが上手くいかない。やっぱり餅は餅屋、年に数回しか使用しない大型の擂鉢と擂粉木を引っ張り出したらそれらしくなってきた。
 「使用頻度と格納場所を考えたら棄ててしまいたい」という衝動を何回も潜り抜けてきただけの甲斐がある。擂粉木には「昭和7年8月製」と彫ってある。
 それに卵13個と出汁と味醂を加えて、安物の小型の玉子焼き器で厚焼き玉子を焼き始めたが、火加減が難しく最初は少し焦げてしまった。
 以後は、下から少し焼いてから魚焼き器で上から焦げないように焼いたら上手くいった。邪道かもしれないが「結果良し」といったところか。
 例によって審査員は孫である。
 パクパクパクパクと嫌というほど食べてくれたので、先ずは合格点をいただけたと一人悦に入っている。
 ただ、このレシピは今だ途上である。もっと安くてさらに癖のない白身魚が上手く手に入れば改良してみたいが、海からも遠く大手スーパーに依存したこの街ではなかなか展望が見えない。
 先日のブログに書いたが、ひな祭りには「桜餅」も担当した。
 「桜餅」の方は案ずるより産むが易しと書いたが、「錦糸玉子」の方は、魚を擂る作業は、体力軟弱な高齢者にとっては結構ハードな重労働だった。アニメの一休さんを思い出しながら努力した。挑戦されるお方は相応の覚悟を決められたい。