2020年11月30日月曜日

古墳の終末

   11月28日29日と奈良県明日香村の中尾山古墳の一部発掘調査の現地説明会があった。27日の新聞に予告されていたので行こうか行くまいか相当悩んだが、これまでの経験ではけっこう密になりそうなので最終的には行くのを断念した。

 新聞で報じられている限りでは、既に研究者の間ではほぼ定説とされている事々がはっきりと確認されたという感じだった。

 それは、八角墳である、横口式石槨である、火葬墓である、水銀朱が塗られていたなどということで、「真の文武天皇陵であろう」とのほぼ定説がいよいよ固まったというものであった。

 壬申の乱の最終的な勝者であり、日本という国号や天皇という名称を本格的に名乗って唐にまで認めさせたのが持統天皇で、大津皇子粛清など剛腕をもって自分の子の草壁皇子を天皇に継がせたかったが即位前に死亡したため自分が天皇になり、その後草壁の子つまり持統の孫である軽皇子を即位させ、持統は太上天皇として時代を切り開いたが、その軽皇子が文武天皇である。

 文武は病に伏して天皇職を母の元明に譲り、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都した。そういう意味で、古代史前半のフィナーレともいえるのが、文武天皇でありこの中尾山古墳である。

 次に八角墳ということでいえば、斉明天皇に代表される当時のイデオロギーは道教であったのは間違いない。そして、道教では宇宙やこの世界を八角形ととらえ、それらに君臨する天皇の墓が八角墳で、それはそれ以前の前方後円墳のように豪族には許されなかった形状だった。だが、平城京に代表されるその後のイデオロギーの本流は仏教のそれに代わり、故に、中尾山古墳は基本的に八角墳、もっといえば若干の例外はあるが古墳文化の終焉を教えている。

2020年11月29日日曜日

ワンフレーズの落とし穴

   政治の世界でワンフレーズの扇動が目立ちすぎる。マスコミがそれを「わかりやすい政治」だとか「劇場型」などともてはやすから一層始末が悪い。

 行政の機構等に関わっていうと、「行政改革」だとか「小さな政府」だとか「身を切る改革」などというキャッチフレーズを連発して改革者を装いながら、政党交付金は懐に入れ、政治資金の報告では嘘を重ね、国の行事を後援会の選挙運動に使い、自治体に関係する広報等で特定政党の主張を宣伝する。

 最近では「学術会議に10億円」というキャンペーンが仕掛けられたが、菅首相は官房長官時代に領収書不要のつかみ金官房機密費を毎年約11億円費消していた。その菅内閣の次のキャッチフレーズは「縦割り行政の廃止」という。

 とまれ、ワンフレーズは危険である。「縦割り行政」には非効率や不便があるのは事実であるが、最も効率的な行政組織は独裁政治だということをまず押さえておきたい。

 そして、「縦割り行政」の弊害も認めないわけではないが、あえてここでは「縦割りで何が悪い」と考えてみよう。経済産業省があって、それにある意味ブレーキを掛ける消費者庁がある。環境省もある。事業を拡大したい多くの省庁があり一定のブレーキ役の財務省がある。

 省庁というのは各省庁の設置法があり、所轄する基本法を持っている。その事務方トップが各省庁次官でさらなるトップが各大臣である。閣議はその大臣間の合議の場というのが行政機構の本質である。本来の姿である。それを、内閣府と首相秘書官あたりが取り仕切るのは不正常なのである。

 例えば厚労省には労働基準監督行政などの労働行政がある。もし「縦割り行政」、つまり各法律執行などの分野ごとの独立性が抑制されたならば、「コロナ禍では解雇を自由にしよう」とか「残業は死ぬまで可能にしよう」となりかねない。はっきり言えば、「縦割り行政」だからこそ、あんなひどい安倍政権であっても一方では「過労死防止」などの監督が行なえているのである。

 縦割り行政間の横断的連携や協議は住民サービスの観点から大いに進めればいい。しかしながら自公や維新のいう「縦割り行政廃止」のワンフレーズに騙されてはいけない。アクセルだけの自動車に乗って走るような話になる。このキャッチコピーは実は非常に危険な側面を持っている。

2020年11月28日土曜日

進化しているパリーグ

   日本シリーズがあっけなく終わってしまった。京セラドームは儲けそこなった。

 虎キチというほどでもないが、面白いTV番組がなくなった昨今は、タイガースのナイターを観ることも間々あった。そのタイガースがコテンパンにやっつけられたジャイアンツがホークスにコテンパンにやっつけられた。

 結果だけでなくホークスの投打はいずれもケレン味がないというか、投手は直球を中心とした剛速球ピッチングをしたし、バッティングは観ていて気持ちの良いフルスィングが多かった。

 先発完投型エース中心のセリーグに対して、パリーグは1996年から中継ぎを評価するホールドを公式記録に採用。先発、中継ぎ、抑えのシステムがセリーグ以上に出来上がっている。そういう強力投手陣が強力バッティングを生み出したのだろう。

 高校野球型「美のセリーグ」に対して、メジャーリーグ型「力のパリーグ」と感じた。

 さらに、ホークスは12球団で最も早く3軍制を敷いたということで、育成出身の若い力が好もしく目立っていた。

 「人気のセリーグ」はこの現実を直視して改革しなければ、「実力のパリーグ」にそのうちに人気もさらわれるのでないか。

 以上、偉そうなことを書いたが、私の記事のネタ元はナント赤旗である。いやはや守備範囲と実力の高さは一般紙を超えている。

 おまけとして、京セラドームの観客席に胸にNANKAIの緑のユニホームを見つけた時は嬉しかった。

2020年11月27日金曜日

天網恢恢疎にして漏らさず

   報じられているところによれば「黒川氏がいれば、こんな面倒なことにはならなかったと思うよ。今になって黒川氏の存在がいかに大きなものだったのか痛感するね。菅首相だって黒川氏に頼って政権運営してきた。心配でたまらないと思うな」ある自民党幹部のつぶやきだそうだ。

「#検察庁法改正案に抗議します」のツイッターデモが盛り上がった当時、「一般人は知らないだろうが検察官も公務員だから国家公務員法の規定に沿って定年延長されただけだよ」と訳知り顔で「お説教」を垂れたコメンテーターのなんと多いことか。(国公法援用論はそもそも誤り)

しかし、あの人事が底なしの職権乱用の悪だくみであったことは天下に証明された。

さて今度は、学術会議会員任命拒否問題で評論家の佐藤優氏が「赤旗が任命拒否をスクープしたため菅首相が引っ込みがつかなくなった」「赤旗のスクープが無ければ丸く収まった」と、任命拒否に至る事実経過を無視して、原因と結果を入れ替えるトランプ並みのフェイクを文芸春秋に投稿をした。

その議論の前提は橋下徹氏がテレビで広めた「一般人は知らないだろうが、首相の業務は大量にあるから補佐官が勝手にやったのだ」という論であろう。これについては1013日のこのブログ記事で「公務の世界ならずとも実質的専決があるのは周知の事実であるが、間違いがあれば本来の決裁者が責任をとるのが組織の掟だ」と私は書いた。佐藤優氏にしても橋下徹氏にしても、検察庁法の際のコメンテーターと同じムジナの穴から発した同種の主張である。一般人はもうみんな知っているのだ。

「桜を見る会」では公設秘書らは必ずこう言うだろう「安倍晋三先生には迷惑が掛からないよう全く報告せずに秘書たち一存でやったことでございます」と。

しかし、チコちゃんならずも一般人は知っている。そして、横山ホットラザーズに倣ってこう言うぞ「おまえはあほか」。

政治資金規正法違反(虚偽記載)、公選法違反(買収)は明らかだが、内閣総理大臣が国権の最高機関たる国会に嘘を連発した罪は何としよう。その政権を支えた公明党の罪は何としよう。閻魔さんは知っているぞ。

2020年11月26日木曜日

焼き芋の伝承

 ■やきいも グー チー パー■

やきいも やきいも

おなかが グー

ほかほか ほかほか

あちちの チー

たべたら なくなる

なんにも パー

それ やきいもまとめて

グー チー パー

 ■たき火■

かきねの かきねの

まがりかど 

たき火だ たき火だ

おちばたき

あたろうか あたろうよ

きたかぜぴいぷう ふいている

2020年11月25日水曜日

しろばんば

   人間世界にも「わかっちゃいるけど」という色恋の世界があるように、晩秋から初冬の綿虫(わたむし)は害虫などという概念を超えて季節の風景に感じられる。そのあたりが色恋の世界に似て没論理的に可愛い。

 右の拡大写真のように撮ってしまうと如何にも「ムシ」だが、飛んでいるさまは綿毛であり小雪である。だいたいこんなには見えない。

 北の地方では「雪虫」といって初雪の前触れと言われているし、井上靖の自伝的小説の題名「しろばんば」もこの綿虫だといわれている。ネーミングとしては『しろばんば』がいい。

 基本はアブラムシ科の害虫で、何代か単為生殖を繰り返したのち晩秋から初冬に「綿虫」になるらしい。それだけ下等というか低位の昆虫なのだろう。

 いらぬ説明をしすぎたが綿虫は文句なく初冬の風情である。ふわふわ漂っている綿虫は、「こ奴、害虫め」という気にならない。

 小春日和の庭で逆光に照らされてふわふわ漂う綿虫をぼんやり眺めていると、さだまさしの作った歌『秋桜』が浮かんでくる。

2020年11月24日火曜日

時代と人間そして芸術

   このブログの103日の記事で、学術会議会員任命拒否問題が朝ドラ『エール』の描く昭和18年頃とシンクロ(同調)することを述べ、朝ドラでは【(古関裕而)の妻(役名は音(おと))が「みんなの心を楽しくさせる音楽」と発言したことに対して、音楽挺身隊リーダーが「時節柄音楽は軍需品である」と述べて音を「非国民」と指弾した】ことを取り上げた。

 志村けん扮する山田耕筰はその音楽挺身隊の隊長だった。

 そして古関裕而は、ドラマの上では妻の逡巡にも気づかず、次々に軍歌などを作曲し、その影響を受けた多感な大勢の子どもたちは軍国少年に育っていった。

 ところで私は、翌104日の記事で【このドラマから古関裕而の純粋さというか鈍感さを「正しく」批判し、「みんなで戦時体制の危険性を再認識しよう」と書くには若干の躊躇がある】と書いた。

 【戦時歌謡を量産した古関裕而を現代人が批判することは容易い。批判は正しい。同時に批判には度量も必要だ・・戦時中は戦意高揚の曲を量産し、戦後は戦後で長崎の鐘をはじめとする名曲を量産した古関裕而は、見事にあの時代の多くの日本人の典型なのかもしれない】とも書いた。なお、古関裕而の自己批判に至る地獄の苦悩はその後のドラマで大きく取り上げられた。

 以上は『前説(まえせつ)』で、これから述べる本日のメーンテーマは音楽挺身隊の隊長であった山田耕筰(1886年明治19-1965年昭和40)である。

 1122日の朝日新聞に吉田純子編集委員の【「軍に加担」朝ドラの山田耕筰像に思う】という小論が掲載された。要旨を以下に摘んでみると、

 ■ドラマではあるが山田耕筰を権威主義的な悪代官と印象付けたのは罪深い。■

 ■(主語が吉田編集委員?か音楽評論家片山杜秀氏?か判りにくいのだが)「戦争に積極的に協力するポーズをとることで、軍人からの干渉を牽制する。そうして若い仲間たちが前線に送られるのを阻止する。音楽の未来を守るための賢明な戦略だったというべきでしょう」バリトン歌手の故畑中良輔氏も「音楽挺身隊がなければ、どれほど多くの音楽学生が兵隊にとられ、命を失い、日本の音楽文化の発展に影響を与えていたことか」と語っていた■と書いて、■戦意を鼓舞する曲を書いた、歌ったと己を責める『エール』の登場人物たちの苦しみはそのまま山田耕筰の苦しみでもあったはずだ。戦後、「どうか勇を剣にかえずに、科学にかえ芸術にかえてください」と山田耕筰は書いている■と結んでいる。

 正直にいうと、この小論の気持ちは判るが、そこまで言うと、私が冒頭述べたような躊躇を超えてしまう。戦時体制の山田耕筰や音楽挺身隊が果たした負の側面(ある意味それが正面かも)も踏まえなければ歴史を見誤ると思う。朝ドラのシナリオの浅さ狭さを指摘するあまり、音楽挺身隊の美化に通ずる文脈には賛同しがたい。ただ、古関裕而と対比させて悪代官としてしまうのは全くよくなく、その指摘は正しい。

  次いで、吉田記事にも出てきた音楽評論家片山杜秀氏の山田耕筰論で私が改めて気づかされたことは、交響曲やオペラ等々の音楽の流れは別にして、山田耕筰の有名な歌曲や童謡の作られた時期が非常に偏っていることの驚きだった。列挙すると、

 1922年(大正11)「曼珠沙華」「六騎」「かやの木山の」

 1923年(大正12)「ペチカ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」

 1924年(大正13)「かえろかえろと」

 1925年(大正14)「からたちの花」

 1927年(昭和2)  「赤とんぼ」「この道」

 以上、見事にそれは、いわゆる大正デモクラシー、そして童謡や児童文学の「赤い鳥」運動とぴったり重なるではないか。それは芸術も又大いに歴史に規定されていることを物語っている。「平和なくして芸術なし」というのは単純であろうが大事な視点ではある。

 片山杜秀氏はこうも綴っている。

 「1950年代中葉の東京の砂川での反米基地闘争で民衆が『赤とんぼ』を斉唱しつつ座り込みを続け官憲を圧した。 『赤とんぼ』こそ、民衆の共感を幅広く得、連帯の力になる歌という共通認識があった」と。

 社会や人間を語るとき、単純にレッテルを張ってはならない。芸術も同じ。同時に芸術や学問さえも権力者の強力な道具や露払いになる(つまり庶民に対する凶器になる)ことも忘れてはならない。

 もう一つ、近代史を思い返してみて、人間は(自分はと読み替えて)弱いと認めることが大切なように思う。鷲田清一氏の『折々のことば』2002は「常に小さな火から始まるのです。そして闘えるのは、火が小さなうちだけなのです。太田愛」を紹介している。自分には直接的でない(一見そのように見える)圧制や統制も、いざというときにはもう危ないのだ。山田耕筰や古関裕而の時代からそういう真理を学んだ気がする。見て見ぬふりほど毒素の多いものはない。

2020年11月23日月曜日

サコ学長の日本論

   政府のクールジャパン政策に従って「ニッポンすごい!」「ニッポン人すごい!」というようなテレビ番組が多くて、それに類する番組名を見ているだけで恥ずかしくて嫌になる。

 ただNHK BSの、その名も「クールジャパン」は、政府のクールジャパン政策以前からある老舗番組で、鴻上尚史氏が司会ということもあり、上品な感じで好もしい。何よりも私は日本文化の自虐論者でもなければ、欧米崇拝主義者でもない。

 さて、「まさかそんな程度のものではないだろうな」と思いつつ読んだ『サコ学長、日本を語る』(ウスビ・サコ著・朝日新聞出版)は、期待に外れず、否、期待以上に読みごたえがあった。

 現代日本社会の分析、批評として日本人の学者や文化人の作品と並べても第一級の著作だと思う。ワクワクしながら読み進んだし、読み終えてからも満腹感が残った。

 教育や若者についての章の小見出しをあげてみると、「学校に期待しすぎる日本人」「平等を履き違える日本人」「能力を生かせない日本人」「すぐにあきらめる日本人」「若者を自殺に追い込む日本」という具合だ。

 その後の章は、「大学よ、意志を持て」「コロナの時代をどう生きるか」と進む。

 ニッポンすごい! というようなお世辞はなく、それでも日本が好きなアフリカ出身のサコ氏の暖かくも鋭い現代社会論。多くの場面で肯いたりプッと吹き出したりして楽しく読んだ。

2020年11月22日日曜日

平嶋彰英氏の矜持

   友人のTさんが、菅首相の極めて危険な政治姿勢について書いた私の11月10日のブログ記事に関連して参考にと言って、冊子を送ってくれた。スタジオジブリが出している『熱風』の最新号で、青木理氏の連載インタビュー第50回ゲスト平嶋彰英氏という記事がTさんの推しだった。先の私のブログ記事でも触れた平嶋彰英氏である。週刊誌風にいうなら「激白」だろうか。

 2015年春、そのとき平嶋氏は総務省の自治税務局長だった。蛇足ではあるが旧自治省というのは旧内務省の本流に位置するもので、マスコミ受けは少ないかもしれないが旧大蔵省に次ぐような「格」と思ってもらってもいい。

 平嶋氏に対して高市早苗総務相が大臣室で「あなた、菅ちゃんと何かあったの?」と。練りに練った人事案を官邸に持っていったら、「あなただけはダメだって菅ちゃんが言うのよ」と。こうして事務次官か他の局長への異動案が蹴飛ばされ、自治大学校長に飛ばされた経過が生々しい。

 生々しいというと、平嶋氏が菅氏や和泉首相補佐官とやり取りした「固定資産税の措置特例」やその後の「ふるさと納税」問題の経緯も生々しい。税制度や政治の大原則に立って「おかしいことはおかしい」と主張した平嶋氏に対して、業界団体や全く個人の思惑(ふるさと納税の拡大は自民党の公約にも書いてなかったし政権の基本方針にも書いていなかった)で、人事権を持って従わせようとした事実は恐ろしいまでだ。

 このインタビュー記事、そう長くはないし、それでも内容が豊富だから購入するなり図書館に行くなりして一読をお勧めする。教えてくれたTさんありがとう。

2020年11月21日土曜日

オーダーというらしい

   IOCのバッハ会長がやってきて安倍前首相の首に金ぴかの勲章を授与した。オリンピックオーダーというらしい。スポーツ音痴の私はそんな勲章の存在を知らなかった。

 調べてみると1906年にそれは始まり、日本人で過去に金賞を授与されたのは、1991年堤義明氏(元JOC会長、全日本スキー連盟会長、日本アイスホッケー連盟会長)と、1998年斎藤英四郎氏(長野オリンピック冬季大会OC会長、JOC評議員)だけだった。そして安倍晋三氏・・これはおかしい。何かおかしい。何かある。

 まず欧米のコロナ禍の状況は深刻だ。さらに日本でも、協賛金の相場1社10億~150億円のスポンサー企業は、五輪マークを使った広告・宣伝活動を許されるが、実際にはプロモーションの機会は激減している。加えてコロナの影響で企業の業績そのものも悪化している。

表向きは前のめりの民放各局もコロナでCM収入が激減しており、「放映権料と制作費を合わせて五輪の中継コスト約50億円はとてもペイできない」状況という。

 すでに五輪延期に伴う追加費用は数千億円といわれているが、大阪維新のトコーソー並みに隠されていていまだ全体像はハッキリしない。

 つまり、東京オリンピックの経済的行き詰まりは明白なのだが、問題は、五輪開催で赤字に陥った場合、それは「開催都市契約」に基づいて、まず東京都が補填することになる。コロナが降り注ごうが槍が降ろうがIOCは被害を受けない。

 普通であればそれこそ想定外のコロナ禍であればIOCも連帯して汗をかくべきであるがその心配はバッハ会長にはないようだ。つまり安倍晋三氏の首で光っていたのは、数千億円ではきかない約束手形への領収証であろう。そのツケは廻りまわって日本国民が負担することになる。 

2020年11月20日金曜日

漢字教育への提言

   ラジオで聞いたのか新聞で読んだのか知らないが、妻が「小さな子どもがとても難しい漢字を読める」という誰かの投稿の話しをした。

 同じ文脈で、孫の夏ちゃんが「滅」という字を瞬時に読んで妻が驚いたらしい。2020年度学習指導要領によると小学校では教えない漢字である。

 もうお気付きのとおり、この二つの話のオチは「鬼滅の刃」である。

 翻って、戦後出版文化?の失敗は原則としてフリガナを廃止したことではないだろうか。写真を掲載したのはたまたま書架にあった昭和4年発行の『年中事物考』という本であるが、ほとんどの漢字にフリガナがある。

 フリガナのなくなった時代の私などは、恥ずかしながら「読み方」を間違ったまま堂々と発音していた言葉も少なくない。その場面を思い返すと今でも恥ずかしい。

 現在は、幸いワープロ機能によって難しい漢字も簡単に使えるような時代になった。だが日本製の「一太郎」は凋落し「Word」の独り勝ちになっている。今こそ日本人は、”原則として”フリガナが付くワープロ機能を開発しないものか。常用漢字のみで文章を作るということは日本語の退化に向かわないだろうか。すべての漢字にフリガナがあるのも読み辛いかもしれないとすれば、一定水準以上の漢字に標準としてフリガナが瞬時に付くようにできないか。

 私自身はほとんど知らない話であるが、「鬼滅の刃」、漢字教育にとってはすばらしい。

2020年11月19日木曜日

鬼手仏心

   私の孫は10時間に及ぶ心臓手術を受けたから、この言葉は文句なしに理解できる。

 少し話を広げると、私たちは生きていくために多くの動物や魚などを戴いているのだから、いろんな場面で鬼手を担ってくれている人がいるし、場合によっては自分自身もそういう調理をしたりする。

 さらにもう少し概念を広げてみると、心ならずも制度上避けられない鬼手に似た処分を行なわなければならない公務もある。

 ただ正直に言うと、世の中には仏心につけ込む悪意や犯罪さえもあるから、常に仏心を忘れないようにというのは解っていても難しい場合もあって単純ではないのだが・・。

 よく介護に係わるシーンで虐待や暴力というような犯罪が報じられることもあるし、犯罪とまではいかなくても「見て見ぬふり」や仏心を忘れた仕事がクローズアップされることもある。しかしその場合、多くは職員の仏心の問題ではなく、余裕のない労働条件である場合が多い。

 だから福祉やセーフティーネットに関わる業務は国の制度や予算に制約されている面が大きいから、そこを抜きにして職員の仏心に矮小化するのでは問題は解決しない。

 ところがこの国では、制度の拡充という前者については「自助だ」といい、仏心に関わっていえば虚偽の言葉を弄んで総じて社会のモラルを崩壊させている。

 さて、FBを見ると公明党員が選挙モードに入っているらしい。そうでなくても衆議院議員の任期は来秋までだし、遠くない解散総選挙は常識になっている。

 ホンキの野党共闘を強く願うし、政権交代をホンキで願う。鬼手仏心が素直に語られる世にしたいものである。福祉やセーフティーネットの制度と予算を拡充し、思いやりが溢れる社会づくりに力を合わせたい。

2020年11月18日水曜日

甲子(きのえね)

   古くは日本のカレンダーは十干十二支(じっかんじゅうにし:俗にいうエト)で表されていた。大正13年は甲子(きのえね)の年であったから、この年に誕生した大球場は甲子園と名付けられた。十干十二支は年だけでなく日についても60日サイクルで巡ってくる。昨日の11月17日はその甲子(きのえね)の日であった。

 甲子(きのえね)は十干十二支のトップバッターであり、かつ子(ねずみ)は大黒様の眷属ということで、甲子(きのえね)の日は甲子祭という大黒様の縁日、お祭りの日である。

 どういうわけか私の小さい頃わが家ではそのお祭りをしていて、甲子(きのえね)の日には大黒様の掛け軸をかけて赤飯を山盛りにしてあげるならわしだった。山盛りの赤飯には蓋をチョコッと乗せ、湯気で蓋が滑り落ちると「大黒様が召しあがった」というようなことを言っていた。

 父母が鬼籍に入った今となっては、どういういきさつで甲子祭めいた行事をわが家でしていたのかはもう判らない。

   ただ、それ以上でも以下でもない、宗教行事というよりも素朴な民俗行事のような思い出が今となっては懐かしい。そんなもので、久しぶりに大黒様の掛け軸を掛けて、赤飯代わりの20穀米を供えてみた。

 大阪弁に「きっしょ」という言葉がある。「機会」という感じだが「再スタート」というニュアンスもある。十干十二支のトップバッターの甲子(きのえね)の日は、とりあえず60日周期の「きっしょ」に違いない。大黒様を見ながらそういう風に心をリセットした。

2020年11月17日火曜日

以心伝心

   没会話であっても以心伝心はあるというのは嘘である。

 私が植えたエンドウ豆を妻が勝手に植え替えて、おまけに花を摘んでしまった。妻曰く、こんな小さな段階で花を咲かせると苗が弱ってしまうとの言。

 実はこの苗をウスイエンドウと分けて植えてあるのは別種のためで、これは超極早生のサヤエンドウ。私はこの花を見ながら12月には収穫を始められると毎日楽しんでいたものだった。

 写真の矢印のところに摘み取った花が捨てられている。

 私は友人たちに盛んに「メッセージの伝え方」を語ってきたが、やはり、語ること、文を書くことの重要性を実感した。「わかってくれているはず」には落とし穴があった。

2020年11月16日月曜日

インディアン サマー

  写真に撮ると初冬というのも悪くない。




 流行に乗る気はないが、冬は焚火と焼き芋がいい。

 
   ひげ親父さんのコメントを受けてドリームキャッチャーの写真を追加しました。娘のいた部屋にありました。

2020年11月15日日曜日

楓の木にDNAが反応する

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)

時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)

騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 奈何すべき)

虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

   『四面楚歌』に落胆した項羽が聴いた「楚歌」とはどういうものであったのだろうか。劉邦の漢軍とは異質に近いほど違いがあったのだろう。それが中華であった。

 近頃私は、中国政府のウイグル、チベット、そして香港での弾圧などを見ながら、漢民族、中華民族などという虚構に深く考えるところが多い。

 さて、庭の『楓(ふう)の木』が色づいてきた。今年のそれはほぼ合格点だが少し黄色っぽい。美しく色づいた年にはピングがかった真っ赤になる。

 楓の木は苗(ミャオ)族の祖先を産み出した「宇宙樹」であり、長江流域で暮らしていた彼らが北から来た民族に追いやられた折り、殺された苗族の大量の血によって真っ赤に色づくようになったという。苗族の言い伝えである。

 同じ頃、あるいは同じような出来事で、苗族たち雲貴高原に逃げた多くの少数民族とは別に長江下流からボートピープルになって逃げた民族もあった。日本列島の深層の文化は彼らによってもたらされたと私は思っている。黄河ではないと思っている。

 毎年秋になって紅葉する楓の木を見るたびに、そんなことを考える。

 日本人がやたらに紅葉が好きなのも、そんなDNAのせいではないだろうか。

2020年11月14日土曜日

語った日の夜の悪夢

   13日付け朝日新聞夕刊に『原爆模型 手作りのバトン』という記事があった。骨子を言えば、広島で被爆した東京の故福地義直氏が私設原爆展示室を開いてきて、そこに広島と長崎の原爆の原寸大模型も展示してきたが、亡くなった後預かっていた墨田区の被爆者団体も保管場所が確保できなくなり、スクラップになりかけていたのを、とりあえず広島の「リトルボーイ」は江戸川区の被爆者団体が引き継ぐことになったという記事である。

 その被爆者団体「親江会」の山本会長は「ミスター赤ヘル」の山本浩二氏の実兄ということだった。

 なお私が心打たれたのは、実はその後の記事で、山本会長は数年前まで長く被爆体験、戦争体験が語れなかったということ、亡くなった奥さまの遺品である手記などの整理を通じてようやく原爆に向き合えるようになったこと、いまは学校などで子どもたちに語ることもあるがその後はしばらく悪夢にうなされるということだった。(記事はここまで)

 そこで、次の話は何回か書いたことがあるのだが、私は労働組合の会合で広島の被爆体験者と同室になったことがある。その晩、先輩はすさまじく絶叫した。悪夢にうなされていた。私は眠れなかった。「昼に原爆の話をすると必ずうなされるんよ」「だから原爆の話はしとうないんよ」と翌朝聞いた。記事と同じ話だった。(その頃若かった私は、「若い我われが原水爆禁止で運動しているのに、どうして現地広島の人々がもっと声を上げないのか」と若い考えを持っていた)。私の想像の数百倍もそれは地獄だったのだ。

 来年には国連の核兵器禁止条約が発効するが、日本政府は批准に反対している。被爆者が自然に亡くなっていくのを待っているかのようである。

 歴史は60年ほど経つと忘れられたり歪んだりすることが非常に多いと、東大史料編纂所編『日本史の森をゆく』にあった。

 だから私は、「この話は一度書いた」ということでなく、機会のあるごとに先輩の悪夢(フラッシュバック)のことを語り続けようと思う。

 日本政府は核兵器禁止条約を批准して、唯一の戦争被爆国として国際社会に核廃絶を訴えよ。被爆者の悪夢を鎮めよ。

2020年11月13日金曜日

融通念仏雑感

   テレビで「やまと尼寺精進日記」という楽しい番組があった。時々再放送もあるようだ。その舞台の奈良県桜井市の尼寺は融通念仏宗のお寺である。全国的にはややマイナーな宗派だが、大和(奈良)や河内(大阪)では珍しくなく、これらの地域限定ではなかなかメジャーな宗派である。

   融通念仏とは、平安後期に声明(しょうみょう:お経の節)をまとめ上げた良忍によって唱えられた教えだが、私の全く個人の感想を言えば、その割には私の接したことのある融通念仏宗の読経にはそれほどの節(曲)=声明が感じられなかったのでかねがね不思議に思っていた。(あくまでも全く個人の感想です)

 そんな折、五来重(1908-1993)の本の中に「一遍の時宗の踊り念仏の中で”融通念仏なむあみだぶつ”と唱えられた」というのを見つけ、少し一遍関係の本などを読んだところ、良忍の声明の方は主にこちら(時宗)の方に引き継がれているように感じた。(写真は空也念仏踊り)

 現代社会は便利なもので、You Tube などで「踊り念仏」「念仏踊り」と検索すると幾つかのそれが出てきた。そして私は感覚的なものだが、日本の芸能の原点は伎楽から田楽、お能というよりも、良忍のまとめ上げた声明から田楽、お能、また祭文から浪曲、盆踊りに繋がっているように肌で感じた。遊行僧や山伏との接点も大きい。盆踊りも「歌垣起源説」もあるが主要な線は踊り念仏に相違ない。それに歌舞伎のルーツの阿国歌舞伎のルーツのひとつも念仏踊りと言われているように、折口信夫も「平安末期以降に成立した芸能で踊躍念仏の影響を受けていないものを見つけるのは困難である」と述べている。

 融通念仏の融通は”一人一人が皆と一緒に”ということらしく、称名念仏のゴスペルめいた”合唱”を重視しているようなので、五来重が先の本で「融通念仏は”うたごえ運動”」と例えていることなどが妙に納得された。

融通念仏雑感

2020年11月12日木曜日

Eat at home : うち食べ

   Go To なんとかが始まってからコロナ肺炎感染者数が再び三度急増している。大阪府の11日の感染者数は過去最高の256人という。
 そこで倫理的で賢明な私は Go To Eat の向こうを張って Eat at home (イータットホーム:うち食べ)を実践している。というのは真っ赤な嘘で、ただの出不精と手元不如意の結果である。

 3密の心配のないガーデンテラス(というとカッコよすぎるただの庭)で、金串に刺して焼いているのはイワナとアマゴとこれも言いたいが、実際は房総半島のイワシである。カテゴリーとしてはメザシである。

 あとは庭の万願寺をちょいちょいと採って網で焼き、老夫婦で乾杯した。

 ちなみに、この LOGOS の焚火台は何かのポイントが溜まったということで、期限が切れるから何かを指定してくれというのでポチッとしたら送られてきたものだ。

 イワシはその焼ける臭いが臭いので鬼も逃げるとかで節分の行事食になっている。確かに、脂ののった彼奴は大都会やましてやマンションでは手が出せないだろう。さらに言えば  Go To Eat でも食べるのは困難だ。そんな負け惜しみを言いながらおにぎりを頬張った。

2020年11月11日水曜日

広域行政一元化は違法

  元大阪府副知事の小西禎一氏のFBが正鵠を射ていると思われるので、記録のためにも紹介しておきたい。

 ■ 維新が進めようとしている「広域行政一元化」は住民投票で示された「政令指定都市大阪市の存続」に反することは明らかです。また、条例によって市の権限を府に移譲することは地方自治法に規定がなくできないことであるばかりか、そもそも地方分権改革にも逆行するものです。また一部新聞で報道された「事務委託制度」の活用についても、2000億円にものぼる事務の委託は同制度が想定していないものであり、政令指定都市を一般市並みに格下げする「広域行政一元化」のための事務委託は政令指定都市制度を定めた地方自治法や政令指定都市の廃止に住民投票を要件とした特別区設置法の趣旨をないがしろにする違法なものです。こんな馬鹿げたことを大阪で許してなりません。詳しくは下記をご覧ください。

 ■ 維新の悪あがきー広域行政一元化論を批判する ■

 ■ 維新松井市長、吉村知事は住民投票の結果、二重行政の解消も民意だとして「広域行政の一元化」を進めると表明した。しかし住民投票で示された民意は「政令指定都市大阪市の存続」であり、そのことを棚上げしてもらっては困る。住民投票で示された民意を前提として今後の市政、府政の運営を行うのが市長、知事の責務だと私は思うが、彼らはそれより維新の旗印の方が大切らしい。そこで彼らが進めようとする「広域行政の一元化」がいかに荒唐無稽で民意に背くものかを明らかにしたい。

 1 「広域行政化一元化」という名の大阪市格下げは示された民意に反する

 住民投票で示された民意は「政令指定都市大阪市の存続」であり、二重行政解消のためとされた大阪市廃止解体は否決された。松井市長が究極の民主主義としてコロナ禍の下強行された住民投票で大阪市民は悩んだ末結論を出した。「広域行政一元化」は政令指定都市に与えられた都道府県の権限をすべて奪い去るものであり大阪市を一般市並みに格下げするもので民意に反することは明らかである。

 2 条例で市の権限を府に移譲することはできない

 地方自治法は「都道府県は、都道府県知事の権限に属する事務の一部を、条例で定めることにより、市町村が処理することができる。」(252条の172)と規定している。いわゆる事務処理特例条例で、大阪府においても市町村への権限移譲を進める手法として活用されている。しかし、逆に市町村の事務を都道府県に移譲することは規定されていない。そもそも「事務処理特例条例」の規程が置かれた趣旨は、「法令による事務配分の制度と併せて、地域の主体的な判断に基づき、市町村の規模能力等に応じ地域において事務配分を定めることを可能とする制度を創設することにより、住民に身近な行政は、できる限りより住民に身近な地方公共団体である市町村が担任できるようにすることにある。」(松本逐条1164P)とされている。地方分権改革が目指すのは都道府県から市町村への権限移譲であって、市から府への権限移譲は地方分権改革に反するものであり、条例による「広域行政一元化」を行うことはできないと考えるべきである。

 3 「事務委託」による「広域行政一元化」は違法

 市の事務の一部を府に委ねる方法としては「事務委託」という手法が考えられる。これは「普通地方公共団体は、協議により規約を定め、普通地方公共団体の事務の一部を、他の地方公共団体に委託して、当該普通地方公共団体の長又は同種の委員会若しくは委員をして管理し及び執行させることができる。」(地方自治法252条の14)というもので、事務の共同処理方式の一つとして規定されている。現在大阪府内で行われているのは市町村間の事務委託であり、市町村から府への事務委託はない。また、現在活用されているのは、市町村境界付近で児童・生徒の就学事務や上下水道の事務など隣接の市町村から提供してもらった方が効率的な事務や消防事務など町村が自ら装備するより近隣の市に委託した方が効率的だと考えられる場合などであり、「広域行政一元化」のように2000億円にものぼる事務を委託することはそもそも想定していないと考えられる。また、法律によって市町村のみが処理できるとされている事務を都道府県に委託できるかどうかについて、「都道府県には住民基本台帳の作成に関する事務や戸籍に関する事務を処理する体制はなく、かつ、管理執行の職員をあらたに置かない限りできないのであるから、かかる事務は委託にふさわしくないものと言わざるを得ない。」(松本逐条1149P)と考えられており、この観点からは消防や水道の事務は事務委託制度を使って府に委託することはできないと考えるべきである。また、「広域行政一元化」は政令指定都市を一般市並みの市に格下げするものであり、政令指定都市制度を定めた地方自治法や政令指定都市の廃止について住民投票による賛成多数を要件とした特別区設置法の趣旨をないがしろにするものであり、そのような事務委託は違法と言わざるを得ない。■

納めのご褒美

   11月7日が立冬だった。雲や風の端々に冬が顔を出し、なんとなく年末を意識する季節になった。複数の”正月号”の原稿も気になるし、年賀状も気になり始めている。

 そういう気分から逆算して自分の狭い範囲の2020年を振り返ってみると、客観的にはサクラや検察官人事や核兵器禁止条約の成立や大阪市の住民投票や安倍晋三氏の退場などがあったにもかかわらず、集合して語り合う行事が次々に中止になり、書面の会議で時は流れ、何となく捉えどころのない四季(一年)が過ぎ去っていったような不思議な感覚が残っている。孫たちの運動会への参加もなく、新年号原稿用の「私の一年にはこんなことがありました」というイメージもなかなか定まらない。

 11月10日の読者の文芸・短歌・大井学選に採ってもらった一首は、そんな私の気分を詠んでみたものだった。

  年ごとに時の長さは変わらねどのっぺらぼうの季(とき)は去りゆく

 コロナ禍、ステイホームに終始した四季(一年)はのっぺらぼうの一年であったような気がした。のっぺらぼうは季(とき)に掛かっている。将来振り返って2020年はのっぺらぼうな年だったなと思うことだろう。私個人の”流行語2020”は「のっぺらぼう」だ。この感覚は肉体を通じてへとへとになるような体験の不足によるものだろうか。

 なお短歌(の技術)としては少し頭韻を意識したと、こそっと付け加えておく。

 のっぺらぼうの一年のほぼ最後に、そのおかげで短歌の入選をもらったのだから、瓢箪から駒と言うべきかアウフヘーベンと言うべきか。「さあさあご褒美ご褒美」と思って感謝している。

2020年11月10日火曜日

ただの番頭ではなかった

 今にして思えばあの時は理解が浅かったと私はいま後悔の念に似た気分でいる。

   NHKの看板番組『クローズアップ現代』のキャスターを23年間にわたって務めた国谷裕子氏が突然降板させられるのが判った20161のことである。

降板の最大の理由は、201473日放送の菅義偉官房長官への集団的自衛権にかんするインタビューで、国谷氏が集団的自衛権の行使にかかわる問題点を次々に質し、放送終了後に菅官房長官が立腹し、官邸サイドはNHK上層部に猛抗議をしたことだと週刊誌などが報じた。

 その後、国谷氏は著作で、「自分が理解していたニュースや報道番組での公平公正のあり方に対して今までとは異なる風が吹いてきていることを感じた」と振り返っている。

さらに、「その風を受けてNHK内の空気にも変化が起きてきたように思う。例えば社会的にも大きな議論を呼んだ特定秘密保護法案については番組で取り上げることが出来なかった。また、戦後の安全保障政策の大転換と言われ、2015年の国会で最大の争点となり、国民の間でも大きな議論を呼んだ安全保障関連法案については、参議院を通過した後にわずか一度取り上げるにとどまった」とも。これは厳然たる事実である。

 同時進行で同様の委縮は他局でも起こり、政権発表の言葉のすり替えも批判なく使用され、報道はいつしか骨抜きにされ機能不全に陥った。

 私の後悔は、この出来事の主要な側面を、安倍晋三氏によるNHK番組改編・政治介入問題の延長と見、さらにはNHK人事や法制局長官をはじめとする安倍政権の人事介入の結果と見たことだった。

 今言いたいことは、それは安倍晋三氏以上に菅義偉氏の意思であったと見抜けなかったことである。

 菅首相は、人事権に介入することによって公務員等を従わせる効果を過去にも得々と語っているが、例えば、立教大経済学部特任教授を務める平嶋彰英氏は、総務省自治税務局長だった2014年、ふるさと納税で後に問題化する返礼品競争を懸念して菅官房長官に意見具申したが、菅氏の不興を買ってその後、昇進ルートを閉ざされ本省の要職から外れた後に退職した。

 遡れば横浜市議時代には市職員の人事に介入し、リストを出させ、市議の横車に従わなかった職員の昇進を見送らせたといわれている。

 大切なことは、該当の人々が不当に扱われただけでなく、ここが一番のポイントなのだが、そういう介入によって、ドミノ式に萎縮が拡大し、行政なりメディアなりが歪んでいったことである。ここにこそ民主主義に対する根本問題がある。

 もう学術会議会員任命拒否問題を解説する必要はないだろう。菅氏にとってはあの6人であろうが5人であろうが4人であろうが関係はなく、学者と雖もあらゆるシーンで選別するぞという冷徹な恐怖政治の現実を見せつければよかったわけである。

 トランプ氏の無謀を批判しながらメディアが触れたがらない、この菅義偉氏のファッショ性を絶対に過小評価してはならない。ある意味安倍晋三氏よりも危険な人物である。

2020年11月9日月曜日

性悪に対する性善説はしんどいが

   法治主義の淵源は性悪説という説もあるが、私は基本は性善説において円滑な社会生活のためのルールが法律だと理解したい。性悪説に立つと近頃話題の家庭内暴力を取り締まるためには、各家庭における24時間をドライブレコーダーのように録画すべしということにもならないか。

 つまり私は社会にはモラルがあって、法律の定めが明文でない事柄はモラルや立法趣旨に沿って対処するのが市民であり大人なのだと信じている。

 翻って法律解釈等を生業とする弁護士であるが、例え刑法の被告であっても憲法の法理の基に弁護する尊い側面があるにもかかわらず、法律に疎い庶民に対して条文等を濫用して脅す弁護士もいる。

 いわゆるサラ金業者の弁護をしてはいけないわけではないが、サラ金業者の人権無視の違法行為を助長したり、被害者を事実上脅したり、はてはそれを咎める市民運動や弁護士をスラップ訴訟(威圧目的の訴訟)にかけたりする人がいる。

 さて、大阪維新に関わる橋下徹氏や吉村洋文氏はアイフルや武富士の顧問弁護士であったが、今般の大阪市廃止・特別区設置(いわゆるトコーソー)の住民投票が否決された途端、「広域行政一元化条例」だ「総合区(8区)案」だと、否決された案と同趣旨の案を「一部変更したから別物だ」と蒸し返す所業は、正に悪徳弁護士まがいではないだろうか。

 大阪の自民党や公明党がこんな案に乗るなら彼らも大阪市民に見放されるに違いない。大阪で休むことなく正論を吐き続けることはしんどいが必要なことである。

2020年11月8日日曜日

花押

   河野行革相が自身のツイッターに『押印廃止』というハンコを掲載し、印鑑の生産が盛んな山梨県知事が、「印章関係者の健気な想いや切実さに対する敬意はおろか、想像力すら微塵も感じられない」と言及したほか、「唖然として言葉も出ません・・・ただただ限りない『嫌悪感』」などと河野大臣の対応を厳しく批判した。

   私は比較的業務をデジタル処理することにも年齢の割にはついて行けているつもりでいるが、アナログにも捨てがたい魅力がある。

 さて、デジタルでもないがハンコでもない究極のアナログに花押がある。サインといえばサインだが、花押は自署を図案化したもので、伊達政宗の鶺鴒(せきれい)の花押はあまりに有名である。

 公文書の決裁でもハイレベルのものは印判ではなく花押が多く用いられている。そのため花押(の図案)は習字の先生などに作ってもらうことも多かったと聞いた。

 私などは適当に押印欄などにその種のサインをすることがあるが、花押というほどの品格がないのが辛い。

 ハンコの方だが、河野大臣のパフォーマンスのために山梨県知事ではないが不当に貶められている。そんなもので、ハンコを支援する気持ちを込めて先日ライオン橋のゴム印を作ってみた。布マスクにもアイロンで定着させてつけている。

2020年11月7日土曜日

ハロウィーン

   先月の末にハロウィーンがあった。一般的には年中行事に類するモノゴトを大事にしたい私だが、ハロウィーンだけは商業主義やメディアの扇動臭が強くて好きでなかった。

 しかし、孫の凜ちゃんの家にイクジイに出向いたら、写真のようなコスプレ衣装があった。こうなると祖父ちゃんはもうメロメロで「ハロウィーンも許す許す」派に宗旨替えをした。

 特に今年は、コロナ禍で多くの各種行事が中止になったり規模が縮小されたから、家庭での小さな行事めいたことも大事にして生活のメリハリを大事にしてやりたい。それでいい。

 ちなみにハロウィーンは古代ケルト人の大晦日(11月1日が新年元日)の行事で、キリスト教からすると異教徒の土俗だが、大統領その他国家の要職に就く際にはバイブルに誓う国アメリカで、それがいま大流行りなのはそれはそれで面白い。

 別の角度から見ると、世界宗教は各地の伝統的宗教を取り込みながら、つまり変質しながら拡大して世界宗教になっていったわけで、土俗こそが「世界」へのエネルギーでもあった。私はそういう取り込まれたようで実は取り込んだような土俗の精神が好きである。

2020年11月6日金曜日

マイカーをどうするか

   コロナがあってもなかっても、季節は季節どおりにやってきて、冬鳥もきっちりやってきた。一坪菜園も冬野菜とウスイエンドウに一変した。頭の中ではこの冬野菜の次には連作障害を避けてどう来年の夏野菜を植えようかと考えている。そういう短いスパンの未来を見ながら暮らしていると、自分の年齢も分からなくなる。

   今のマイカーは10年を超えているが走行距離はまだ50000kmである。6か月点検に行くとどこにも問題はないが、安全装置が進化した軽自動車(サポカー)に乗り換えを勧められた。こんな使い方だと軽自動車で十分だろうと勧められた。

 そんなことを妻や息子に話すと、”もう歳なんだから”と衝突防止や踏み間違い対応の軽の新車への乗り換えには賛成だという。そして「あと何年乗る気か」というから「10年は乗る」と答えたが、客観的には免許証返納もある年齢になってくる。そういえばディーラーも「あと5年乗るとして」と言って金額の話を進めてくる。「10年乗るとして」とはもう言ってこない。

 自分では気づかないが、客観的にはそういう歳らしい。息子が10年経ったら娘(つまり孫の夏ちゃん)も免許証をとっているだろうから、乗らなくなった車をもらってやるともいう。そういう話を聞くと、この先の時の流れや人生の最終章も遠い話でなくなる。

 土井大介の詩集に『十年たったら』というのがあったことを思い出す。

 とまれ、体が動くうちに、頭が回るうちに、こんな政治は止めさせなければならない。終活はそれからだ。

 いっそクラシックカーと呼ばれるぐらいまで乗ってやろうかとも思っているが、SDGs(持続可能な開発目標)に反するところが胸に痛い。それにそもそも金がない。

2020年11月5日木曜日

上代文学会の抗議声明に賛同します

   菅政権による学術会議会員任命拒否問題については10月初めにいくつか書いた。特に10月5日には戦前の津田左右吉事件のことも書いた。 

 本件の本質が権力による弾圧(威嚇)で、民主主義の上からも絶対に見過ごすことができないことは言うまでもないし、そのデタラメさは菅首相のこれもデタラメ答弁でますます明らかになっている。

   そんな中、多くの学者、文化人、関係団体から抗議の声が聞こえてくるのは頼もしい。その中に、私の住まいする奈良文化圏に関係の深い『上代文学会』の抗議声明を見つけたのでご紹介しておきたい。

   通常日本史では「古代」という言葉が用いられるが、文学史では平安時代(延暦13年:794~)より前を「上代(じょうだい)」と呼び、上代文学とは、主に大和に都があった時代の神話・伝説・歌謡・和歌・漢詩文・伝記・歴史・地誌などをいう。
 写真は、①津田左右吉の論文も掲載されている文集 ②その目次 ③上代文学会理事でもある上野誠先生のサイン。

抗議声明は以下のとおりだが、最終章の「日本語破壊が目に余る」との文言は、言葉、文章、表現を扱う学者たちの心の底からの悲鳴であろう。

 抗 議 声 明

  上代文学会常任理事会は、日本学術会議の推薦した会員の一部について任命を拒否した政府の措置に対し、強く抗議します。今般の措置は、権力からの独立を法的に保障された学術会議の地位を公然と侵害するものであり、とうてい容認できません。学術会議の協力学術研究団体でもある上代文学会を運営してきた立場として、即時撤回を求めます。

  私たちは、かつて津田左右吉の『古事記』『日本書紀』研究が国家権力によって弾圧された経緯を熟知しています。「神武紀元二千六百年」の虚構性を暴露するものだったことが当時の国策に抵触したのでした。戦後の上代文学研究者は、日本史研究者とともに、津田の受難を二度と繰り返さないことが研究発展のために必須であると考え、そのために相互努力を惜しまないことを不文律としてきました。今般の措置は、私たちの研究者としての信条を踏みにじるものであり、自由闊達であるべき学問討究を萎縮へ導く暴挙であって、この点からもとうてい容認できません。

 今般の任命拒否は英米の著名な科学雑誌にも取り上げられ、政治が学問の自由を脅かしていると報じられました。日本だけでなく世界中の科学者が、政府の措置を非常識きわまる強権発動と見ているのです。 

 言語表現を取り扱うわが学会としては、任命拒否の理由を菅総理がまともに説明しようとせず、無効で無内容な言い逃れを重ねていることをも看過できません。総理の態度は事実上の回答拒否であり、コミュニケーションの一方的遮断です。あたかも何事かを答えたかのように見せかけている分だけ、ただの黙殺より悪質だとも言わなくてはなりません。

 前政権以来、この国の指導者たちの日本語破壊が目に余ります。日本語には豊かなコミュニケーションを担う力が十分備わっているのに、見せかけの形式に空疎な内容を盛り込んだ言説が今後も横行するなら、日本語そのものの力が低下してしまいます。日本語の無力化・形骸化を深く憂慮します。頼むから日本語をこれ以上痛めつけないでいただきたい。 

                       令和二年十月十二日

                      上代文学会常任理事会

2020年11月4日水曜日

胡について

   胡麻(ごま)・胡椒(こしょう)・胡桃(くるみ)・胡瓜(きゅうり)・胡餅・胡瓶(こへい:水差し)・胡粉(ごふん:白色顔料)・胡座(あぐら)・胡弓(こきゅう)・胡床(折り畳み椅子など)・・・

 通説というか世間一般ではこの「胡」のことをペルシャ(イラン)と言われている。アバウトに言っても西域の中でも西方で、例えば胡姫となるとベリーダンスを踊ったアラブ人という記述もある。

 ところが先日読んだ本の著者森安孝夫氏は、8世紀後半に中国で流布されていた(現在日本にだけ存在していて中国にはない)梵語雑名という梵語漢語辞典には、「ペルシャ=波斯」や天竺、突厥、吐蕃などと並んで胡があり、それは蘇哩(ソリ)つまりソグドだと明確に波斯とは区別している。

 より西方の品物がソグド商人によって中国にもたらされた故ではないかという考えもないではないだろうが、文献を丁寧に読み解いた著者は中国では相当正確に西域の諸民族を知っていたということらしいから、胡の付く物事はソグド人の国、ソグディアナ(サマルカンドを中心とする地方。現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当)の産物等であったらしい。

 ちなみに、写真は正倉院御物の酔胡王の伎楽面で、頭にすっぽり被る仮面であるが、ソグド人の容貌そっくりだとも指摘されており、なおかつその帽子はソグド商人のキャラヴァン隊長の「薩宝」という帽子そのものだということである。

 以上のような知識は現代日本社会を生きていくうえではどうでも良いことかもしれないが、中国のウイグル人弾圧などを深く理解する上では非常に参考になる。ユーラシア中部の民族の歴史を見ると、西欧や日本、日本の基となった中国(歴代中華帝国)の歴史感が如何に歪んだものかということに気づかされて驚かされる。

 ウイグルについては今後少し書くつもりでいる。

2020年11月3日火曜日

ライオンが微笑んだ

   今回の住民投票騒ぎで私の心の中で漢(おとこ)や漢女(おとめ)を上げた人を思いつくままに・・・非常階段シルクさんは維新べったりのヨシモトの中で理性的な正論をブログで発信されて気を吐いておられた。シルクさんは大阪外大(当時)出のインテリ芸人。

 大阪市財政局は大阪市分割で毎年200億円以上の足が出るという”遺書”にも似た真実を発表した。市長の強烈ないじめが予想されるから今後の注視が必要。森友事件赤木さんの二の舞だけは絶対にさせてはならぬ。

 毎日新聞は財政局のそれをスクープしてさらに投票日にも松尾貴史氏の「田分(たわけ)以上の愚行、大阪市廃止は投票で防げる」との主張を掲載した。そんなもので維新の馬場幹事長は国会本会議で毎日新聞を非難した。毎日新聞の編集方針も見守る必要あり。

 前後するが大阪市選挙管理委員会(長)は市長の横やりを排して住民投票と用紙の正式名称を大阪市廃止・特別区設置と正確に決定した。当たり前のことながらよく頑張った。

   そして数えきれない有名人も名もなき庶民(名前はある)もそれぞれの場所で奮闘した。あえて言えばテレビで見事に対決してきた自民党大阪市議北野さんと共産党大阪市議山中さんもご苦労様。その外いっぱい書きたいケースや人々もあるが割愛。なお、ここに書いた人が偉くて他の人はそうでないというようなことでは決してない。

   そしてそして最後に登場した真打は、長谷川義史画伯によって今般一躍大阪市のシンボルに昇格した?(昔からシンボルやでとは影の声)の難波橋(なにわばし)

   堺筋の北浜から西天満に架かっていて、四隅の獅子は北浜では大証玄関の五代友厚と向かい合っている。

   ちなみに我がOB会の獅子のマークも深いお付き合いのあった故加藤義明氏の切り絵の難波橋(ライオン橋)。これはお弟子さんから使用許可をいただいている。誇らしい。
 余談だがこのブログの10月21日には私も最新のライオン橋の写真を貼付させていただいた。
 なお、本日の記事の内容は全て個人の感想です。

2020年11月2日月曜日

太陽は北風に勝った

    太陽と北風たわむる芒かな

 この写真、私としては北風よりも太陽にキラキラ光る美しさを切り取ったつもり。

 太陽が北風に勝つのは童話だけでもない。

 大阪市廃止反対にご支援をいただいた皆様に感謝感謝!

 大阪市をよくしていくためにはノーサイドでよい。

 賛成と考えた方々も「よくしたい」という意思だろう。落ち着いた議論のできる街として再出発してほしい。

2020年11月1日日曜日

私事ながら

東高津宮
   私事ながら、大阪大空襲で大阪市内が焼け野原になるまでは我が家は天王寺区東高津にあった。

 だから、今も東高津宮の鳥居には父の名が彫られて残っている。そんなもので、故郷大阪市を廃止するという住民投票には私は怒りを禁じえない。

 偉そうに言う気はないが、大阪府知事よりも大阪市長よりも何十倍も大阪のことを知っているし愛着もある。

 大阪市廃止論者の主張は、大阪市のお金を府に吸い上げてカジノ産業に投資して経済を成長させるのだと。この発想自体が時代遅れであるだけでなく、これ自体が博奕である。しかも勝ち目は全くない。

 その一方で、私は彼らの口から文化の振興めいた話が全く出てこないことにも悲しんでいる。多くの大阪市民は知らないかもしれないが、東京は経済の街であるとともに文化の街でもある。劇場や美術館の数は大阪とは桁違いの数である。文化も又経済を押し上げる。こんな言い方はしたくはないが、大阪市廃止政策は大阪を巨大な”ど田舎”にする政策である。

   長谷川義史さんのイラストではないが、「大阪市なくなって ほんまに ええんか よー考えてや!」

 写真は我が家の額だが、「東の滝平、西の加藤」と言われ、なにわを描いた故加藤義明氏の切り絵である。氏の切り絵は淀屋橋駅の壁を大きく飾っていたときもある。

 大阪市廃止に「反対」した上で、大阪をまともな街に立て直してほしい。