わが国最古の歴史書は日本書紀であるが、それは神話から始まっているし、第二代から第九代までの天皇にはさしたる記事もなく「欠(闕)史八代」と呼ばれているし、世界中の歴史書同様潤色も多く、かつ書紀編纂当時(奈良時代、養老4年、720年)の勝者の論理が反映している。
さらには太平洋戦争の敗戦までは、それを絶対的史実として批判を許さなかったものだから、反対に現代では、古代史を科学的に考える際、日本書紀を参考にするなどもっての外という意見もある。
だがしかし、埼玉(さきたま)稲荷山鉄剣の金鐯銘では、辛亥年(471年)にこれを作る。自分はワカタケル(雄略?)に仕えてきた。七世前の上祖はオホヒコだと読めて、それは日本書紀の記述と矛盾しない。
さて、その日本書紀崇神紀には崇神天皇が4人の将軍を全国に派遣して征服戦争を行ったことが次のように書かれている。
【崇神九年九月九日、大彦命(オオヒコノミコト)を北陸道に、武淳川別(タケヌナカワワケ)を東海道に、吉備津彦(キビツヒコ)を西海道に、丹波道主命(タニワノミチヌシノミコト)を丹波(たんば)に遣わされた。
そして、詔(みことのり)して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」と言われた。
それぞれ印綬(しるし)を授かって将軍となった。】
これに関して小笠原好彦先生は、「3世紀に文字どおりの印綬(いんじゅ)はあり得ないだろうから、最初期の前方後円墳である桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳などから発掘された儀仗形石製品こそ大王から委譲された権限を象徴するレガリア=印綬(しるし)であったであろうと指摘されている。(黄門様の印籠をイメージされたい)
その後よく似た儀仗形製品は副将軍と推定される古墳からも発掘されている。
時に、少女が歌った。ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセム卜、ヌスマクシラニ、ヒメナソビスモ。御間城入彦(ミマキイリビコ、崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、その時を窺っていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
そこで大彦命はこれを怪しんで少女に尋ねた。
「お前が言っていることは何のことか」
少女は答えた。
「言っているのではなく、ただ歌っているのです」
またその歌を歌うと、急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、その仔細を報告した。
天皇の姑おばである倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は聡明で、よく物事を予知された。
その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇に、「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反を企てている兆候であろう。聞くところによると、武埴安彦の妻である吾田媛(アタヒメ)がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(ひれ(女性が襟から肩にかけた布))の端に包んで呪言(のろいごと)をして、『これは倭の国のかわりの土』と言って帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくては、きっと遅れをとるだろう」と言った。
そこで諸将を集めて議せられた。
幾時もせぬうちに、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。
それぞれ道を分けて、夫は山背(やましろ)より、妻は大坂(おおさか)から、共に京(みやこ)を襲おうとした。
そのとき、天皇は五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト(吉備津彦命))を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。
大坂(おおさか)で迎えて大いに破った。
吾田媛を殺し、その軍卒を尽く斬った。
また、大彦と和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
そのとき、忌瓮(いわいべ(神祭りに用いる瓮))を和珥(わに)の武録坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。
そして、官軍が多数集まって草木を踏みならした。
それでその山を名づけて奈良山とよんだ。
また 奈良山を去って輪韓河(わからかわ)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取り挑み合った。
このことから、当時の人は改めて、その河を(挑河いどみがわ)と呼んだ。
今、泉河いずみがわというのは、これが訛ったものである。
埴安彦は彦国葺に尋ねた。
「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」
彦国葺は答えた。
「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから、義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」
そこでそれぞれ先に射ることを争った。
武埴安彦がまず彦国葺を射たが、当らなかった。
これが胸に当って殺された。
その部下たちは怯えて逃げた。
それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。
屍が溢れた。
そこを名づけて羽振苑(はふりその(屍体を捨てた場所。今の祝園))という。
また、その兵たちが恐れ逃げるとき、屎(くそ)が襌(はかま)より漏れた。
それで甲をぬぎ捨てて逃げた。
逃れられないことを知って、地に頭をつけて「我君あぎ」(我が君お許し下さい)といった。
当時の人は、その甲を脱いだところを伽和羅(かわら)と言った。
揮から屎が落ちたところを屎揮(くそばかま)と言った。
今、樟葉(くすは)と言うのは、これが訛ったものである。
また地に頭をつけて「我君あぎ」といったところを「我君わぎ」(和伎わきの地)という。】
小笠原好彦先生は古代史講座の受講生に対して「黒塚古墳の被葬者を考えよ」と宿題を出されたので、以下が私の答案骨子である。
黒塚古墳は初期の大王墓(後にいう天皇陵)である行燈山古墳などのある柳本古墳群にあり、全長134ⅿと超巨大ではないが、竪穴式石室、巨木をくり抜いた木棺、川原石と板石による合掌式の石室、三角縁神獣鏡ほか大量の銅鏡の埋納などから、白石太一郎先生の分析などではその中でも最初期(3世紀後半)の前方後円墳だとされている。
そこで私は、同古墳と、同古墳展示館を訪れた。一番確認したいことは「謎のY字型鉄製品」だった。展示館には精巧なレプリカが展示されていた。
材料は異なるが、それは儀仗形鉄製品の特徴的な頭であった。四道将軍や副将軍の古墳から出土したものと類似したレガリアに相違ない。
とすれば、崇神の命により山背で武埴安彦を討った和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)こそが黒塚古墳の被葬者ではないか。
和珥氏の系図では、彦国葺は、第5代孝昭天皇の4世の孫とあるから(第8代孝元天皇の皇子とも)、崇神の時代にはいわば皇族であって、柳本古墳群内に古墳築造を許されたのではないか。(後の和珥氏一族の支配地域は天理市北部から山背や近江等に拡大し、その中に柳本が含まれるかどうかは解らないが、例えば天理市和邇町や和珥池もそれほど遠方でもない)
この推測を補強するものはないかと、別途、戦場と思われる山背(京都府精華町)の祝園神社を訪れたが由緒の割には無人であった。なお祝園神社の『いごもり祭』は武植安彦の魂を慰め豊作を祈る神事として、京都府の無形民俗文化財に指定されている。
祝園神社の少し南方の『いごもり祭のとんど会場の広場』には、『崇神帝十年役 武植安彦破斬旧跡』という石碑が静かに立っていた。
いごもり祭といい、この石碑といい、少なくともこの地には武植安彦の伝承が生きていた。

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