2026年2月18日水曜日

朝蜘蛛は

 
    「朝蜘蛛は殺したらあかん」と親から教わり、そして子どもたちにも伝えてきた。
 そのこころは、蜘蛛は益虫(昆虫ではないが)だからと子どもたちには説明してきたのだが、言い習わしでは「夜の蜘蛛は殺せ」とつながるから、論理的には益虫説は成り立たない。
 蜘蛛は天気の良い日に網を張るから、朝蜘蛛が目についた日は晴天でなんとなく良い日が来るだろうといったところか。
 わが家では基本的に家蜘蛛(ハエトリ蜘蛛)は殺さない。

    そんな日、庭のバードバス(野鳥の水飲み場兼水浴び場)にツグミがやってきたので、ガラス戸越しにスマホで撮影した。
 今シーズンはツグミが少ないなあ、ツグミの世界に鳥インフルエンザのような不幸な出来事が起こったとか、渡りの途中で丸焼きにされたりとか、などと心配していたから、ちょっと嬉しい出来事だった。やはり朝蜘蛛は良いことを運んできてくれた。

2026年2月17日火曜日

黒塚古墳の被葬者を考える

    わが国最古の歴史書は日本書紀であるが、それは神話から始まっているし、第二代から第九代までの天皇にはさしたる記事もなく「欠(闕)史八代」と呼ばれているし、世界中の歴史書同様潤色も多く、かつ書紀編纂当時(奈良時代、養老
4年、720年)の勝者の論理が反映している。
 さらには太平洋戦争の敗戦までは、それを絶対的史実として批判を許さなかったものだから、反対に現代では、古代史を科学的に考える際、日本書紀を参考にするなどもっての外という意見もある。
 だがしかし、埼玉(さきたま)稲荷山鉄剣の金鐯銘では、辛亥年(471年)にこれを作る。自分はワカタケル(雄略?)に仕えてきた。七世前の上祖はオホヒコだと読めて、それは日本書紀の記述と矛盾しない。
 さて、その日本書紀崇神紀には崇神天皇が4人の将軍を全国に派遣して征服戦争を行ったことが次のように書かれている。

    【崇神九年九月九日、大彦命(オオヒコノミコト)を北陸道に、武淳川別(タケヌナカワワケ)を東海道に、吉備津彦(キビツヒコ)を西海道に、丹波道主命(タニワノミチヌシノミコト)を丹波(たんば)に遣わされた。
そして、詔(みことのり)して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」と言われた。
それぞれ印綬(しるし)を授かって将軍となった。】 

これに関して小笠原好彦先生は、「3世紀に文字どおりの印綬(いんじゅ)はあり得ないだろうから、最初期の前方後円墳である桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳などから発掘された儀仗形石製品こそ大王から委譲された権限を象徴するレガリア=印綬(しるし)であったであろうと指摘されている。(黄門様の印籠をイメージされたい)
その後よく似た儀仗形製品は副将軍と推定される古墳からも発掘されている。
 
続いて日本書紀は、【大彦命は和珥の坂(わにのさか、もしくは、山背の平坂)に着いた。
時に、少女が歌った。ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセム卜、ヌスマクシラニ、ヒメナソビスモ。御間城入彦(ミマキイリビコ、崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、その時を窺っていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
そこで大彦命はこれを怪しんで少女に尋ねた。
「お前が言っていることは何のことか」
少女は答えた。
「言っているのではなく、ただ歌っているのです」
またその歌を歌うと、急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、その仔細を報告した。
天皇の姑おばである倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は聡明で、よく物事を予知された。
その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇に、「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反を企てている兆候であろう。聞くところによると、武埴安彦の妻である吾田媛(アタヒメ)がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(ひれ(女性が襟から肩にかけた布))の端に包んで呪言(のろいごと)をして、『これは倭の国のかわりの土』と言って帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくては、きっと遅れをとるだろう」と言った。
そこで諸将を集めて議せられた。
幾時もせぬうちに、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。
それぞれ道を分けて、夫は山背(やましろ)より、妻は大坂(おおさか)から、共に京(みやこ)を襲おうとした。
そのとき、天皇は五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト(吉備津彦命))を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。
大坂(おおさか)で迎えて大いに破った。
吾田媛を殺し、その軍卒を尽く斬った。
また、大彦と和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
そのとき、忌瓮(いわいべ(神祭りに用いる瓮))を和珥(わに)の武録坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。
そして、官軍が多数集まって草木を踏みならした。
それでその山を名づけて奈良山とよんだ。
また 奈良山を去って輪韓河(わからかわ)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取り挑み合った。
このことから、当時の人は改めて、その河を(挑河いどみがわ)と呼んだ。
今、泉河いずみがわというのは、これが訛ったものである。
埴安彦は彦国葺に尋ねた。
「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」
彦国葺は答えた。
「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから、義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」
そこでそれぞれ先に射ることを争った。
武埴安彦がまず彦国葺を射たが、当らなかった。
ついで彦国葺が埴安彦を射た。
これが胸に当って殺された。
その部下たちは怯えて逃げた。
それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。
屍が溢れた。
そこを名づけて羽振苑(はふりその(屍体を捨てた場所。今の祝園))という。
また、その兵たちが恐れ逃げるとき、屎(くそ)が襌(はかま)より漏れた。
それで甲をぬぎ捨てて逃げた。
逃れられないことを知って、地に頭をつけて「我君あぎ」(我が君お許し下さい)といった。
当時の人は、その甲を脱いだところを伽和羅(かわら)と言った。
揮から屎が落ちたところを屎揮(くそばかま)と言った。
今、樟葉(くすは)と言うのは、これが訛ったものである。
また地に頭をつけて「我君あぎ」といったところを「我君わぎ」(和伎わきの地)という。】
 
    本題に入る。
小笠原好彦先生は古代史講座の受講生に対して「黒塚古墳の被葬者を考えよ」と宿題を出されたので、以下が私の答案骨子である。
黒塚古墳は初期の大王墓(後にいう天皇陵)である行燈山古墳などのある柳本古墳群にあり、全長134ⅿと超巨大ではないが、竪穴式石室、巨木をくり抜いた木棺、川原石と板石による合掌式の石室、三角縁神獣鏡ほか大量の銅鏡の埋納などから、白石太一郎先生の分析などではその中でも最初期(3世紀後半)の前方後円墳だとされている。
そこで私は、同古墳と、同古墳展示館を訪れた。一番確認したいことは「謎のY字型鉄製品」だった。展示館には精巧なレプリカが展示されていた。
材料は異なるが、それは桜井(外山)茶臼山古墳出土の儀仗形鉄製品とよく似た特徴的な頭であった。四道将軍や副将軍の古墳から出土したものと類似したレガリアに相違ない。
また副葬品には刀、剣、鏃(鉄製の矢じり)等々の武器が多く、武人であることも間違いない。
とすれば、崇神の命により山背で武埴安彦を討った和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)こそが黒塚古墳の被葬者ではないか。ヤマト王権最初期の大きな戦の英雄?だった。
和珥氏の系図では、彦国葺は、第5代孝昭天皇の4世の孫とあるから(第8代孝元天皇の皇子とも)、崇神の時代にはいわば皇族であって、柳本古墳群内に古墳築造を許されたのではないか。(後の和珥氏一族の支配地域は天理市北部から山背や近江等に拡大し、その中に柳本が含まれるかどうかは解らないが、例えば天理市和邇町や和珥池もそれほど遠方でもない。和邇下神社もある)
その和邇の土地は膳臣の土地でもあり、膳臣は大彦命についた副将軍でもあったから、和珥氏も大王家の近親であったのではないか。あるいは墓域についてのルールが確立される前であったので、大王陵(天皇陵)の近くに築造することができたと考えられないだろうか。
この推測を補強するものはないかと、別途、戦場と思われる山背(京都府精華町)の祝園神社を訪れたが由緒の割には無人であった。なお祝園神社の『いごもり祭』は武植安彦の魂を慰め豊作を祈る神事として、京都府の無形民俗文化財に指定されている。
祝園神社の少し南方の『いごもり祭のとんど会場の広場』には、『崇神帝十年役 武植安彦破斬旧跡』という石碑が静かに立っていた。
いごもり祭といい、この石碑といい、少なくともこの地には武植安彦の伝承が生きていた。
答案用紙どころか、感想文もどきの変な文章になってしまった。

追伸 歴史講座で席を同じくしていたFさん、黄泉の国でこれを読んで笑ってね。

2026年2月16日月曜日

雛草満開

    雛草(ヒナソウ)が満開だ。
 検索すると花期は3~4月とあったり6月からとあったりするが、我が家の庭では1月から咲いている。
 今まで咲いていた場所が全滅したりするが、違う場所で群生したりする。
  うまくすると「こぼれ種」で庭中を飾ることが出来そうだが、ほかの強い草花に敗けたり、私が土をほじくったりしてなかなか広がらない。
 それでも、ほかに花が少ない冬からこのように咲いてくれるので可愛い奴である。

2026年2月15日日曜日

締切

    14日の朝日新聞の読書欄に「へ~」と目についた題名の本の書評があった。 曰く、難波優輝著『なぜ人は締め切りを守れないのか』(書評:望月京(みさと))
 書評を読む限り、これは「どうしたら締め切りを守れるのか」を教えてくれる本ではないようだ。
 人には様々な固有の事情があり、時間の流れ方も一様ではないにもかかわらず、万人に一律的に期限を強いる・・・と、「締め切り」への批判は多くの共感を呼ぶだろう。
 だがしかし、書評は一転して、「死があるから人生に意味が生まれるように」と大上段から太刀を振り下ろす。ああ。

 投稿依頼に「締め切りにならないと書けない」と答えてくれる人がいる。
 また、締め切りまで余裕があればあるほど原稿が集まらないという傾向も現実にある。
 なるほど「締め切り」なるものも奥が深い。
 ちなみに私は「じょがべん」(女学生の弁当)で、苦手なものは先に食べて、・・・あとは好きなようにゆっくりしたい派だから、作品の出来は良くない。
 現職の頃、学術論文のような立派な復命書を書く人がいたが、全体としての仕事ははかどらなかった。天は二物を与えてくれはしない。

2026年2月14日土曜日

やはりネット選挙

    今度の選挙が終わってからハタと思ったことは、私自身高市自民党の行く末が心配なあまり、まったくと言ってよいほど「チームみらい」や「参政党」の政策や人物を知らないまま投票日に至ったという事実だ。
 私自身は「プレ団塊の世代」だが、当時の大人からすると「新人類」「宇宙人」だったらしい。「新人類」という世代はまだ10歳ほど次の世代のネーミングだが、感覚としてはそのハシリのようであったのだろう。
 その「新人類」と言われし吾らが、目を三角にして嘆くしかない「新新人類」が社会の主流になってきたようだ。
 以上は、吾らから見たZ世代の感覚だが、言いたいことは、社会の主流を占めつつある彼らからしたら、吾らの世代が戦争の匂いに怯え、リベラルの団結、左派の前進を訴えている主張が全く耳に届いていないのだろうということ。吾らが「チームみらい」を何も知らないうちに投票日を迎えたように、Z世代は共産党の主張や中でも高市政権の危険性への警鐘に全く触れることもなく、「そんな主張があったの?」といううちに投票日になったのだろうと今思っている。
 はっきり言おう。「共産党も出ていたの?」というのが少なくない若者の感覚ではなかったか。
 だとすると、「社会の矛盾が深まれば彼らも気づく日が来る」「その日のために自力をつけよう」という「その日」は来るだろうか。(自力をつけることを否定しているものではないが)
 さて、ネット社会は多くの問題を含んでいる。若者たちには、「AIが取捨選択して君のスマホに提供してきた情報は情報の全てではない」等々のアドバイスが必要だが、それは新聞や単行本で語っても彼らには届かない。
 それでも「私はSNSは苦手だ」なんて寝言を続けますか。リベラルの諸君。
 難しい話ではない。スマホを持っておれば党首や候補者の訴えが出てくる。それをシェア(リポストなども)拡散しようともしないのはただのセンスの問題だろうか。

2026年2月13日金曜日

しゅむ

    経験的に知っていることもイザ説明せよと言われると上手く話せないことがある。 基本的には自分の勉強不足が原因であるが…

 シチューを作りながらいつもどおり疑問が湧いたので、妻に「鍋の火を止めてから野菜に味が染みこむのはなんで?」と聞くと、「それは浸透圧や」と教えてくれたが、それがなぜ火を止めてからのことなのか解らなかった。

 結局いまもよくは解らないのだが、一番重要なのは時間の経過らしい。つまり、冷やす過程が重要なのではなく、一定の時間置くことが大切という説明もある。
 昔でいえばカンテキに練炭でコトコト煮るとか、北欧あたりのシチューもそんな感じがする。
 ただ経験知ではやっぱり、火を止めてゆっくり温度が下がっていくときに味が染みこんでいくように思うのだが…
 ネットには、「高温で野菜から出ていった水分が冷める過程で味を引き連れて戻ってくる」と書いてあるのもあるが…科学的な言葉ではないが、なんとなく拍手を送りたい。
 なお、「染む」は、牧村史陽編『大阪ことば事典』を牽くまでもなく「しゅむ」である。

2026年2月12日木曜日

なぜ大和で王権が

    昨日は、『紀元前660年に大和(奈良県)に国家が成立し大王(後の天皇)が即位したというのは「歴史の偽造」にあたる』ということを書いたが、紀元後の3世紀には大和(奈良県)に群を抜いた大王が誕生し初期国家=ヤマト王権が成立したというのは間違いない。
 では何故、その地が日本列島の中の大和(奈良県)であったのかというのは私の中で少し謎であった。
 考古学的な検証では、弥生時代の先進地は大陸との玄関口でもあった北部九州であったが、後に、大和や河内(和泉)でも巨大な集落が形成されていた。それでもそこが「何故大和か」ということがあった。

 これに関して小笠原好彦先生が、他のテーマの講演の中で触れられた指摘に大いに納得するものがあった。
 それは大和平野の河川の特異性であった。
 稲作が進んだ弥生時代には、水の管理が非常に大事であったが、例えば水争いは近代でもあったし、例えば水路の清掃という共同作業は現代でも農村では普通に大切だ。
 そしてもう一つ、河川は、当時の物資のハイウェイであり鉄道網だった。
 このため、一つひとつの河川、水系ごとにリーダー(豪族)が誕生していったことは容易に理解できる。
 さて、日本列島には背骨のように山脈があるので、ほとんどの河川はそこを源として、日本海へ、あるいは太平洋側へ、小さな支流を集めて流れていったから、ある河川を支配する豪族と、隣の河川を支配する豪族は、並立することが可能であったし、事実そうなっていた。
 ところが、大和平野(奈良盆地)は極めて特異で、北から南へ流れる川も、東から西に流れる川も、南から北へ流れる川も、すべてが盆地南西部で大和川一本に合流し、河内へと流れていくのだった。
 上流で決壊すると下流で合流する他の河川でも困るし、下流で詰まると上流で洪水が発生する。また、河内から瀬戸内海とのルートが止まる。
 こんな、大きな平野の河川が一本に合流する地域は大和以外にはない。
 つまり、大和の河川ごとの豪族は、他の河川の豪族と協力しないと己の河川の維持もできなかった。
 ここに、豪族の中の大豪族が生まれる決定的な理由があった。・・・という指摘だった。
 大いに納得したが、勉強にはきりがない。いろんな角度からもっと考えていきたい。
 それにしても、楽しい講演だった。

2026年2月11日水曜日

紀元前660年

    今日は「建国記念の日」。神武天皇即位(西暦紀元前660年)?から数えて2686年。
 紀元前660年とは縄文晩期・弥生初頭の時代にあたり、考古学的には大和(現奈良県)に国家形成の遺跡は存在しない。纏向遺跡でさえ後2世紀末以降である。
 また、根拠とされる日本書紀によると初期の天皇(当時は天皇という称号はなかったが)の年齢には100歳を超える天皇が少なくなく、出現期古墳の代表である箸墓古墳は考古学的には紀元後3世紀中ごろとされている。

 先日テレビで平安京の地図を説明していたが、当時の地図には左京には多くの貴族の邸宅や寺社が書かれているのに、右京には何も書かれていなくて、「人家ナシ」とされていた。
 ところが、発掘調査では多くの人家が見つかっている。つまり、貴族の邸宅以外は「人家」でなかったわけであるから、文献史料というものは十分に検討が必要である。

 以上のとおり、実在が疑問視される神武天皇の陵墓は、他の天皇陵とともに中世には忘れられていたが、江戸幕府の権威付けの意味もあって8代将軍吉宗の頃から、日本書紀や後の文献などを手掛かりに陵墓を探し出し修復することが行われた。
 その折、神武陵の候補地としては、神武田説、塚山古墳説、丸山説、水仙塚古墳説などがあったが、結局、神武田ミサンザイとなり、大規模な改修の後今の橿原神宮となった。

 古事記の記述の信憑性も大いにあるが、古事記は「白樫の尾の上にあり」とあるので畝傍山の尾根筋でなければならないが、一説では未開放部落の洞(ほうら)村に近すぎたため採用されなかったとの説もある。
 それでも、未開放部落が神武天皇陵を山の上から見下ろすのは畏れ多いということで、洞部落は大正時代に根こそぎ移転させられた。
 史料ではないが、住井すゑ作「橋のない川」でそのことが感動的に描かれている。
 詳しくは、移転先の「おおくぼまちづくり館」で学ぶことができる。
 そこでは、歴史は図式的に単純ではなく、部落内からも「これを機に偏見や差別から解放されないか」という運動もあったことが知れる。

 それはさておき、このように、神武天皇即位の地なるものは、「不確か」を通り越して、種々歴史の偽造にあたると私は思う。
 今日はそんな建国記念の日である。

2026年2月10日火曜日

琵琶湖はエライ

    JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)が発生したおかげで日本海側は大雪になったが、今季を俯瞰すると中部や南部では相当な水不足が発生している。
 こんな小さな国で、東西もしくは南北にホンの少し離れているだけでなんということだろう。
 わが家から遠くない奈良市の水がめ、木津川水系の布目ダムでは取水制限が始まっている。
 それでも大消費地大阪がのほほんと暮らしていけるのは琵琶湖のおかげである。
 冬季に東海道新幹線が米原あたりで雪のため遅れたりして、「この弱点は大野伴睦のせいだ」と恨めしく思うときがあるが、ここは敦賀湾から琵琶湖北部を通過して濃尾平野へ向かう雪の通り道だから、この通り道がなかったとしたら、滋賀県民全員が「琵琶湖の水止めたろか」と言わなくても大阪は根をあげることになる。
 大阪はJPCZのおかげで暮らせている。
 そのおまけが日曜日にあり、一時の雪景色を楽しんだ。

2026年2月9日月曜日

徒然草を読め

    以前に、適菜収著『100冊の自己啓発書より徒然草を読め』のことに少し触れたことがあるが、 徒然草第59段は・・・
 🔳近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて逃れ去るぞかし、命は人を待つものかは🔳
 適菜氏は、我が身を助けようとすれば「しばらく待ってから」と言うだろうか。人生もそうである。(兼好は出家のことを指しているが)やるべきことはすぐにやれ!とコメントしている。
 
 会報などへの投稿を依頼すると、常に期日キチキチいっぱいまでこないことがあるが、そういうときに限って予想外の大論文だったりして、編集方針がガタガタと崩れることがあった。
 やるべきことはすぐにやれ!相手の身になって考えよ!との適菜氏の言葉が響く。

 選挙戦の終わりが見えたので、「次は会報の原稿を頼む」との依頼を発出したところ、すぐに川柳が一句返ってきた。のんのんばあば さん、ありがとう。

 さて第93段は・・・
 🔳人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるゆゑなり。・・・🔳
 「いろんな心配事が片づいたなら川柳の一句にも取り掛かろう」と思っていると、そんな時は決して来ない。
 確かに徒然草は的を射て厳しい。
 と言いながら川柳の一句もひねり出せない時間が続く。

2026年2月8日日曜日

天皇機関説タイフーン

    2月7日の朝日朝刊「読書」のページに平山周吉著『天皇機関説タイフーン』の書評(有田哲文評)があった。そこのタイトルは『「小さい」人物が導いた戦争の道』だった。 
 印象的な部分を若干紹介すると・・・
 🔳「戦争を起こして日本をこんなにしたのは軍人ばかりが悪いのではなく、日本中の男という男がみな卑怯だったからです。わたくしはそう思います」 発言の主は美濃部民子🔳
 さて私は、井上光貞著「わたくしの古代史学」という本を持っている。
 井上光貞は小笠原先生に言わせるとあだ名が「井上皇帝」であったらしく、父は桂太郎の三男、母は井上馨の長女というエリート。
 「わたくしの古代史学」には要旨こうあった。
 🔳2.26事件の前年、貴族院議員でもあった美濃部達吉博士は天皇機関説を槍玉にあげられ、・・父は貴族院議員であったので、先生が貴族院でなされた「弁明」を聞いた。父は先生が滔々と自説を述べ、学説を一歩も曲げなかったので、議場は粛然として先生の去るのを惜しんだ、と聞かせてくれた。🔳
 なるほど、前記の書評の民子夫人の指摘と符号が合う。
 貴族院の超エリートたちも軍部の難癖が不当だとは思っていたのである。だがしかし、揃いも揃って「卑怯」だったし、新聞もそうだった。

 今日、衆議院議員の選挙がある。首相与党が政策討論の場を逃げて、初の女性首相などという「人気」を前面に、チラチラと「得票が増えれば軍備増強と憲法改悪を強行する」と述べることで、「信を得た」というつもりだ。
 与党自民党の中にも「これではよくない」と思う人もいると思うが、高市氏のえげつない「石破内閣議員干し上げ」「旧安倍派裏金・教会議員の勢い」に怯えて口をつぐんでいる。
 権力がチラチラ見えてきたので「安保法制」も「原発」も認めた潮流も同じこと。
 将来の歴史家が、「あの時代の人間という人間が卑怯だったから」と言わせないように、戦争に向かったあの時代を学びなおす必要がありそうだ。
 と言いながら、ちょっと飲みに行って「割り勘3000円は安かったなあ」と言いつつ、「天皇機関説タイフーン」講談社3080円にはちょっとたじろぐ小さい男がここにいる。

2026年2月7日土曜日

てこの原理 そして視点

    アルキメデス曰く「我に支点を与えよ!」

 長い間庭の花崗岩製の道祖神が地震で倒れたままになっていた。
 そこが作業のし難い場所であるということもあるが、なにしろ重くて起こそうとしてもにっちもさっちもいかない。
 けっこう多くの大工道具を持っている私だが全く歯が立たない。
 クルマのジャッキも使えないし、ロープをかけてクルマで引っ張るにも周りは庭と歩道だけなので考えあぐねた。
 それに、腰を痛めるか、指を骨折するか・・が相当な確率で頭の中を飛び回った。

 そこで原点に返ってアルキメデス・・・なのだが、ホームセンターで見るテコ用のバールは高額だった。
 なので、ものは試しに一度見てみようとネットで『モノタロウ』を調べてみると、ホームセンターと比べて相当格安のものが出ていたので「エイヤッ」と購入したのが写真のバール。
 効果はてきめん。種々困難はあったが積年の課題が解決。「我に支点を与えよ、されば地球をも動かさん」と妻にうそぶいた次第。

 で、強引な連想だが、テレビを視ていると「どの党もええことばかり言っているのでその差が解らない」というような街の声がニュースで流れているが、結局、確かな視点がないからだろうと、つまらぬ言葉遊びをした。チャンチャン。

【おまけ】小学校のときに先生が「電車の車輪とレールはどっちが固い?」と問題を出した。ヒントは、交換しにくい方が固く、交換しやすい方をあえて弱く造っているということだったが、私は大きな声で「レールの方が弱い」と言って、クラス仲間からも多数の賛同を得た。
 答は、交換など修理のしやすい車輪の方をあえて弱く造っているのだが、そのとき私は執拗に「レールの方が弱い」と主張した。その訳は・・・
 私は通学途中などでいろんな工事現場や工場などを覗くのが大好きだった。
 その見聞からすると、大きなバールさえあればクラス全員で枕木から犬釘を抜き、新しいレールと取り換えるのはできそうだ! しかし、車両を持ち上げて車輪を交換するのはクラス全員が力を合わせても無理のようだった。
 今回、けっこう大きなバールを入手して、あの日のクラスを思い出した。そう、バールと支点(視点)さえあれば何でもできるぞ!!

2026年2月6日金曜日

共産近畿カルテット

    共産党は近畿の比例区に4人の候補者を立てている。
 リアルな話「現有2議席が危ない」と訴えられている。
 現有2議席は たつみコータロー と 堀川あきこ だ。
 比例の投票は政党名=日本共産党と投票すると死票はない。
 それが増えると、 清水ただし 冨士谷かえ子 まで当選する。
 このカルテットに仕事をさせたい。

 選挙区は小選挙区なので壁は厚いが、大阪1区には 竹内よしのり が立っている。
 共産党の候補者は、議員という名誉?や金が目当てで立っているわけではない。
 家族を含めてある種犠牲的精神で奮闘している。
 あと2日、どうか支持の輪を広げてほしい。

2026年2月5日木曜日

不妄語戒

    立春とはいえ、この週末はまた大寒波が予想されている。
 奈良近辺では「東大寺のお水取り(修二会)までは春は来ない」と言われるが、それは2月20日に別火が始まり、お松明で有名な本行は3月1日から14日で、いわゆるお水取りは12日の夜に行われるのでこの地の春はまだ40日ほど待たなければならない。
 参籠する練行衆は2月晦日に仏教の八斎戒を授かるのだが、その4は不妄語戒「嘘をつかない」というもので、高市氏の信仰がどの辺りなのかは知らないが、正しい意味なら仏教徒ではないように推測する。
 ただし、氏と持ちつ持たれつの関係にある世界基督教統一神霊協会(世界平和統一家庭連合)はカトリック教会、ルーテル教会など世界のキリスト教団体からはキリスト教とは認められていないただのカルト団体だから、その世界では嘘も許されているのだろう?
 高市氏は、先のNHKの党首討論会を「前日痛めた指の痛み」のため正(まさ)しく直前にドタキャンしたが、実はそれ以前から誰と代わるかの相談をしていたことが週刊誌にスッパ抜かれている。
 仏教徒であろうがなかろうが、妄語・噓つきは良くない。
 そういう人物が、「これから大胆に強行する政治に全権委任してくれ」と、白紙委任状をくれというのが今回の選挙の本質だ。
 仏教では慈悲のこころが説かれるが、良くない権力が庶民を痛めるのに抗わず、慈悲のこころの名の下に看過するのは仏のこころではないと思うが如何。

大豆の豆ごはん

    節分には年齢プラス1の数の豆を食べることになっているが、そもそも明治よりも古い習わしだから年齢というのは数え年が基本だろう。
 それにしても節分というのは立春正月の前日、いわば大晦日の行事だから、立春正月を当てての数え年がよいのでないか。となると、1月生まれのものは、満年齢プラス1の数え年でさらにプラス1になる。ややこしい。正解はよくはわからない。
 なので、できるだけ食べる数を減らすために「満年齢」を採用したいが、満年齢プラス1でも恐ろしい数になるので、結局数にこだわらずに「それだけ食べたこと」にしている。
 そんなこともあり豆が余ったので、一晩水に浸けておいて4日には豆ごはんにして戴いた。
 で、豆ごはんのパワーで週末には鬼退治といきたいが、はてさて。