葛之葉稲荷大神 |
で、陰陽師といえば・・・、そのトップスターが安倍晴明であることには誰も異論はないものと思う。
父は現大阪市阿倍野区に住んでいた安倍安名。母は和泉の国信太の森の狐であった(浄瑠璃 蘆屋道満大内鑑)が、正体のばれた母は、「恋しくば たづねきてみよ和泉なる 信太の森の うらみ葛のは」と障子に書きつけて去っている。
私は、この阿倍野区で働いていたこともあるし、信太山は青春時代、キャンプやピクニックによく遊んだ懐かしい地である。
さて、この浄瑠璃の元となった、一般に「信太妻」と呼ばれる昔話がどの様に全国に広まり内容が豊かになっていったのであろうかという考察はいろいろされているが・・・、
先ず、清少納言が例によって「森は信太の森!」と言い放った信太の森は、その地の聖神社の森である。
そこの神官藤村家が宝暦5年に禁止されるまで販売していたのが「泉州暦(信太暦)」である。
中央から没落して、それ故に後には「民を惑わす不届者」と賤視されるようになったアウトサイダーの陰陽師なのだろう。
もしかして、その暦を売り歩いていたのは、近在の、舞いや説教節や説教人形に長けた放浪と語りの芸能集団だったのではないだろうか。
暦の販売は別にしても、この地の説教節等の芸能集団が、全国に散在していた「きつね女房」の話を「信太妻」に練り上げ、そして全国に広めたのではないか。
ここから阿倍野の地までは「蟻の熊野詣」で有名な小栗街道で一直線だから話にはリアリティーが増してくる。
そして、自分たちに繋がる(気分の)陰陽師のトップスターが主演であるから力が入る。
さらに、多々見聞きしたであろう結婚差別と離縁にまつわる情念で脚色されていったのでは・・・。
加えて、近郷・堺の三味線に西宮の戎舁きという芸能の存在・・・・となると、漂泊の門付芸(説教節)が練り上げられながら最終的には都会の浄瑠璃や歌舞伎にまで成長する要素は十分であったと想像する。
(以上、沖浦和光氏、松本芳郎氏、篠田正浩氏らの所論を参考にしながら思ったことを書いてみた。)
この神社は、普通には「葛之葉稲荷」とか「信太森神社」と呼ばれている。
・・が、その「森」は小さく小さくなっている。
これだけの由緒である。もっと観光のPRをすればよいのにと歯噛みする思いだが、近くのJRは熱意がなさそうだ。
蛇足ながら・・・、葛の葉は風が白い葉裏を見せることから、裏見=恨みにかかっている。
中学の校歌にΓ葛の葉を我らの記章にいただきて」と歌われていたのを思い出しました。信太の森の白狐と安部清明の悲しい物語を歌ったものと思いますが、当時そんな物語があったとは知らなかったので葛の葉が珍しいのかな程度の認識しかなかったのでしょう、あまり不思議とも思った記憶はありません。
返信削除狐うどんをΓ信太」と言っていたことは承知していると思いますが、狐があげさんが好物のため言い表したものと思いますが、今でも信太と注文するときつねうどんが出てくる来るのでしょうか?
廃れてしまい、通用しないかも知れませんね?
のかと思いますが、今でも信太と注文すると
葛は空地・荒地一番の強者だと思います。まったく珍しいものではありません。雑草の王者です。それが校歌になったと言うのはよほどのことです。
返信削除信太山周辺の中学校にはそんな校歌があったのですね。感慨深いです。
うどんの「信太」は、この話が誰でも知っているほど有名なために、お揚げ→、狐→、信太と言うようにちょっとシャレた隠語がメジャーになったものでしょう。
それがダンダン忘れられていっているのは関係者のPR下手のせいだと思うのです。
ニュースが入ってきました。こけら落としのなった東京の歌舞伎座、9月公演は安倍晴明の「陰陽師」だそうです。
返信削除若い若い頃、信太山のてっぺん(てっぺんなどないのだが)で数人でお月見(すき焼きパーティー)をしました。そのうち2人がすでに鬼籍に入りました。信太山のことを書きながら、そんなことごとをしんみり思い出しました。信太の森周辺は青春の思い出の地です。
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