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2026年8月16日日曜日

右傾化の底流

    アメリカにおけるキリスト教ナショナリズムについては8日に書いたが、なんでもやたらにアメリカの真似をしたがる人々が多い昨今、現代米国論の渡辺靖氏の次のような指摘は現代日本論にも通じるような気がする。氏は言う・・

 1990年代以降、アメリカ政治では保守とリベラルが拮抗するようになり、94年の中間選挙では40年ぶりに共和党が上下両院で多数派となり、パイの取り合いになった。
 その結果、相手を貶める中傷攻撃や、人工妊娠中絶やES細胞、あるいは同性婚への賛否といった、価値に関するイシューに絞って絵踏みを迫る形で有権者にアピールする動きが活発になった。
 価値に関するイシューは各自の心の問題でもあるので、そう容易に妥協できない。
 だからこそ、(選挙)コンサルタントたちはそこを狙い、かなり細かいテーマをあえて争点に据えた。
 そこに宗教的保守派である福音派などが政治的に動員され、さらには先鋭的なキリスト教ナショナリストが前面に出てくるようになった。

 ・・日本のことも、以上の、キリスト教のところを神社本庁やカルト教団と読み替えると非常に納得がいくし、これにワンイシュー的なSNS選挙戦術を重ねると納得がいく。
 ただ、韓国至上主義で天皇制も否定する旧統一教会と神社本庁的な右翼が反共の一点で連合する自民党などの右翼の節操のなさには、「日本は野蛮な異教徒の国だ」と、アメリカのキリスト教右派もあきれ返っていることだろう。

2026年8月15日土曜日

「戦争」を選んだ

    今日は8月15日、加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読み返している。 
 以前に読んだときは史料としての緻密さに驚いたが、題名のように?著者の立ち位置が解らなかった。つまり、「あの『戦争』は仕方がなかったと?」言うの??とか

 もし自分があの時代に生きていたらという問いかけは大切だ。
 軍部や天皇の非人道的な政治に抗って闘うか。
 地方の官吏や隣組の世話役になって人々を戦場に送り出すか。
 それとも『人間の条件』の梶のように彷徨するか。
 「命令されたのだから」と言って殺戮や凌辱をするのか。
 そういう問いかけを自分自身にせずに、あれこれの数値や史料で「戦争」を分析したかのように語るのは卑怯かもしれない。

2026年8月10日月曜日

最後の審判

    中東のニュースを見ていて何時も思うのだが、油田で常に燃えているあの
煙突の火は何かもったいない気がする。きっとあのガスを回収して売るよりも燃やしておくことの方が安くつくのだろう・・・。(日本のコンビナートでも同様の感想を持つ)

 もうひとつ、石油施設であるかないかに関わらず、戦争ほど環境破壊はないと思うのだが、そんな感情は「幼稚」すぎるのだろうかニュースでは触れられない。

    その結果、人間が生きていけないほどの高温や乾燥、反対に豪雨という気候危機が進行している。大規模な山火事、旱魃と大河川の水位低下。戦争指導者は全人類を危機にさらしている罪で裁かれるべきでないか。

 対する我われ庶民はあまりにも微力な気がするが、微力であっても決して無力ではない。
 ジョークの類ではあるが、平凡な庶民が死後、神の前で冷たく裁かれている絵があり、「神さま、いったい私が何をしたというのですか?」と申し立てているのに神さまは「何もしなかったからじゃよ」というのがある。
 伊丹十三の父伊丹万作が戦後、圧倒的な日本人が「国や軍部や天皇にだまされていた」と「反省??」していたとき、「だまされていた者の罪」を鋭く指摘したことも大切なことだ。そんなことをツラツラと考える。

2026年8月9日日曜日

長崎の鐘

    1945年8月9日、日本の中できっと一番クリスチャンの比率の多かったであろう長崎に原爆が落とされた。
 キリスト教の解釈では、それは神が与えた試練だと聞いたことがあるが、私には理解が及ばない。
 同じように、原爆投下は日本の降伏を早め、その後想定された多くの犠牲者を産まずに済んだという「言い訳」にも納得できない。
 その当時、日本が戦争遂行能力を失い降伏の条件をめぐって各国に打診していたことは周知の事実である。
 だから、それは終戦後の覇権争いのためのアメリカの打ち上げた花火であった。
 あえて言えば、同じ条件下で、西欧人であるドイツやイタリアに向けて同じ判断をしていただろうか。(これは想像だが、ある種の説得力がある)

 かつて訪日したチェ・ゲバラは、原爆慰霊碑に献花をし、資料館を見学し、同行した中国新聞の記者に「君たちはアメリカにこんなひどい目にあわされてなぜ怒らないんだ」と問いかけた。それに対してとまどう記者の姿は、当時から現代までの私たち日本人の姿を象徴するようだと語り継がれている。

 確かに、日本軍の残虐な戦争行為の非人間性の数々は直視すべきであるが、だから原爆の非人間性が許されるものでもない。
 現実世界は核抑止力によって平和が実現などしていない。
 反対に、核の脅威をちらつかせながら戦争が行われている。
 自国内の内政の矛盾や反対派を抑え込むために「屁理屈」を付けて戦争が行われているのが実際だ。
 それでも大国のリーダーの理性、知性は核の使用を止めるだろうと、皆さんはホンキで信じられますか。
 
 こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

2026年8月6日木曜日

八月や六日九日十五日

    今日は8月6日。 八月や六日九日十五日 という時事俳句がある。
 
 「詠み人知らず」と言われたりしていたが、近頃は「詠み人多し」と言うらしい。良いことだ。八月になれば、みんなが自分事のように 八月や六日九日十五日 と口にして平和の誓いを確認すればよい。
 さてこの国の首相と内閣は、こういう我われのことを「お花畑だ」と軽蔑している。早い話がアメリカの核の傘の下で、敵基地先制攻撃が可能な軍事力こそが平和の保証だと言い、事実、着々と軍備を増強している。
 わが街の祝園弾薬庫にはトマホークを保管し、高速道路を北進して舞鶴の戦艦から先制攻撃するという。
 その論理をひっくり返せばわが街は先制攻撃されることになるが、そのことには一切触れない。日本列島の海岸線に原発を並べているが、安価なドローン戦隊がいとも簡単に電源喪失を招くであろうことも一切触れない。 お花畑は誰だ!
 核大国ロシアの国民(兵隊)も核大国アメリカの国民(兵隊)も現実に戦死している。
 「俺様を怒らせると怖ろしいぞ」「俺様は核兵器を持っているのだぞ」と言えば、相手は「御紋」の前に「ははあ~」とひれ伏すのではなかったか。
 今日は8月6日。そんな「言葉遊び」の前に、81年前のヒロシマで何が起こっていたのかをしっかり見つめなおす日にしたい。

2026年8月1日土曜日

銘柄米も値下がり

    202661日月曜日に書いた記事をほゞ再録する。
   🔳 昨年713日にコメ問題学習会のことを要旨次のとおりに書いた。
 【今回のコメ不足は単なる買い占めでなく、絶対的なコメ不足だから短期的には別にしても長期的には高騰は続く。
 原因は、永年の減反政策、需給見通しの誤り、米の輸入自由化、そして、農水省の施策というよりも財務省の強烈な政策として、米で大儲けを考え輸入米もコントロールしようとする大商社(つまり財界)の要望、その奥のアメリカ政府、アメリカ財界の要望によるものが大きい。だから単純な「犯人は農協だ論」に組してはならない】と。

    ところが近頃、大手スーパーでも明らかにコシヒカリなどの銘柄米も値段が下がっている。
 消費者が備蓄(買い占め?)していたのが一通り一巡したからだろうかと思ったりもするが・・
 それよりもやはり、農協や大商社、大企業が買い占めて隠していたものの販売見通しが天井を打ったからだろうと勝手に推測している。
 やはり途中で買い占めて隠していたものがあったのは、どうも事実だろう。
 米は完全な冷房装置のある倉庫でないと保管が効かないから、農協、商社、米取扱い大企業あたりが怪しい。 先の学習会で講師は、米の売買は、「売買契約、金の収支、現物の米の移動・保管」が全く一致せず、ちょっとした伏魔殿だとの感想を述べていた。・・・やはり。
 どいつもこいつも、なんという国だ! ・・・以上が6月の記事だ。

 マスコミは、「ここで政府が備蓄米の買戻しをすると物価政策によい影響が出ないから政府は無策を続けている」と解説しているが、諸物価高騰の折り、米価だけが下がるのでは農家の生産意欲も下がるだろう。
 農業従事者の年齢を考えると近い将来「ほんとうの食料不足」が起こるに違いない。
 いわゆる先進国で、主食を担う農業を保護していない国はない。

 話は前後するが、202597日に『コメ問題で目から鱗』を書いた。
   しんぶん赤旗日曜版にあった、関根佳恵愛知学院大学教授の解説記事にこうあった。
 「政府や財界はコメ騒動を奇貨として、農業経営の大規模化、農地の大区画化、企業の農業参入の声を強めている」と・・・しかたないがそれはそうだと私も思っていた。
 しかし、これまでは、単位面積当たりの収量や単位労働時間当たりの収量ばかりが議論されてきたが、いま国際的には、資源エネルギーの単位投入量当たりの収量が重視されつつあるという。
 そうすると、小規模農業が担う「農民的食料システム」は世界の食料生産に用いられる資源エネルギー量の25%しか使わずに食料の70%を生産しており、反対に「工業的食料システム」は、資源エネルギーの75%を消費しながら食料の30%しか供給できていないのだと。・・エエエエ!という話だ。
 農業経営の大規模化、農業生産者の減少、過疎化やコミュニティーの衰退、学校統廃合、商店や診療所の閉鎖、自治体や金融機関窓口が遠くなる・・みんな仕方ないのか。
 だから・・関根教授はいう、「大規模な農業経営がぽつんと存在するより、小規模な農業経営が数多く存在する方が、防災、景観、文化の継承を含め社会的効率性が増すのだ」。
 人間、主流のメディアに流されず、落ち着いて考えないとこの国の未来は危うくなる。
 しんぶん赤旗は実に科学的で哲学的だ。

2026年7月28日火曜日

堺小学水泳歌

    「若い頃、好きな季節は夏だった」と川柳を一句捻ってみたが、昨今の殺人的な酷暑ではそれらは遠い思い出になってしまった。
 思い出ついでに『堺小学水泳歌』のことを書こうとネットを検索してみると、古い私のブログが出てきた。これでは参考にもならない。
 そこで、思い出の前にその歌詞を書いておく。

 🔳 堺小学水泳歌(大正2年制定)

八重の荒波蹴破りて  南洋呂宋(るそん)に国の名を
あげて帰りし英雄の  血潮湧き立つあゝ我等
海に鍛え(来たれ?)や泳げよや  我等の友はちぬの海

玉なす汗は滝のごと  五体も溶くる暑き日に
寄する波間をかきわけて  石津 浜寺 大津の洲
静かに見つゝ歌ひつゝ  泳ぎゆくこそあゝ愉快

我に鍛へし腕はあり  我に練りたる脚はあり
狂瀾怒涛荒れは荒れ  何の恐るゝことあらん
よき道場よ慣れし身の  我茅渟の健児国

海は天与の大宝庫  水産業に海運に
利用の道は数多し  海に親しみ海に慣れ
海を恐れず国富(くにとみ)の  増進図れ我健児

競争激しき今の世は  身の健康が第一ぞ
暑さにやけて日に焦げて  鬼と見まかふまで泳ぎ
海を領(りょう)せよかくてこそ 末(すえ)頼まれるあゝ健児 

 これは『堺人第2号』に投稿した。
 昭和32年33年頃、臨海工業地帯造成のため大浜海水浴場が閉鎖される前年まで、英彰小学校では学校から水着姿で並んで、先生の打ち鳴らす大太鼓に声を揃えて大浜海水浴場まで行進した。
 そんな記憶をお持ちの方は70代後半80歳以上の方々となるので、ただただ記録のためにアップしておくが、音痴な上に記憶も定かでないことを断っておく。







 

2026年7月22日水曜日

表現の自由

    悪法が成立してからこんな文章を書くという自身の「体たらく」を恥じつつ、後々のために思うところを書き残しておきたい。 
 日本の国旗損壊処罰法案について、参院内閣委員会は14日、参考人から意見を聴取したが、その中で、中央大学法学部の橋本基弘教授(憲法)(副学長)は、「近代国家のイロハのイとも言える罪刑法定主義を全く満たしていない」と指摘した。
 法案が「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で「公然と国旗を損壊」した場合を処罰対象としている点について、極めて主観的であいまいだとし、「後出しジャンケン的な解釈による適用を許すような刑罰法規は、法の支配の否定を意味する」との見解を示した。
 また、国旗は国家の象徴であり、それを損壊する行為は「国家への最も強力な抗議のメッセージ」の手段になるとし、これらの行為を処罰することは「国家や政府に対する最も強力な批判を禁止することを意味する」と訴えた。

 私が遅まきながら「なるほど」と気がつき、もっと早く気がつくべきだったと反省したのはこの最後段の指摘である。仮にも『国旗を焼く意図』というのがあったとして、それは政府に対する批判であり、民主主義にとってみると根幹的な表現の自由である。
 政府・政策を批判するのが表現の自由の主目的であるから、それを容認しないのは独裁国家である。「国旗毀損」と言いながら、結局は政府批判を取り締まるという危険性の方が遥かに大きい。
 ちなみに1989年 米国最高裁判事 アンソニー・ケネディの言らしいが、「国旗が守っている自由の中には、その国旗を軽蔑する自由も含まれている。」というのにはアメリカの民主主義の根性を感じる。

 付言すると、スポーツの国際大会等で日の丸が掲揚されるのに嫌悪する人は少ないとは思うが、同時に、人の感情はそれほど単純ではないということも理解しておくことが「大人」の理性である。
 例えば、夏の夜の花火は一般的には美しく好ましい。しかし、東京大空襲を経験された半藤一利さん、その妻で漱石の孫でもあって長岡大空襲を経験された半藤茉莉子さんは「花火は嫌いだ」と綴っておられる。
 この法案は、例えてみれば、「みんな花火は美しいと言っているのだから花火は嫌いだなどと言うな」に通じる。
 国の権力者であっても、象徴であっても、国歌や国旗であっても、それを軽蔑したり毀損する自由こそもっとも大切な、根幹的な表現の自由なのだ。

2026年7月19日日曜日

大阪市を廃止する都構想

    少しざっくばらんに語らせていただくと、昔から古臭い大阪府議会議員や知事からは「なんで大阪市議会議員や大阪市長のほうが報酬が高いねん」という大きな不満があった。(これはほんとうのことだった)
 もうひとつ、長年の大阪経済のジリ貧の一方、東京の発展に対する強烈な劣等感が府議会等で大きくなり、実質は別にしても、表看板だけでも東京に並ぶ大阪都という名前がほしいという声が大阪経済の衰退と反比例して知事周辺で大きくなった。
 ただ、その程度の話ながら・・・、その程度のことだけに、そのボンヤリした「スローガン」は大阪庶民の閉塞感に幻の夢を与えたことも事実である。

    実際には、維新の府市政では、老朽化した上下水道や排水ポンプの更新が遅れ、道路陥没やマンホールからの汚水噴出などが相次いでいる。
 今年3月には地下に埋設された巨大な下水道管が地上へせり上がり、一時は高架の新御堂筋に接触しかねない事態になり、幹線道路が通行止めになるなど大きな混乱が起きた。
 6月の大雨では生野区でマンホールのふたが吹き飛び、下水が噴き出す事故も発生した。
 大阪市では法定耐用年数を超えた水道管が全体の約51%に達しており、全国平均を大きく上回る老朽化が進んでいるというのに・・・。
それでも吉村知事的には大阪市の財布を自分の手に入れてカジノ(IR)を作りたい。そのためには、政令指定都市である大阪市という権限がなくなってもよいと言っている。
少しでも政治や地方自治を知っているものからすると、政令指定都市という権限で仕事を思い通りにしたいと考えるもので、それを半人前以下の自治体?の「区」に格下げして住民が得することなど何もない。
はっきり言うが、大阪市を廃止して幾つかの区にして市民の暮らしが良くなるなど詐欺師の話である。

2026年7月15日水曜日

男系男子

    6月19日の『孫の小説』で「私は中学生時代『青い山脈』など石坂洋次郎を読んでいた」と書いたが、先日、義娘(嫁)が出演しているミニコンサートで『〽青い山脈』が演奏されたので、私も音楽療法の対象者になったような複雑な気分になった。何となく「高齢者は懐かしいでしょ」と決めつけられているような・・・
 歌は世につれ・・でもあるから正確には1949年発表の『〽青い山脈』は、ほんのチョットだけ私には古く(懐メロ感?を)感じた。「音楽と世代」というのはそれくらい微妙な時代性を持っているが、原作である小説のプンプンした戦後新時代の匂いはわが世代でも古臭くはなかった。
 封建主義の「上着」を身にまとったオヤジどもの軍国主義の時代が終わって、いざ民主主義の時代へとはいうものの、オヤジ世代は何も変わらない中、女学生と女性教師が堂々と立ち向かう青春小説は痛快だった。 

 さて、国会での皇室典範議論を見ていると、ナント時代は大きく逆戻りをしていると感じたがどうだろう。
 与党議員が「男系男子は2600年の伝統だ」と堂々と国会で発言したが、西暦(前)600年は縄文時代であり弥生文化はまだ萌芽でしかないから、この人の頭はどうなっているのだろう。そこまで神話時代を「歴史時代」だというなら、アマテラスは女神ではないのだろうか。
 「男女交際は不純だ」と言った青い山脈のオヤジ世代と全く変わらない。
 その男尊女卑思想はつい最近でも、「男の子を産まない嫁は嫁失格」みたいな悪口を女性に投げかけ、多くの女性の心を傷つけてきたのではないか。

 もうエエカゲンに克服しないとこの社会は窒息する。
 こうして典範改正に賛成した政党と議員をよく覚えておくことだ。

2026年7月11日土曜日

38親等の隔たり

    皇室典範改正が10日衆院を通過したが、翌日の新聞各紙は日本共産党塩川鉄也議員の質問に宮内庁次長が「旧宮家は1428年に伏見宮彦仁王の系譜が枝分かれした。今上陛下とは36親等から38親等の隔たりがある」と答弁したことが大きく報じていた。(写真は質問する塩川議員)
 枝分かれは約600年前のことだから、現在の旧皇族の方々は、南北朝時代北朝の崇光天皇のおよそ20世孫以上ではないだろうか。36親等の2分の1でも18世孫となる。

 丁度、中公新書・河内春人著の新刊『継体天皇』を読んでいたところなので、これには少し驚いた。つまり日本書紀は「継体天皇は応神天皇の5世孫」、史実は別にして「継体以前に天皇候補となった倭彦王は応神天皇の父の仲哀天皇の5世孫」と書いている。
 著者はこれには意味があって、日本書紀編纂時には「親王から数えて5世の者は皇親とは扱わない」(継嗣令1皇兄弟子条)があったからだと書いている。
 日本書紀編纂の養老4年(720年)の頃から、いくら子孫だといっても5世以上の者は皇親とは扱わないのであった。
 こんなことが今次皇室典範改正案に賛成できない理由だとは言わないが、「男尊女卑」を絶対的な伝統だとおっしゃる賛成議員の皆さんには、「旧宮家養子の子の皇親案は伝統に逆らっている」と一言言っておきたい。

 つまるところ改正案は、「女性蔑視」「女王は認めない」の一点にかかっている。

2026年7月2日木曜日

小選挙区制に異議あり

    自民と維新は衆院選の比例区を問答無用で45減らす法案を通そうとしている。
 となると30%ちょっとの政党が議席のほとんどを占めることもある。その余の票はいわゆる死票になる。これは国民の声を議会に反映するべき民主主義の圧殺になる。
 単純に言えば「モノ言う野党排除法案」である。

 小選挙区肯定論というと「(そうでなければ)人口の多い大都会の声ばかりが反映されて田舎の声が届かない」というのを聴くが、あえて選挙区を分けるほどの意味、つまり多様な意見や感覚の相違というと、それは「都会対田舎」だけだろうか。
 例えば男性議員選挙と女性議員選挙を考えればどうだろう。
 年齢階層別選挙という想定もあり得る。
 海に近い地方だといっても全員が漁業関係者でもないし、もっと言えば、健康な人と病弱な人の政策への切実さは異なるだろう。
 と、あえて言ってみたが、学級代表による児童会でもないし、合衆国でもないのだから、それらの少数意見や切実な課題は真面目な政党が伸びれば今以上にフォローはできる。

 反対に、議員としての見識や、もっと言えば人間としての人格に首をひねりたくなるような議員が現に存在するのは、小選挙区の地域内の公共事業や公的な補助金や経営上の上下関係などの利権の「圧」を制したが故の「当選」も想像できる。
 あえて言えば、小選挙区制と政党助成金がこの国の民主主義を大いにゆがめている。
 自民と維新の衆院定数削減案は、この歪みを爆発的に広げるもので、こんな法案は許してはならない。

2026年6月26日金曜日

母は昔はパパだった

    室町時代の日本初のなぞなぞ集「後奈良院御撰何曾(ごならいんぎょせんなぞ)」に「母には二たびあひたれども父には一度もあはず」という問いがあり、答えが「唇」というのは有名な話。

 昔、テレビで大野晋先生が、万葉集を「ふぁふぁぱぱ・・なんとか」と、まるで昨日にも家持(やかもち)に会ってきたかのように当時の発音で詠んでいたことが不思議だったが、万葉仮名を隋唐時代の中国語の音韻や、時代が下って室町時代のポルトガル人宣教師による日本語辞書で再現できている(らしい)。
 その結果、ハ行を例にとると、奈良時代は「パピプペポ」。平安時代には「ファフィフフェフォ」になり、18世紀前半ごろに「ハヒフヘホ」に変化したことが解かっていて、こうして「母は昔はパパだった」となる。

 先日の『古事記学会公開講演会』の森博達先生の講演は、日本書紀の文体がα群とβ群とで種々異なることから、その筆者までも推定した内容のある講演だったが、面白く興味深かったのは、先生が、古事記の中の有名なヤマトタケルの歌を『上代音』で朗々と詠いあげてくれたことだった。
 以下に書くが、歌の雰囲気が伝わるかどうか・・・・

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯
ヤマとパ クニのマぽろパ タタナヅク アヲカキ ヤマごもレル ヤマとチウルパチ
LLHH HHHHHHL LLHHH LLHH LLLLFL LLHFLLLF
(平仮名:乙類相当、 H:高平調、 L:低平調、 F:下降調、 ハ行:P音、 シ:チ、 ヅ:du)

*画像はネットにあった和楽webのもの

2026年6月23日火曜日

古事記学会の講演で

    6月14日の『伝統という言葉』で、例えば歴代天皇の即位時の装束は「テレビドラマで見るような平安以来の貴族のそれ」 ではなく、明治天皇の前の光明天皇までは「中国皇帝同様の装束」であったことに、たかが明治以降のしきたりを、まるで古代や中世以来の『伝統』であるかのように思わされている『情報操作』に驚いたことを書いた。(以上、前説)

    先日、古事記学会の公開講演会で三浦祐之先生の講演を聴いた折、前述のことと同様の指摘があり大いに考えさせられた。
 講演の中の一部ではあるが、レジュメには『国譲りという目眩まし』とあって、先生は「古事記にはそもそも「国譲り」なる語は出てこない」として下記のように現代語訳を述べられた。
 🔳 ここをもちて、この二柱の神(タケミカヅチ、イツノヲハバリ?)は、出雲の国の伊耶佐の小浜に降り到ると、十掬の剣を抜き、波の穂に逆さに刺し立て、その剣の先にあぐらをかいて座り、そのオオクニヌシ神に問うて、言うことには、
 「アマテラス大御神とタカギ神との仰せにより、問いに遣わせなさったのである。なんじが領(うしは)いている葦原の中つ国は、わが御子が支配なさる国であると、おことばを寄せなさっている。そこで、なんじの心はいかがか」と。・・・🔳
 このあとオオクニヌシの子のタケミナカタを科野(しなの)の州羽(すわ)の海まで追い、突き殺そうとした・・・

 つまり、古事記にあるのは『国譲り』というような平穏なものではなく、まるでプーチンやトランプのような「砲艦外交」「軍事制圧」である。
 それを『国譲り』なる語で修飾した文章はほんの一部江戸末期にみられるが、本格的には、近代の、戦前の天皇制を支えた国定教科書によって広められた政治的な呼称である。
 以上を踏まえて帰宅してから、千田稔監修の別冊太陽「編纂1300年記念 古事記」を調べてみると、そこには堂々と「大国主神の国譲り」のほか、「国譲り」という文字があふれていた。

 昨今、女性天皇はあり得ないとか夫婦別姓はあり得ないという主張が政権主流から喧伝されているが、そしてその根拠のような「証文」として『伝統である』と主張されれているが、よく吟味すればそれらは明治の絶対主義的天皇制のもとで構築された偽りの『伝統』でしかないことが多い。
 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。
 男であれ、女であれ、偽りの『伝統』という言葉にひれ伏してはならない。

2026年6月8日月曜日

入梅

    6月4日、近畿地方に梅雨入りが宣言されたが、梅雨入り前に台風が上陸したのだから「事実はなんとかやら」で、ややこしい。
 ただ季節の変化を権威(大阪管区気象台)に頼るのは情けないから、それは自分自身の感性に頼るべし。植物でもいいし農事でもいい。
 妻は早速「南高梅」を購入した。
 かく言う私は4日、「ミョウガが100円を切った」と妻に言うと、「ミョウガの値段があんたの『標本木か』と」笑われた。
 そう、一時はミョウガ3本のパックが150円を超えていたのが100円を切って90円台になったのだ。こんなはっきりした入梅のメルクマール(指標)はない。

 さて、私はミョウガが好きなもので、見事に物忘れがひどい。(すべてミョウガのせいにしておこう)

 そこで、先日妻に聴いた「おけんたい」についてもう少し知っておきたいと思い奈良市の図書館を訪れた。
 結論を言うと、ほとんど資料はなく、小学館の『日本国語大辞典』(全13巻2万頁50万語)と『関西ことば辞典』にだけそれを見つけた。
 後者には「役所の複写機をケンタイで私用に使うとる」という例文があった。これには何となく、「公然と(堂々と)」、「ずうずうしく」というプラスでないニュアンスを感じた。
 そういう指摘は前者にもあったが、普通に「あたりまえ」「おおっぴら」との記述もあり、文章ではその微妙なニュアンスが解らない。
 教えてくれた妻も、「さあて?」といったところである。
 「おけんたい」、ご存知のお方はそのニュアンスを教えてほしい。
 「晴耕雨読」の語が似合う季節である。

2026年6月5日金曜日

国旗損壊罪?

    高市自民・維新政権は、国旗損壊罪(2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金)の法案を提出すると報じられている。
 「明日の自由を守る若手弁護士の会」のフェイスブックを見ると「G7(主要7カ国)で外国国旗の法律がありながら、自国国旗の損壊を規制していないのは日本だけとの指摘があるが、ややミスリードだ。G7で外国国旗の損壊を規制しているのはドイツとイタリアのみだが、例えばドイツはナチス時代の反省から、民主体制を守る一環として自国国旗の法律を置いていると解されている。イギリスやカナダはどちらの法律もない」とある。

 その内容も、例えばイタリアでは、チュニジア人移民が国旗に赤い×印を書き移民政策反対とSNSに投稿した事件では無罪。ローマの教会前で極右の葬儀が行われ国旗にナチス卍を重ねて使用した行為が、ヘイト扇動で差別を助長すると認定され罰金2000ユーロを課されている。法律はあるが裁判所が、文脈を丁寧に読み解き表現の自由を守っているらしい。
 さらにアメリカでは、自国の国旗を侮辱する表現を禁止・処罰することについては、連邦最高裁が違憲判決を出している。
 ただトランプ大統領が20258月、この判例を真っ向から否定する内容の大統領令に署名した。大統領は「国旗を燃やせば1年の収監、仮釈放も認めない」という姿勢を表明し、国旗を焼却・侮辱した者を訴追するよう司法長官に指示した。行為者が外国人の場合には、ビザや永住権、帰化手続きの制限・取り消しも盛り込まれた。この国の現在はやや微妙。

 結局、自民や維新は北朝鮮や中国、あるいは途上国の独裁政権と同じことを考えており、例えば「表現の自由は侵してはならない」という日本共産党はアメリカ連邦最高裁やG7の主張に近いということができる。
 文芸評論家斎藤美奈子氏の言葉を借りれば、「下着の色は白だけといういうようなブラック校則と同レベル」の無用・有害な法案だといえる。

 517日にアップした「リンカーンとマルクス」では、アメリカ共和党の議員が、マルクスとリンカーンが手紙のやりとりをしていたことを知って、「それでは(アメリカ共和党と日本共産党の)祖先は一緒だ」と志位和夫氏に語った話を書いたが、マルクスの残された資本論関係の草稿には、未来社会では人生における自由がもっとも尊重される、・・されなければならないという展望が経済と絡んで論述されていた。
 写真は、先月他界した親友がイギリスのマルクスの墓を詣でた折の写真。手作りの告別式で披露されていた。

2026年5月18日月曜日

17人のCEO

    トランプは訪中に17の大企業のCEOを同行させたが、その規模というか内容は過去にないレベルのことであった。
 中でも半導体大手エヌビディアのジェンスン・ハンとテスラのイーロン・マスクは大統領専用機に同乗して訪中し、ジェンスン・ハンは式場で民間人筆頭の位置を占めていた。
 エヌビディア(NVIDIA)の時価総額は6兆ドル(950兆円)というから日本のGDP以上。
 訪中した17名の個人資産17兆ドル(2700兆円)は、日本+ドイツのGDPをはるかに超えている。つまり、日給で「億円」を超える米経済人が3日間中国に出向いていたのである。
 中国に観光に行ったのでもなければ、トランプのお飾り、あるいは小商いに行ったはずはない。

 例えば、アップルのiPhoneはアメリカには工場は全くなく、ほとんどは台湾の鴻海(ホンハイ)が製造しているのだが、その主要な工場は中国本土にある。
 エヌビディアも近々そうなるだろうといわれている。そうしなくても直ぐに中国に追いつかれるとも当人たちが語っている。
 つまり、世界の工場であり、世界一の市場である中国を抜きに世界経済は語ることができない。ちなみに、ジェンスン・ファンは黄仁動という台湾生まれのアメリカ人である。

 少し寄り道をして近藤大介氏の本の中のことを紹介すると・・
 iPhoneを生産するホンハイ(鴻海)の深圳工場は300万㎡でここの労働者数は約20万人だ。深圳の隣の東莞・松山湖の研究開発センターはなんと150万K㎡でセンター内を電車が走っている。以上は少し寄り道。 

 「台湾有事」など、経済の世界では議論の端にも登らないというのがリアリズムである。
 中国も、アメリカも、台湾も、キッシンジャーと周恩来が考え出した?現状が一番良いのである。
 そういう下で、日本の経済界の首脳陣は、愚鈍な高市内閣を戴いたまま沈没する船の中でため息をついているだけだ。
 それは回りまわって国民生活も引き下げる。
 そのことを明確に語らないメディアもメディアである。
 ただの年金生活者はただただ「情けない」思いでいる。

2026年5月17日日曜日

リンカーンとマルクス

    歴史にif はないが、ifリンカーンが暗殺されていなかったら、150年ほど後のアメリカにトランプという大統領が誕生していただろうかという妄想は楽しい。
 2010年に志位和夫氏が訪米し連邦議会の共和党の議員の部屋に行ったとき、リンカーンの大きな肖像画がかかっていて、「リンカーンを尊敬されているのか」と聞くと、「もちろん。わが党の創設者だ」と返答があったので、「それでは、マルクスとリンカーンが手紙のやりとりをしていたことはご存知」となるとびっくりして「知らない」。そして「それでは(アメリカ共和党と日本共産党の)祖先は一緒だ」と笑った話(15日付赤旗「志位議長とハートマン教授の対談」)は面白い。実際、マルクスとリンカーンは手紙をやりとりして意見交流をしていた。

 現に資本主義の総本山中の総本山ニューヨークには今、アメリカ民主社会主義者(DSA)のマムダニ市長が座っているのだから・・・あながち的外れな誤解でもない。
 
 マルクスが描いた共産主義とは、ソ連や中国で行われてきた政治とは正反対のものであった。人間が人間らしく、時間の活用や文化の自由が拡大される社会が展望されていた。(主に資本論の刊行されていなかった各種ノート)
 「共産主義には自由がない」などという宣伝に正々堂々と論を張って、自由民主党の政策こそが自由の敵であることはもっともっと大きな声で語られてよい。実際、高市自民党の政治は金正恩やプーチンと極似している。この国では、最も自由を大事に考えているのは日本共産党であろう。

 なんか近頃、この国は思想でも経済でも文化でも、「後進国」に編入されているような気がする。
 イメージで社会を論じるのは良くない時もあるが、あの傍若無人のトランプが習近平の前でおとなしい「一般人」であったのは今の時代を象徴していないか。習近平を誉める気はないが・・・
 アメリカにしても、どちらかというと民主党の方が大企業の利益に親和的で、トランプの共和党が取りこぼされた労働者のための雇用=企業誘致に積極的であるという側面もあるから、世の中は図式的ではない。

 今日ももう1本アップする予定。

2026年5月16日土曜日

単純化は恐ろしい

    先日、某所で「憲法9条改悪反対」の署名に応じていたときに、隣におられた非常に真面目そうなご婦人が「私は改憲派です」と言って署名をされていなかった。
 そのとき続けて話されたのは、「憲法は制定・施行されてから70数年間、1回も改正が行われていません。大きく変化した国内外の環境に合わせて、憲法にもアップデートが必要ではないでしょうか」であった。

 このフレーズ、聞き覚えがあるが・・・と思って検索してみると、自民党の広報のキャッチコピーそのものだった。そしてSNSなどで拡散されているものだった。
 「79年前に制定されてから一度もアップデートされていない」・・この単純なフレーズはそれこそ単純に「古臭い」「アップデート=改正すべきだろう」の雰囲気を人々に与える。

 現代人は疲れているから、複雑な問題を単純化することを歓迎する。そのフレーズが、SNSでは反復される。
 「少し落ち着いて検討しませんか」という話はうっとおしいし、その上に「あなたの得た情報はアルゴリズムに基くエコーチェンバーかもしれません」などと言おうものなら人格が否定されたように感じて反発する。
 ほんとうに難しい世になってきた。

※ SNS上のアルゴリズムとは、SNSのプラットフォーム(運用している会社)側が、このユーザー(つまり貴方)にはどういうコンテンツをどのタイミングでどのように表示するかを自動的に判断するシステム。

※ エコーチェンバーとは、アルゴリズムで選別された情報が繰り返されることで、結果として自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込み、特定の意見や思想が増幅する現象。それ以外の情報や意見が受け入れられなくなる。

 アルゴリズムでいうと、スマホに『月齢も正確に表示される最新式腕時計』というのがあったので、どういうものかとポチッとすると、出てくるわ出てくるわ・・腕時計の広告がその後次々と流れてきたことがある。
 まだそれはいい。気楽な動画をちょっとポチッとしたときには、少しお色気系の動画が押し寄せて我ながら恥ずかしくなった。プラットフォームのAIは、ちょっとエッチな爺さんとランク付けしたのだろう。
 それらは「×」を重ねていって正常に戻ったが。ご用心、ご用心。

2026年5月9日土曜日

アウェイでも

    5月8日付朝日新聞のトップ記事は、『嫌中動画気軽に下請け』というタイトルで、仕事の仲介サイトの求人募集が「中国批判系など海外の反応YouTube動画のお仕事」で、手順書どおりに簡単に対応できた。それは、見る人の憎悪をあおり、時に思考をゆがめるネット動画であったという内容の記事だった。
 記者が取材した男性は過去には「差別につながる可能性が高い」として広告収入を止められたが、その後新たに「政治系チャンネル」を開設し、高市首相を取り上げつつ、野党や自民党でも一部の政治家を批判。2週間で50万円稼いだと豪語したと書いている。

 この話は目新しいものではなく、2024年に大手仕事仲介サイト「クラウドサービスの求人の一部に、「中国人の迷惑行為、その後、自業自得になるフィクション動画作成の仕事」というのが出て問題になっている。
 さらに以前には、参議院議員の小西洋之氏と杉尾秀哉氏が提訴した裁判で明らかになったのは、Dappiという名前でウェブコンサルティングを業務とするIT会社が、自民党や維新への賛同の内容や立憲や共産党への誹謗中傷の発信を繰り返していたことが有罪になっている。
 ちなみにこの会社の主要な取引先には、自民党、自民党の元閣僚の資金管理団体、自民党の支部があった。
 そして今年4月29日に文春オンラインが報じたのは、昨年の自民党総裁選挙中に高市陣営がTikTokで、総裁選のライバルであった小泉進次郎氏や林芳正氏に対して「カンペで炎上!」「無能で炎上」「完全にアウト」という投稿をしていたこと、衆議院選挙の公示日前日には、高市氏の動画がアップされ、再生回数は10日足らずに10億回を超えていた。
 なお、高市氏の資金管理団体「新時代政策研究会」から2024年の総裁選関連で約8000万円の広告宣伝費が支出されていたことが毎日新聞で報道されている。

 実際、私のFacebookにもその種のTikTokの動画はあふれている。
 これを「やっぱりネットの世界は歪んでいる」とオールドメディアで批判?しているだけではことは済まない。
 都知事選挙の時の「石丸フィーバー」、総再生回数300万回が革新系候補を上回る得票を得たように、総選挙時の高市10億回動画があって自民党の「歴史的勝利」が起こったように、情報をSNSに頼っている層には、「オールドメディア」でまともに批判してもその声は届きにくい。
 「SNSに依存するのは危険だ!」という情報もSNS上で広げなくては力にならない。
 なので、「これではいかん」という良識を「とりあえずSNSで発信する」「せめて、シェアなりリポストする」ことが自覚的な民主主義者には求められている。
 それでも「SNSは苦手だ」と言いながら拱手傍観を続けますか。