2019年12月31日火曜日

パプリカ

 ほんとうに前の記事で1年を締めくくるつもりでいたのだが、一言。
 紅白歌合戦。  妻と「一番最初のパプリカだけは観よう」とテレビをつけた。
 しかしそれは私の期待どおりではなかった。
 私の勝手な思い込みだが、私の一番好きなパプリカは、いろんな障害を持っているように見える子供たちも屈託なく一緒に踊っているバージョンだった。
 そして、パラリンピックを控えた紅白はきっとそういうアピールをしてくれると勝手に思い込んでいた。信じていた。

 しかし紅白の舞台にそれらの子はいなかった。
 自分の勝手な思い込みであることは解っている。それでも「これはなんだ」と私は叫んだ。悲しくなった。
 
 こう言っては悪いがパプリカに誰も高度な歌唱力は期待していないと思う。
 それよりも、あの弾けたような明るいダンス、そして垣根を超えた多様性に共感したのではなかったか。
 ああ、来年こそはほんとうに垣根を取っ払おう。2019年 完。

 https://www.youtube.com/watch?v=ba0UDkwU4I0

 動画は上のアドレスを右クリックで反転させて移動してください。

箸紙と言霊

 時間だけはある身だから、お正月の用意はほとんど済んだので歳時記などを開いてみるとこんなのが目についた。
 太箸や戦後を生きて五十年 多賀谷栄一
 それが75年になろうというのはすばらしいことだが、「戦前」の匂い芬々をどうしよう。
 箸紙に名書かぬ二人暮らしかな 森田 峠
   これもわかる。「去年」までは老人ホームに母の祝箸を持って行ったが「今年」はそれもなくなった。
 子どもたちも元日には来ないからもうやめても良いのだが、五日に予定している「全員集合」にはこれがないと少し寂しい。祝箸と箸紙のことである。

 古く大阪の箸紙は下から上へ入れる形だが、近所のショッピングモールやホームセンターにはそういうのがなく、みんな上から下に入れる東京式である。
 そんなもので私は、毎年末、大阪式のを手作りしている。そして、手作りだから例の「寿」では味がないので、その部分も毎年オリジナルを考えている。
 
 目出度い漢字や二字熟語を考えるのだが、今年はある意味シンプルに『希望』とした。
 歳をとると愚痴や批判の言葉が増えるが、まさか箸紙に『溜息』はないだろうし、自らを鼓舞する意味も込めて『希望』にした。
 これは言霊である。

 世の中はそんなに単純でないことは解っているが、希望を語らない者の上には希望はやってこない。
 明年、私のブログをお読みいただいた皆様の希望が叶えられますように!
 この1年も、ブログご愛読?ありがとうございました。 

2019年12月30日月曜日

桃太郎は盗人?

   倉持よつば著『桃太郎は盗人なのか?』—「桃太郎」から考える鬼の正体—(新日本出版社)を読んだ。
 原本は、2018年度「図書館を使った調べる学習コンクール」文部科学大臣賞受賞作品で、著者(倉持よつばさん)は当時小学校五年生だった。
 お母さんや図書館の司書の方々の大きな協力があっただろうが、私は著者を一人前の大人として読み進んでいった。そして、多くのことを学ばせてもらった。

 驚くほど多くの本を読み、「現地」にも足を運び、多くの人と話して、その都度悩んだこと疑問に思ったことを押さえながら考えを進めていく姿勢はあっぱれである。
 私の好きな古代史の書籍では、大の大人が反対意見や証拠に触れもせず、私に言わせれば思い付きに毛の生えた程度の独断で話を進めている本が少なからずある。
 この本を読んで「思考の訓練」をしてもらいたいと思う。

   そもそも「鬼とは何か」というテーマは私の好きなテーマであり何冊かのその種の大人の本も持っているが、この本で著者が「鬼は神でもある」とたどり着いた場面は立派な民俗学だと感じ入った。

 中身は各自が自分で読んで考えてもらうとして、少しだけ私がよつばさんに教えてもらったことを書いてみると、
 江戸時代の「桃太郎」では、桃太郎は桃から生まれたのでなく、桃を食べたおばあさんが若返って妊娠しておばあさんから生まれている。
 初期には、そもそも桃太郎は怠け者だったという話もあった。
 鬼が島に行くように考えた理由も単純に「宝物を取りに」という方が多かった。
 明治27年尋常小学校教本では「ある日、桃太郎は、ぢゞとばゞとに向ひ、此のころ、鬼ヶ島に、鬼どもあまたうちよりて、人をくるしめ、たから物をかすむるやうすゆゑ、之を征伐したしと、まうし出でたり」となっている。

 よつばさんはそこまで書いてはいないが、教育勅語が出されたのが少し前の明治23年で、明治27年には明治政府は日清戦争を起こしているから、この「桃太郎」の変化は日本の近代史の一側面であろう。
 さて皆さんはどう感じられるだろう。

2019年12月29日日曜日

おかえり寅さん

   満男が私の息子とほぼ同世代であるので、『男はつらいよ』の満男を見ていると作品の年代と当時の自分の年齢や時代が文句なしに響いてくる。
 その満男のパートナーは6年前に病死している。
 そして高校時代から付き合っていた泉ちゃんが帰国してきた。

 だから、ミステリーもサスペンスもない作品だが、私は自分の記録映画のように同調し、そのうちに私の胸は、自分が満男になったみたいに締め付けられた。

 そして、さくらもリリーもいい歳をとった。
 博なんか部屋に上がるのに手すりを触っている。客観的にはこれが私だ。
 すべてこのように、自分事のように感じてしまうのだ。

 歳をとっていないのは寅さんとマドンナだけだが、デジタル技術のせいで当時よりも圧倒的に明るかった(当時の映画は明るさを抑えるのが流行っていた)。
 その明るさは、まるで時代の明るさのように感じられた。
 加齢のせいだろうか、政治のせいだろうか。

 満男の回想と昔のフィルムの挿入には全く違和感はなかった。
 しかし、これまでの寅さんを知らない世代がどんな感想を持つのか聞いてみたい。
 
 年末までの大きな仕事をほぼやり終えてお決まりの映画を見る、「それを幸せって言ううんじゃないかい」って声が聞こえてきそうだ。
 お正月には雀々の石切の寅次郎に会える。

2019年12月28日土曜日

年寄りを手玉に取る

 小学2年生の孫が冬休みでやってきた。
 (1)かねてクリスマスプレゼントを買ってあげる約束をしてあった。
 事前に「欲しいものは何?」「ゲーム以外なら何でもいいよ」と言ってあった。
 そんなもので妻がイオンモールに連れて出かけたが、妻から私にメールが来た。
 「これといった欲しいものがないらしい」「やはり欲しいものはゲームのソフトらしい」と、で、私が車で合流して、結局家電量販店に移動して、欲しいというゲームソフトを購入した。

 値段はというと「中古でよい」というので非常に安かった。
 これの何倍かを見積もっていたが高くても喜ばないなら意味はない。
 ゲームの時間の約束を守らせるのは親たちに任せておこう。
 昔から祖父母が甘やかせれば親が締めるというのが定番ではないか。
 孫はしてやったりという顔をした。

 (2)冬休みの宿題を持ってきた。
   算数の宿題の中にいくつかの図形の中から、直角三角形はどれか、正方形はどれかというような問題があり、掲載した写真のような図をパッと直角三角形と答えたので驚いた。
 下に方眼があるのだが、上からのぞいていた私は「どこかにヒッカケはないか」と迷った。

 そして「どうしてこれが直角三角形だと解ったん」と聞くと、答えは「勘や」というのでオヤオヤオヤ。
 で、「方眼を見ると左上に45度、左下に45度・・」と説明しかかると、「もうええ」と拒絶されてしまった。
 この児は算数を勘で解いていくのかと心配になったが、実社会では勘も大切かと説明をあきらめた。
 これも親と先生にフォローしてもらおう。

 妻には、大きくなってお金を貯めたら美味しいお寿司に連れて行ってやると約束したらしい。
 妻は「長生きせな」と喜んでいたから、孫の方が一枚も二枚も上をいっている。

2019年12月27日金曜日

再び三度 喪中について

   忘年会の折、親しい友人から「貴方のところからは喪中欠礼葉書がまだ届いていないが年賀状は止めておいたよ」との話を受けた。
 私としては(少なくとも私に限っては)友人たちがそんな気遣いをせず、普通に皆の新年の抱負などをしたためてくれたそれを読みたくて、あえてその種の葉書の投函を遅らせていたのだが、もはや『喪中欠礼』は世間の標準?であるらしい。

 ただ世間標準ということでいえば、バレンタインもハロウィンもきっと世間標準だろうから、無批判に世間標準で生活を律するというのは私としては面白くない。それに・・・、

 そもそも忌服とは、近親者が死亡したとき一定期間「喪に服する」ことをいうが、原点に返れば、忌は死の汚れ・穢れを忌む(避ける・嫌う)ことであり、服は喪服を着けていることである。
 つまりは死を汚れや穢れと考え、汚れや死霊が外に及ばないよう家に籠って、基本的には髭もそらずに人に会わないというもので、事実そうしている期間に年末を迎え「当方喪中につき」というのならそれはそれなりに道理がある。

 しかし、死別といっても多様で、高齢の祖父母や父母が順にいくのは当然のことであり、故に私の知っているほとんどの仏教やキリスト教ではそれを「仏(神)の元に旅立った」ととらえ、汚れや穢れとはとらえていない。
 イスラム教については浅学にして知らないが多くは変わらないと思う。唯一、死を汚れ、穢れとしてとらえているのは多くの神社(神道)である。 
 医学知識もない時代に、感染症を恐れたが故の思想ではないかとそれを善意に想像するのだが、少なくとも現代社会でそれを言うのは的を射ていないと私は思う。

 先に述べたとおり、死別(血縁、親疎)も千差万別であり、その期間(その年の始めのころか最近のことか)も千差万別であるから、ほんとうに身を慎んで「当方喪中につき」というのは大いにありうるが、少なからず宴会や観光やクリスマスはやりながら「喪中欠礼」というのも何かよそよそしいと私は思う。

 ところで、この喪中という考えは古くは中国の古典にあり日本にも伝播してきたものだが、現代につながっているそれは明治7年太政官布告『服忌令』に基づく習慣といえよう。
 これを因習であるととらえるかどうかは少し横において千歩も万歩も譲っても、そこでは兄弟姉妹も子も喪(服)は「何十日」とされているから、こんなに誰も彼も十把一絡げで1年単位でやたらに「喪中欠礼」とするようになったのはここ30年ほどのことではないだろうか。
 そうなったのは、印刷業界の宣伝のせいで「とりあえずそうしておけば無難だ」という「空気を読んで従っておく」精神といったら言い過ぎだろうか。

 とまれ、安倍政権下で神社本庁などが主体になっている日本会議などが戦前を賛美し復古を画策している今日、こういう因習を無批判に世間標準だと首肯していてよいのだろうか。
 チコちゃん流に日本国民に問う。明治の服忌令は「夫の服は(妻が)13月、妻の服は(夫が)90日」と定めているし「妻の父母」にいたっては「ナシ」というようにガチガチの男尊女卑の代物であるが、そんな思想を現代国民は肯定していてよいのか。

 「ええーっ、そんなことは知らない」「そんなに厳密に準拠したわけでない」といわれるかもしれない。まあ、そうだろう。
 でも、掲載した『青鞜』の表紙の写真を見ながらじっくり考えてほしい。
 「世間標準」?に唯々諾々としていては2019ジェンダーギャップ指数121位/153を批判もできなくはないか。
 本来人生に挑戦的であるはずの若者たちまでもが、自分自身の頭で考えてみるということをせず、とりあえず大勢に従っておれば・・・という風潮がないかという問題意識があったのでこんな無粋な記事を書いた次第である。
 自覚的だと思われる人々からこんな紋切り型の葉書が来ると私の心は少し曇る。
  

2019年12月26日木曜日

冬至は過ぎたが

   記事をアップするのが少し遅れ、クリスマスと前後してしまったが、日の出の一番遅い日は大阪だと2020年1月5日から11日だというからまあ許していただこう。

 反対に、日の入りの一番早い日は大阪ではこの12月1日から12日であった。
 つまり、冬至前にすでに日の入り、日脚は伸びていたのである。・・・実感されていただろうか。
 ちなみに冬至とは、太陽黄経270度の瞬間を含む日のことである(天文学的にはその瞬間を言うらしいが)。

 そんな天文学的な話は別にして、冬至は昼が一番短くなる極みだから、そして季節としては本格的な冬の入口のようなものだから、古人がある種それを怖れ、無事に春を迎えられるようにいろんな行事を考え出したのも無理はない。
 なので、現代生活に差しさわりがない限り、そんなならわしをなぞって気を引き締めるのも悪くはない。

 「よくないことの後にはよいこともやってくる」という意味の言葉に一陽来復という言葉があるが、そのイメージが重なったためか冬至のことも一般に一陽来復という。
 冬至の夜は孫の凜ちゃんと柚子湯に入り、「一陽来復」「一陽来復」と口の奥で繰り返した。

2019年12月25日水曜日

笑顔のクリスマス

   老人ホームの家族会として、クリスマスケーキのプレゼントに、サンタやトナカイのぬいぐるみを着て、ホームの各部屋を廻った。
 ハーモニカの演奏と鈴を鳴らして、歌を歌いながら廊下を歩き、各部屋では短い「ジングルベル」を入居者と一緒に合唱してケーキを披露した。

 ここ数年、入居者全体として、年齢も症状も上がっていて、目に見えて体力等が低下しているのだが、この短い合唱が良かったのか、例年以上にみんな大いに喜んだように見えた。
 声の出ない人も、小刻みにリズムに合わせて手が震えていたり・・・。
 で、「来年のクリスマスにまた来ます」と言って部屋を後にした。

   部屋を廻った方の我われも、「誰それさんが反応してくれた」「誰それさんが笑ってくれた」というように、我われの方こそ嬉しくなったクリスマスイブだった。

 一般にスターといわれる人々が元気であったり輝いていたりしているのは、人々からあこがれられたり、それに似た反応にさらされているからだと言われる。

 そんな大層なものと比較も何もできないが、こういう老人ホーム家族会で「喜ばれる」行事に参加できているのは幸せなことだと言える。
 ボランティアで奉仕などという話でなく、我われが「楽しかった」。これに尽きる。だから「ありがとう」の言葉しかない。

2019年12月23日月曜日

スカーレットのモデルの神山さん


   朝ドラ『スカーレット』のモデルの陶芸家・神山清子(こうやまきよこ)さんの大型インタビュー記事が赤旗日曜版22日号に載っていた。
番組では呑んだくれの父親だが、清子さんの父親は長崎の炭鉱で徴用工の朝鮮人炭鉱夫をかばったり、戦争を憎む気骨な方だった。「アカ」と疑われ逆さづりにされたこともあった。
逃げるように信楽に来てからの極貧の中でも父親は戦災孤児に握り飯を持って行った。
また清子さんは、息子さんが29歳で白血病になり亡くなったが、その間、骨髄バンク設立に奔走したという。
そんなもので『滋賀9条の会』の呼びかけ人にも名を連ね、選挙では共産党を応援された有名人だったらしい。

私の愛用のぐい吞
   さて陶芸の話では、「生理のある女が窯に入ると穢れる」と言われたような時代を切り開くとともに、室町時代の古い穴窯で挑戦されたり、自然釉を復活させたりと、一言で言ってすごい人だということが判った。
窯の名前は『寸越窯(ずんごえがま)』、信楽は何回も訪れているが全く知らなかった。

テレビの影響で今は混んでいるかもしれないから、来年の新茶の時期にでも訪れてみよう。

2019年12月22日日曜日

手づくりのストラップ

 今年の餅つき大会は、私の企画と周知の遅れのため常連メンバーの中でも所要のため欠席があったりしたが、それでもほぼ去年並みの参加者があり、5臼をつき上げ、楽しい望年会となった。上等のお神酒が林立!!!
   詩吟の披露があったり近況報告があったり、本体である諸作業も滞りなく進行した。

   今年の『遊び』のひとつは、搗いた小餅に「願いが叶う」「望みが叶う」という気持ちの焼印を押したこと。
 会場を提供してくれたお寺の祈祷もいただいて、なんだか本物!
 いわゆる現世利益ではなく、楽しく未来を展望するの意。
 親友の奥様手づくりのストラップも皆のお土産になり、わが孫たちも大喜びするに違いない。

   スポーツなどでは「心地よい疲労感」というようなことが言われるが、こういう行事も「ダンドリ八分」というとおり結構準備や裏方の作業がある。
 「遊ぶのにそんな苦労は嫌だ」という意見も聞くが、そこには「心地よい疲労感」というご褒美があるものだ。
 
 私からはあえて言いださなかったが、「次は節分の豆まきと厄除けぜんざいだ」という声が自然にかつ当然のごとく沸き起こってきた。
 ということで宿題をまた貰ったが、それもまた楽しい。 

2019年12月21日土曜日

ペシミズムだろうか

 先日、旧友と会ってよもやま話をした。
 友曰く「政治の歪みににも怒りが長続きしなくなった」と、10年後、15年後のことはもう怒りにならないようだった。
 私の場合はたまたま重い障害を持つ孫の将来を想像して、この児が生産性がないとかということで社会がいびり出すような未来には絶対にしたくないという具体的な問題意識があるが、これが子も孫も「普通?」に成長しておれば、これまでの日本経済の残り物ででもどうにかなるかと思ってしまっているかもしれない。

 いまリベラル左派の大いなる主役は「シルバー民主主義」とか揶揄されている高齢者かもしれないが、その層が、やれ終活だ、やれ趣味の充実だという風にほどほどの怒りで止まっておれば、そんな人生の先輩を見ている若い層が希望と情熱で社会を変革しようと思わないのも無理はない。
 日本共産党の年代別支持率で10代、20代の支持率が低い理由もそんなところにありはしないか。要は親の世代の問題かも。

 旧友の子供たちは皆いわゆる「勝ち組」で働いているそうだ。
 そしてその子供たちは「社会がいつまでもつか知らない」「会社がいつまでもつか知らない」といい、そういう当てにできない将来に備えて自力で貯蓄等をしておくのだというらしい。
 この感じは、なんやかんや言っても公務員には感じられない肌感覚かも。

   結局高齢層の一種の小市民的安定感と若者のペシミズム(厭世主義)が安倍政治を許しているのかもしれない。いや、高齢者も相当ペシミズムに覆われていないか。

 私は阿保の一つ覚えのように「メッセージの伝え方」の大事さを語るのだが、何人がその真意を理解してくれていることだろうか。
 ちなみに、「メッセージの伝え方」は立憲デモクラシーの会の中心メンバーで上智大学教授中野晃一先生の指摘で、そのキモは「リスペクト」と「謙虚」だと私は理解している。

2019年12月20日金曜日

読書百遍

   昨日まで、『大山古墳はなぜ巨大化したか』—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—という文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生の2019127日講演レジメを6回に分けて掲載してきた。
 私はこれまでに、宮川徏先生の講演は何回か聞いてきたし、古墳の地割実験にも参加してきた。
 今回のテーマを中に含んでいる『よみがえる百舌鳥古墳群』という著書も読み、余談ながら「恵存」というサインもいただいた。

 そのうえで、今回の講演を聞き、そのレジメをワードで打ち直し、その後『よみがえる・・』を再読した。
 併せて、関連する書物をいろいろ読み比べてみた。
 そこで感想!
 読書百遍意自ら通ず!

 といって、4.5世紀がそれほど解ったわけでもないし、先生の見解に疑問の箇所がないわけでもないが、先生が著書で言わんとしていたことはこういうことだったのか!ということがおぼろげながらに解ったというのが正直なところだ。
 そして、正式な本?では言いきれてなかったことでもレジメなら大胆に語れるということもありそうで、そういう意味では、この「親切な」レジメは熟読するにふさわしい。
 そして、このブログを読んでいただいた方々には、宮川徏著、新泉社『よみがえる百舌鳥古墳群』もお勧めしたい。

2019年12月19日木曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか6/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ6/

11 覇権の主導権を二大巨墳で守ったヤマト王権
 ヤマト王権は石津ヶ丘古墳に次いで古市に5区型の設計で誉田御廟山古墳を造営します。120ヒロ、1ヒロ約160センチの誉田御廟山古墳は、後円部直径8区約256m、墳丘長13区約416m、前方部幅(復元)9.5区約304mの規模をもっています。ついで百舌鳥に大山古墳7区型、120ヒロ、1ヒロ約165センチ、後円部直径8区約265m、墳丘長15区約495m、前方部幅10区約330mの規模をもっています。二つの古墳の墳丘規模と大きさの数値は、外形研究の現状から類推される数値で、将来墳丘の発掘調査が行われた時には修正される要素を含んでいます。
 しかしそれにしても限られた期間で、これだけの巨墳を2基も造営したヤマト王権の統治力は注目されます。
 大山古墳が7区型の設計をしているのは、6区型の石津ヶ丘古墳の系譜を引きながら、吉備が石津ヶ丘古墳と同じ6区型で造山古墳を築造したため、ケガサレタ6区型を忌避して1区多い7区型でケガレを避け築造されたと考えられます。
 この覇権主義をめぐるヤマト王権と吉備首長連合の対峙は、ヤマト王権の在り方を大きく変えることにもなりました。5世紀に入り倭王はしばしば南朝に使節を派遣して朝貢外交を行っているのは、東アジアでの倭の国際的地位を南朝皇帝の叙爵で高め維持しようとした、というよりは、古墳の大きさで他の地域首長よりもヤマト王権の大王が抜きんでている、という原始性を残している倭の大王と地域の王との階層秩序を、制度的に決まる身分秩序に整備するため、ヤマトの大王が南朝皇帝から大将軍号を叙爵され、倭のその他の地域の王たちには将軍号が叙爵されて、南朝皇帝の権威による倭国内での階層秩序を制度的に確立させようとした朝貢外交ではなかったかと考えます。
 しかし石津ヶ丘古墳、誉田御廟山古墳、大山古墳の三大巨墳を造営したにもかかわらず、三大巨墳の威力という効果は倭国内に限定されたもので、東アジアの国際舞台では通用するものではなかったのではないかと考えられます。
 倭王「武」の時の上表文が全文記録され、安東大将軍号が叙爵されたのは、この時の倭からの上表文が形式と礼式でも正式な外交文書として認められたからこそ、南朝に記録として残されたのではないかと考えます。この段階で倭もやっと、東アジアの国際社会で一人前と認められたわけです。

12 古墳の大きさでなく制度として大王権の確立へ
   二大巨墳の築造で対峙姿勢を見せた吉備首長連合との緊張も解け、ヤマト王権の次なる大王墳は6区型、113ヒロ、設計で、本来の姿に戻ったかのように見えます。
 しかしその実態は大きく変貌してきたことが古墳の在りようから知ることができます。それが土師ニサンザイ古墳です。
 先の大王たちの古墳でケガサレタ百舌鳥耳原の地を避け、だれの古墳も築造されていない土師の台地に、113ヒロ、1ヒロ162.1センチの設計で古墳を造営しました。この設計では後円部直径が168.6mになりますが。基本的にはヤマトの渋谷向山古墳の設計を継承する古墳です。特に注目されるのは古墳全体を立地させる「墓域」を、後円部の円弧を縦横3つづつ計9個敷衍(敷き詰めた)1辺約506mの正方形区画に二重濠を含めた古墳全域が収まるように造営されています。
 ニサンザイ古墳の大王は、日輪を9敷き詰めた敷地の上に死後の世界を造り上げた壮大な宇宙観をもった倭王だといえます。前代までの巨墳造営の競い合いから、制度としてヤマト政権の覇権が確定してきた時代の様相を物語る古墳です。

あわてんぼうのクリスマスパーティー

   「節操がない」と「融通無碍」の境はわかりづらいが、私は多神教というか神仏習合というかプラグマティズムというかミーハーというか・・・、で、ファミリーで少し早いクリスマスパーティーをした。

 ハンカチ落としのような「500円のプレゼント交換」もうまく収まり、歌集を用意したクリスマスソングも大合唱になった。
 写真は「赤鼻のトナカイ」を孫の凜ちゃんが踊ってくれたところで、マスクを改造したお祖父ちゃんの赤鼻は大いに受けた。

 この写真は孫の夏ちゃんが撮ってくれた。

 まだ、OB会の餅つき大会もあるし、老人ホームのクリスマス会もあるし、ミニコミ紙新年号もあるし、親しい仲間の忘年会もあるから、師走の気分どころではないのだが、こういう風に「せわしない」のが師走なのかもしれない。

2019年12月18日水曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか5/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ5/

10 前方後円墳の設計と大きさはどのように測ったか
 巨大古墳という用語は森浩一さんによって提唱されましたが、「巨大」という量的な表現を使いながらその明確な基準を示さなかったために巨大という言葉だけが独り歩きしてしまった感がありました。今では墳丘長200m以上というのが大方の共通認識のようになっていますが、なぜ200mが巨大とそうでないものの境界になっているのかについては曖昧さが残ったままです。
 また前方後円墳の設計はどのようにしていたのか、古墳の巨大さはどこから始まったのか。思い切ってその始まりまでさかのぼってみましょう。
    定形化した前方後円墳は巨大化で始まる—その源流は箸中山古墳から―
   定形化とは明確な設計の原理と、古墳の大きさを決める尺度単位が検証できる、と言い換えてもいいかもしれません。つまり古墳造営(築造の過程が全体に整備されて行われている状態を検証できる古墳)です。その最初の古墳が箸中山古墳(箸墓とも)。
14で示した箸中山古墳の設計の復元図は、後円部を正円に描き、その直径を八等分しその1マスを「区」として8区、前方部はこの区で6区の長さに計量されています。つまり前方後円墳は後円部の円弧を基準として、前方部の長さを決めて設計しているのです。この原理を図にすると図16のようになります。
後円部を八等分するのは、倭人は「八」という数詞を「佳き数」年、大きいとか数が多いという表現に使うだけでなく、連綿と続く、というような精神世界にも連なる思想性を持っていたと考えられます。倭人は拇指を折りたたんで前に出した片手の指4本を「片の数」、同じく両手をそろえて出した指8本を「全き数」としていました。倭人にとって「八」という数は「佳き〔良き〕」数でした。
後円部を正円に描くことは日輪(太陽)を象徴し、そこ(後円部)に葬られる被葬者は「ヒノミコ」であったと考えられます。そして後円部(日輪)に付随させる前方部は水田稲作農耕の水の祭祀に関わる部分で、前方後円墳は「日輪プラス水の祭祀」を合体させた構造物に農耕祭祀者である首長(被葬者)を葬ることで、稲作農耕の祭祀と安定した収穫を祈念する倭人の祈りを完結的に具現化したモニュメントであったと考えられます。
墳丘の設計は「日輪と水」を結びつけた空間を表したものだとして、古墳の大きさはどのように決めたのか、という問題が残っています。
    古墳を測る物差しは身体尺度であるヒロ
   図16に古墳設計の基本となる「方形区画図」を示しました。これがどんな前方後円墳でも自在に設計できる基本設計の骨組みです。
古墳の大きさを決める物差しヒロは「両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離(広辞苑)」で、古墳時代の倭人は類モンゴル人のモンゴロイドですから、ヒロはほぼ身長と同じ大きさになります。つまりヒロは身長を表す単位で、身長はその人の「霊力」を表徴していると古墳を築造した倭人は考えたと思われます。つまり本来、目には見えない権威や霊力という形のないものを、ヒロという長さに具現化することで、古墳の墳丘に大きさとして目に見える形にして表した倭人の大変な知恵であったと思います。
後の制度化され固定化するものを「尋」とするために、「ヒロ」と表記します。
ヒロには163センチを数センチ前後する「大ヒロ」と、153センチを数センチ前後する「小ヒロ」の二通りあって、大ヒロは古墳時代成人男子の推定平均身長に相当し、小ヒロは同じく成人女性の推定平均身長に相当します。
定形化した最初の前方後円墳の箸中山古墳は、この身長尺度(または身度尺)で測って1区を13ヒロで築造していますので、この13という数は何を意味するのでしょうか。
先に倭人は8という数詞を佳き数としていた、と書きました。それに対して13という数詞は何となくそぐわない感じがします。長い間その不整合に頭を悩ませましたが、13は太陰暦の閏13ヶ月=1年のことではないかと思い至りました。
箸中山古墳の被葬者は、日輪と水の祭祀の前方部を一つに結合させた墳丘を1区閏13ヶ月の数詞で計量して造営された古墳で、後円部が4段築盛なのは四季を表している可能性がある。その墳丘の上の大円丘に葬られた・・・
最近では箸中山古墳の被葬者を邪馬台国の女王卑弥呼とする見解が高まってきています。魏志倭人伝は卑弥呼のことを「鬼道に事え(つかえ)、衆を惑わす」と書いています。
古代日本が暦を普遍的に使いだしたのは6世紀から7世紀とされていますので、この時代に暦の情報を独り占めして農事の歳時や日常を切り盛りして、人々を煙に巻くように幻惑したことを「鬼道に事え、衆を惑わす」と見えたのでしょう。
定形化して出現してきた前方後円墳が、最初から巨大古墳として造営されたのは倭の社会が稲作農耕を歴史的に最も重要な生産基盤とし、その祭祀や収穫にいたる農耕歳時が社会の存亡にかかわる重大事と考えられていたからでした。
    大王の古墳は稲作農耕の祭祀を象徴する最高の舞台装置
箸中山古墳に始まった定形化した前方後円墳の巨大化は、以後ヤマト王権の中で「正式に」大王に即位した王は、113ヒロで古墳を築造する、という倭社会のルールを定める最初の規範になったと考えられます。
跡継ぎの大王がスムーズに継承されないような事情があったときには、中継ぎの王が継承し、その王の古墳は113ヒロではなく12ヒロとか11ヒロというヒロ数で、準大王墳として造営されたこともあったと考えられます。
このように万世一系的に王権が継承されなくても、大王が決まれば古墳の設計はその王統の伝統的な設計に委ねるとして、113ヒロという数値は厳密に守られることで倭国内の統治秩序は守られ、大王は稲作農耕の安寧と豊作をもたらすことを最も重要な統治の機能として、倭国を支配してきました。
しかし覇権を拡大させ、支配領域を広げていくためには鉄の農具による生産の拡大や、統治領域を広げていくためには鉄の武器がより多く必要になります。このようなヤマト王権の覇権の発展が朝鮮半島での高句麗との衝突を引き起こし、その結果敗北したことによって生み出された王権の動揺は、大王の機能が稲作農耕の祭祀者だけには止まっていられない軍事や外交の分野を、統治の専権事項とせざるを得ない状況をもたらせたと考えられます。
    農耕祭祀を至上とする権能をかなぐり捨てて軍事・外交を権能に
石津ヶ丘古墳の被葬者たる大王は、先代の大王・仲津山古墳の被葬者の古墳の113ヒロを超える116ヒロの前代未聞の巨墳を、百舌鳥に造営して倭国中に知らしめました。特に瀬戸内を経て西日本や朝鮮半島へ進攻するためには、西へ向けた情報の発進が重要で、茅渟の海を見下ろす百舌鳥野の台地の縁辺は絶好のロケーションでした。
 このヤマト王権の動きに対して瀬戸内海の中央にあたる吉備は、首長連合の力を結集して6区型、116ヒロという石津ヶ丘古墳と建前では同一設計、同大の巨墳・造山古墳を造営してきました。
 ここでヤマト王権は朝鮮半島での高句麗から受けた敗戦というダメージに加えて、倭国内での覇権を懸けた対峙関係入に向き合わざるを得ない立場に立たされることになり、さらなる巨墳を造営して吉備を圧倒しなければ、倭国内で他より卓越した権威と大王の霊力は色あせて失墜してしまいます。

マーフィーの法則

   マーフィーの法則という『言葉』がある。そういう『法則』があるわけではないが、そんな『言葉』にはときどき肯かされる。
 そこで私は「プリンターは12月に壊れやすい』という法則を唱えてみたい。

 ワープロの時代から、12月の年賀状の季節にどれだけ泣いた事だろう。
 そして今年も、黒いはずの文字が徐々に青になってしまった。
 調べるとグレーが出ていない。
 インクを取り替えたり強力クリーニングを何回かかけたりしたが、グレーが直ると今度はブラックが反応しなくなった。結局、ほとんどのインクを取り替えて、強力クリーニングを繰り返してどうにか印刷できるようになった。
 簡単に書いたが、復旧だけに2時間以上悪戦苦闘した。

 こんな12月がこれまでも何回かあったなあとフラッシュバックがよみがえる。
 悪筆の私にとってプリンターの不調はダメージが大きい。

   わたしの今年の十大ニュースにはパソコンの突然の故障が入るかもしれない。
 住所録は今でも若干不十分だ。
 妻は「外付けハードディスクに保存するように」と言うのだが、解ってはいるが「当分は大丈夫だろう」という【正常性バイアス】に引きずり込まれている。
 「解っていると言う者ほど解っていない」もマーフィーの法則かもしれないが、【正常性バイアス】は心理学上の正しい法則だろうと思う。

2019年12月17日火曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか4/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ4/

8 石津ヶ丘古墳VS造山古墳を比べてみると
 ここで石津ヶ丘古墳と造山古墳とを客観的な目で比較してみましょう。
 石津ヶ丘古墳は墳丘の周りを同一平面でめぐる堀を巡らせ、周囲の地形から切り取ったような整美な形態をしています。これは陵墓として保存整備され、営繕的な修陵の手も加わっているからでもありますが、大方は築造当初の原形をよく残していると考えられます。
   造山古墳の方は墳丘の南側が大きく蚕食され、そこに人家が密集して建てられています。これは北風から家を守るためにそうした集落ができたのですが、全体の地形をよく観察すると、西から延びてきた低い丘陵地形を利用し、後円部は丘陵の端を墳丘に取り込んで形成し、前方部で丘陵を切り通しで切断して墳丘が出来上がっています。墳丘の周囲には同一平面でめぐる堀は現状では認められません。この古墳は秀吉の備中高松城水攻めの時、城の救援に出陣した毛利方の陣城が置かれたらしく、後円部上に土塁などが残されていますが、陵墓の巨大古墳が見られない現状では、巨墳の墳丘とはどんなものかを実際に見る貴重な文化財です。
 かつて岡山県史が刊行された時、筆者らは共同研究として造山古墳などの築造企画研究を1990年代の初めに発表しましたが、県史に掲載された墳丘実測図は航空測量によるもので、現地を踏査して墳丘に検討を加えましたが、墳丘原形を確定するのは困難でした。しかし墳丘の設計の原則は石津ヶ丘古墳に共通するものを検証し、基本的には同一設計、同大の可能性を提起しました。
 その後岡山大学の新納泉教授(当時)がデジタル測量による墳丘実測図の成果を発表されて、今回はそれを使わせていただいて石津ヶ丘古墳との比較検討をしています。
このように地域が離れた巨大墳丘の古墳を比較する場合は、21世紀の今でも正確な実測図がなかなか揃いにくく、比較検討のむずかしさがあるのです。1600年も前の倭の時代、口コミの風評だけで実際の大きさの比較などできるわけがありませんが、建前として設計や大きさの計量の数値が驚くほどの速さで駆け巡っていたことが推測されます。

9 二大巨墳の造営で吉備を圧倒したヤマト王権
   ヤマトの大王が地域の王に同一設計、同大の古墳を造られてしまえば、大王の優越した権威や霊力は相対化してしまって、ヤマト王権の覇権の行使や統治に重大な障害となってしまいます。倭の時代では武器を取って戦うだけがタタカイではなく、霊力や呪力を注ぎ投げ合うこともタタカイであったと考えられます。しかしヤマト王権がとった対応は素早いものでした。
 造山古墳をさらに上回る二基の巨墳を古市と百舌鳥に相次いで築造し、吉備首長連合の対峙姿勢を圧倒したのが古市の誉田御廟山古墳(「応神天皇陵古墳」)と百舌鳥の大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)でした。この時代、吉備のこの対峙姿勢は「吉備の反乱」とまでは認識されなかったのでしょう。ヤマトが兵力を出して鎮圧するというヤマト王権絶対的一強の時代ではなく、どこで折り合いを付けるか、というヤマト王権と吉備首長連合が相対的な優劣関係に止まる段階にあったとみられます。
 ただヤマト王権がこれだけの巨墳を続けて造営するだけの力は、奈良盆地から河内平野に流れていく大和川流域と、木津川から淀川を経て河内湖に連なる広大な水系と、その周辺に広がる稲作可耕地を整備統合して、王権の基盤を確固としていたヤマト政権の総力があったからでした。人を集め、働かせたエネルギーを集約して覇権行使へと結集していく。そのためには集め働かせる人々を≪食わせ≫なければなりません。農村から農民を集めてきて働かせるだけなら、農繁期にはその都度帰農させなければなりませんが、集めてきた人たちを農耕歳時に関係なく働かせ食わせられる体制を整備すれば、ヤマト王権下では年中覇権遂行のための人海戦術のエネルギーが引き出せる、あたかも兵農分離で年中戦える軍団を作った織豊時代の統治経営にも共通するような、支配領域の安定した統治をおこなうことにヤマト王権が成功していたのではないかと考えられます。
 ここで前方後円墳を設計した技法や、墳丘の大きさを決めた物差しとその計量方法を具体的に見ていきましょう。

2019年12月16日月曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか3/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ3/

6 大塚山古墳は中心埋葬の被葬者を欠いた空墓か
 大塚山古墳でもう一つ重要なことは、後円部の埋葬主体に中心埋葬されるべき被葬者が埋葬されていないのではないかと考えられることです。後円部中心点より南側(墳丘左側)に並んだ1号~3号の粘土槨のうち1号槨には鏡2面、玉類の副葬があり人体埋葬の可能性が考えられますが、槨内のその他の副葬品は鉄剣、直刀など20数振り、いずれもを西に向けて収められ、手斧も13丁ありました。槨外には衝角付冑、襟付短甲各1、矛、槍などで、これだけの副葬品とおそらくは木棺直葬の粘土槨の埋葬施設では、大塚山古墳中心埋葬の被葬者のものとしては墳丘規模にそぐわない粗略さを感じます。
 棺内に装身具の玉類と被葬者の両側に8振りの剣が切っ先を西に向けて並べられ、足元と推定される位置に鉄鏡、銅鏡各1が置かれ、その先にはやはり切っ先を西に向けた直刀群と鉄鏃、手斧13丁を副葬していました。槨外に衝角付冑と襟付短甲がセットで粘土槨に寄り掛かるように置かれ、切っ先を東に向けた矛1と槍先または剣身3が粘土槨に添えるように置かれていました。この1号槨は大塚山古墳の主被葬者の埋葬施設ではなく、あるいは後継者たる人物かもしれませんが、剣などの武器は遺体の周りに配置されているものの、甲冑一式が槨外に納められず槨外に置かれているなど、成人に達しない若年であった可能性を示唆しています。また直刀や剣などの短兵(白兵戦で戦う武器のこと)の切っ先が西向きにそろえて埋納されているのは、朝鮮半島の戦場から生還できた大塚山古墳被葬者の配下たちの≪敵愾心≫の表れなのかもしれません。百舌鳥にはこのような1600年前の倭と高句麗との海を越えたタタカイがあったことと、その生々しい記憶を封印したような遺物がそのまま残されていたのですが、そうした歴史を顧みることもなく、公的な保護の手立てを取られないままに破壊されてしまったのは今も残念でなりません。
 中心埋葬については、おそらくは大塚山古墳の先代に当たる可能性のある乳ノ丘古墳の埋葬主体が、和泉砂岩の組合式長持形石棺を石室を造らないで直葬しているので、大塚山古墳は中心埋葬施設を欠いた、つまり中心埋葬されるべき被葬者が当初から埋葬されなかった古墳である可能性を発掘当初から考えていました。これは発掘を指導したリーダーの森浩一さんは主体部についての見解を示していないので、調査に参加した筆者が当初からもっていた見解を、調査参加者の一人として明らかにしたものであることを断っておきます。
 大塚山古墳の被葬者はどうなったのでしょうか。推測の域を出ないのですが、朝鮮半島の戦場で仆れ所在が分からなくなったのか、あるいは対馬海峡で遭難して行方不明になったか、百舌鳥に地域の王クラスの古墳を築造することをヤマト王権から許されながら、百舌鳥には遂に帰葬されることのなかった悲劇の武人なのかもしれません。大王の覇権遂行を代行する負託を受け朝鮮半島に進攻することは、戦闘による死傷だけでなく行き帰りの航海も、大きな危険のリスクをおかしてやり遂げなければならない責務であったことを物語っています。

7 朝鮮半島での敗戦の衝撃にヤマト王権はいかに対応したか
   倭が朝鮮半島に進攻した4世紀末、古市古墳群に仲津山古墳が造営された時期であると考えられます。仲津山古墳はヤマトの渋谷向山古墳(「景行天皇陵古墳」)の系譜を引く同一設計・同大の古墳で、ヤマト王権の大王墳として最大の規模を示す巨大古墳です。(前方後円墳の形態や古墳の大きさを決める設計と計量の話はこの後、10以降で話します)。倭はこの大王の時に朝鮮半島で高句麗に敗れ、ダメージを受けたと考えられます。
ヤマト王権が次に大王墳を造営したのは茅渟の海を臨む百舌鳥野の台地の上でした。古市からだと海に面した西の端、ミミに当たる台地の縁辺に仲津山古墳を上回る巨墳の造営が始まりました。それが百舌鳥耳原の石津ヶ丘古墳です。
 なぜ仲津山古墳よりも大きい古墳を築造したのでしょうか。それは先の大王の時に受けた敗北という不祥事—つまりケガサレたヤマト王権の権威と大王の霊力のケガレ―を払拭し、新たに賦活させる呪術的な手続きでもあったと考えられます。そしてケガサレタ前のモノより、より大きなモノを新たに造りあげることで、前のケガレを払拭し新たなケガレのない霊力と権威を復活させ、≪不祥事≫を乗り越えた呪術的なミソギでもあったことを物語っています。
 ヤマト王権はそれとともに百舌鳥から約600キロも離れた日向の王に石津ヶ丘古墳の設計の1/2で古墳を築造することを許し、日向の王をヤマト王権の大王と擬制的な同族関係に組み込み、南九州の水軍の力をさらなる朝鮮半島への侵攻に利用しようと働きかけたと考えられます。
 このようなヤマト王権の動揺と巻き返しの動きに、吉備首長連合は吉備の総力を挙げて造山古墳を造営し、ヤマト王権に対峙する姿勢を示します。
 瀬戸内海の中央部にあって当時海上交通が最も重要な移動の手段であった時代、ここを対峙する勢力に押さえられることはヤマト王権にとっては、覇権遂行の死命を制せられることになります。
 造山古墳は石津ヶ丘古墳と同一設計、同大の巨墳を造営してきたことを知ったヤマト王権は、朝鮮半島での敗北のダメージを乗り越えようとしている矢先に、吉備がこのような対峙姿勢に出てきたことで大きな衝撃を受けたと考えられます。

特許公開

 老人ホームで餅つき大会をしたが、スタッフの皆さんから「全国の福祉施設に売れば絶対に売れる」とお墨付きをいただいたのが私の作成した2本の「超軽量福祉杵」だった。
 しかし、山中伸弥先生ではないが、全世界の入居者の皆さんの幸せのために私は特許は申請せずに公開する。

夏ちゃんの使っているのは
子ども用のほんとうの杵
   杵の先は大型のペットボトル。丸い方がよい。
 口の方は首の付け根でカッターか鋸で切断する。
 ペットボトルの内側をスプレー式塗料で塗装する。
 ラワン材のような軽い棒で柄を作る。
 ペットボトルの片方に棒の径の穴をあける。
 そこへ差し込んで接着剤で止めた棒をペットボトルの向こうに到達させて、ペットボトルの外側からネジ釘で固定する。
 ペットボトルの上の口をガムテープで蓋をする。
 完成!

 入居者の何人が元気になったかしれない。私の杵のなかった時代は入居者はいわば観客だった。
 それが、ある人は車椅子のまま介助を受けて、ある人は自力で、みんな本気でお餅をついていた。ほんとうに本気だった。
 入居者の孫も曾孫も参加した。私の孫の夏ちゃんも!。夏ちゃんは今年は姿勢も決まってきた。

 少なくない世間では、食中毒が怖いからと餅つき行事を中止するという「超過剰反応社会」である。馬鹿なことだ。
 このホームでは出来立てのお餅を善哉にしてみんなで食べている。
 こういう常識が奇異に映るのはおかしい。

 中村哲医師の爪の先にも到達はできていないが、皆さんに喜んでいただける活動がハマった時はこれほどうれしいことはない。
 という意味では一番自分が楽しんだ行事と言えるかもしれない。

2019年12月15日日曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか2/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ2/

4 ヤマト王権はなぜ百舌鳥を覇権発進の拠点にしたか
 奈良盆地を中心に発展してきたヤマト王権は海に開けていない内陸部にあるため、覇権を広げて行くためには陸上交通だけでは限界がありました。特に西日本や当時倭ではまだ生産ができなかった鉄を手に入れるためには、朝鮮半島へ進出し、朝鮮半島の諸国と交渉、取引する必要に迫られていました。
 そのためには外洋航海に耐える船を造船し、朝鮮半島まで航海させ、倭自身が主体的に乗り出す機構や組織を作り上げねばなりません。そしてその基盤となる「基地」をヤマト王権の統治力が十分およぶところに置く必要がありました。古市古墳群形成に始まり朝鮮半島に進出した倭は、百済など倭と友好的な国と結びつく一方で、百済と敵対関係にあった高句麗とは軍事的に衝突する事態に向き合うことにもなったと考えられます。

5 朝鮮半島での軍事的衝突―百舌鳥大塚山古墳の鉤状武器
   現在の中国吉林省集安にある丸都城の【好太王碑】には、高句麗の広開土王(在位391412)の功績をたたえた記念碑があり、391年と399年に倭と百済連合軍が敗退し、404年にも倭が敗退したという碑文が刻まれています。この時期は古市古墳群の仲津山古墳の被葬者が大王だった時期に当たるかもしれません。碑文は王の功績をたたえるために建てられたので、倭が惨敗した表現も割引して考えなければなりませんが、朝鮮半島に進出した倭が高句麗と戦い敗北したという事実は変わらないでしょう。
   百舌鳥大塚山古墳は、かつて石津ヶ丘古墳の南側にあり、後円部直径約103m、墳丘長167m、前方部を西に向けた古墳でした。地域にあれば王クラスの規模の古墳ですが、敗戦直後から土取り工事がはじまり1949年ころには後円部の破壊が大きくなってきましたので、森浩一さん(当時同志社大学生)をリーダーとして、高校2年生の考古少年が春休みに緊急調査し、筆者もその一人でした。
 後円部から4基の粘土槨が発掘され、そのうちの1号粘土槨は人体埋葬が確認されましたが、あとは武器や甲冑、鉄枠(覆輪)を嵌めた大楯、手斧(チョウナ)などの工具類を埋納した粘土槨でした。これらの粘土槨は後円部中心に深く掘られた直径約6ⅿほどの円錐形にぐり石を張り付けた遺構の上に並んでいて、張石状の円錐は排水溝の可能性がありました。この北側に1基離れてあった4号粘土槨は長さ約4ⅿ、幅およそ50センチで、槨の東側に切っ先を西に向けた二群の直刀を主とし、剣を添えた100振り余りの刀剣が収められ、槨の西側には靭などの容器に収納された鉄鏃が1500ほど、それ以外には手斧群、鍛冶用工具類などが粘土槨いっぱいにきちんと並べられていました。その中で1点特異な武器が目につきます。鋭くとがった先端を釣り針状に曲げて鍛造し、長柄を差し込む袋に鍛接した「鉤状武器」です。長さ33センチ、曲げた尖頭部と袋状との幅は16センチで、袋部には差し込んだ柄を固定する頑丈な目釘が差し込まれていました。
 ただ袋の中には柄は差し込まれてはいなくて、鉤状本体だけが埋納されていました。
 また2号槨からは4領の甲冑とともに、上面に頑丈な鉄枠(覆輪)を嵌めた長さ約1.8ⅿの大盾が埋納されていました。日本の古墳からの盾の出土例は多くありますが、鉄の覆輪を嵌めた例はほとんど類例がありません。これは馬上から戦斧などの斬撃に対応する実戦的な盾の構造を示していて、倭国内のいくさなどには必要ない盾の構造です。鉤状武器とこの大盾の組み合わせからも、朝鮮半島でおこなわれた戦闘の熾烈さを想起させる遺物だと思います。
 この盾に続いて西側に、鉄の細板を革綴じした草刷1具と、4両の短甲が1列に並べられていましたが、西の端の短甲には胴の中に冑は収められず、竹ひごを丸く曲げて作った小形の竹櫛が、何十個となくばら撒くように出てきました。実用的でない祭祀や呪術用の櫛だと考えられますが、竹ひごを曲げて糸で綴った部分に塗った黒漆が残っていたのでよくわかりました。
 ただ、冑がなかったのは、革冑の場合痕跡を残さないこともあるので、たくさんの黒漆の櫛との関連も課題です。その次に置かれた短甲の胴の中には衝角付冑が収められていましたが、冑に飾りつけられた鳥の尾羽が冑に巻きつくように、たくさんの鉄さびになって短甲の内側に繍着していました。発掘した当初、冑を飾る羽飾りで冑を包み込むように短甲の胴の中に静かに収めた状況が手に取るように感じられて、調査者としてそうした現場に居合わせられたことは幸せでした。 
   4号槨から鉤状武器が出土したときは、遺構の実測図が書きあげられてから、手に取って何度も撫でまわしその形態と重量感を記憶に焼き付けました。1500年(発掘当時の年代観として)も土中に埋まり、鉄さび化しているにもかかわらず、手のひらを突くと突き刺さりそうな鋭さを残していました。その用途については、①船戦の時、対戦相手の船べりの盾や水夫を引っ掛け引きずり落とす。②対騎馬兵との戦いで、徒歩立ちの歩兵が騎乗の騎馬兵を引っ掛け引きずり落とす。の二つの用途を考えていました。ただ発掘後、保管場所が転々としたことや、保存処理がされないままに放置されていたことなどで、堺市博物館に保管されたときには鉄さびで崩壊状態になっていました。
   筆者は5世紀の倭と朝鮮半島との関連を具体的に示す遺物が、百舌鳥の古墳に残されていることを検証するため、元の遺物が崩壊状態にあるので、原形を模式的にでも記録するために手に触った感触の記憶がまだ鮮明に残っているのをたどり、遺構に書かれた実測図を実物大に拡大し、歯科用硬石膏で実物大模型に復元しました。重量は完成した模型を水槽に沈め、溢れた水の容積から鉄の比重計算すると、約1.7キロ超~1.8キロ弱という結果が出ました。
 現在まで日本の古墳から発掘された遺物で同類のものはまだ発見されていませんし、朝鮮半島の遺物にも見当たりませんが、やがては発見されることを期待しています。ただヨーロッパの資料で、12世紀から16世紀に使われたバトル・フックという武器は鉤状武器にそっくりなことを知りました。その使途は訓練が十分でない市民兵が、戦闘プロの騎士や鎧兜を着用した兵士を相手に、引っ掛け引き倒す武器として使われた、ということで、基本的には共通する機能があったことが分かりました。
 馬に乗る文化がユーラシア大陸で一番遅れた倭で、馬に乗ることよりも前にまず馬とタタカウことから事始めが始まった、という歴史があったことや、その特異な武器が乗馬の歴史の古いヨーロッパよりも、700年も前に使われていた可能性が出てきたことは、文化伝搬が必ずしも進化論的に伝わるものではなく、一番遅れているところで新しい動きが始まることもあるという歴史の面白さが示されていると思います。
 この武器を振りかざして懸命に高句麗の騎馬兵と渡り合い、闘った徒歩立ちの倭の兵士は百舌鳥から進発していった一人だったと思うと、いとおしさを感じます。その他後円部から30丁、前方部から1丁、合計31丁の手斧(チョウナ)が発掘されています。片手で木を抉(えぐ)るのに使われたとみられますが、日本の古墳から出土した手斧の総数の60%が大塚山古墳から出ています。これは大きな木を半分に割り、それを丸木舟のように抉ってくりぬき船の船底とし、波切の船首や舷側の側板を組み立てて準構造船を建造する造船用の木工具だと考えられます。
 大塚山古墳の被葬者は、ヤマト王権から覇権を遂行するための造船を命ぜられて、造船する一方で海士族を水軍に編成し、朝鮮半島まで進攻する役割を負託された在地の首長だったのでしょう。その見返りとして地域の王クラスに相当する大塚山古墳を、茅渟の海岸平野を見下ろす百舌鳥野の台地に造営することを許され、朝鮮半島へ進攻していったとみられます。

大阪雑煮

   赤旗日曜版15日付けに本田明子さんの「手作りのお正月料理」が掲載され、「大阪雑煮は師匠・小林カツ代の故郷の味です」とあったが、「大阪風なら許せるかも」と思いながらも「大阪雑煮」と見出しを打たれた以上は、・・・う~む、ちょっとだけ違和感がある。

 雑煮というのは各家庭ごとにいろいろなバリエーションがあるし、だいたい出身地が違う夫婦がその家の雑煮を作るのは当然のことなのだが、親の代までは大阪「せんば」にいた家の私としては、民俗学の記録としても、少しだけ大阪せんばの元旦の元来の雑煮について言っておきたい。

 ① まず、大阪の元日の白みそ仕立ての雑煮に「鶏もも肉」は入れません。
   正月二日は澄ましのお雑煮に変えますから、鶏(かしわ)をあえて使いたいなら二日に使います。こういう風に大阪せんばでは、元々は元旦と二日と違う雑煮にします。
 ② また、三つ葉、柚子の皮も入れません。これも基本的には澄ましのお雑煮です。(澄ましの雑煮の基本は蒲鉾と水菜と焼いた丸餅です)
 ③ 写真ではどう見ても普通の西洋人参ですが、これもアウトです。
   人参はどんなことがあっても正月だけは金時人参です。大根は細い正月大根です。丸餅は焼きません。
 ④ これはわが家だけかもしれませんが、白みそ仕立ての雑煮には最後に「花かつお」をふわ~と盛り付けます。
 以上です。大阪せんばの伝統的な元旦の雑煮です。

 なお、私の妻は大和の文化を受け継いでいて、大和国中(くんなか)では雑煮の横にきな粉を用意しておいて、雑煮の中のお餅だけはきな粉を付けて食べます。
 そして、今ではわが家では孫も喜ぶのでこのやり方を取り入れています。
 また、息子や娘、子供たちの家庭でははもう新しいお正月の仕方をしています。それでいいのだと思います。

 ただ、わが家に来た場合には、大福茶、祝い膳と祝箸、裏白、お屠蘇(これは普通のお酒)、基本的おせち、で、伝統を覚えてもらっています。

 非常に狭い経験でこの記事を書きました。異論もあるでしょうが、大阪せんばの伝統はこうだったと思います。
 余談ですが、故土井勝さんの話では、これは基本的には近江の雑煮と同じようです。なので、大阪せんばの文化は実は近江商人の文化だったと私は思っています。

2019年12月14日土曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか1/6

 標記の講演レジメを6回(6日間)に分けてアップする。
 時間に追われて流し読みするのは惜しい気がする。
 ゆっくりと読むと色々と面白いと思う。
 明日以降はフェースブックには転載しないので、興味のある方は直接このブログにアクセスしてほしい。

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ1/


1 巨墳だけが世界遺産の価値ではない
 本年の76日に百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録が、ユネスコの世界遺産委員会で正式に決定されました。これまで長い間取り組みをされてきた方々の努力に、敬意を表したいと思います。
 世界遺産登録の評価では、墳丘の長さで日本一の前方後円墳・大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)が、世界遺産の中心的価値であるかのように位置づけられた報道がなされてきました。
 しかし21か国からなる世界遺産委員会のうち、クウェートやスペインなど6か国が発言し、ジンバブエなどは1950年代に宅地開発で取り壊しの危機に直面した前方後円墳、イタスケ古墳(堺市・全長146m)が、市民らの保存運動で守られた歴史に触れ、『運動によって古墳は往時の姿をとどめている。先駆けとなった市民らの努力に感謝したい』と述べた(77日読売)。
 またスペインなどからは『開発圧力に対する住民運動によって保護された古墳が構成資産に含まれているなど、地域にも根差した資産』といった意見も上がった(同 産経[共同])と報道されていて、巨大古墳だけが注目され評価されたものではないことを伝えています。

2 外国の使節に見せるためにあんな巨墳を造ったのだろうか?
 百舌鳥古墳群の大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)は、墳丘長では日本一の大きさを誇り、それがクフ王のピラミッドや、秦の始皇帝陵との比較でも墳丘長が長いことから世界一とか世界三大古墳とか持ち上げられて、その大きさが存在価値であるかのように喧伝されています。また海に面した百舌鳥野に築造されたところから、巨大な墳丘が海外から来た使節が船の上から見ることを意識して造られた・・と、さもあったかのように説明しています。
 5世紀の当時の倭が、いつ来るかも当てのない外国の使節に見せつけるために、膨大な労力と時間のかかる巨墳を造るでしょうか。
 倭のヤマト王権にはそれだけのものを造る、あるいは造らざるを得なかった理由があったはずです。その巨墳を造った歴史的な背景を探るために、百舌鳥古墳群とはどんな古墳群か、あらましを見ていくことにします。

3 多様な古墳で構成されている百舌鳥古墳群
   大山古墳が造営された百舌鳥古墳群とはどんな古墳群なのでしょうか。図1に百舌鳥古墳群の概略図を載せていますが、古墳群は大きく分けて三つの部分からなっています。
 第一は茅渟の海(ちぬ:大阪湾の古名)に面した。海岸平野に分布する「茅渟古墳群」です。4世紀末の古墳が多く、なかでも乳ノ岡古墳は墳丘規模から地域の王クラスの墳丘を持つ古墳で、この地の海岸平野の生産力や、そこに拠る海士族の力だけでは造営できない規模の古墳と考えられますので、ほかからの力、おそらくはヤマト王権の働きかけで、船の建造や船の操船技術を利用され、ヤマト王権の覇権遂行の負託を受けた水軍的性格の人たちと考えられます。
   第二は、この海岸平野の東、標高15から20m前後の百舌鳥野の台地上に広がる百舌鳥耳原古墳群です。この耳原という地名は。百舌鳥よりも早く古墳群の形成が始まった古市古墳群から見て、茅渟の海岸平野に面した端=ハシ=ミミに当たるところからついた呼び名ではないかと考えています。
 この台地の上に5世紀初頭と考えられる百舌鳥大塚山古墳が築造され、次いでヤマト王権内でもそれまで見られなかった巨墳が造営されます。それが石津ヶ丘古墳(「履中天皇陵古墳」)ですが、百舌鳥にはこれより大きい大山古墳があるところから、「前座」扱いされて№2に甘んじていますが、百舌鳥古墳群の成立と5世紀のヤマト王権の覇権や倭の五王の歴史を考えるうえで、むしろトップクラスの評価がなされなければならない巨墳なのです。
 これに続いて大山古墳が造営され、規模は小さくなりますが田出井山古墳(「反正天皇陵古墳)や御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)、イタスケ古墳なども築造され、耳原古墳群には大王墳とそれを支えたヤマト王権の覇権の負託を受けてそれを遂行する軍事的な武人層や、初期的官僚層の古墳が集中します。
 第三は、この百舌鳥野の台地が百舌鳥川で浸食されて切り離され、その東に当たる土師台地に造営された土師古墳群です。
 百舌鳥古墳群という全体を一本化した目で見てしまうと、土師台地の古墳も百舌鳥の東側としか見えませんが、詳しく見ると土師台地には巨大な土師ニサンザイ古墳以外、ほとんど前方後円墳は見られず、前方部の短小な小型の帆立貝形古墳だけがニサンザイ古墳の周辺に点在しているだけで、これらの古墳は大王であったニサンザイ古墳の被葬者に直属した親衛隊的な武人の古墳と見られます。ニサンザイ古墳の被葬者は先の大王たちの「手垢」が付いた耳原の地を忌避し、無垢な土師台地に身近に寄り添った帆立貝形古墳の被葬者だけに古墳築造を許し、死後も我が世界だけの空間を造ったと考えられます。
 このように見ていきますと百舌鳥古墳群の成立は、時代を追って単純に形成され発展してきた古墳群でないことが読みとれます。茅渟の海岸平野に地域の海士族だけで形成されてきた古墳群が、次第に勢力を大きくした海士族によって、百舌鳥野の台地の上に古墳を築造するようになり、その中から巨大古墳が生まれてきた、というような自律的で進化論的な形成の仕方ではなかったことがわかると思います。
 それは茅渟以外の外からの勢力、ヤマト王権の力がこの地の地域に政権の覇権を発進するための足掛かりになる基盤を置き、覇権を負託してその行使を代行させた統治の跡を残している≪政治的≫に構成された古墳群だと指摘されます。

2019年12月13日金曜日

IT弱者

 昔、田舎から出てきた年寄りが都会の自動改札機でオタオタするコントがあったが・・・。
 私は、スマホ決済こそしていないが、そこそこは世の中のITについて行っている。
 PiTaPaも使うしネット通販もする。たまにはキャッシュカードも使う。
 だから、例の回転ずし店やチェーン店の注文のタッチパネル(モバイル)にもついて行けている(ただし孫の夏ちゃんの方が的確ではある)。
 
 昨日、大阪市内で簡単な昼食をとろうと入ったら、いわゆる券売機がタッチパネルだった。
 ”なんのこれしき”と挑んだが、思うように進まない。そのうちに後ろに若い女性が並び始めて、・・・・・「どうぞ」と順番を譲って、結局別の店へ向かってそこを飛び出した。
 あの娘たちは「おじいさんがオタオタしていたね」と話題にしていたかもしれない。
 
 そういえば、駐車場の事前精算機でオタオタしていて後ろの人から教えてもらったこともあった。
 じわじわと確実にIT弱者に分類される側になっている。
 ガラケー組を笑っていられない。どっちもどっちである。
 それだけ生活する世界が狭くなっているということか。

 どこかで「日本ではどうしてキャッシュレス化が進まないか」という文章を読んだ記憶がある。その文章の論旨は「今の日本の老人(つまり団塊の世代)は若い時に『機械化・合理化反対!』と叫んでいたから機械(IT)に弱いんだ」ということだった。皮相な分析だと笑ったが、現実にオタオタしていたのでは反論も弱くなる。
 ・・・・昨日はショックだった。

2019年12月12日木曜日

益々叶う

 お餅つきを友人のお寺を借りて実施するべく準備している。
 その企画を先日、ビールを飲みながら中心メンバーで話し合っていたら、お寺の住職がお土産用のお餅のパックにふさわしいラベルを貼付したいと言い出し、「それは”ありがたみ”が増すだろう」と一致した。

 それなら一層お餅の上に焼印でも押すか!と話が弾み、「それらしい古物屋を知っている」と私が引き取った。・・で、先日奈良の古物屋を覗いてみた。

   しかし数も多いし古物で、もちろん文字は反対だからふさわしいものを探すのが大変だった。店の主人と話してみると奥からさらにたくさん持ってきてくれた。・・が、餅つき大会にふさわしいものは見つからない。

 最終的に、屋号か荷印(叶屋さん?)のような『山に叶』というのを選んだ。
 上の冠のようなものが山で、少し違えて先が出ているのは『サンヤマ』というらしい。
 サンヤマでも普通のヤマでも、山を被せた屋号は「山のように、さらに、益々、(商売繁盛)」というものだから、たまたま手に入れたものではあるが、その心は「願いが益々叶う」という統一見解にしておこう。「”夫人は私人”の閣議決定」よりは道理のある見解統一だろう。

 店の主人に「どこから出たものですか」と聞くと、染物屋らしかったがよくはわからないということだった。
 家に帰ってから掃除をすると文字の奥の方に青紫が見えたから、ほんとうは焼印ではなく、染色機械の活版(活字)みたいなものかもしれないが、ほんとうはよくわからない。
 家で、掃除をして、とりあえず柄を取り付けた。

 大人が遊ぶときは徹底して遊ぶのがいい。
 『叶餅』を持って帰ったみんなの家庭で一瞬の話題になればいい。
 不愉快な世の中を楽しく遊ぶ!
 楽しくない運動は発展しない。
 (演説や論文ひとつで世の中が変わればそれほど楽なことはない)
 (遊びの裏方でも頑張る積み重ねが大切なのだと思う)

2019年12月11日水曜日

自然の摂理

   先日、餅つき大会打合せ会の折、友人が3年前?の餅つき大会の写真を持ってきて、「この人は誰かな?」と真剣に私に聞いてきたので、私もしばし考え込んだ。
 臼の横手にすっくと立っているこの青年はいったい・・・。
 しかし、この靴この帽子には見覚えがある。
 結論を言えばそれは私だった。ああ。

 先日来、自分の写真もブログに度々掲載しているが、そのすべてが、見事に体の力が抜けている。
 自分では気づかないが、いつも力が抜けている。
 3年ほど前の面影は今はない。
 そう、ここ3年ほどの間に急速に老化したようだ。

 歩行にしても、ついつい手を腰に回している。考えるに、こうすると体重が前に行き、足を前に踏み出す力が軽減される。ああ。

 不思議なことではない。妻は「歳相応で平均値だ」とお世辞を言って慰めるが、写真を見るたびにショックを受けている。
 
 とはいえ、古希を過ぎた壮年?が餅つきの企画を練っているのは捨てたものではない。
 ・・・などと、誰も行ってくれないから集まった面々だけで互いに誉めあった。
 「我々はまだ若い」・・この呪文を言い合うことが一番大切なことだろう。
 今しばらくは終活、断捨離はしないつもりだ。
 往生際の悪いのは解っている。

2019年12月10日火曜日

ヤラセを見破れ


 昔の失敗談を話すと、現役時分、他組織との協議会で「意見交換をしましょう」ということになり意見を述べたら会場が凍りついた事があった。
 「自由に意見を述べてください」という振りから「実は・・」という意見まですべてシナリオがあったのだ。
   
   善意に解釈すれば、日本人は自分の意見を発表するのが苦手だから、その場が「シャンシャン大会」にならないよう「善意の根回し」という場合もあるかもしれないが、それが報道の場でなら「やらせ」となり大問題になる。

 しかし現実はそういう「やらせ」が蔓延していて、可愛いところでは健康食品の情報から、酷いのは悪徳商法まで、庶民はついつい騙されてしまう。

 テレビ発の「これを食べると体に良い」という話では「そんなに旨い話はないやろ」と諭してみても、本人は「それなら私が騙されているというのか」というプライドもあり、「いや食べたら確かによくなった」と言う。
 ココアがあった、ヨーグルトがあった、きな粉があった、納豆、ナッツ・・・数々のサプリメント・・・、

 さて、フェースブックを見ていたら、西沢昭裕氏のFBにこうあった。
 【読売幹部の安倍首相との会食はこの5年でも38回と断トツ。読むとこがない読売新聞を見ると「桜を見る会」の報道はほとんど見当たらない。
 官房長官の記者会見で上手く撮った傑作写真をある社の記者が公開。
  「政権が歴代史上最長になった」ことを特定の記者に八百長質問させて出来レースで回答するために官房長官が記者会見にもってくるカンニング用ファイルに『史上最長 読売」とタグしてあった。そしてその通りに質問が出た】(引用おわり)

 その証拠写真が掲載の写真である。スクープ写真と言ってよい。
 私が虎ファンだから言うのではないが、読売新聞は読まない方が体に良い。
 これが最新の健康情報だ。

2019年12月9日月曜日

チベットのあやつこ

 アフガン東部で中村哲医師が殺害された。言葉にできないほど悔しい。(中村哲医師のことはこのブログでも何回か書いてきたが、特に「憲法9条があるからこういう活動がやっていける」と強く解釈改憲や自衛隊の海外派遣に反対されていたことが印象に残っている。)
 そのアフガン東部は古代のガンダーラの一部で、仏教伝来の道でありシルクロードの中継点であった。

『バター茶をどうぞ』から
あやつことは関係ない)
   チベット仏教は一般にインドからネパールやブータンを経て直接伝来したと言われるが、この北方のいわゆるシルクロードからも多くの文化の流入がなかったと考える方がおかしい。

 また、極東の我われがシルクロードというとき、イメージとしては全ての動きが西から東へという風に見がちだが、この道を通って東から西に行った文化も多かったはずである。東の麺が西進してパスタになったとか。

 さて、渡辺一枝著『バター茶をどうぞ』を読んでいると次のような記述があった。
 「チベットにもお宮参りの習慣があります。赤ちゃんが生まれて一か月ほどすると、良い日を選んで、晴れ着にくるみ、やはり晴れ着を身に着けた両親や、祖父母、親戚と共に寺院に詣でるのです。・・お宮参りは、赤ちゃんにとって初めての外出ですが、この時、赤ちゃんの額から鼻にかけて、かまどや鍋の底に付いている煤を塗って出かけます」。

 この文を読んで私は「世界は遠くて近い」と感心するばかり。
 これは現代日本のお宮参りの感想文かと勘違いしそうだ。
 日本では、お宮参りの『あやつこ』という風習として同じものが残っている。鍋の墨や紅で額に『大』などと書くあれである。

 これについては2011年6月12日にこのブログに書いたが、要点中の要点のみを書くと・・、
 白川静著「常用字解」によると「産」のもとの字は「文と厂(かん)と生」である。
 下から述べると、まず。これは草の生え出る象形。この字だけで、うまれる、いきる。 次に(かん)は額の形。 その上のは一時的に描いた入れ墨のこと。

 つまり、白川文字学、白川民俗学でいえば、漢字が完成した殷代安陽期初期(前1300年頃)までの殷の社会では「あやつこの方法で産土神に報告することによって共同体の一員として産まれたことが認知された」・・今風に言えば、あやつこを描いて、お宮参りで子の誕生を神に報告して、そうして初めて産まれたことになるのだ・・ということなのだろう。健やかな成長祈願の魔除である東アジアの古代の観念と習俗である。

 「あやつこ」も、子や孫にする方としては我々の世代が最後尾のような雰囲気であるが(私の二人の孫にはした)、そんな折にチベットにそれが現存しているという情報は、歴史や世界地図が一挙に現実味をもって小さくなった気がする。
 そんなもので、ちょっと近頃チベットにはまっている。

2019年12月8日日曜日

古代史に遊ぶ

   何歳になっても勉強をして、知らなかったことを聞くのは楽しいことだ。
 写真のとおり、宮川徏先生の『大山古墳はなぜ巨大化したか』という講演を受けての感想である。

 家に帰ってから妻にタイトル通りの質問をぶつけてみたら、「瀬戸内から大阪湾に到着した百済や新羅、唐の使節団に見せつけたのでしょ」ということだったが、私自身その日の朝まではそう思っていた。
 古代史の最新の見解はだいたいそういうものだった。

 しかし宮川先生は、「外国の使節に見せるためにだけあんな巨墳を造っただろうか?」「ヤマト王権にはそれだけのものを造らざるを得なかった理由があったはずだ」と論を展開された。(それをここで書くには紙面のキャパシティーが全く足りない)

 結論を急げば、好太王碑文のとおりの高句麗から受けた敗戦のダメージの下で、倭国内で卓越した権威と霊力を示すことこそが最大のテーマであっただろう。
 そしてヤマトは大山古墳の時代に吉備を凌駕した。
 そのため大山古墳築造の後半戦はいわば「消化試合」のような手抜きがされ、同じ上町断層帯の地震によって、他の古墳以上に大きな損傷を受けた・・と先生は考えられた。

 その他充実した講演内容であったが、紹介すると大論文になるので割愛。

 写真は石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵)の南にある大塚山古墳から出土した鉄製鉤状武器の先端部分のレプリカ。明らかに対騎兵戦の武器であろう。
 百舌鳥古市古墳群、奥が深い。
 宮川先生は堺で私の先輩でもある。

 講演後先生に「そうすると大きさではなく(大きいことは大きいが)形によって壮大な宇宙論で古墳がつくられた土師ニサンザイ古墳は倭王武ですか」と尋ねると、「倭王武しかいないでしょう」と答えられた。
 一応、現在の多数意見に従えば倭王武は雄略天皇と言われている。倭王武も雄略(ワカタケル)大王も実在は疑われていない。それを宮内庁は島泉丸山古墳に治定しているのであるが元々疑問の多い治定である。勉強はますます楽しくなってきた。