2026年5月1日金曜日

痛快‼ 日章丸事件

    日本の主要なメディアは4月29日、大型タンカー「出光丸」が28日、ホルムズ海峡を抜けて日本に向かっていると報じた。
出光丸は出光興産所属の船舶で、200万バレルの原油を積載していたが、2月の米国とイスラエルによるイラン攻撃によりホルムズ海峡に足止めされていた。
これまで商船三井所属の船舶3隻がホルムズ海峡を通過したことはあるが、どれも目的地は日本以外だったから、日本に向かう、日本の石油精製大手が完全所有する超大型原油タンカーがペルシャ湾から出たのは初めてだったし意義深いと思う。
 このことに関して28日の夜、駐日イラン大使館はX(旧ツイッター)に、出光興産が1950年代にイランから石油を秘密裏に日本へ運んだ「日章丸事件」について投稿し、「この歴史的な任務は両国間の長きにわたる友情の証で、今日においても極めて大きな意義を持ち続けている」と投稿した。

 そこで、昭和28年(1953)の『日章丸事件』をWikipediaから以下に紹介する。
 🔳 イギリスの影響下にあったイランは、第二次世界大戦の進駐を経て連合国の占領下から脱していたものの、当時世界最大と推定されていたその石油資源は、イギリス資本たる石油メジャーアングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(BPの前身、AIOC)の管理下に置かれ、イラン国民はもとより、政府にもその利益がほとんど分配されない状況にあった。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言し、イラン国営石油会社(NIOC)がAIOCの資産を接収する。これに反発したイギリスは中東に軍艦を派遣、イランへ石油の買付に来たタンカーは撃沈すると国際社会に表明した。事実上の経済制裁・禁輸措置を執行するイギリスにイランは態度を硬化させた。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。
  一方、日本は戦後イギリスやアメリカ合衆国などの連合国による占領を受け、占領終了後も両国と同盟関係にあるために独自のルートで石油を自由に輸入することが困難であり、それが経済発展の足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の阻害を憂慮した出光興産社長の出光佐三は、イギリスの経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏にタンカー日章丸(同名の船としては二代目)を派遣することを決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉役として専務の出光計助(佐三の弟)を1952年に極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行った。
  イラン側は、各国の企業と条件面で合意しても、実際の貿易には全く結びついていない前例と、当時国際的にはほぼ無名の中小企業に過ぎなかった出光を見て、初めは不信感を持っていたとされるが、粘り強い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて、日章丸は1953年(昭和28年)323日午前9時、神戸港を極秘裏に出港する。 
 航路を偽装するなどしてイギリス海軍に気付かれないよう航行し、日章丸は410日にアーバーダーン港に到着。この時点で世界中のマスメディアに報じられ、国際的事件として認知された。日本においても、非武装の一民間企業が、当時世界第二の海軍力を誇っていたイギリス海軍に「喧嘩を売った」事件として報道され、連日新聞の一面記事で報道された。
  415日、急ぎガソリンと軽油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中アーバーダーンを出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき、海上封鎖を突破してペルシア湾を抜け、599時に川崎港に無事到着した。AIOCは積荷の所有権を主張して出光を東京地裁に提訴し、同時に外交ルートでも出光に対する処分圧力が日本政府にもたらされた。
  しかし、イギリスによる強引な石油独占を快く思っていなかったアメリカ合衆国の黙認や、快哉を叫ぶ世論の後押しもあり、行政処分などには至らなかった。裁判でも出光側の正当性が認められ、仮差押え処分の申し立ては527日に却下された。AIOCは即日控訴するものの、1029日になって控訴を取り下げたため、結果的に出光側の勝訴に終わった。
  もっとも、本件におけるイラン側の立役者とも言えるモサッデク首相が、同年819日に発生したクーデター(アジャックス作戦)により失脚したこと、さらに本件を契機として結果的に石油メジャー各社の結束が強化されたことなどから、出光によるイラン産石油の輸入は継続困難になり、わずか3年後の1956年(昭和31年)に終了した(上記のAIOCの控訴取り下げも、クーデターにより自社の権益が事実上復活し、裁判を継続せずともその目的が事実上達成できたことによるものであった)。しかし、これら一連の動きは、世界的に石油の自由な貿易が始まる嚆矢となった。
  時系列
19513月 日章丸起工式。当時世界最大のタンカーであった。
98日 サンフランシスコ平和条約を締結し、主権回復。
1952
615日 イタリア・スイス共同出資のタンカー「ローズマリー」、イギリス海軍にアラビア海で拿捕される。
916日 日章丸、進水式。
1016日 イラン首相、イギリスとの外交関係破綻を宣言。
1022日 イラン、イギリスとの国交断絶を通告。
115日 出光の出光計助専務と手島治雄[2]、日本を出国。
116日 出光一行がパキスタンに到着、入国拒否を受けるも強引に入国。
118日 出光一行がパキスタンからイランに向けて出国。
119日 出光一行がモサッデク首相と会談し、交渉を開始する。
1119日 出光一行が帰国。
1222日 日章丸完成。
1953
110日 外務省、出光のイランとの接触の情報入手。
1月 出光、飯野海運よりチャーターしていたタンカーのキャンセルを受け、同社唯一のタンカー・日章丸の使用を決断。
26日 出光計助ら再度イランに向けて出発。
215日 イランと出光、石油貿易の正式調印。
316日 日章丸がアメリカ合衆国から川崎港に帰着。
318日 日章丸、川崎港から神戸港に荷卸しの為、移動(着翌日)。
323日 日章丸、目的地をサウジアラビアと偽装し神戸港を出港。
325日 フィリピン北のバリンタン海峡を通過。
331日 マラッカ海峡を通過 。
45日 コロンボ沖で暗号電文を受信し、無線封鎖。
47日 オマーン湾に到達。
48日 夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過。
49日 シャルル・アル・アラブ河口に到達。
410日 アーバーダーン港(当時の記事ではアバダン港)に到着。AFP、ロイターが報道。
410日 夜・イギリス外務省が駐日大使エスラー・デニングに調査を命じる。出光、外務省に報告。
411日 出光、記者会見を行う。
415日 日章丸、アーバーダーン港を出港。船底部を僅かに擦りながら浅瀬をぎりぎりで突破。
416日 夜陰に紛れてホルムズ海峡を通過。
426日 大きく迂回しスンダ海峡を通過し、イギリス海軍駆逐艦3隻との接触を回避。
426日 夜陰に乗じてジャワ海の危険な暗礁海域を通過し、イギリス海軍を回避。
429日 ガスパル海峡(英語版)を通過。
430日 南シナ海に到達し、無線封鎖を解除、出光本社と連絡を取る。
430日 イギリス、松本俊一駐英大使を呼び出し厳重抗議。
430日 日本政府および外務省は、何も知らず民間の取引に介入できない旨をイギリスに弁明。
4月〜5月 自動車6団体がイラン石油輸入を歓迎する旨発表。同時期、報道が激化し様々な意見が発表される。
54日 日章丸、フィリピン北のバシー海峡を通過。
57日 イギリス、日章丸の日本領海到達を確認。即座にAIOCより仮処分申請を東京地裁に提出。
58日 出光、広島駐留のイギリス海軍が軍用機を飛ばしている情報を受け、記者会見を開き徳山港(山口県)へ入港予定との陽動情報を流す。
58日 日章丸、土佐湾沖にて新聞社に撮影され、陽動情報である事が露見。
59日 川崎港に到着。同日、東京地裁にて第一回の口頭弁論開かれる。
59日 通産事務次官玉置敬三、通産省はこの紛争に巻き込まれたくないとの見解を記者に述べる。
513日 日章丸が陸揚げを完了し、船の差し押さえを逃れる。
514日 日章丸がイランに向けて再度出港し、貿易を既成事実化する。
516日 東京地裁にて第二回口頭弁論開かれる。
527日 東京地裁、仮処分申請を却下。
527日 外務省が政府は何ら関与しない旨を発表。
6月 イラン政府、出光との当初の契約を見直し、石油価格を大幅減額で提供する旨を発表。
67日 日章丸、アーバーダーン港に再度到着。イラン政府高官、および数千人の民衆の出迎えを受ける。🔳

 関連する事項などを検索して読むと痛快である。大人としてこの事件に接したかった。
 もし両親が健在であったならば、当時のこのニュースをどのように感じたのかと聞きたかった。
 イランが核武装をするのを是とはしないが、現在の戦争状態を作ったのがネタニヤフとトランプであることは全く間違いない。
 蓄積されたペルシャ文明と人々の人情には敬意を払いたい。