2020年1月31日金曜日

コロナウイルスの対抗策


 労働災害防止のための理論の一つにハインリッヒの法則というものがあることはこれまでも書いてきた。
 おさらいしておくと、一件の大きな事故・災害の裏には、29件の軽微な事故・災害、そして300件のヒヤリ・ハット(事故には至らなかったもののヒヤリとした、ハッとした事例)があるとされる理論というか経験則である。
 だから、重大災害の防止のためには、事故や災害の発生が予測されたヒヤリ・ハットの段階で対処していくことが何よりも必要だとされている。

 この法則を安易に他の分野にも当てはめるのは当を得ないかもしれないが、少なくない他の分野でも肝に銘じておいて損はない考えだと私は思っている。

 だから1月18日段階で中国当局が新型コロナウイルスの患者が45人発生し内2人が死亡したと発表したときに、「そんなはずはない」と私は家族たちに注意を喚起した。絶対に600人以上発生しているはずだと。不幸にしてその危惧は的中した。

 都合の悪い情報を過小評価する心理学上の偏見を正常性バイアスというが、中国当局も安倍政権もそういう意味では失格だと私は思っている。

 昨日の記事の繰り返しになるが、マスクと手洗いでは感染は防げない。
 一番有効な対策は免疫力の低下をきたさないことである。
 早期に休んで、暖かい部屋で楽しく本を読んだりテレビを見たりするのが一番の対抗策である。

2020年1月30日木曜日

新型肺炎に思う


 ヒトからヒトへの新型肺炎に感染したバス運転手のニュースでは「16日に奈良公園へ1時間ほど立ち寄った」と報じられている。翌週にそのあたりを歩いた私には遠い話題ではないので少しばかり関心もある。
 ただ、テレビでは「マスクをしろ、手を洗え」と注意喚起が繰り返されているが、そういう話を聞くたびに「一番大切なことに触れられていないのでは」という違和感を感じるので、少しだけ書いてみる。「ストレス-脆弱性」理論のことである。


 「ストレス-脆弱性」理論とは、「精神障害の労災保険認定基準」の基底をなしている理論だが、私は多くの感染症に通じる原則のように感じている。
 簡単に説明すると、精神障害は、環境由来のストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で、精神的破綻が生じるかどうかが決まるという考え方である。
 ストレスが非常に強ければ、個体側の脆弱性が小さくても精神障害が起こるし、逆に脆弱性が大きければ、ストレスが小さくても破綻が生ずる。
 精神障害を考える場合、あらゆる場合にストレスと脆弱性との両方を視野に入れて考えなければならない。・・というものである。

 少し広げていえば、「業務に起因する負荷が大きければヒトは病気になる」から「業務上の疾病」と認定される可能性があるという普通の話でもある。
 もう少し一般論でいうと、街中の空気にも、ドアや吊り革や机やすべてのモノは細菌やウィルスに満ちている。それでも街中の全員が発病しないのはみんなそこそこの免疫力、抵抗力を持っているからと言える。
 高齢者が入院した場合などに例えば水虫などの症状が出るのはよく知られた話である。

 言いたいことは、(個体側の脆弱性=体力の低下=抵抗力の低下)とストレス(ウィルス等外的要因)との関係性の下で多くの病気は発症する・・ということだ。

 ニュースでは、運転手は811日に大阪から東京へ、1216日に東京から大阪へと、中国・武漢からのツアー客を乗せていたというから、過重労働も疑われるし、個体側の抵抗力の低下も想像される。ただ、その業務の話は材料不足なのでこれ以上は立ち入らない。

 で結論を言えば、マスクも手洗いもいいが、一番大切なことは体力の低下を如何に防ぐかではないか。
 少しでも風邪気味だとか、お腹の調子が今一つという場合はさっさと休む。さっさと休める余裕のある業務体制とそれが当然視される職場風土が大切ではないか。
 暖かくして、美味しいものでも口にしながらリラックスする・・それでいい。
 ゴーンの時代以降、この国ではリストラという名前で人員削減、人件費削減が「善なること」と歪めさせられていないか。

 ヒトは何のために生まれ、人生を過ごすべきか。
 そんな問いがないままマスクをしてもこの国に明るい未来はやってこないのではないか。

2020年1月26日日曜日

良いタイトルだ『熱源』

    以前に近所の知人(年長の婦人)から戦争体験を聞いたことがあるが、それは8月15日以降にテレビゲームを遊んでいるかのように機銃掃射を受けた話だった。「笑っている顔が見えた」とも。なぜならそこは樺太であった。

 第160回(2018年下期)直木賞受賞作『宝島』も面白かったが、今回の第162回(2019年下期)直木賞『熱源』も負けず劣らず興奮した。

 少数民族問題は現代の地球規模の問題でもある。
 『熱源』受賞後にも拘らず副総理が「単一民族、万世一系」と宣ったが、コミックも良いが直木賞ぐらい読めよ!と言いたくなった。

 歳をとるといいこともある。歴史というものが身近に感じられるようになる。
 若い頃は「戦前」というのが遠い遠い世界に感じていた。
 しかし敗戦という1945年を基点にしても、今年は75年になるが、このコンパスをひっくり返すと明治元年は77年前ということだからほぼ同じで、明治も大正も昭和前半もついこの間のように理解できたりする。
 日本は列強の仲間入りをしようと躍起になり、ロシアでは反乱と革命の前夜が暮れていった。ヴ・ナロードという声やテロルの声をごちゃまぜにしたままで。

 そういう時代に、北海道や樺太やそしてロシア、ヨーロッパで生きた人間が『熱源』には書かれている。
 特に、アイヌ、ギリヤーク(ニグブン)、オロッコ(ウィルタ)、そして和人、ロシア人、そして祖国を無くしたポーランド人。
 そこは彼らの故郷と呼ぶべきか熱源と呼ばれるべきだったか。

 小説の中の人物が願ったようには、弱肉強食の摂理を現代人は乗り越えていない。
 民族の相違も民俗の多様性も、中央やグローバルの中に絶滅しつつある。
 この小説を読んで、私は私で、知っている限りの戦後75年を記録しておきたいという衝動に駆られている。

   暖冬も病抜けせぬ齢かな 

2020年1月25日土曜日

暦の復習

   24日のテレビで若い女性が「あれれ、もしかして今日は節分?」という疑問を口にしたが、この人の頭の中の誤解がよくわかる。
 要するに明日25日が旧正月だとすれば今日は大晦日ということになり、旧大晦日イコール節分ではないのかという誤解であろう。

 日本では旧大晦日の行事の多くが節分の行事に移ったから、旧大晦日→節分、∴(よって)今日は節分?と混乱したのだ。
 もちろんこれは誤りで、旧暦の大晦日や元日と節分は一致しない。旧暦は太陰太陽暦つまり月の満ち欠けが重要な要素だが、節分は100%太陽暦に基づいて決まっている。立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至であり、さらに細分されたものは、小寒、大寒、立春、雨水、啓蟄、春分などとなる。

 元来は立春、立夏、立秋、立冬の前日をいずれも節分と言ったが、今では普通には立春の前日を指して言っている。
 ただ地球の公転周期(1年)は365.25…日であることなどから毎年同じ日にちとは限らない。
 重ねて言うが「旧暦では立春が正月元日」というのも誤りであるが、そういう文章を目にすることも少なくない。

 旧正月が中国では春節、ベトナムではテトで、その他少なくない東アジア等の国々でも祝日になっている。
 私的には自分の青春時代と重なるため、春節よりもテトの方をすぐに思い浮かべる。ベトナム戦争の1968年テト攻勢というのがあり、民族解放闘争の勝利を予感させた。

 旧正月も含め旧暦(太陰暦)の各月の朔日(ついたち)は当然必ず朔(さく)=新月である。
 そして月の周期は29.53・・日だから、小の月(29日)と大の月(30日)が少し不規則に出現して、太陽の周期との整合性は閏月で調整される。
 日本などでは、先にあげた二十四節気の雨水の直前の朔=新月の日が旧正月元日とされている。
 このため東アジアの国々どおしの旧正月は1日前後異なる場合があり、極端な場合は30日ズレることもある。
 日本でも「年内立春」と言って、まだ(旧)正月が来ていないのに立春が来ることもある。(大寒、立春、雨水・・だから)

 なぜこんな記事を書いたかといえば、私自身何となく頭の中でこんがらがることがあるので、頭の整理のために書いてみた。
 世界中の古代の暦は基本的に太陰太陽暦だが、考えれば非常に複雑で、中国でもエジプトでもそして世界の各地でも、その時代時代にすごい天文学者がいたものだと感心しながらこの記事を書いた。 

2020年1月20日月曜日

俳句の入門書ではない

 私は俳句については「ど素人」である。ただ丁度1年前ビギナーズラックで赤旗に投稿したのが掲載されたというだけの人間だ。
 しかし皆でミニコミ紙を作っていると、どうも「近頃の政治は・・」というような記事が多くなり、潤いというか文化というか、その種の香りが乏しく、「埋め草」に使えそうな一句ぐらいは自分で捻ってみたいものだと、独断と偏見で数を打っている。

 何年か前、私が家にいると、友人たちが居酒屋のようなところから電話をかけてきて、「これから毎月句会をすることに決めたから参加するように」と宣った。これには、どうせ酔いが醒めたら萎む話だろうと放っておいたらほんとうに萎んでしまった。

 以上が経過と現状だが、私だっていい加減歳をとった。いつまでも「できたらいいな」だけでは『口だけ番長』みたいになってしまう。
 そんなことで来る節分会では飲み会だけでなく句会もするぞ!と宣言した。
 宣言したからには率先して投句もして少しぐらいは話に入れるようにもなりたい。
 プレバトは観ているが、正直に言って夏井先生の添削と解説を聞いてもすんなり理解できないことも多い。

   ということで本屋で見つけたのが長嶋有著『俳句は入門できる』(朝日新書)で、予想どおりというか、予想以上に「変わった」本だった。題名からしてへんてこである。
 十分理解できていないところがあるが、著者は「結社」はつくらず、「同人」でつくったがそれも止めたようだし、ただし、ただあちこちに投句しているだけでは俳句の面白みはわからないと言い、自費出版はせず売れる句集しか作らないと言い、ネット上で多数が参加する試合形式の句会を試みているらしい。

 私は日曜朝のNHK俳句で顔を見ていたから、それこそオーソドックスな俳人だと思っていたが、相当「変な立ち位置」の人のようだ。
 別に「俳句のコツ」のようなものは全く得られなかったが、「自由に俳句を遊ぶスピリッツ」のようなものは伝わってきた。

   指先に白き息朝のポスティング

2020年1月19日日曜日

『ウミネコ』復刻版

   日本機関紙協会の『機関紙と宣伝』2019年7月号から抜粋して紹介させてもらう。

 藤田健次さんから機関紙協会への手紙・・、
 50年前のガリ版新聞『ウミネコ』の復刻版ができたので送ります。ガリ版ですから、当然、全232ページすべて手書きです。
 当時貴協会からは、たくさんの励ましをいただき、ありがとうございました。私たち若者は、その声援を支えとして、徹夜でがんばったのでした。
 今読み返してみて、女性べっ視ともとれる記事もあり、いかに世相の反映とはいえ、編集長失格です。当時は、職場のトイレも男女兼用、組合大会はタバコの煙がもうもうとした中で開かれるという、まだ、そういう時代ではありました。
 『ウミネコ』に燃えた、当時20代の私たちも、間もなく80歳、もうすぐ消えてなくなります。今の時代をけん命に生きているみなさんに、なにか参考になるのであればうれしいです。

   機関紙協会のコメント・・、
 職場新聞『ウミネコ』は、全労働青森職安支部八戸分会33名の中で隔月刊の発行で、創刊されたのが1965年11月で、終刊の1969年5月まで19号が発行されました。B4判で毎号12ページ~16ページという、当時の職場新聞としては考えられないボリュームでした。組合員の要求を前面に出して職場の全員が登場する企画で、今読んでも実に面白い紙面です。臨時職員の声を丁寧に紹介したり、組合員の奥さん訪問など、先進的な規格の新聞でした。『ウミネコ』は全国の全労働の仲間に衝撃を与えたことがよくわかります。
 当時は日刊紙が全盛の時代でしたが、『ウミネコ』はその圧倒的なボリュームと企画で、機関紙編集者を驚かせました。
 『ウミネコ』は終刊になりましたが、その後は速報性を大事にした機関紙の発行へと移っています。50年前の若者たちの情熱が詰まった機関紙でした。

 復刻版の余備はもうないそうだが、そのコピー(B4判232枚+α)を藤田健次さんからいただいた。
 もし私の「原本」をコピーしたいと希望される方がおられたら、お貸しすることはできる。現職の若い方々には見てほしいが、「ウザイ」話だろうか。
 フェークニュースも含めてマスコミの劣化が目に余る今日、SNSと併せて、冷静で心のこもったミニコミ紙の出番のように感じている。
 単に過去の想い出とするのでなく、『ウミネコ』の情熱に今一度触れてほしい気がする。

 余話になるが、1月17日に読んでいると、こんな記事が目に留まった。
 1968年5月16日――この日を私たちは一生忘れられないだろう。さわやかな快晴、心地よいそよ風のその日の午前9時49分、ぶきみな地鳴りと共に私たちを襲った「1968年十勝沖地震」(震度5、マグニチュード7.8)は、私たちと、私たちのたくさんの仲間を一瞬のうちに、恐怖のどん底におとしいれた。
 
 一昨日、1.17に関わる記事を書いたが、ほんとうにいつ遭遇してもおかしくないという思いを新たにした。ああ日本列島とは!

   半世紀前の職場新聞に溢れてる若者たちの情熱を見よ

2020年1月18日土曜日

一品持寄り

 今年の節分会の新企画は「一品持寄り」と「新春句会」だ。
 きっとこの話を聞いて、「何か難しそうだ」「煩わしそうだから参加を躊躇する」という声が聞こえてくるだろう。もっと言えば「じゃまくさい」か。
 「そんな難しいことをいうと参加者が狭まるぞ」という忠告もあるだろう。

   そういう心配を頭の片隅において自分の分の「上限500円の(酒の肴:アテ)一品は何がいいだろうか」と考え始めた。
 ちょうどNHKラジオの「スッピン」という番組で、成人式に因んで「皮蛋(ピータン)が美味しいと思えるようになったら大人だ」というようなトークをしていた。
 そうだ、皮蛋と胡瓜を持参するのもいいなと思ったが、わが家周辺に皮蛋を売っている店は思い浮かばない。

 そこで日常の買物のついでにイオンモールでそれらしいものをリサーチというかウオッチした。
 チーズ蒲鉾も悪くはないが、それなら関西人鉄板のポールウィンナーにしたい。
 「ほぼカニ」も悪くない。「ほぼカニ」を巻き込んだ出し巻き卵という手もある。
 焼きたらこ、干しエイのひれ、・・BBQコンロがあるからメザシというのもある。
 焼くという手があれば白ネギをただ焼いて味噌をつけるのはどうか。
 漬物や佃煮系統は何でもよい。
 缶詰類でサバ、イワシ、サンマとくると、昔職場から帰る際立ち寄った酒屋の角打ちだ。ラッキョでも飲んでいた。
 立ち飲みのスタンド・バーを思い起こすとチーズ類になる。カマンベールにブルーチーズ。そしてクラッカーにスモークサーモンとケーパーなら文句なかろう。
 瓶詰のホワイトアスパラも私の好物だ。アンティチョークもいける。
 乾きものは適当に集まるだろうが、ポテトチップスの袋みたいなのに「大阪名物紅生姜の天ぷら」というのがあった。これなら少し笑える。
 皆が凝ったものなら、ただのプチトマトというのも悪くない。
 居酒屋のイメージを広げると、コロッケ、ポテトサラダ、さつま揚げか。
 見方をかえると、豚の角煮、おでん一式などパックされて並んでいる。ここまで出来上がっていると私の趣味からは外れるが極めて現実的で好評かもしれない。
 だいたいがバイキング形式のパーティーではサンドウィッチや握りずしが結構好まれる。

 ウォッチに行く前は「何かあるだろうか?」と心配だったが、行ってみれば「何に絞るか」で頭を悩ます。そして悩んでいること自体が楽しい。

 落語の貧乏花見(長屋の花見)ではないが、500円で大宴会をしてみたい。
 それでも、「一品探しがしんどかったわ」という大きな非難を受けるだろうが。仕方がない。
 誰か皮蛋を持ってこないかなあ。サイボシでもいいけれど。

   初老らが長屋の花見に挑戦す 

2020年1月17日金曜日

あれから四半世紀

   1995年(平成7)1月17日から四半世紀が経過した。その後2011年(平成23)の3月11日も経験したのに、この国と自治体の防災行政はどれほど拡充されたというのだろう。
 近畿圏でいえば東南海地震が明日起こっても不思議でないと言われている。
 阪神大震災と東日本大震災が束になった災害が想定されているにも拘わらずだ。

 よく「語り継ぐ」というようなフレーズを聞くが、未来に向かって具体的に対策が講じられてこその「語り継ぎ」ではないだろうか。
 大阪湾の舞洲で万博を開催するなど、それって狂気の沙汰では・・と思うのは心配性ですか。

 正常性バイアスということが指摘されている。認知バイアスの一種で、社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語。自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人間の特性のこと。 
 自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。「正常化の偏見」「恒常性バイアス」とも言うとある。
 意識の遅れ・・それもある。しかし一番の原因は政治の歪みではないだろうか。

 先日テレビで加藤諦三氏が現代社会(主に政治状況)を「退化」「幼児化」と分析していることが紹介されていた。
 政治の言葉では判り辛いが、「〇〇ファースト」はわがまま、EU離脱は理想放棄、移民難民の排斥は異なるものへの恐怖、軍拡競争は優位意識、フェイクニュースや暴言は反応欲求、それぞれの表れで、そういう「幼児化」は不安意識の表れだと。

 「いまだけ、ここだけ、私だけ」「国の将来の心配などしない、遠い国や地域の国民の悲鳴など聞かない、困っている人のことなど考えない」という政治とそれを許している民度の幼児化だと。

 でも「幼児化」を肯定するかしないかに拘わらず、大災害はやってくるし、犠牲者は発生する。
 高浜町の元助役の原発利権といい、自民党や維新の議員のカジノ汚職といい、政治の退化・幼児化を推進しているこういう政治勢力を一掃して、じみであっても国民の命と安全、社会のセーフティーネットに努力する政府をつくることが喫緊の課題ではないだろうか。

 もう一つ、昨年は大水害があった。ダムの新規建設に賛成か反対かは別にして現実にダムがある。
 ならば、100年に1回あるかないかという大雨特別警報でどうして事前にダムの水を放出しておいてピーク時に備えなかったのか。
 大臣は公明党で、支持団体たる宗教組織の指示がなければ思考も決断もできない政党であることが明らかになった。支持団体の指示より目前の危機にどうして対応しなかった。

 何でもかんでも与党(と「ゆ」党)の責任にする気はないが、この国は根本を変えなければ命さえ危険な領域に達している。
 予算の哲学を変えるだけで世の中は変わるだろう。
 欠陥商品と言われているF35ステレス戦闘機を追加105機で計147機購入するという内閣。約6兆2000億円をはじめ予算はある。政府をかえれば社会は変わる。

   漢字一字には収まらぬ一一七

2020年1月16日木曜日

健康寿命

 友人と再会した。
 本人は脳梗塞の後遺症であまり体の自由が利かない。
 医者からは今後再発する可能性が高いぞと釘を刺されているという。
 その口から、パートナーが肺がんの宣告を受けたという話を悲しそうに聞いた。
 私は、医学は日進月歩だと慰めるのがやっとだった。
 我々の年齢になると何時の診断で宣告を受けるかもしれない。
 判ってはいるが、気持ちは辛い。

   昨年はまず私が前立腺癌の宣告を受けた。
 追うように妻が肺がんの宣告を受けた。
 嘘のようなホントの話だが、二人とも半年ほど追跡して検査を重ね、癌ではなさそうだと診断された。
 結果ヨシとはいうものの嫌な1年だった。

 友人だが、じっくり話したかったが、年末から孫の凜ちゃんが体調を崩していて、その日もお風呂と夕食をサポートしなければならなかったので、「病院を信じて対応せよ」「奥さんを大事にせよ」というような話だけで別れて帰った。
 老いとは辛く残酷なものである。

 友人たちがあい寄り集まって節分をする話をしたが、「ほんとうは貴方の厄落としをしてやりたいが、お酒も出るからあんたは来るな!」というのも辛かったが仕方がない。

   雪時雨病病看護と言う話

2020年1月15日水曜日

焚きつけ

   いろんな言葉が順に死語辞典に登録されていくが「焚きつけ」もその一つかもしれない。
 私は堺の街中(まちなか)で育ったから昭和20年代に都市ガスであった。「都市ガスであったからここへ引っ越してきたんだ」と親は言っていた。
 そんな私でも、「焚きつけ」ぐらいは知っている。この語の周辺には、薪(たきぎ)、柴(しば)、榾木(ほだぎ)などという言葉もある。

 今度の節分は友人揃ってBBQコンロで善哉用のお餅を焼くことになった。
 私以外のメンバーの積極意見でそうなった。(私はオーブントースターでいいんじゃないかと尻込みしていた)
 ところで、節分という伝統行事に着火剤もないだろうから、といって、私以外の中心メンバーは「焚きつけ」など用意できないという。なので、新聞紙1面分だけ用意してくれるように頼んだ。

 そこでその「焚きつけ」づくりと思ったが、わが家のどこを探しても斧(おの・よき)が見つからない。
 剪定した木の枝などと一緒にゴミに出したかも・・・。その可能性が大である。
 とりあえず鉈(なた)で楽しく作業をした。こういう作業は理屈抜きで楽しい。何で楽しいのか分からないが気分がいい。

 ちなみに「炭の熾しかた」のようなものをネットで検索すると、ほとんどが着火剤から始まっている。
 親切な記事では「マッチの擦り方」からYouTubeで手取り足取り説明されている。
 そういえば、以前に自治会で餅つき大会の相談をしたときに、普通に真剣に「着火剤はいくつ必要か」という質問もあった。これが世間の標準だろう。

 炭が熾るまでの真剣勝負が楽しい。火吹竹は恐るべき威力を持っている。焚きつけから登る煙の情緒。こういうのを知らないのは不幸でないか・・とはただの昔人間の郷愁。
 
   伝統の火おこし着火剤無用

2020年1月14日火曜日

グルーガンに遊ばれる

   このブログに「僕らの工作」というラベルを用意している身であるから、ホームセンターや百均で何か面白そうなものを探す癖がついている。
 そんなとき「グルーガン」というのが目についた。
 熱で溶かしたプラスチックでモノを接着する道具とある。知らなかった。

 なので、具体的な使用目的があるわけでもなかったが購入した。そして、試しに使用した。
 暮らしの手帖風にその結果を言えば、なかなか思いどおりにはならなかった。
 グルーガンで遊ぶというよりも、グルーガンに遊ばれた。

 ほんとうに接着したいときには各種接着剤。少し遊び風の小物の時はこれがいいかもしれない。これが感想だ。
 いやいや結構使えるよ!という方は、効果的な使用結果を教えて欲しい。

 『宿院句会』の賞品にしようかと考えたが、みんなきっと持て余されることだろう。で却下。

   年始がわり会費未納の振込書
 新年の会報と共に「何年か前の年会費が未納です」という振込書が同封されていた。思い出せないが、失念するほど生活環境がしんどかったのだろうか。ただのズボラの結果だろうか。申し訳ないことだった。今年の正月も反省からのスタートだ。

2020年1月13日月曜日

少し早すぎないか

   地球環境がおかしい。
 サンマが日本列島から離れている。スルメイカも回復していない。
 妻がカマスゴを買って来た。
 初物を食べると75日寿命が延びると言うが、まだ小正月前である。
 狭い私の感覚でいえば、少し早すぎる感じがしている。
 美味しくありがたく戴いたが微妙な感覚と言えようか。

 よくは知らないがカマスゴの子であるシンコは大阪湾~兵庫沖では2月下旬から3月上旬の解禁日まで禁漁のはずである。
 シンコは禁漁だがカマスゴはよいのだろうか。
 それとも東北のものなのだろうか。

 初物といっても早すぎるものは微妙である。
 カマスゴは晩春の季語ではないか。

   正月のかますごの季語はいつ

2020年1月12日日曜日

初雀

   雀というと現代人は”稲を食う害鳥”というのが一番最初の印象かもしれないが、雀は上杉家や伊達家などの家紋にも採用されているから、昔はもっとイメージがよかったはずだ。

 俳句ではほとんどの事柄に初(はつ)と付けると新年の季語になるが、典型は「初雀」で、新年早々の雀を昔の人は目出度く賞していた。

 この正月、妻が「玄関のドアのところに籾殻がいっぱい落ちている」「年末にきれいに掃除したのにおかしい」と、ほんとうに不思議がった。
 何もなければ私も一緒に頭を捻るところだが、その前に、玄関周辺に雀が数羽いたのを目撃していたのでピンときた。
 妻の話を聞くまでは、わが家の玄関を雀がネグラにしているのだと思っていたが。

 答えは注連縄の稲穂を雀が啄ばんだわけである。
 ”注連縄の稲穂を丸坊主にして”と怒るよりも、これは典型的な初雀だと心が和んだ。

 去年の初詣は伏見稲荷で雀の丸焼きを食べていたから、今年は石切でよかった。
 雀を食って「目出度い初雀」もなかっただろうから。

   注連縄の稲穂裸に初雀

2020年1月11日土曜日

奈良の十日戎

 昨日の記事で中国の春節は半月先だと書いた。
 だから日本の正月休みも終わり、中国の正月休暇はまだだから、この時期の奈良公園は森閑としているものだとばかり思って出かけてみると、中国人観光客の多いこと多いこと、ほんとうに驚いた。
 まさかこのまま旧正月休暇に突入するのではないだろうね??
 中国の全部ではないにしても、確実に彼の国は豊かになりつつある。いや、日本が相対的に貧しくなっているのか。(統計上は明らかにそうなっている)
 福の神・戎さまにお参りに行く前にそんな不景気なことが頭をよぎった。

   今年の十日戎は春日大社境内の佐良気神社に行った。
 大阪の今宮戎のようなスピーカーからの「商売繁盛で笹もってこい」的なお祭り気分や、裏に回って「ドンドンドンえべっさん頼んまっせ」の愛すべき風習には欠けるが、ここの十日戎は神事という雰囲気が満ち満ちていてこれはこれで良いものだ。

   風習?でいうと、ここは今宮戎同様笹がみんなに(無料で)配られる。その素の笹を持っていって吉兆を付けてもらうのだから、文字どおり「笹もってこい」であるのも嬉しい。(最初から吉兆付きの笹を”買う”方式の神社やビニール製の笹の神社も少なくないが)

 そうして、写真のとおり吉兆を付けてもらった後、鈴を振って福を授けてもらう。
 私は毎年、基本形プラス1点か2点程度しか付けないから、、最初に「小ぶりのを頂戴」と言って小さい笹にしている。
 周囲の方々は立派な吉兆をたくさんつけているから、ともすれば張り合って付けたくなるが、「その年の勢いでたくさん付けたらあかん」というのは私の祖母の遺言であった。
 この福笹は1年間、床の間の掛け軸の斜め横に吊るしておく。

 春日大社周辺では、中国人観光客が素の笹を嬉しそうに土産にしていた。
 思うに、中国の文化は極めて現世的だから、十日戎が福の神、商売繁盛の神などと知れ渡ると、今後この行事も超満員で近づきがたくなるかもしれない。
 京都では近頃観光公害(オーバーツーリズム)が大問題になっている。何事もほどほどがよろしい。

   健常でなかったという戎神弱者の声を受け止めるべし 

2020年1月10日金曜日

12月15日

   1月9日は十五夜だった。ということはあと半月(1月25日)ほどで旧正月ということになる。
 太陽暦では2月3日が節分で2月4日が立春だから、旧正月=旧暦=太陰暦というのもなかなか味わいが深い。
 日本以外のアジアのほとんどの国では旧正月=春節こそが正月だとして祝うのもよくわかる。

 それはさておき、昨日は節分の福豆に貼るレッテルを作る作業をした。
 それに結構手をとられた。
 というのも、歳がいって主に家庭にいるとパソコンの先生がいなくなる。
 レッテルは、A4に24片作ろうと考えているのだが、最低3種類のテキストブックを関連付ける方法がわからない。
 10年ほど昔のワードには「関連付ける」という方法が明確に表示されていた。
 今は、どこかを順に追っていけばあるかもしれないが、その方法がわからない。

 ほかにも、最新のオフィス→ワードには使える『行書』がない。
 私の狭い範囲の経験では、ワードは退化していっている。
 どなたか、私のパソコンの師匠になってくれませんか!
 勉強もせずに勘でもって作業をしているのがよくないということは解っているのだが。

   ぽっかりと冬には冬の望の月

2020年1月9日木曜日

悪夢のプレゼント


 首相官邸のホームページに、令和216日 安倍内閣総理大臣年頭記者会見が掲載されている。
 すでにテレビや新聞で報じられているとおり、首相は質疑を受けた形で、憲法改正について次のように応答した。
『国会議員として、憲法改正に対する国民的意識の高まりに対して、これを無視することはできないと思います。その責任を果たしていかなければならないと考えています。今後とも自由民主党が先頭に立ち、国民的議論を更に高める中で、憲法改正に向けた歩みを一歩一歩着実に進めていく考えです。
 そして、憲法改正を私自身の手で成し遂げていくという考えには全く揺らぎはありません。しかし、同時に、改憲のスケジュールについては、期限ありきではありません。まずは通常国会の憲法審査会の場において、与野党の枠を越えて、活発な議論を通じて、国民投票法の改正はもとより、令和の時代にふさわしい憲法改正原案の策定を加速させたいと考えています。』

 ところで日本国憲法第九十九条は次のとおり定めている。
『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。』

今さら言うまでもないが、今の時期きわめて重要な事柄と思われるのであえて指摘するが、安倍内閣総理大臣が日本国憲法第九十九条いわゆる憲法順守義務に違反していることは明白だろう。

仮に一般職の国家公務員や独立行政法人等の準公務員がこういう発言を公にした場合は、国家公務員法第八十二条『職員が、左の各号の一に該当する場合においては、これに対し懲戒処分として、免職、停職、減給又は戒告の処分をすることができる。』の第二号『職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合』に該当して処分されるし、裁判官の場合は『裁判官弾劾法第二条(弾劾による罷免の事由)『弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。』の第一号『職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。』によって罷免される。

特別職公務員である大臣や議員にはその種の具体的手続き規定(法律)が定められていないことを良いことに、日本国の最高法規たる憲法を蹂躙しても良いものだろうか。
それを許さないという良識は世論と選挙で実現するしかない。
現憲法を守らない人々に憲法改正をさせては絶対にいけない。

最後に、モラルも何もない安倍内閣は、8日午前の記者会見で菅義偉官房長官が「海上自衛隊の中東派遣について、現時点で派遣の方針に変更はない」と説明し、その一方で時事通信は、「1115日に予定していた安倍晋三首相の中東3カ国歴訪は延期」されたと報じている。
恥ずかしくなるほどの論理がめちゃくちゃである。

これは私の単なる推測だが、私は「安倍内閣は自衛隊員が死亡する事態を期待している」と想像している。
そうすれば、トランプに喜んでもらえる(顔向けというか言い訳ができる)し、国内の改憲から軍事国家化への世論を巻き起こすことができると考えていると推測している。
年初からこういう悪夢を文章にするのはつらいが、内外の情勢は正月気分を待っていてはくれない。

2020年1月8日水曜日

第一次大戦の教訓

   『1914年6月、サラエボでの暗殺事件が起きた時には、それが世界を巻き込む大戦につながるとは誰も予想しなかった。多くの国家指導者が戦争を避けたいと考え、たとえ衝突が起きても短期間で終わると信じていた』。これは1月6日付け朝日新聞『天声人語』の書き出しである。
 ドイツのカイゼル(皇帝)は決して全面戦争を望んではいなかった。「戦争によらずに威嚇して勝ち得たい」と願った。
 ・・・戦争は誤算と過信の末に起こったというコラムは非常に的を射ているように私は思った。
 戦争の多くは『男のメンツ』によって抜き差しならなくなるのではないだろうか。
 
 だからトランプ大統領にもハメネイ師にも「報復だ」などという言葉を使ってほしくはないが、第一義的には国際法も何もかも無視をして他国内で軍事行動を起こしたトランプ大統領に「二度と軍事行動を起こすな」という声を皆があげることが大切ではないだろうか。

 この事態に瞬時に反応もせずゴルフに興じていた安倍晋三は、松の内も開ける頃ようやく、あたりさわりのない国内向けの発言をしたが、要は、アメリカ、ロシア、中国といった大国にはペコペコと尻尾を振るだけだった。
 トランプを諫めないで「皆さん自重を!」という言葉に何の力があろうか。

   戦争を止めるために殺したとその言い訳は憎しみを生む

2020年1月7日火曜日

今年も帰り花

   狂い咲きなどと言わずに帰り花と優しく呼んでやって欲しい。
 それにしても寒風をものともせず咲いている桜のいじらしさよ。

 それはさておき、年頭から散歩がてらに買い物に行ったが、妻に頼まれていた2つの品物のうち1つを買い忘れて帰ってきた。
 いよいよ今年はこういうこと(プレ認知症)が増えそうな気配である。情けない。

 言い訳をすれば、節分会の行事のための材料の分量と値段をリサーチするのに一生懸命になっていたうちに忘れたのだが、すべて言い訳になってしまう。

 それに、まさかブルゾンが大幅に引きされていたから買って来たとは言いだせず、こっそりと自分の部屋に持って行った。
 恥ずかしい。

   春待てぬ帰り花の気にいいね!する  

2020年1月6日月曜日

新年パーティー

   正月のわがファミリー全員集合の新年会を行った。
 もう正月といっても5日だし、・・・ということで御馳走のメーンはお節ではなく551の豚まんと中華ちまきや焼き肉その他、結果は例年以上に喜ばれたからこれも良しか。

 お酒もシャンパン中心。まるでクリスマスパーティーだが善き哉善き哉。
 お正月らしいのは半月のお盆と祖父ちゃん手作りの祝箸だけだった。
 伝統行事の継承も何もあったものでない。ああ、老人は去り行くのみ。

 カルタも酔っ払った祖父ちゃんよりも孫の夏ちゃんが完勝したからこれもよし。
 ただ祖父ちゃんが「十日戎に行こう」と誘っても「嫌」の一言だった。
 
 孫の凜ちゃんは年末からの風邪で鼻の下がガサガサだったが、ビデオのパプリカにそこそこに反応して踊ってくれた。
 願わくは、向こう一年、みんなの健康が大崩れしませんように。
 さあ、1年の出発だ。

   豚まんが公約数らし新年会

2020年1月5日日曜日

真似句会を計画する

   「例によってあなたの新企画はスベルに違いない」と大いに心配されたが、チャレンジを忘れたら進歩はないと、最後にはみんなで意思統一を行った。

 「聖人は常にチャレンジしていたのでは」とは会場となる法華宗に因んでの私の心の声。
 新年早々の節分会実行委員会のこと。

 勤行、豆まきの後、ぜんざいと般若湯で楽しく会食をしようというのは例年どおりだが、今年は句会の真似事をしようではないかという新企画。
 「誰が投句してくれる?」「誰が選評の議論に参加してくれる」「スベルのんちゃうか」と心配しきりだが、仲間を信じるということで一致した。人は変わるのだ。
 やっぱり山は高いほどファイトが湧く。

 で、節分会に参加してくれる皆さん。

 できればでいいですから、五七五を捻ってみてくれませんか。(できればでいいです)
 兼題その他全く自由。
 26日までに、上中さんのスマホにショートメールで1~3句投稿してください。
 (私も含めて)誰の作品かを伏せたままワイワイガヤガヤしたいので、受付は上中さんに一本化しています。
 天、地、人の作者にはささやかな賞品も用意します。
 上中さんのスマホ番号不明の方は私に問い合わせてください(案内チラシには記載していますが)。

   プレバトでいえば「才能なし」続出かもしれないが、それもよし。
 節分に大笑いをして各種の鬼を追っ払おう。

 実行委員会の帰路、商業ベースのつまらん出来事だが近鉄で『目出度い吊り革』にぶつかった。よし、この企画はきっと成功する。
   
 トランプがドローン飛ばせし中東に
 出兵せよとの人ぞおぞまし


2020年1月4日土曜日

貴重な資料かゴミの山か

 去年の夏に下鴨の古本市の記事で、聞くともなしに聞こえた女子大生らしい人たちの会話のことを書いた。
 「各分野で戦後の学問をリードしてきた方々が次々に亡くなり、古本市に思いもよらない逸品が出てくるようになった」という楽しそうな会話だった。

   去年の9月に私は参加できなかったのだが『奈良県に自然と歴史がわかる総合博物館を』というフォーラムがあった。大賛成だ。
 嘘のようなほんとうの話だが、遺跡と文化財と自然の宝庫のような奈良県にはその種の博物館が少ないというか、ほとんどない。
 で、先の会話だが、蔵書の場合はまだいいかもしれないが、貴重な昆虫や植物などの標本などは遺族にとってはゴミの山ということになる。
 だから早期に各種大先生の標本等を寄贈していただける博物館が求められている。

 「遺族にとってはゴミの山」というのは笑えるが、専門分野の資料などはそうかもしれない。(笑)

 ちなみに、大阪に橋下旋風が吹き荒れたとき、維新は「大阪府立弥生文化博物館と大阪府立近つ飛鳥博物館が二つあるのは無駄だからひとつを廃止せよ」と迫った。
 考古学界の大反対で阻止できたが、維新にとっては弥生時代も古墳時代も「昔のことだから一緒でいい」という程度の教養の程度であった。
 
 そんな暴論が二度と起こらないように、小中学校からしっかりした博物館で実物教育することが大切だろう。奈良は特にそうだと思う。

 橋下氏的新自由主義というのは、詰まるところ「儲かるか儲からないか」だ。
 奈良県の荒井知事による奈良公園つぶし、遺跡つぶしも同じ発想だ。
 学芸員と考古学者が金儲けの癌だというものだ。実際に大臣も知事もそう発言している。
 今年はこの運動も大事になっている。
 私の実感でいえば、モリアオガエルもルリセンチコガネも野鳥も水鳥も減っている。
 気がついた時は遅いというのは気象環境問題と同じだと思う。

   穏やかな正月なれど気が晴れぬ温暖化の危機を少女が叫ぶ

2020年1月3日金曜日

期待どおりの新春対談

   年頭のご挨拶的な文章は普通はたいして面白くもないものだが、4年前の中野晃一さんvs志位和夫さんの新春対談は刺激的で面白いものだった。
 なので、少し前から予告されていた再び両氏による元日の新春対談を赤ペン片手に何回も読んでみた。
 
 志位 「リスペクト」という言葉ももともと4年前の対談で中野さんが、メッセージの伝え方というお話をされたなかで語られたものでしたね。「メッセージを伝えるためには、相手をリスペクトして、相手の立場を尊重してこそメッセージが伝わっていく」と。とってもいいお話だなと思って、私たち心がけているつもりなんですけれども。(笑い)」・・との部分にも赤線を引いた。

 ニュースを季節ごとに出すとすると、受け取る方は「年に4回程度か」と思われるものでも、出す方は一号出してやれやれと思う間もなく次号の構想作業ということになる。ただし、一番苦労を掛けているのは私ではなく最終編集長U氏である。
 そういうニュースを3本も4本も持つと、「原稿はパスする」という通告などを受けるとがっかりしてしまうが仕方がない。わかってくれる日も来るだろう。それはさておき・・

 そんなもので、新春対談は私自身の頭の整理というだけでなく、ニュース発行や記事執筆に大いに参考になる。
 今春号でいえば、ポジティブに希望を意識的に提示する大切さという指摘も心に残った。追及と同時に未来を語ること。ほんとうにそう思う。
 さらに、立憲主義の回復、格差是正、多様性の尊重、・・ニュースでもそういう基調を押さえて編集したいものだ。
 
 いろんな教訓的な示唆があるがその紹介は割愛して、対談が最後に、創造的な活動を始めている若い人たちの声に耳を傾けるところから始まるという話で閉じられているのも良かった。心しなければ。

   年頭に思うメッセージの伝え方

2020年1月2日木曜日

元日から尻尾をまく

 15日からNHK BSプレミアムで全4話の、山田洋次監督「贋作(がんさく)男はつらいよ」が放送される。
寅さんを演じるのは桂雀々、さくらが常盤貴子、そして「くるまや」は石切劔箭神社の参道にある。

そんなもので元日、石切劔箭神社に初詣に行ってきた。
ご存知の方は知っているが?その参道は昭和30年代がタイムマシンから引っ張り出されたような雰囲気で、「きっとこの店が映るやろな」「この店がくるまやかな」などと妻と語りながら散歩を楽しんだ。

ただ年の始めから「元日午前中のこの時間ならまだほどほどの込み具合だろう」という私の勘(予想)は見事に外れ、参拝のためには写真に写っている何倍も(写真の手前はるか後ろの方に)ある行列の最後尾にお並びください」という有様で、俄か氏子は尻尾をまいて退散した。

孫の小学校には廊下の一部に『昔の道具』というようなものが展示されているが、参道の荒物屋にはそういう類の品物が現役の商品として並んでいた。
寅さんのような香具師の店ではない普通にほんとうの店でである。

   洗濯板、へちま、庭師の使う小さな竹箒、アルミ製の洗濯ばさみ、エトセトラ、すべて古物や骨董品ではない新品である。
   はてな?こういうものは何処で仕入れてきたんだろう。 
   私などの知らない流通の世界が現存しているのだろう。
   石切参道は謎だらけだ。

   なお参道では「ここの神社は何て読むんかな」という日本人の話声が聞こえてきた。確かに箭はあまりお目にかからない字だが、その後、道を案内した外国人はローマ字で読んだのだろう「ツルギヤジンジャデスネ」とスラスラと話が通じた。表意文字はつらいね

   最後に、ここの神社のご祭神は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)と可美美真手命(うましまでのみこと)で、神話では初代天皇神武東征以前に天磐船(あまのいわふね)に乗って河内、大和に降臨していたというから語れば尽きない。話は尽きないのでそれはいずれ後日に。

  切に願う長蛇の先の初詣
   石切は「でんぼの神さん」と言われていたが、でんぼ=腫れ物=癌という方程式が広まっている。私は退散したが、長蛇の最後尾に並ぶ人々の祈りは切実なのだろう。

2020年1月1日水曜日

淑気


 臘梅や深呼吸して生きている
 今シーズンは残暑のせいか、わが家の臘梅の開花が遅かった。そのおかげで丁度お正月と重なって「結果よし」どころかバンザーイと喜んでいる。

 ドアを開けて庭に出ると臘梅の香りが静かに漂ってくる。
 それは金木犀のような強さでなく、といって物足りなくもない心地よい香りである。
 「淑気」というのは香りのことではないだろうが、淑気を香りにすればこのようなものではないだろうかと思わせる香りである。

 私は悪筆のためどちらかというとメール派だが、メールではこの香りが遅れない。
 やはり封筒に花びらでも入れるしかないか。

 臘梅は臘月(12月)真冬の花である。そしてこの淑気を思わせる香りである。
 一般に冬は心身を鬱にする。その冬にこの香りを嗅いで日脚の伸びるを見届けるとお正月。で、ああ1年を過ごせた、生きている!と私は思う。
 本年もどうかよろしくお願いいたします。