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2026年8月30日日曜日

理系の論理

    5世紀の「倭の五王」のことだが、同時代の記録(文章)が日本にはないものだから、712年に完成した古事記、720年に完成した日本書紀と 、488年に完成した『宋書』倭国伝とを照らし合わせながら五王が書紀等にいうどの天皇かが論じられてきた。
 ところが、大きくは、百舌鳥や古市に大古墳を築いてきた「天皇」ということでは異論がなさそうだが、細部では『宋書』『梁書』に記録されている天皇の系図と、書紀等の系図が微妙に異なっている。
 そんな中でも、讃、珍、済、興、武の最後の武は雄略だろうということは多くの学者が認めている。
 その理由はいろいろあるが、古事記の「大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)」、日本書紀の「大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)」の書紀が採用している「幼武」の「武」を中国風に名乗ったのだろうと言われている。
 しかし、そのような日本名の一字を名乗ったなら他の王もそうかというとそうでもなく、そもそも埼玉稲荷山鉄剣の金鐯銘は「獲加多支鹵大王」であるから、「幼武」のような訓読みはしていないから、訓読みの漢字はなかったのではないか。
 多くの学者が認めているというが、私にはその根拠となる理屈がもう一つ納得できない。その理屈だては理系の論立てだと×ではないか。

2026年7月4日土曜日

続 皇室典範

    今まで議論さえされてこなかった内容の皇室典範改正案が国会でごり押し決定されようとしている。
 朝日新聞の報道だと、旧11宮家のうち、未婚の男系男子がいると思われるのは、嘉陽宮家、東久邇宮家、久爾宮家、竹田宮家で、その男子が、皇族(天皇家(内廷)、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家)の養子となって男子が生まれたならば皇位継承権があるという内容だ。
 旧宮家の男子は存じ上げないが、旧宮家のその人が皇族の未婚女性と結婚(養子)し、男子が生まれれば天皇候補だという。
 ちなみに、皇族である三笠宮妃は政治家麻生太郎氏の実妹である。
 実在の人を挙げて申し訳ないが、愛子さんは絶対に天皇にはしないが、麻生氏の孫は天皇になり得るのである。
 中世、藤原北家による摂関政治を想像するのは心配性だからだろうか。
 朝日新聞掲載の図のとおり、旧宮家というのは約600年前、南北朝時代の北朝の第3代崇光天皇から分かれた家系だ。
 南朝と北朝どちらが正当かという学術的議論はしないが、約600年前に別れた家系だけが「宮家」というのも不思議なものだ。
 中世の宮廷社会では多様な男女関係が奔放であったから、「宮家の男子」に他と区別されるような要因はない。
 愚管抄の記録によれば、鳥羽院は、近衛天皇が亡くなった折、鳥羽天皇の娘八条院暲子を女帝として即位させようと真剣に考えたという。実際八条院の宮廷は盛隆であったらしいから、21世紀の右翼の人々の時代おくれは極まっている。
 そんな時代劇のような話をするまでもなく、頑なに女性天皇を拒否するのは圧倒的な社会常識に反している。
 

2026年6月25日木曜日

ニセ伝統に注意

    6月14日に『伝統という言葉』を書いたが、昨今の皇室典範をめぐるニュースを見ていると、いわゆる男系男子などという時代錯誤が大手を振っているようなので、6月14日の続きを書くことにする。

6月13日早朝の『ラジオ深夜便』で大阪天満宮文化研究所所長のインタビューが再放送されていて、天神祭りの話などを楽しく聴いたが、その中に、「無実の罪で追われ恨みを抱える天神様(菅原道真)に同行する神輿には、天神様が荒ぶった際におさえるために天台座主「法性坊(ほうしょうぼう)尊意」を乗せていた」というのがあった。
法性坊尊意は道真の仏教学の師であり、大旱魃に雨を降らせたり、平将門の乱の折には将門を調伏した実力者であった。大天狗とも言われていた。

「伝統」という言葉を使うならこれが元々の「伝統」なのだが、しかし明治の神仏分離によって変更(法性坊尊意は退場)せざるを得なくなり、結局、日本書紀に登場する相撲の神「野見宿禰(のみのすくね)」に交代。さらには神輿を増やして、日本神話の力持ちの神「手力雄命(たぢからおのみこと)」も加わって現在に至っている。
普通には庶民はそれを949年頃からの伝統のように思っているが、真実は明治の神仏分離令以降のスタイルなのである。

私の言いたいことは、伝統行事は古代や中世に帰るべきだというようなものではなく、変化するのは悪くはないが、それを中世以来の「伝統」だなどと嘘を言うな!ということである。
『虎に翼』の台詞つまり戦前の民法は「既婚の女子は無能力者」であった。
そんな思想を伝統だなどと言って、現皇后にも「男子を産め」と攻め立ててきたのではないかと想像するが、たかが明治以降のしきたりを「伝統」という言葉で思考停止させるような皇室典範改正には良識ある現代人はNOを言うべきだろう。

2026年6月15日月曜日

黒塚古墳の被葬者を考える

    数か月前に小笠原好彦先生から「黒塚古墳の被葬者を考えよ」という宿題が出されたので、改めて黒塚古墳、同展示館、山城の祝園神社 等を訪れ、このブログで2月17日『黒塚古墳の被葬者を考える』、2月21日『黒塚古墳の時代』を書き、骨子をいうと「古墳時代最初期である日本書紀崇神紀の大きな戦であった武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱に勝利した武人彦国葺(ひこくにぶく)こそが被葬者ではないか」と考え、その旨を記したペーパーを先生に提出しておいたが、先日の講座で先生から次のとおりの講義がなされた。

 非常に粗っぽく聴いた骨子を書くと・・
 1 黒塚古墳の石室には天井石がなく板石を合掌型に組んだものであって、それらのことから考古学会の定説は古墳時代最初期、3世紀後半の築造とされているが、最初期の前方後円墳の石室に天井石が用いられているものがあるから、合掌型の石室であることをもって最初期、3世紀後半と考えるべきでなく、多くの古墳の石室に天井石が採用されている時代(4世紀前半)ではあっても、例外的に、板石合掌型を好んだ工人集団によって築造されたものであろう。

 2 柳本・箸中古墳群には40基ほどの前方後円墳があるが、このうち、大和平野の方向である西向きの古墳は、箸墓古墳、行燈山(あんどんやま)古墳(崇神陵か)、渋谷向山古墳(景行陵か)、という大型古墳と黒塚古墳の4基のみである。つまり黒塚古墳の被葬者は天皇に準ずる高位の人物と言える。

 3 上記に相応しい人物を崇神、垂仁、景行紀に求めると、垂仁紀にある五十瓊敷命(いにしきのみこと)がいる。
 五十瓊敷命は垂仁と日葉酢媛(ひばすひめ)の長男で、次男である景行(大足彦命・おおたらしひこのみこと)に天皇位を譲った者である。
 後の例だが唐の李憲と玄宗皇帝の例では、李憲が没すると玄宗は譲皇帝(じょうこうてい)の諱(いみな)を贈り、皇帝の衣装を着せ、皇帝に準じて葬儀をさせた。
 五十瓊敷命は景行にとっての李憲・譲天皇であったのであろう。

 4 「西向き」の意味は、水野正好先生の意見にあるように、前天皇の葬儀が終わると新天皇の即位が周知され、新天皇は「国見(くにみ)」をしたであろう。故に柳本・箸中古墳群の天皇陵と推定される古墳は国=平野である西向きとなったのであろう。

 ・・・以上が骨子と思われるが、考古学的な証拠はもう一つ十分ではないように思う。
 確かに、副将軍クラスの彦国葺にしては、立地条件がよすぎるという問題はあるが、四道将軍の例もあるから、そういうこともあったと考えられないか。
 「合掌型石室をもって最初期・3世紀と断ずるのは早計」との指摘は傾聴に値するが、テーマは十分に解明されたようには感じない。
 まあ、だから古代史は面白い。

2026年6月14日日曜日

伝統という言葉

    6月13日の朝4時5分から、NHK『関西発ラジオ深夜便』で大阪天満宮文化研究所高島幸次所長のインタビューが再放送され、天神祭りの話などを楽しく聴いた。
 その中で、天神祭りに関わって「伝統は常に変革を繰り返す」という話があり、例え話で「天皇即位の装束というと平安時代のイメージがあるが、明治天皇の前の孝明天皇までは中国皇帝の装束だった」という話が新鮮だったので、その装束である【袞冕(こんえ・こんい)十二章】というのを調べてみた。・・摘んでいうと・・・
 
    🔳 袞衣(こんえ、こんい)とは、天皇が即位の礼や朝賀などの儀礼で冕冠(べんかん)とともに着用した礼服である。
 冕冠と袞衣を合わせた装束は冕服(べんぷく)、袞冕(こんべん)とも呼ばれ、袞冕十二章とも称された。
 弘仁11年(820年)の嵯峨天皇の詔では、神事には帛衣、朝賀には袞冕十二章、諸行事には黄櫨染御袍を用いることが定められた(『日本紀略』弘仁1122日条)。
    袞衣は当初は朝賀に用いられたが、のちには即位の礼でも着用するようになった。袞衣は孝明天皇の即位の礼まで使用されたが、明治天皇以降は即位の礼では一般に黄櫨染御袍が用いられるようになった。 
 頭上には、五色の玉を以って飾る冕冠(べんかん)をかぶり、身には袞衣(こんえ)を召され。袞衣は表衣と裳からなり、表衣(赤色の礼服)には、袞龍(こんりょう)と呼ばれ両袖に龍の縫い取りがある。日・月・七星・龍・雉(華虫)・山・火・虎と猿(宗彝そうい)の八章、裳には藻・粉米・斧(黼ふ)・己(黻ふつあや)の合わせて十二章を附ける。🔳

    本稿の主眼は「皇室の装束」ではないのでこれ以上深入りはしないが、昨今、皇室典範の改正問題をめぐって、いわゆる保守と自称されている方々が明治から昭和の敗戦までの事々をまるで古代や中世以来の「伝統」というように言うことが多いが、この明治から昭和前期までの時期というのは日本歴史でいうと「あだ花」のような例外でもあったわけで、その時代のことをもって軽々に「伝統」などと言う者は、歴史について決定的な勉強不足の者か、あるいは別に「下心」がある主張ではないかと思ったところである。

 私は皇室のあり方を古代に戻せ中世に戻せと言っているわけではない。それよりも、冒頭の高島氏の主張のように、伝統は変革されてよいとの主張に大いに同意する。
 ただ一言、伝統でもないことを「伝統だ」の一言で問答無用にすることには大いに反対する。

 図は上から、
 ● 袞冕十二章を身にまとう霊元天皇。『霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風』より
 ● 袞冕十二章を身にまとう後三条天皇(石本秋園『大礼服着御図』)
 ● 孝明天皇の袞衣(大袖と裳)
 ● 令和元年の『黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』(明治以降の装束)


2026年3月15日日曜日

考古学の現代史

    先週、「文化財保存全国協議会(文全協)」の歴史講座に行ってきた。今回の講座は昨年亡くなられた都出比呂志氏追悼と銘打った講座であった。 
 そのためでもあるし私の勉強不足もあり、都出比呂志氏の解き明かした学説の内容よりも、考古学黎明期の先学・都出比呂志氏の生き方、考古学・日本史学の現代史を興味深く聴いた。

 美濃部達吉氏の天皇機関説や津田左右吉氏の一連の古事記及び日本書紀の研究のことはこれまでも書いてきたが、一言でいえば、それらは戦前の天皇制を批判するものでもなかったし、只々学問的に考察しただけのものであったが、戦前の政治体制はそれさえも許さずにいた。
 そういう「天皇は現人神である」として、神話さえ「歴史である」「科学である」と一切の批判を許さなかった政治体制が終わり、日本国憲法下の科学的な観点で日本の歴史を解き明かそうとした人々の現代史として、都出比呂志氏や考古学の実際を聴くのは楽しかった。

    その時代、教条ではなく、フリードリヒ・エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源」が学ばれ、議論されていたという事実も新鮮な話だったので、帰宅の後、書架から都出比呂志著「古代国家はいつ成立したか」を引っ張り出してきた。

 世界考古学会議執行委員の岡村勝行氏が紹介された都出比呂志氏の経歴では、氏は、学問として考古学を深められると同時に、京大文学部教職員組合の支部長として鋭く権力批判を行われ、かつ、各種の遺跡保存運動でも奮闘されたとのことだった。
 それ故か、京大当局には昇進差別をされ、氏は滋賀大そして阪大に移られた。その後の華々しいほどの活躍の話は割愛するが、結果、阪大の考古学教室は大きく発展した。

 さて現代は、新聞社や自治体などが多くの歴史講座を開催しているが、それを単なる余暇のための「教養講座」にしていてはならないというか、先輩たちに申し訳ない気持ちを抱いて冬の京都から帰ってきた。

2026年3月14日土曜日

大砲は土の中

     2013713日に【維新と大砲】というタイトルで、大要次のような記事を書いた。
🔳 明治維新のとき大和國鎮府総督が廃仏毀釈の音頭に乗って、大仏殿をブッ飛ばしてやろうと大仏殿の正面に大砲二門を置いたとき、近くに住んでいた中山忠愛朝臣が「我は中山大納言なり、先ず我が身より撃て」と立ちはだかったところ、勤王藩士は公家の名を聞くや恐懼して退散した。
 この逸話に因んで奈良の人吉村長慶が、大砲を踏み押える石灯籠を東大寺に寄進したのだが、太平洋戦争敗戦時、進駐軍基地や施設の設けられた奈良や東大寺において「大砲付きの灯籠は不適切だろう」と東大寺が灯籠の下部を土中に埋めて今に至っている。
 故に灯籠の文字もさらには寄進者の文字も不自然に「吉村長」で切れていて、台座の下部は全く埋められている。🔳

 さて先日、大仏殿に行って驚いた。ここ数か月、大仏殿前のこの灯籠周辺を含む広場の整備工事をしているのは知っていたが、その結果、この灯籠には新たなコンクリート製の土台が増強されていた。場所ももしかしたら若干移動したかもしれない。確かに元の灯籠の土台あたりが欠けたりしていたからいろんな「気遣い」があったのかもしれないが、一旦掘り出したのならどうして大砲(横向きの石の円柱?)を元どおり見えるようにしなかったのだろう。
 吉村長慶は新興宗教を唱えたりしたから関係者?はいろんなことを蒸し返されたくないという気持ちがあったのだろうか。そうだったとしたら面白くない。 
 
 吉村長慶については、2019330日【二聖よ起きよ】でも大要次のことを書いた。
🔳 吉村家は、奈良町の徳融寺の檀家総代であったらしいが、ここの山門を入ってすぐの『世界二聖・大日如来像』という大きな石のレリーフは吉村長慶が昭和12年に建立したもので、なんと、釈迦 と十字架を背おったキリストが横臥し、マント姿の吉村長慶が二人の間に割り込んで「あなた方が寝ている時ではない。はやく起き上がってこの世の乱れを救ってください」と胸をゆすっている。讃文は「軍馬の嘶(いなな)きは則ち国を亡ぼす」である。終戦まで寺では、讃文が官憲の目にふれると大変なことになると、レリーフ全体を板で囲って秘仏としていたと。🔳

 現代世界は、釈迦もイエスもマホメットも起きよ!と言いたいほど乱れている。この国もガムシャラな軍拡路線に舵を切った。
 そんなとき思うのは、東大寺の歴史も奈良時代だけが大切なのではない。近現代のこんな歴史の一コマ・・大砲を踏みつけた灯籠もちょっとした歴史だろう。せっかくの工事の機会があったのだから元の形で灯籠を復活させてもよかった気がする。
[以前の写真]


2026年2月21日土曜日

黒塚古墳の時代

    日本書紀が第
10代と書いている天皇の名は、ミマキイリビコニエであり、諡号(しごう・おくり名)は御肇国天皇(はつくにしらす天皇)。後に付けられた漢字の名前が崇神天皇である。
 この御肇国天皇という諡号からも、神武天皇の物語と欠史8代の天皇というプレ大王時代を経て、事実上の初代大王(天皇)は崇神天皇であろうと言われており、日本書紀崇神紀には、プレ大王時代を含む大和王権の最初期の征服戦争の記録と記憶が反映しているとみられる。
 日本書紀以前には、現存はしていないが「帝紀」などがあったのは確かであるから、少なくとも歴史の欠片は書紀にはあるはずだ。
 考古学的には、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(290m)が大和の東南部に最初に築造されたのち、前方後円墳の時代が始まり、その次の次の巨大前方後円墳である行燈山古墳(242m)が崇神陵だとの意見が多いが、黒塚古墳(全長約134m)は、同時期もしくはそれ以前にが築造されている。
 岸俊男氏による旧豪族分布図によると、以上の古墳は全て三輪山の麓の纏向にあり、北に接して物部、その北に柿本や和珥などの豪族がいたとしている。
 それらの年代であるが、魏志倭人伝では卑弥呼の死は250年ごろ3世紀半ばと考えられ、箸墓古墳は3世紀中盤~後半と考えられている。これらのことから、倭人伝の卑弥呼の死後大いに乱れその後台与が立ったころから権力の集中が始まったのではないか。
 ただ、倭人伝と記紀は合わないので、神聖政治の台与の時代の後、本格的に権力を集中した大王の時代が始まったとも考えられ、その先頭に崇神がいたと考えられる。
 ということで、17日の記事の補足ナリ。
 写真は黒塚古墳石室発掘時のレプリカ。

2026年2月17日火曜日

黒塚古墳の被葬者を考える

    わが国最古の歴史書は日本書紀であるが、それは神話から始まっているし、第二代から第九代までの天皇にはさしたる記事もなく「欠(闕)史八代」と呼ばれているし、世界中の歴史書同様潤色も多く、かつ書紀編纂当時(奈良時代、養老
4年、720年)の勝者の論理が反映している。
 さらには太平洋戦争の敗戦までは、それを絶対的史実として批判を許さなかったものだから、反対に現代では、古代史を科学的に考える際、日本書紀を参考にするなどもっての外という意見もある。
 だがしかし、埼玉(さきたま)稲荷山鉄剣の金鐯銘では、辛亥年(471年)にこれを作る。自分はワカタケル(雄略?)に仕えてきた。七世前の上祖はオホヒコだと読めて、それは日本書紀の記述と矛盾しない。
 さて、その日本書紀崇神紀には崇神天皇が4人の将軍を全国に派遣して征服戦争を行ったことが次のように書かれている。

    【崇神九年九月九日、大彦命(オオヒコノミコト)を北陸道に、武淳川別(タケヌナカワワケ)を東海道に、吉備津彦(キビツヒコ)を西海道に、丹波道主命(タニワノミチヌシノミコト)を丹波(たんば)に遣わされた。
そして、詔(みことのり)して「もし教えに従わない者があれば兵を以て討て」と言われた。
それぞれ印綬(しるし)を授かって将軍となった。】 

これに関して小笠原好彦先生は、「3世紀に文字どおりの印綬(いんじゅ)はあり得ないだろうから、最初期の前方後円墳である桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳などから発掘された儀仗形石製品こそ大王から委譲された権限を象徴するレガリア=印綬(しるし)であったであろうと指摘されている。(黄門様の印籠をイメージされたい)
その後よく似た儀仗形製品は副将軍と推定される古墳からも発掘されている。
 
続いて日本書紀は、【大彦命は和珥の坂(わにのさか、もしくは、山背の平坂)に着いた。
時に、少女が歌った。ミマキイリビコハヤ、オノガヲヲ、シセム卜、ヌスマクシラニ、ヒメナソビスモ。御間城入彦(ミマキイリビコ、崇神天皇)よ。あなたの命を殺そうと、その時を窺っていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。
そこで大彦命はこれを怪しんで少女に尋ねた。
「お前が言っていることは何のことか」
少女は答えた。
「言っているのではなく、ただ歌っているのです」
またその歌を歌うと、急に姿が見えなくなった。
大彦は引き返して、その仔細を報告した。
天皇の姑おばである倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は聡明で、よく物事を予知された。
その歌に不吉な前兆を感じられ、天皇に、「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反を企てている兆候であろう。聞くところによると、武埴安彦の妻である吾田媛(アタヒメ)がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾(ひれ(女性が襟から肩にかけた布))の端に包んで呪言(のろいごと)をして、『これは倭の国のかわりの土』と言って帰ったという。これでことが分った。速やかに備えなくては、きっと遅れをとるだろう」と言った。
そこで諸将を集めて議せられた。
幾時もせぬうちに、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。
それぞれ道を分けて、夫は山背(やましろ)より、妻は大坂(おおさか)から、共に京(みやこ)を襲おうとした。
そのとき、天皇は五十狭芹彦命(イサセリヒコノミコト(吉備津彦命))を遣わして、吾田媛の軍を討たせた。
大坂(おおさか)で迎えて大いに破った。
吾田媛を殺し、その軍卒を尽く斬った。
また、大彦と和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。
そのとき、忌瓮(いわいべ(神祭りに用いる瓮))を和珥(わに)の武録坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。
そして、官軍が多数集まって草木を踏みならした。
それでその山を名づけて奈良山とよんだ。
また 奈良山を去って輪韓河(わからかわ)に至り、埴安彦と河をはさんで陣取り挑み合った。
このことから、当時の人は改めて、その河を(挑河いどみがわ)と呼んだ。
今、泉河いずみがわというのは、これが訛ったものである。
埴安彦は彦国葺に尋ねた。
「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」
彦国葺は答えた。
「お前は天に逆らって無道である。王室を覆そうとしている。だから、義兵を挙げてお前を討つのだ。これは天皇の命令だ」
そこでそれぞれ先に射ることを争った。
武埴安彦がまず彦国葺を射たが、当らなかった。
ついで彦国葺が埴安彦を射た。
これが胸に当って殺された。
その部下たちは怯えて逃げた。
それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。
屍が溢れた。
そこを名づけて羽振苑(はふりその(屍体を捨てた場所。今の祝園))という。
また、その兵たちが恐れ逃げるとき、屎(くそ)が襌(はかま)より漏れた。
それで甲をぬぎ捨てて逃げた。
逃れられないことを知って、地に頭をつけて「我君あぎ」(我が君お許し下さい)といった。
当時の人は、その甲を脱いだところを伽和羅(かわら)と言った。
揮から屎が落ちたところを屎揮(くそばかま)と言った。
今、樟葉(くすは)と言うのは、これが訛ったものである。
また地に頭をつけて「我君あぎ」といったところを「我君わぎ」(和伎わきの地)という。】
 
    本題に入る。
小笠原好彦先生は古代史講座の受講生に対して「黒塚古墳の被葬者を考えよ」と宿題を出されたので、以下が私の答案骨子である。
黒塚古墳は初期の大王墓(後にいう天皇陵)である行燈山古墳などのある柳本古墳群にあり、全長134ⅿと超巨大ではないが、竪穴式石室、巨木をくり抜いた木棺、川原石と板石による合掌式の石室、三角縁神獣鏡ほか大量の銅鏡の埋納などから、白石太一郎先生の分析などではその中でも最初期(3世紀後半)の前方後円墳だとされている。
そこで私は、同古墳と、同古墳展示館を訪れた。一番確認したいことは「謎のY字型鉄製品」だった。展示館には精巧なレプリカが展示されていた。
材料は異なるが、それは桜井(外山)茶臼山古墳出土の儀仗形鉄製品とよく似た特徴的な頭であった。四道将軍や副将軍の古墳から出土したものと類似したレガリアに相違ない。
また副葬品には刀、剣、鏃(鉄製の矢じり)等々の武器が多く、武人であることも間違いない。
とすれば、崇神の命により山背で武埴安彦を討った和珥氏(わにのうじ)の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)こそが黒塚古墳の被葬者ではないか。ヤマト王権最初期の大きな戦の英雄?だった。
和珥氏の系図では、彦国葺は、第5代孝昭天皇の4世の孫とあるから(第8代孝元天皇の皇子とも)、崇神の時代にはいわば皇族であって、柳本古墳群内に古墳築造を許されたのではないか。(後の和珥氏一族の支配地域は天理市北部から山背や近江等に拡大し、その中に柳本が含まれるかどうかは解らないが、例えば天理市和邇町や和珥池もそれほど遠方でもない。和邇下神社もある)
その和邇の土地は膳臣の土地でもあり、膳臣は大彦命についた副将軍でもあったから、和珥氏も大王家の近親であったのではないか。あるいは墓域についてのルールが確立される前であったので、大王陵(天皇陵)の近くに築造することができたと考えられないだろうか。
この推測を補強するものはないかと、別途、戦場と思われる山背(京都府精華町)の祝園神社を訪れたが由緒の割には無人であった。なお祝園神社の『いごもり祭』は武植安彦の魂を慰め豊作を祈る神事として、京都府の無形民俗文化財に指定されている。
祝園神社の少し南方の『いごもり祭のとんど会場の広場』には、『崇神帝十年役 武植安彦破斬旧跡』という石碑が静かに立っていた。
いごもり祭といい、この石碑といい、少なくともこの地には武植安彦の伝承が生きていた。
答案用紙どころか、感想文もどきの変な文章になってしまった。

追伸 歴史講座で席を同じくしていたFさん、黄泉の国でこれを読んで笑ってね。

2026年2月8日日曜日

天皇機関説タイフーン

    2月7日の朝日朝刊「読書」のページに平山周吉著『天皇機関説タイフーン』の書評(有田哲文評)があった。そこのタイトルは『「小さい」人物が導いた戦争の道』だった。 
 印象的な部分を若干紹介すると・・・
 🔳「戦争を起こして日本をこんなにしたのは軍人ばかりが悪いのではなく、日本中の男という男がみな卑怯だったからです。わたくしはそう思います」 発言の主は美濃部民子🔳
 さて私は、井上光貞著「わたくしの古代史学」という本を持っている。
 井上光貞は小笠原先生に言わせるとあだ名が「井上皇帝」であったらしく、父は桂太郎の三男、母は井上馨の長女というエリート。
 「わたくしの古代史学」には要旨こうあった。
 🔳2.26事件の前年、貴族院議員でもあった美濃部達吉博士は天皇機関説を槍玉にあげられ、・・父は貴族院議員であったので、先生が貴族院でなされた「弁明」を聞いた。父は先生が滔々と自説を述べ、学説を一歩も曲げなかったので、議場は粛然として先生の去るのを惜しんだ、と聞かせてくれた。🔳
 なるほど、前記の書評の民子夫人の指摘と符号が合う。
 貴族院の超エリートたちも軍部の難癖が不当だとは思っていたのである。だがしかし、揃いも揃って「卑怯」だったし、新聞もそうだった。

 今日、衆議院議員の選挙がある。首相与党が政策討論の場を逃げて、初の女性首相などという「人気」を前面に、チラチラと「得票が増えれば軍備増強と憲法改悪を強行する」と述べることで、「信を得た」というつもりだ。
 与党自民党の中にも「これではよくない」と思う人もいると思うが、高市氏のえげつない「石破内閣議員干し上げ」「旧安倍派裏金・教会議員の勢い」に怯えて口をつぐんでいる。
 権力がチラチラ見えてきたので「安保法制」も「原発」も認めた潮流も同じこと。
 将来の歴史家が、「あの時代の人間という人間が卑怯だったから」と言わせないように、戦争に向かったあの時代を学びなおす必要がありそうだ。
 と言いながら、ちょっと飲みに行って「割り勘3000円は安かったなあ」と言いつつ、「天皇機関説タイフーン」講談社3080円にはちょっとたじろぐ小さい男がここにいる。

2026年1月17日土曜日

胡姫酒肆

    先日、漢、唐の長安城の市(市場)について講義を受けたが、そのレジュメの中に、西市の中の「行(こう)」の分布図があった。
 行とは市場の中の果物屋とか肉屋とか同業者による商店街のようなものである。
 古代中国の市場であるから基本的には壁に囲まれているのだが、その西門周辺に、〇〇食店というのと並んで酒肆や胡姫酒肆とあったので、李白の「少年行」を思い出した。

  「少年行」 李白
   五陵年少金市東  
   銀鞍白馬度春風  
   落花踏盡遊何處  
   笑入胡姫酒肆中 
 
 五陵の年少 金市の東
 銀鞍 白馬 春風を度る
 落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ
 笑って入る胡姫の酒肆の中

「五陵の豪族の子弟らが東市を行く、白馬に銀の鞍をつけ春風を受けて進んでいく、落花を踏みつくして一体どこへ行こうというのだ、笑いながら入っていくのは胡姫のいる酒肆の中だ」
・・李白が詠んだのは東市だが、子弟らが入っていったのは胡姫酒肆だった。そして長安はクルド人など胡姫の居る西域に近かった。キャバレーかショーパブといったところだろうか。胡旋舞などの言葉は今もある。
さらに城壁に沿っては、公の記録にはなかっても安宿と歓楽街があったともいう。
古い古い古代史の勉強が、いやに解りやすいイメージになってきた。
(掲載した図はネットにあった「井出敏博の日々逍遥」にあったもの)

2026年1月15日木曜日

古き仏たち

    菊の香や奈良には古き仏たち 芭蕉 といわれるが、仏像を信仰から離れて鑑賞するのも面白い。と、・・少し不遜なのは申し訳ないが。
 例えば興福寺の阿修羅像。20世紀初頭にピカソらが唱えたキュビズムが人間の顔を多面的に描いたが、すでに奈良時代の仏像はひとつの体にいくつもの顔を持っていた。これって考えると至極納得。キュビズムの先駆かも。

 私が子どもの頃の漫画に「未来の飛行機」というのがあって、それには長い翼とそこにプロペラがいくつもついていたが、人間の発想というか想像力は昔もよく似たもので、各地の千手観音というのは、こういう力もある、ああいう力もあるというのを形にしたらそうなったのだろう。
 その発想を「単純だ」というのではなく、人知を超える知恵や働きを文字以外で伝えるのには適切だったのだと思う。

 服装(着物)の文化でいうと、多くの埴輪は左衽(さじん・左前)であったが、719(養老3)年に右衽※とされて今日に至っている。ところが古い仏像には右衽も左衽もあるから、律令など浸透していなかったのか、それとも仏師のこだわりか? きっと前者ではないか。
 そもそも左衽は中国の北方民族=夷狄の風俗とされていたが、騎馬民族の戦闘力が格段に勝っていたので、紀元前3世紀、趙の武霊王は胡服騎射を採用したとあるので仏教の守護神四天王に左衽が見られないかと注目しているが、戦闘服のためもうひとつよくはわからない。
 ・・・というようなことを考えながら、実生活には何の効用もないが、奈良の古刹を巡っている。

右衽(うじん)を右前(みぎまえ)という。前の相手の人から見て右側の衽(おくみ・襟)が上であるからという説明もあるが、前という字には先という意味もあるから右の襟を先に合わせてから左を上に合わせるという意味で右前だと思う。

2025年12月14日日曜日

続明日香の天皇陵古墳

    12日に明日香の古墳についての小笠原好彦先生の講義内容の結論だけを書いたが、私自身十分消化しきれていない点が2か所ある。高松塚古墳と束明神古墳である。

 その1 高松塚古墳の被葬者は忍壁(刑部)皇子だと推定されるということについてである。
 壁画の男子群像の一人は(主人のために)葢(きぬがさ)をさしている。葢は深い緑色で太い緑色の組紐の房が垂れているが、時代は下るが養老律令の儀制令ではこれは一位の官人に相当し、親王は紫である。藤原京の後期と推定される築造時期にこの養老令の考え方ができていたかどうか、あるいは劣化していた壁画の作成時の色がほんとうに緑色であったかどうかという不明点があるが、養老元年(717年)に亡くなった左大臣石上(いそのかみ)朝臣麻呂(まろ)は従一位を追贈されている。
 石上麻呂は、710年平城京遷都の際は旧都の留守役と、藤原不比等らによって事実上干されたため、物部一族が薄葬令下で最高の古墳を造ったのではないかとの考えもできる。ただ、いくら従一位追贈といえども明日香檜隈の地に官人が墓を造れただろうかとの疑問もある。

 その2 束明神古墳の被葬者は草壁皇子だという点についてである。
 古墳の築造時期、そして残っていた歯から青年から壮年にかかることが判っていることから、珍しく非常に多くの支持を得ている説である。
 私の疑問点は、持統によって、実力者大津皇子を殺してまでの次期天皇の本命中の本命草壁皇子(岡宮天皇と没後追尊)なら、どうして明日香檜隈のど真ん中(藤原京の中軸線)でなく、遠くはないとはいうものの、明日香とさえ言い難い佐田の地に葬られたのかという点だが、小笠原先生もその点は「持統の怒りを買ったことがあったのであろう」と想像されている。
 図書館にて『懐風藻』を読んでも明らかに大津皇子よりは見劣りのする凡庸な皇子であったようだが、岡宮天皇と没後追尊されるぐらいの皇子にしては立地条件が低すぎる。
 
 これらのことについて、大方のご意見を賜りたい。

2025年12月12日金曜日

明日香の天皇陵古墳について

    飛鳥の古墳について講義を受けた。後日の自分の記憶のために小笠原先生の結論だけをメモっておく。
 1 明日香は基本的に蘇我氏の土地であった(配下の東漢氏を含む)。故に大王(天皇)といえども他人の土地に墓は造れなかった。
 2 藤原京築造のデザインの時代以降は中国の思想に学んで、京内に墓は造れなかった。
 3 終末期の大王(天皇)陵は、主に河内の磯長等であった。
 4 明日香には、一時、舒明や推古の陵が築造されたが、蘇我入鹿は後に明日香の外へ改葬した。
 5 天武は東漢氏を強く叱責したが、後に東漢氏を率先して連にした。この過程で東漢氏の土地である明日香の檜隈が天武に献上されたと考えられる。以降、明日香(檜隈)に天皇陵の土地が寄贈された。例天武・持統合葬墓。
    6 明日香村川原にある終末期古墳小山田古墳は、後に桜井市忍坂に改葬された舒明陵である。
 7 五条野にある植山古墳は、後に河内の磯長の山田陵に改葬された推古・竹田皇子の陵である。
 8 高松塚古墳は、天武の皇子(四男)の忍壁皇子の陵である。
 9 キトラ古墳は、弓削皇子(九男?)の陵である。
 10 中尾山古墳は、草壁の子の文武天皇陵である。
 11 伝文武陵は、近江朝大友皇子(天皇)の子であるが、草壁皇子擁立に功績のあった葛野王の陵である。
 12 マルコ山古墳は、天武の子の河島皇子の陵である。
 13 束明神は、天武の第二子で持統との間に生まれた草壁皇子の陵である。
 14 天武の長子の高市皇子の母は地方豪族の出自であるからとりあえず陵の論外となる。
 15 大津皇子は、持統の姉の大田皇女と天武の子であるが、謀反との事件で死を賜り二上山に葬られた。
 以上の結論がなぜそのように考えられるかについてはブログ容量が足りない。機会があれば個別に書いてみたいが今日はここまで。

2025年12月4日木曜日

謎の円墳見学会

    奈良市の富雄丸山古墳見学会に参加した。
 時代は発掘された須恵器の年代測定等から4世紀後半、ということは百舌鳥古市古墳群築造の前夜。
 場所は後年の難波の津から大和に向かう暗峠(くらがりとうげ)越え奈良街道で奈良盆地に入ったところ。北東には遠くなく佐紀盾列古墳群があるので同古墳群の西の端と考える説※もある。
 日本最大級直径109mの円墳で前方後円墳ではない。
    近年墳頂部ではない「造出し(つくりだし)」部分から割竹形木棺、世界最大の蛇行剣(だこうけん)や前例が知られていないような鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう
)、さらに3面の銅鏡などが発見されている。
 墳頂から西を向くと生駒山(暗峠)、東を向くと若草山が望め、古墳の立地条件としては特等席に感じられる。
 造出し部分は形を留めていて、パンフレット等で見た出土品の出土状況がリアルなほどに想像できた。埴輪の破片や葺石も積み上げられていた。
    出土品の整理や墳丘の復元などが完成するのは10年以上先と思われるから、頭の中でバーチャルメガネのように組み立てておこう。

※ 「佐紀盾列古墳群の西の端」という説には魅力を感じている。その訳は、
1 北北西直線距離2.5kmのところに添御縣坐神社があり、この辺りは添の縣の可能性がある。
2 佐紀盾列古墳群の一画にも添御縣坐神社がある。
3 佐紀盾列古墳群の古墳は大王クラスの古墳群である。
4 富雄丸山古墳は最大の円墳である。
5 主要である墳頂ではない造出しから出土した銅剣や銅鏡は類例のない立派なものである。
6 これらのことから、単なる有力首長(豪族)以上の人物が墳頂に埋葬されたと考えられる。



2025年9月18日木曜日

神功皇后陵散歩

    先日来、大和の馬見古墳群にある島の山古墳の被葬者について、小笠原好彦先生の説を踏まえて、後円部には神功皇后の父の息長宿禰王が、前方部には母である葛城高顙媛(たかぬかひめ)が、喪主・神功皇后によって被葬されたのではないかと考えられると書いた。
 神功皇后は、戦前はいわゆる三韓征伐などの記述をもとに侵略戦争の「正当性」の証人のように扱われ、その反動で今日に至る戦後は、多くの歴史学者によって存在自体が否定されている。
 故に、理性的で実証主義的な立場の小笠原先生が「神功皇后は実在した」と述べられていることは、見ようによっては爆弾発言かも知れない。
 そんなこともあり、先日、神功皇后陵まで散歩に出かけた。
 例によって宮内庁の治定(じじょう)であるから問題があるのだが、奈良市山陵(みささぎ)町にある「神功皇后狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)は墳丘長267mで全国で12位の大きさの前方後円墳。4世紀末築造とされている。
 写真は前方部正面だから、巨大な丘というか森でしかない。
 周囲にも森(実は古墳??)が多く、ツクツクホウシが大合唱を繰り広げていた。
 それはさておき、仲哀天皇や応神天皇の陵が古市古墳群にある(移った)のに、あえて一時代前の天皇一族の墓域である佐紀盾列古墳群に築造されたのはどうしてだろう。この古墳群の地域には、小さいながらも葛木神社というのがあるが無関係だろうか。
 この墓域には、仁徳天皇の皇后(二人の内の一人)で、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の母でもある磐之媛陵もあるから、文献上は不思議はないけれど。

2025年9月14日日曜日

島の山古墳の被葬者

    先日からの続き・・

 A 古墳の場所と副葬品の形式から考えると被葬者は4世紀末の葛城氏と関連するだろう。
 B 前方部の被葬者は女性であり、質素な副葬品から見て生前の地位等は高くはなかった。
 C 粘土槨内の質素さに比べて粘土槨外の豪華さは「異常」であり、よって「喪主」は超大物だろう。
 D それらの条件で記紀等を調べると、「喪主」は天皇扱いをされている神功皇后、後円部被葬者はその父の息長宿禰王、前方部被葬者は母の葛城高媛(たかぬかひめ)と考えられる。

 以上は、小笠原好彦先生著『古代豪族葛城氏と大古墳』のダイジェストのダイジェストである。
 ただ、記紀に書かれている神功皇后は非常に潤色されていて史実とするには疑問点が多いとされている。
 それ故に戦前の皇国史観では現代のヘイトスピーチの女王のような扱いをされ、戦後はその反動で「神功皇后は全て架空の物語だ」となっている。単純な言い方をすれば「今頃神功皇后などというのは科学的でない右翼ではないか」ぐらいの雰囲気がある。
 しかし、古代史学者の圧倒的多数は、応神や仁徳といわれる大王(後の天皇)が存在したことは事実だとしている。
 神功皇后はその応神の母である。応神は認めるがその母神功はまっかな嘘で存在しなかったのだろうか。潤色がひどいということと存在が全く認められないということとは別である。
 百舌鳥古市巨大古墳の時代の直前の話であり、富雄丸山古墳築造の時代である。
 考古学的物証主義で文献資料を読み解くと次から次へと疑問が湧くので大変だが、学びは楽しい。
 (写真はホンに島・の・山だ)

2025年9月12日金曜日

島の山古墳の出土品

    9月10日にゴホウラ貝とイモ貝の実物(写真)を掲載したが、その加工品あるいは石で模造したものが、鍬形石(くわがたいし)、車輪石(しゃりんせき)、石釧 (いしくしろ)である。
 釧は腕輪であるから名は体を表しているかもしれないが、鍬や車輪は昔(江戸時代?)の人が「鍬や車輪みたいだ」と付けた名前なので体は表してはいない。
 10日に書いた島の山古墳は、古墳の主体部の後円部ではない前方部の、しかも被葬者の粘土槨の内部ではない上部(外側)に、鍬形石21、車輪石80、石釧31が敷かれたように埋納されていた。発掘前に掘り出されていたこともあり、実際はさらに多かった可能性が大きい。
 これらの石製品の計式年から古墳の築造時期は4世紀後半と考えられている。
 それに比して粘土槨内の副葬品は、鏡が2面、白粉・眉墨・口紅という石製合子計3個、ネックレス等と思われる管玉、丸玉という質素なものであった。
 さて島の山古墳の位置であるが、大豪族葛城氏の墓域と考えられる馬見古墳群の北群の約2キロメートル東端で、馬見古墳群の内か外か微妙な位置にある。
 大きさは全長約200ⅿだから大古墳といえる。
 前方後円墳は約5,200基といわれているが、全長200mを超える大古墳は30数基である。
 後円部には竪穴式石室があるが盗掘されている。造出し等からは形象埴輪が発掘されている。
 以上のことから、前方部の被葬者は生前はあまり地位の高くなかった女性であるが、葬送儀礼(告別式)を執り行った者(喪主)は大実力者であったということになる。
 というところで、被葬者の探求は後日とする。
 写真は、島の山古墳前方部から出土した、鍬形石、車輪石、石釧、そして出土状況。















2025年9月10日水曜日

鍬形石、車輪石、石釧

    奈良の馬見古墳群の島の山古墳の勉強会があった。
 大量の鍬形石と車輪石と石釧が埋納されていた大古墳であるがその話は後日として・・・、

 鍬形石と車輪石と石釧はもともとは石製品ではなく、琉球あたりの産のゴホウラ貝とオオツタハ貝とイモ貝の加工品であった。
 古墳時代にはそれを真似て石で作った。一種の宝物・・威信財と考えられている。
 上の写真はゴホウラ貝、これを縦にスライスすると鍬形石になるが、けっこう分厚くて重い。
    次の写真はイモ貝だがこれは横にスライスすると石釧となる。これもけっこう分厚い。重い。
 そもそも、弥生時代からけっこうな青銅器や鉄器製造・加工の技術があったから驚くことではないだろうが、これを渡されて、当時の道具で「はい、加工してください」と私に言われると参ってしまう。

 昔、「はじめ人間ギャートルズ」という漫画があったが、古墳時代、弥生時代といわず縄文時代だって、土器その他の技術は漫画のレベルでは決してなかった。
 だから、古墳時代以降と思われる物語の記紀なども頭から馬鹿にしてはならないのでないか。

 「島の山古墳の被葬者は誰か?」小笠原好彦先生の論の進め方には納得するところが多い。しかし、その話は後日。

2025年9月2日火曜日

おそろしい呪文

    昨日9月1日は関東大震災の日、同時にその混乱に乗じて少なくない朝鮮人、中国人らが虐殺された日。 
 1910年韓国併合後、日本の植民地支配に抗する独立運動が湧きおこるが、日本国内(いわゆる内地)ではそれを暴動と報じ、朝鮮人=悪者と喧伝された。
 大災害の混乱と不安の中で広まったものだが、その背景にはこういう報道や喧伝があったという事実は重要なことだ。
 虐殺を示す資料や証言は国や都の文書でも明らかなのに、小池東京都知事は今年も朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を拒否した。
 群馬県では山本知事が昨年、朝鮮人労働者の追悼碑を強制撤去した。
 こういう態度が参政党などのヘイト集団を後押ししていることは間違いないことだろう。
 昭和前期の歴史は、外国人差別やヘイトの喧伝と足並みをそろえて侵略戦争に進んでいったことを教えている。
 
 戦前の神道(国家神道)が社会に果たしていた影響力は現代人の想像を絶するものがあったが、その教学の重要な位置にいたのが民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)(写真)であった。
 大震災直後、沖縄の調査から東京に戻った彼は、やさしい大阪弁であったので、何度も自警団に尋問され、疑われ、虐殺の候補にされかかった。そして虐殺の事実を目撃した。そこで見た地獄図を彼は後に詩に書いた。(詩の一部)
   おん身らは 誰をころしたと思ふ。
    かの尊い 御名においてー。
     おそろしい呪文だ。
      万歳 ばんざあい