2019年6月30日日曜日

茅の輪をくぐる

   早いもので2019年ももう半分が過ぎようとしている。
   そんなもので奈良の率川(いさがわ)神社で一足早く茅の輪を潜ってきた。
 水無月の夏越の大祓で、大難をどうにか躱(カワシ)てきた前半6か月間の御礼といったところだ。

 人形(ひとがた)は孫の凜ちゃんの名代(みょうだい)で奉納してきた。
 この孫がゆっくりでもいいから無事成長してくれたら祖父ちゃんとしては外に言うことはない。
 (孫の夏ちゃんごめんなさい。君はしっかり成長しているから)

 「御礼だ」と言いながらこんな「お願い」をするのは支離滅裂だが・・・
 ただ夫婦でよく話し合うのだが、どんな宗教でも「御礼」の気持ちで接するのがいい。
 現世利益を本気で「お願い」したら、大きく実現しなかった折にその神仏さえ恨みたくなるから。
 わが夫婦の宗教観は「御礼」と「大難小難、大難小難」だ。

 さて、茅の輪について、高橋徹、千田稔著『日本史を彩る道教の謎』によると、蘇民将来伝説以前に茅(ちがや)が古くから中国で仙薬であったこと、そして江南道教の聖地が茅山(ぼうざん)であったことを指摘したうえで、道教経典『抱朴子』に「山中で幽霊に出会ったときはチガヤを投げつけると即死する」とあることを教えている。
 日本の蘇民将来伝説も、この思想の発展形らしい。

 インドで日本人が「あなたの宗教は」と聞かれて「仏教です」と答えたらヒンディー教徒のインド人から「ああ、一緒ですね」と言われたという話があったが、「日本では神社やお寺で茅の輪くぐりをします」と中国で話したら、道教教徒は「同じ信仰ですね」と答えるような気がする。

   古の江南人の茅(ちがや)かな

2019年6月29日土曜日

戦争の音

   生駒山の西の方を旋回している戦闘機の爆音が梅雨の厚い雲に反射して京都南部や奈良市付近でもウオンウオンと響いている。
 大阪の人は日頃から騒音に慣れて不愉快ではないのだろうか。旅客機とは異質の不気味さがあるのに。
 私は、あの雲さえなかったらこんなに反射してこなかったかもと、恨んで見上げている。

 昨日は天気予報が外れて日中は陽も射すほどだった。
 で、勝手に天気予報を出して昨夜洗濯物を外に干したら今朝はアジャパーで、再度洗濯機を回している。

   写真1はヤマモモの可哀相な姿で、27日の夜に雨の中を帰る途中で撮った。もちろん撮る前に枝から5粒ほどいただいた。出かけるときにもいただいた。

 写真2は梅雨のおかげで成長著しいキュウリだ。今年初めて植えた種類で、ずんぐりむっくりの半白キュウリの新種。
 別に、妻の好みの四葉(スーヨー)系のも成長している。
 スーパーなどでは売っていない、中に水や種を含んだようなキュウリをパクパク食べると胃腸が清掃されたような気がして気持ちがいい。

   梅雨雲に戦争の音がはねかえり

2019年6月28日金曜日

臨時休業の不思議

   G20で、ある飲食街?の地域全体が臨時休業するという。普通の論理としては不思議なことだ。
 よほど世界中のジャーナリストの目を避けたい地域(つまりこの国の現実)なのだろう。

   うそつきの始まりは誰だ! と問われても首をひねってしまうが、飛田料理組合顧問弁護士であった橋下徹(維新の会の初代代表)の「飛田新地は料理組合です」が、というのがその先頭グループの一員であることは間違いない。
 安倍自公政権グループが「あれが通るなら我々も」と、堂々と嘘を重ね、森友事件では夫人付け秘書官をイタリア大使館に雲隠れさせ、近畿財務局職員は自殺に追い込んだ。

 しかし”天網恢恢疎にして漏らさず”という言葉があるが、飛田のGoogleストリートビューにはばっちり従業員?とやりて婆(的従業員)が移っている。そして、今回はG20に伴い全面臨時休業だと報じられている。(写真は朝日25日朝刊)
 橋下徹はここの顧問弁護士だった。

 何故料理組合がこぞって何故臨時休業しなければならないのか?
 さらに21日から30日までは「のれん祭り」を催し、統一したのれんを全店舗に掲げて、普段は通りから店内の様子や従業員の姿がうかがえる店舗が多いが、この間は店内の様子を見えにくくしたとも報じられている。

 常識的に言って、飛田は売春街であろう。それでなければ今般の臨時休業は説明がつかない。
 それよりも重大なことは、維新の会の設立者がそこの顧問をしていたこと、そして、「いや唯の料理組合だ」と嘘をついてきたことだ。
 国会最終盤の安倍内閣不信任案には自民党、公明党と維新が反対した。
 なるほど〇〇つき三兄弟だ。

   それにしても、大阪のこの行き過ぎた「戒厳令」の予行演習は何だ。
 ニューヨークには国連ビルがあって、世界中の超有名政治家が何日も滞在するが、ニューヨークの交通がこれほど遮断されたり学校が休校になった話は聞かない。
 例のミサイルの訓練騒ぎといい、安倍政権は国民に対して、「緊急事態」つまりは”国民主権、民主主義の停止状況”への慣れというか不感症を刷り込んでいると私は勘ぐっている。

   戒厳の司令官ぶる白昼夢

2019年6月27日木曜日

替えましょ 替えましょ

   6月25日は菅原道真公の誕生日だというので、奈良市菅原の地にある菅原天満宮で鷽替え(うそかえ)神事が行われた。
 ここは孫の凜ちゃんがお宮参りをした神社で、額に紅で大と「あやつこ」を刻して参拝したところだ。

 お宮参りのスタンダードの進行表だと最後に宮司が赤ちゃんをつねって大声で泣いて終わりのはずが、凜ちゃんは泣くという対応ができないほど成長がゆっくりだったから、「もう結構です」と宮司にお願いしたことが昨日のことのように思い出される。
 写真は鷽替え神事のNHK奈良のニュースの画面である。

   神事の後半は「富くじ」のようなものだったが、私は見事に外れてばかりいた。
 それよりも、鷽を参加者同士交換すればするほど”嘘が誠になる”と言われるから、大きな声で「替えましょ、替えましょ」と交換した。

 しかし、安倍自公政権の嘘八百は道真公でも如何ともしがたく、俗世のことは俗世の誠で替えるしかない。
 時あたかも参議院選挙。替えましょ、替えましょの声をもっともっと大きくと心に誓って帰ってきた。

   片陰や梔子(くちなし)何処かで咲いている

2019年6月26日水曜日

梅雨曇り 後日談

 6月25日の『読者の文芸ー短歌ー鈴木英子 選』に採っていただいた。
   こんな日に限ってどんより曇り空腫瘍マーカーDの通知書  というものである。

   「今年中には俳句と短歌でそれぞれ採ってもらう」を密かな「一年の計」にしていたが、年の初めに俳句を掲載してもらい、今回の短歌とで目標を前半期で達したことになり一人静かに喜んでいる。

 ただ今回の短歌は、文芸的な捻りなど全くなく、自分の”記憶の記録”にと詠んだだけのものである。
 仮に評価してもらえたとしたら、ややもすると落ち込んで思考停止してしまいそうな中でよく詠んだと言ってもらえたのだろうか。

 後日談だが、手術となったら少し遠い最新設備の大学病院がよいかとも考えたが、結局なんやかんやの妻の負担を考えて近くの病院にして、「パジャマも買おうか」などと入院の準備を考える妻に「まあまあ」と言いながら、「預金通帳の暗証番号はこれこれ」などと少しは覚悟をして伝え、まずは精密検査に向かった。
 
 さらに後日、宣告を受けに出向いたところ、結果は正常域ではないものの数値が下がっており、「数値の下がる腫瘍はない」と言われ、3か月後にまた診ましょうということになった。

 人間ドックの通知から今回の結果発表までは気分的には長かった。
 そして、一日一日の尊さを再確認させられた。

 なお「手術と入院の費用が助かった。バンザーイ」と喜んでいたら、しばらくしてパソコンが壊れてしまい。9,000円ほど支払って診断してもらった結果、こちらの方は「寿命ですな」で終わり、やはり「おあし」には足が生えていて集団で出て行ってしまった。
 それでも、大難小難、大難小難。

2019年6月20日木曜日

事件の目撃者

   浅学のため、実は解ったような顔をしているがもう一つ解っていないというようなことは数々ある。
 電線に止まっている鳥は何故感電しないのかも、正直に言うともう一つ解っていない。右足から左足に電気は流れないのか? 少し知識のある方からするとバカみたいな疑問だろうがもう一つ解らない。人間が空中で右手と左手だけでぶら下がっても感電しないのだろうか。

 先日、思いもよらない出来事を目撃した。
 150m程先の近鉄電車の鉄塔で、バーッという爆発音がして炎が上がった。
 何羽ものカラスが大騒ぎをした。
 私はきっとカラスが針金ハンガーでも咥えて行ってショートしたんだと思った。
 カラスの大騒ぎは被害者(烏)救出と励ましではないかと想像した。
 一瞬のことだった。
 注意して見ていたが、電車が止まったような様子はなかった。

   翌日、現場検証に出かけてみた。
 私の予想では、鉄塔上か鉄塔の下に証拠のハンガーと丸焼けのカラスの屍骸があるはずだったが、注意深く探したが何も見つからなかった。もしかして、既に片付けられていた?
 ただ、仲間のカラスだけが友の死を悼んでいた??

 ネットでの情報でしかないが、私が目撃したのは架線のずっと上の特別高圧送電線という奴らしく、22,000Vか33,000Vの交流だという。
 どう考えてもカラスが介在したショートだと思うが、鉄ちゃんの意見など聞かせてほしいものだ。

2019年6月19日水曜日

ほととぎす

   6月18日、卯の花も遠に散ってしまい「もう今年は駄目か」と思っていたホトトギスの声を聞いた。
 家からそう遠くない丘陵で不意打ちのようにそれは鳴いた。
 前夜(陰暦5月15日)の満月がサーチライトのようにホトトギスに渡りの進路を教えたのだろうか。

 湿度も温度もじわ~っと上がって来て、雨こそ降っていないが梅雨空らしい梅雨空の向こうから、叫ぶようにホトトギスは鳴いた。

 かくの如く、風雨順時! 季節が季節どおりに廻ってくることは良いことだ。
 たとえ少々の難儀を引き連れてでも季節は季節らしくあるのが良い。
 とは言っても、難儀はないに越したことはない。でも仕方がない。
   そんなとき母親は、大難小難、大難小難とよく唱えていた。
 この難儀は大難でなくてよかった。感謝・感謝。という意であった。

 私もこの頃は難儀に直面した折は、大難小難、大難小難と口の奥で繰り返すことにしている。

   でんで虫ほととぎす聞け耳を出せ

2019年6月18日火曜日

続「さい」の説明

これまで日本において文句なしに教科書や漢和辞典が基にしてきた、およそ1,900年前(西暦100年)にできた許慎(きょしん)の『説文解字(せつもんかいじ)』では、「告(こく)」は「牛が人に告げるとき横木をつけた角で人に触れるから」とされている。
平たく言うと「牛が人に何かを訴えるために口をすり寄せているのである」と。

さすがにこの解釈には疑問も湧くため、声符が牛の形声とする説、牛を犠牲として捧げて神に訴える説、牛の口を塞いでいるとする説、牛の角に横木を付けて人に慣れていない牛であることを警告する意とする説、牛の鳴き声とする説などがある。
ほかに牛+口ではなく、之+口の会意で、行って告げる意とする説や、舌を伸ばした形という説もある。

しかし告の字形は、卜文、金文によって、その上部は牛ではなく明らかに木の枝であった。
 その上にこの問題に終止符を打ったのが、白川静による「さい」の発見で、これまで単に「くち」として解釈していたものの多くは、実は「祝詞(のりと:人が神に願いごとをするために書いた文)を入れる器の形」=「さい」であることを解明した。
さい
 つまり、告は「さい」すなわち祝詞を収めた器を木の枝にとりつけて、神に奏聞するものであった。

 というようなことを説明しようとして16日は上手くできなかった。
 ああ、読んだ先から忘れてゆく。正確にいうと、覚えるスピードよりも忘れるスピードの方が速くて情けない。

   夏ちゃん曰く、『「鳥」という字は難しい。甲骨文字やったらいっぺんに憶えられるのに』。なるほど、誰が見ても鳥そのものの甲骨文字。おそるべし。

2019年6月17日月曜日

「さい」の説明

   16日の夕方に夏ちゃんファミリーが来て、岩ヒバリのTシャツをプレゼントしてくれた。
 感謝、感謝、感謝、感謝だ。
 
 夏ちゃんは、先日の縄文土器の焼け具合が不満だった。粘土細工として完成していた壺が汚くなったと言って叱られた。

 夏ちゃんは、小学2年生で漢字を増やしているようだがなかなか上手くいかないらしい。
 そこで白川静の常用字解を渡して調べ方を教えたが、「むつかしい」と言ってついてこなかった。

   妻が表紙の「さい」の甲骨文字のデザインを「くち?」と聴いて来たから、これこそ、”例えば「告」という字は牛が近づいてきて何やら口を動かすのを「何かを告げている」という旧来の学説”に異を唱えた白川文字学の神髄だと話し始めたが、浅学の私は上手く説明できなかった。

 「さい」の上は針やったかいな、木の枝やったかいな・・・・と。
 結局、夏ちゃんには「ことほど左様に勉強は面白いから勉強しなさい」というので精いっぱいだった。

2019年6月16日日曜日

梅雨入りはいつ

大阪管区気象台の観測装置
  専門家(半分は?だが)による(金融)審議会に諮問しておいて、その結果が気に入らないからと受け取らないというのは、「俺たちに都合のよいようなデータや解釈を忖度して持ってこい」ということだろう。酷い話だ。

 そもそも「その答」というものが政府与党の考えに反対したものでもなく「あまりに素直にホンネを言ったことがイカン」というものだから、何をか言わんや!だ。

 さらに「受け取りを拒否するから答申はなかったものとなる」という論理は、「その国力(経済力)からいってアメリカと戦争して勝てるはずがない」という、当時普通の知識人なら誰もが認めていた常識をねじ伏せて太平洋戦争にのめり込んだ軍部の暴走と変わらない。

 NHK BS「昭和の選択」で何回か初代中央気象台長岡田武松のことを放送していたが、当時文部省にあった中央気象台(今の気象庁)を陸軍が軍の管轄下に移行しようとしたとき、暗殺予告という脅迫にも屈せずそれを拒否した岡田の話は胸を打つ。
 ただし、岡田は軍事体制そのものを批判していたのでなく協力もしていたのだが・・、
 結局、中央気象台は守られたが天気予報は軍事機密とされ、台風情報を知らされなかった山口県で大量の死者という被害もあった(※)。
 (※)昭和17年8月27日―28日周防灘台風。死者708名、行方不明者86名、負傷者559名、住宅流失1996棟、全壊2990棟、半壊9060棟、浸水42165棟、船舶流失等2257隻等々。

 それでも、全国的に軍の膨大な史料は敗戦時に焼却された一方、岡田の薫陶を受けた科学者集団であった中央気象台はデータを死守したため、近頃の異常気象が100年来の異常であるというようなことが解るようになっている。

   大阪市中央区大手前にある大阪管区気象台の観測装置を見ながら(百葉箱はもうない)、天気予報さえ伏せられたような時代の足音を背中に感じたのは心配性だからだろうか。
 近畿地方の梅雨入りはいつと発表するのだろう。

   梅雨明けはまだ先のことよ星あじさい

2019年6月15日土曜日

法論味噌(ほろみそ)

 奈良大学の公開授業で知ったことだが、江戸時代の俳諧の解説書に有名な『毛吹草』という書物があり、その第4巻は諸国の名産品が並べられていて、その大和(奈良)の産物の中に「法論味噌(ほろみそ)」というのがあったが、私は聞いたことがなかった。はてな?

 少し古いところでは鎌倉期の藤原定家の『明月記』にも「法論味噌」というのを見つけたし、室町期になると『温故知新書』、『言継卿記』、『七十一番職人歌合』にも見つけたが、いずれにもその内容は記されていなかった。

   江戸中期の天野信景による随筆集『塩尻』では「もと南都の製なり」として、既に他国でも造られていることが伺え、元禄期の風俗事典『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』には「扣納豆(たたきなっとう)売り」「法論味噌(ほろみそ)売り」が図解されていた。

 『塩尻』に返ると、「興福寺維摩会十月法輪日に講師らは小水のために座をしりぞくことができないのでこれを食べる」とあるのは、水分のないこの味噌で食事をしてから法論の長い行事に臨んだということだろうか。そしてそれは「黒豆豉」とあるので大徳寺納豆(一休寺納豆)のようなものだったのだろうか。
 NHK『偉人たちの健康診断』でも「家康の長寿(健康)を支えたのは浜納豆」と強調されていた。

 別の史料によると、「今から約六百年前に南都元興寺の護名僧都が造り、強壮食として京都にまで行商された」とあり、「焼きみそを干して細かく刻み、ごま・麻の実・くるみ・さんしょうなどを細かく刻んで混ぜたもの。そのまま食べるほか和え物などにも用いる」「奈良の寺院(興福寺・元興寺・東大寺など)で法論の際に用いられたとされる」とあった。

 こうなると、「小水のため」というよりも、長時間緊張を伴う法論会の行事に備えた栄養食だったような気がする。

   そういえば、東大寺二月堂横の茶屋の『行法味噌』も同じものを復刻したもののようで、それは一言でいえば上等の舐め味噌・おかず味噌の様らしい。

 復刻といえば、伝統の製法を生かして、胡麻、胡桃、麻実、山ごぼう等を配合して現代人の嗜好に適するように改良した『法論味噌』が元興寺にあるらしいとの情報があったので、久しぶりに元興寺に行ってきた。(先日の記事参照)

 「田楽にも良く合います」と説明を受けたが、自家製の半白胡瓜で「もろきゅう」にした。
 冷奴にも乗せたらこれもいけた。
 初夏の香りが広がった。

 笑うなかれ。各地の粕漬を「奈良漬」というが如し。
 「法論味噌の由来はそもそも」と語るだけで夕餉も華やぐ。

   法論味噌を乗せて自慢の白胡瓜

2019年6月14日金曜日

元興寺行燈絵名品展

   近頃人気の「なら町」の地は、元は興福寺や元興寺の境内であったところである。
 その元興寺は、588年に建設が始まった日本最古の寺である飛鳥の法興寺(飛鳥寺)の主要部分が平城遷都で移ってきたもので、今も当時の、つまり日本最古の瓦が博物館ではなく屋根の上に葺かれて残っている。

   そのように南都七大寺の内の大寺院であったが、古代の官寺であっただけに古代の制度の衰退とともに寺も衰退し、それだけに、中世以降の庶民信仰の寺として、東大寺や興福寺よりも風情が残って今に来ている。

 話は戦後に跳ぶが、奈良の各種歴史遺産に「金の亡者ども」が群がり、奈良の文化が踏みにじられようとしたとき、当寺の辻村泰圓住職や東大寺の上司海雲師らが、著名な文化人らとともに立ち上がり、それに抗ったことは有名で、さらには当寺は「元興寺文化財研究所」を立ち上げ、数々の貴重な研究・発見を重ね今も進歩している。

   今、境内にある「元興寺法論館」で「元興寺地蔵会行燈絵名品展」が6月30日まで開かれていた。
 私はそれを知らずに行ったのだが、先ほど少し触れた戦後文化人の「行燈絵」100数点が展示されており、ある意味どこかの美術館以上の趣があった。本当にすばらしい。

   さて、名品展も知らずに何故私が元興寺に行ったのかは、別途報告する。

   蓮池の曼荼羅明るき元興寺

2019年6月13日木曜日

もしかしてヒメガガンボ

   見た感じはどう見てもガガンボだが、写真のように相当小さい。
 感でいうとヒメガガンボだろうか。要するにその名を私は知らない。

 雰囲気でいうと人を刺す蚊ではなさそうなのでそのまま部屋の中に放っている。

 蚊というと「蚊に刺された」と言うか「蚊に噛まれた」と言うかという、国語というか方言の話がある。
 私はどちらも使うが、とっさに言うときなどは「噛まれた」ということが多い。

 先日、けっこう深刻な話で医師と話していたとき、「農作業もするのでムシに噛まれた痕がしこりのようになっている」と私が訴えると先生が、「ウシに噛まれたのですか。私も小さいときはウシを飼っていたことがあって・・」と応えられた。
 「ウシとちゃいます。ムシですムシ」と訂正して、深刻な話が笑い声に包まれた。
 やっぱり、「刺す」方が誤解が少ないかもしれない。
 それに部位は下腹部だから、先生、そんなとこウシに噛まれますか・・・。
 
   ガガンボは華奢で優雅で色気あり

2019年6月12日水曜日

吉野葛の世界

   近頃は本屋に行っても新書コーナー歩きを専らとしていたが、たまたま覗いた文庫コーナーに谷崎潤一郎の『吉野葛』があったので持ち帰った。
 いわゆる「奈良学」の講義は度々聞いていたから、谷崎潤一郎が吉野葛で著名な黒川本家に逗留してこの中編小説を書きあげたことはよく知っていたが、だからといってこの小説を読む機会というか意欲に出会わずに今日まで来ていた。
 だから何という理由もなく、ほんとうにそのときの衝動で購入したのだった。

 そして読んでみて一番驚いたことは、これが吉野葛のことや、その旧家(黒川家)の話ではなかったことで、実は吉野の「国栖」の紙すきの里の話であったことだった。勝手な思い込みというのはどうしょうもないものだ。
 さらに一番のテーマのようなものは、親の顔の知らない「副主人公?」の母探しにあって、明治初期の大阪の文化と重なって私も気持ちよく読み進んだが、そういう話はとりあえず横に置く。
 また、信太狐、静御前、忠信狐、妹背山、南朝等々の興味のある話も置いておく。

 それとは別に私が引きこまれたのは圧倒的な吉野の風景描写で、先ほど挙げた国栖、宮滝、入之波(しおのは)、伯母が峰、大台ケ原山などの描写に出会うたびに、若い頃よく訪れた吉野の風景が記録映画のように思い出された。
 文中に、「その後乗合自動車も通るようになって変ってしまった」ともあったが、私と大台ケ原との出会いは中学生のときだったから、その後でだって2遍も3遍も・・何遍も変わってしまっているが、それでも相当古い景色が思い出される。
 「変ってしまった」というが、この原稿を書いている日の新聞には、先日の雨で土砂崩れが起こって十津川の温泉のパイプが破損して、当分の間温泉が使えない」と報道されていたから、圧倒的な自然は健在とでも言っておこう。

 読み終えてから、You Tube で筝曲「狐噲(こんかい)」を聞いてみた。
 偉そうなことを言えば、私のこどもらの世代では、ここに書かれた明治の大阪も吉野も想像が及びつかないのではなかろうか。私自身、認知症前にこの小説に出会えてよかったと思っている。読後感の好い小説だった。

   急流に藪雨鳴くや国栖の郷

2019年6月11日火曜日

おはらい筋の榎木大明神

 大阪の大川(旧淀川)の天満橋のところに八軒家浜船着場がある。往時、京・伏見から淀川を下って来た三十石船のターミナルであった。(ということは森の石松はここから乗船して京に向かった。それはさておき)
 なので、熊野詣の都人(みやこびと)はここから陸路となる。故に熊野街道の起点でもある。

 都人の中でも後白河法皇や後鳥羽上皇らが熊野詣の前には先導がこの街道をまずお清め・お祓いしたというので、大阪市内あたりではこの熊野街道を『おはらい筋』と言った。(大阪は南北の幹線道路を筋(すじ)と言った。例:御堂筋)
 私は堺の中心街の熊野街道のすぐ近くに住んでいたが、堺では「おはらい筋」とは言っていなかったように思う。

   谷町筋をスケール替りにおはらい筋を語ると八軒家浜がだいたい谷町1丁目、そして谷町6丁目に当たるのが長堀通(大阪では東西の幹線が通り)で、その、熊野街道(おはらい筋)と長堀通の交差するところの熊野街道上に巨木が立ち、下に祠がある。樹齢は約670年。
 祠は榎木大明神というが、樹種は槐(えんじゅ)という。

 秀吉の大大阪城の折りは外堀の中、つまりは城内だったが、今は街のど真ん中に異空間をつくっている。
 どこにもあるような言い伝えながら、何度も伐採の話があったが、その度に当事者に不幸が起こったという。
 よいことでいえば、大阪市内が火の海になった先の大空襲の際には、この大明神の東側一帯だけが類焼を免れたらしい。

 長堀通(南側)からこの木を見ると、ここだけ街道が盛り上がっていて、圧巻の威容を誇っている。
 もし左右のビルがなかったとしたらどんな大木かと想像してほしい。
 樹齢約670年とすると、室町幕府・南北朝の時代だから、この大樹は石山本願寺も秀吉の大阪城も、そして大坂冬の陣も夏の陣も、さらには天下の台所も近代の大大阪も見てきたことになる。
 そんなことを思うと近くの横道を歩くだけでも少しは頭を下げたくなる。

   下闇やおはらい筋の生き証人

2019年6月10日月曜日

ウメエダシャク

   昼の日なかにふわふわと飛び回るので蝶の仲間のように間違えられることも多い(一般に蛾は夜行性である)が、ウメエダシャクという蛾の仲間。ただしチョウとガの区別ははっきりしていないから、蛾という名前だけで嫌われているのも可哀相だ。

 エダシャクのシャクというのは尺取虫のことだから幼虫はビヨンビヨンと独特のスタイルで歩いてゆく。それを見ている分には面白い。
 ただ、名前に「梅の枝」とついているがエゴノキも大好きで、窓のすぐ横のエゴノキ周辺を文字どおり群舞している。
 そして庭木にとっては害虫であるので時々摘んでは殺している。

 週刊誌の盗撮みたいで気が引けるが、写真1は交尾しているところだ。
 6月は恋の季節だ。「群舞」と言ってみたものの、大量に飛び交う姿には少し引いてしまう。

   写真2は1匹のウメエダシャク。そして写真3は近くに飛んできたタテハチョウの中のホシミスジ。写真で見ると判り辛いが飛び方が異なるから普通にはその違いが直ぐに解る。
 人間は片や蛾だと言って嫌い、片や蝶だと言って愛でる。
 おかしなもんだが、私もそんな風に思ってしまう。


   尺蠖のびよんびよんと旅のする

2019年6月9日日曜日

ジューンベリー

   昨年、初めて植えたジューンベリー。
 昨年、孫たちがやってきたら収穫させてやろうと楽しみにしていたら、ある日、鳥の群れがワッとやって来て、見事に坊主にされてしまったという因縁のジューンベリー。
 今年はその轍を踏むまいと網をかけて育ててきた。
 それが見事に色づいた。バンザーイ!

 4月に花が咲いて6月に実が熟すというから、早熟この上ない。
 ほんとうに「6月のベリー」だ。
 
 孫の夏ちゃんが来たので早速収穫を開始した。
 ところが、2年来の祖父ちゃんの期待もむなしく、夏ちゃんは「美味しくない」と一蹴。
これは桑の実
   食べてみると優しい甘さでベリーらしいベリーだが・・・、
 夏ちゃんは酸味の効いた果物が大好きで、それからするとブルーベリーに似たこれはインパクトに欠けているらしい。ああ。ブラックベリーの方がいいという。

 そして街には桑の実が熟れている。夏ちゃんはこういうワイルドな方が好きらしい。私も散歩しながら摘んでいる。

   孫曰く上品すぎるとジューンベリー

2019年6月8日土曜日

縄文人さんごめんなさい

   5月10日の『土偶大好き2』で触れたように、孫の夏ちゃんは大型連休中に長野県茅野市の尖石(とがりいし)縄文考古館に行って、写真1のとおり、小さいけれど縄文土器を捻ってきた。
 考古館の指導に基づき縄文(の模様)も立派についている。
 それを「祖父ちゃんにやる」と言って持ってきてくれた。

 そこで、ただ貰うのではなく、きちんと縄文土器らしく焼き上げておくから見に来るようにと夏ちゃんに約束した。
 いろいろ考えたがガスレンジの上で焼くのではおもしろくない。
 ここはやはり野焼きせねばなるまい。
   カンテキに一部炭を入れながら、基本は木材で写真2のとおり焼いていった。
 壺自身が真っ赤に輝いてきて、木炭で製鉄が出来たというのも納得した。

 「縄文土器の焼き方」をネットで検索すると「ほぼ1日中燃やし続ける」とあったが、朝から孫の凜ちゃんを療育園に送り出し、自分自身の医院と薬局に行き、夕方にはまた凜ちゃんを迎えに行って、後はお風呂や夕食という合間を縫ったので、非常に気をつけてゆっくり温度を上げたり、最後にはゆっくり下げたつもりだが、結果は「イラチのむくい」で土器の一部が剥がれてしまった。

   縄文人さんごめんなさい。野焼きのまね事ぐらい簡単にできると侮ったツケが来た。
 写真の裏側は一部剥離した。
 ネットの知識だが、400℃ぐらいまでに6時間は掛けてゆっくり温度を上げ、その後600℃~800℃ぐらいまで上げるとあったが、早くに400℃以上に上げ過ぎたのが失敗の原因らしい。
 それでも、少しは縄文土器の味は出た気がする。

 弥生土器になると登り窯が出現してさらに温度が高くなる。
 その後の埴輪や瓦もそんなに生焼けではなく焼きしめられていたことが解っているが、縄文時代だって相当高度な技術とマニュアルがあったに違いない(と私は考える)。

 焼く以前には十分に乾燥させておくことも非常に重要だから、いわゆる竪穴式住居以外に、成形した器を乾燥させておく倉庫(屋根のある作業場)のようなものも必要ではなかったか。
 と考えると、発掘された各種縄文遺跡の説明の中で「焼き入れ前の土製品の乾燥用置き場跡」という説明を聞いたことがないのはどうしてだろうか。解らない。
 ただ、縄文土器だって、相当な技術が必要なことは思いっきり知らされた。
 ・・現代人って何だ。普通には縄文土器ひとつ作るのにふうふう言っている。(私)

   炎昼に焼けて輝く縄文土器

2019年6月7日金曜日

ガネーシャさま

   わが家からそう遠くないところに奈良市押熊町がある。ヤマトタケルの子の仲哀天皇の子の押熊王の墓所と伝えられる遺跡もある。(押熊王は応神に滅ぼされた)
 北側にも東側にも幹線道路が走り、少し西側には住宅地が迫っているが、その中に、そういう近現代の歴史から取り残されているような集落がポツンと残っている。
 細い道を車で入ろうものなら身動きが取れなくなるような小道ばかりで、私も押熊王の墓所以外には行ったこともなかった。
 その中に常光寺という寺があり、1年に1度だけ双身歓喜天が開扉されるという情報に接したので参ってきた。

   歓喜天は聖天(しょうてん)とも呼ばれ、ほとんどの寺では絶対的な秘仏にされている。(EX宝山寺の生駒聖天)
 スリランカやインドあたりではガネーシャ様として日本のお地蔵様のように広まっているが、抱擁している二体の神像というのには日本の僧は戸惑われたのかもしれない。
 象の顔というのが忌避されたのか、抱擁が忌避されたのか解らない。

 歓喜天は元ヒンドゥー教の神のガネーシャで一般には財運、福運の天である。
 住職は歓と喜の天で徹底して前向きの仏さまだと説明されていた。
 「双身の抱擁は陰陽の和合ということではありませんか」と尋ねたが「そういう説もあります」と深入りされなかった。理趣経あたりに深入りされたくなかったのかもしれない。
 広く「聖天は夫婦和合のご利益」という説明もされなかった。
 しかし、見事な二股(三股?)大根が供えられていたから、素直に言って男女の抱擁を具現化して現世肯定の教えを述べているのは間違いなかろう。

   古い形のお菓子も供えられていた。清浄歓喜団といい京都の亀屋清永のものという。ちなみに1個500円+税と箱代らしい。
 奈良の萬々堂道則の「ぶと饅頭」に似ていた。 

 元々は結構大きなお寺だったようだが、ご多分に漏れず明治の廃仏毀釈で徹底的にダメージを受けたらしい。
 それでも、遠くない地にこんな落ち着いたお寺があったのかと感心して帰ってきた。

   水無月や古き鄙の歓喜天

2019年6月6日木曜日

あまりにも普通の夏帽子

   おかしなもので、別々の店でこの春に買った二つの帽子がどちらも同じディッキーズの製品だった。
 もちろん、そんなブランドに惹かれて買ったわけでなく結果がたまたまそうだった。
 だいたいブランドなどにあまり興味のない私としては、買ってからそんなディッキーズなどというブランドがあることを知った。
 写真は”あまりにも普通の夏の日差し除けの帽子”で、左横のロゴマークを写してみた。

 でネットで検索してみると、1922年にテキサスで創業した会社で、石油労働者向けの丈夫で破れにくい作業服が原点らしい。
 丈夫さ故に軍にも納品されたようだが、基本は作業服、作業ズボン等のワークカジュアルというジャンルらしい。
 結局、お洒落なブランドでなく、引き付けられたようにこんなブランドに行きついた自分がおかしい。
 私の顔かたちが、ハイソサエティーのブランドでなく、労働着に行きついたのは自然なことだったのだろうか。
 こんな綿(めん)の帽子、まさかルンペン帽っていうのではありませんよね。
 でも、百均でもありそうな帽子だな。

   夏帽子故地はテキサス作業帽

2019年6月5日水曜日

ケリに威嚇される

   田植の季節の風物詩と言いたいところだが、ケリはどうも可愛げがない。
 近くで農家がトラクターで代掻きをしているが、もちろんケリは知らぬ顔でいて、その横を私が散歩していると夫婦?2羽でけたたましく私の頭上を旋回して「近寄るな!」と威嚇してくる。
 頭の真上で叫びながらホバリングなどされると、まさかとは思うがあの鋭いくちばしで頭を突かれないかとヒヤッとする。

 ケリにしてみれば、一番大事な子育ての時期に巣に近づく人間は無神経だ!ということだろうが、私にしてみれば、巣を襲うように見えるはずがないやろ!と反論したい。

   若い頃はどちらかというと都会で暮らしてきたのでケリも知らなかった。
 夜になってカエルの鳴声とケリの鳴声が農村の方向から聞こえてくると、〽朧月夜などを口ずさみたくなる。

 カブトエビやホウネンエビも泳いでいる。 

2019年6月4日火曜日

卯の花腐し

   「卯の花腐し(うのはなくたし)っていう季語を知っているか」と妻が言った。
 どんな花でも満開を過ぎれば汚くなるものだが、この時期の卯の花のそれは季語に相応しいと感心して話しかけてきた。
 陰暦4月の別名が「卯の花月」で、陰暦4月の雨が卯の花を朽ち果てさせるのでこの名がある。

 ほかの花の名誉のために言っておけば、特にエゴノキやオリーブの木の花の一面の蕊(しべ)の絨毯にも、「盛りを過ぎた生き物」の美しさがある。

   6月1日の四コマ漫画「まんまる団地」は次のようなものだった。①「わーッ かわいい花」と女の子、②「やたらにとると おじさんたちにおこられるよ」、③「どうします?」「あとまわしにしようか」とおじさんたち、④「なんていう花?」「わかんない」 吹き出しみたいな窓におじさんが「どくだみダヨ」。

 偏見なく見ると美しい花である。十薬という尊い名前もあるのに「ドクダミ」の響きは可哀相だ。
 足で蹴飛ばすと何とも言えない芳香?(腐臭?)がする。
 私はこの匂いがすると都会を離れてハイキングコースに入った気がして好きである。

2019年6月3日月曜日

矢車草の種

   ここ何年かは前年の種を蒔いて矢車草を植えている。
 季語は初夏に当たるが、ほんとうに立夏の頃に満開で、今は来年の種のために放ってある。
 それを横取りにやって来るのがカワラヒワで、窓のすぐ下でせっせと啄ばんでいる。
 窓の外を頻繁に行きかうカワラヒワも可愛いが、矢車草の種は当然減っていく。
 世の中は上手くいかないものだ。

 野鳥の中にサンショウクイというのが居て、その名前の由来はヒリリヒリリと山椒を食ったようだというのだが、カワラヒワの方こそヒリヒリヒリと山椒を食ったように私は感じる。

 空にはヒバリがホバリングをしながら大声で囀っているが、飛蚊症では見上げても見つけられなくなっている。
 弱音を吐きたくはないが、時間には抗えない。時よ止まれ!

2019年6月2日日曜日

絶品しし肉

   私などはどちらかというと大阪や奈良市内の出来事に関心が向いてしまうが、ここ山背(やましろ)南部の地は「害獣駆除」が大きな話題になるような自然豊かな地でもある。

 だから知人の知人を通じて立派なしし肉が廻って来ることもある。
 下世話な話題で申し訳ないが、写真の肉だと1万円はくだらない。

   「猪=しし」でしし肉という以外に、「獅子に牡丹」でぼたん肉の別名がしし肉という説もある。
 冷凍して熟成させておいたしし肉を冷蔵庫から取り出した。冬に知人から頂いていたものだ。あまりに立派な肉なので相応しい出番を待っていた。

   猟師が仕留めたしし肉の中でも高級品だが、わが家のなまくら包丁では歯が立たず、厚切りステーキ肉風の網焼きにすることにした。
 結果報告をすると赤身の味は抜群だったが、脂身の部分が固くて、歯の弱っている身では悪戦苦闘だった。料理の方法がまずかったのかもしれない。
 味の感想を言うと豚肉よりも牛肉のステーキに近かった。

   さて孫の凜ちゃんの成長はマイペースだから、今回が凜ちゃんの初BBQだった。
 凜ちゃんには主に牛肉にしたがパクパクとよく食べてくれた。
 「凜ちゃんとBBQがしたい」という長い間の祖父ちゃんの夢がひとつ叶って満足した。
 そしてこの日我われは縄文人に先祖がえりした。

2019年6月1日土曜日

巨大古墳の被葬者

 先日のNHK歴史秘話ヒストリア「百舌鳥・古市古墳群」はなかなか良かった。
   古墳の名称も基本的には大山古墳、誉田御廟山古墳を使用している姿勢も学問に対するリスペクトに見えた。
   というのも、掲げた写真は「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」(事務局:大阪府)のリーフレットの一部であるが、文句なしの「仁徳天皇陵」「応神天皇陵」あるいは「履中天皇陵」を使用している。

 履中天皇は仁徳天皇の子であるが、考古学的には伝履中天皇陵は伝仁徳天皇陵よりも古いという矛盾があるから、そのことにも触れたこの番組は、大阪府等の俗な地方行政機関よりも立派であった。

 さて、百舌鳥と古市の巨大古墳の被葬者については、2017年3月27日、2019年2月2日、2019年2月3日に少しまとめて書いてきた。
 2月3日などは、もうロジカルな証明ではなく空想の世界であったが。

 とまれ、森浩一先生は「敗者の古代史」で、武内宿禰と神功皇后・応神天皇の東征があった際、近畿にはヤマトタケルの正当な孫である忍熊王(オシクマオウ)の政権があったと指摘されている。
 歴史は勝者によって改竄されるのが常である。
 5世紀前の河内の大豪族を歴史の欠片から探してみたいものである。