2013年4月23日火曜日

地名は史料

  先日、巧みな「法話」で超有名な奈良のお坊さんのお話を伺った。
  今年が癸巳歳(みずのと み)に当たることから、特に巳に関わって話が進み、(巳さんで有名な)「三輪山の麓から出る雲を出雲といい、ここが出雲の国の原点だ」とおっしゃった。
  確かに、伊勢よりも歴史が古いと言われ、オオモノヌシを祀る三輪の信仰と記紀神話を考えると肯(うなず)かされる相当有力な一説ではあるが、奈良には出雲以外にも吉備、石見、丹波、但馬、丹後、上野、武蔵、上総、伊豆、三河、美濃、飛騨、土佐、豊前、薩摩等の地名があるので、ここは(・・・地名を根拠にする論は)「後の律令制下の諸国の徴発民の住居より生じた」という直木孝次郎説の方に説得力を感じる。
  それにしても、字(あざな)を含め地名というのは歴史の生き証人であり、考古学的物証と地名から「ここは〇〇であった。」と推論を展開されている大論文も多い。
 事実、奈良には記紀や延喜式に見える地名や人名がいたるところに残り、ミヤ、ゴショ、ミカド、ミササギ等々に関連する名も数多い。そもそも、現在、平城宮大極殿が復元されているが、彼の地は「大黒の芝」と呼ばれていたらしい。
  我が家のそう遠くない場所に「石のカラト古墳」があるが、この地を「佐保」と呼んでいたなら藤原不比等の墓である蓋然性が非常に高い。ただ、現在の佐保の地から数キロは離れているので、もし「ここまでの広範囲を佐保と呼んでいた」とか「ここも佐保と呼ばれていた」という記録が見つかれば書き換えられることになると、白石太一郎先生が(そういう記録を見つけられないのが)悔しそうに語っておられた。そういう進行形の話を聞くのは楽しい。

  このように地名というのは非常に重要な史料であり、京都や奈良が古い地名を残してきたのは、その地に蓄積されてきた教養の結果であろうか。
  それに比べて、大阪市が過去に大幅な地名変更をしてしまったことや、平成の大合併等で安直な自治体名が全国に出現したことは肯けない。
  そんな思いをぼんやりと抱いて奈良町を歩いていたら、陰陽町という町名を見つけて嬉しくなった。おまけに、その地に鎮宅霊符神社が鎮座・・なのだから、中世の、ズバリ陰陽師の世界にタイムスリップしたようだ。
  そんなヒマジンのタイムスリップを大歓迎してくれているように、ここの狛犬はどう見ても大笑いをしておった。

3 件のコメント:

  1. 大阪市北区にはまだ同心町・与力町と同心や与力が住んでいたことが判る(現在は宿舎があります)名前や堂島浜と昔は海だったことが判る地名も残っています。同区のマンション建設現場で地下から砂が掘り出されているので土地の人に聞くと旧名が浜町だったのでやはりここは海だったのだなとわかりました。八尾市や東大阪市には神立・垣内・衣摺・大蓮・蛇草とちょとお読めない地名があります。伊勢物語に出てくるような土地なので由来があると思います。調べたら面白いでしょうね(こうだち・かいち・きずり・おばつじ・はぐさ)

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  2.  確か、地名変更時の主な理由は、① 細かすぎる多すぎるので知らない人が探しにくい。② 読みにくい地名がある。③ 「東心斎橋」のようにブランド力のある「心斎橋」にあやかりたい。というようなことだったと思います。このうち①と②については、今では、郵便番号、ネットの地図の検索機能、パソコンのふりがな機能で十分対応できたのに惜しいと思います。③は、私個人としては好きな考えではありませんが、住民自治の問題だと思います。
     せめて街の中の住居表示にカッコして旧町名があると、「ああ、あの歴史や文学や落語の地だな」と感慨も増すように思います。

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  3.  なお、大阪では、堂島浜の浜は海ではなく河岸のことだったのではないでしょうか。

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