2022年10月31日月曜日

研究成果に追いつかない

   古代史が面白くてよく本を買ったりするが、この(古代の)時代は一次史料が少ないことをよいことに、単に全くの独断を広げている本も少なくない。教授などという肩書があってもそうだ。
 そういう中で、遠山美都男氏の著作には私は常々説得力を感じていたので、今は『新版 大化改新』を買って読んでいるところだ。

 ただ、この間からしばしば吐露しているとおり、ちかごろ急速に視力が低下してきて読書の継続が辛くなってきていて、大きな本だけでも3冊をとろとろと並行して読んでいる。
 効率が悪いかもしれないが、好きな本を並行して読むのは趣味というか私の癖である。

 この本は旧来の、野心家入鹿の企みを阻止した鎌足と中大兄という日本書紀や藤氏家伝に依拠した通説を掘り下げて、王権(権力)の在り方を巡ったクーデターとして鮮やかに読み返した(検討し直した)読み応えのある著作(新版)だと思う。

 ただ、前述したとおり一機には読み進んでおらず、他の本も含めて読書は途中である。
 そんな中、30日の新聞の読書(書評)のページに仁藤淳史著『東アジアからみた大化の改新』(吉川弘文館)が出ていて、唐、高句麗、新羅、百済の抗争にいかに対応するかという倭国の「外交方針」を巡る論争、分裂外交などというクーデターの深い理由を丁寧に検討しているらしい。

 こうして私は、研究者の研究の前進にワクワクしながらも、「お~い まってくれ~」と読書すら追いつかない現状に悲鳴を上げている。
 ¥1700のこんな本はそんなに売れる本でもないから、少し落ち着いてから買おうと思っている。

2022年10月30日日曜日

くわ焼きの思い出

   季節はいま丁度、万願寺唐辛子が最盛期を迎えている。なのでセッセと食べている。
 一番手っ取り早いのはフライパンで炒めて醤油などで味付けをして、主たる副食の付け合わせにすることだが、半分に切ったものなどでは反り返っていてうまく火が通らない。

 そこで重宝しているのが写真のコテである。
 コテというのがほんとうの名称かどうかは分からないが、ネットを検索すると「肉押さえ」などと言ったり、単に「調理道具」としか出てこない。

 この道具を知ったのは20代で、道頓堀にあったくわ焼きの「たこ坊」だった。
 安くて美味しかったからよく行った。母親を連れて行ったこともある。
 そんなもので、この道具を道具屋筋で見つけたときには即購入したが、家庭でそんなにくわ焼きをする機会はなかった。
 だから専ら、焼くときにそっくり返る材料の、文字どおり肉押さえに使っている。

 これ自身を熱しておいてアイロンのように上から押さえると、ホッとサンドのようになるのもうれしい。
 それ以上に、こういう作業は料理そのものが楽しくなる。
 そして、遠い昔のたこ坊を思い出すのも悪くない。 

2022年10月29日土曜日

マイナンバー、信用できる?

   10月28日付け朝日新聞朝刊に、千葉大の院教授で朝日の客員論説委員の神里達博氏によるマイナンバーに関するオピニオンが掲載されていて、その中に諸外国の状況が示されていた。 

 紹介すると、ドイツは旧東ドイツの国民監視の暗い歴史を踏まえ憲法(ドイツ基本法)違反(違憲)とされていて導入されていない。

 フランスやイギリスもプライバシーの侵害が懸念されるとして導入されていない。

 韓国、米国、スウェーデンは導入されている。 

 ネットで見つけた情報では、オーストラリアは廃案、ハンガリーは違憲判決が出ているらしい。

 私の職業生活の経験からいえば、個人情報の漏洩は100%発生する。犯罪に結びつく可能性も高いと考えている。
 政権党あるいは知的な犯罪集団によって悪用されることはないと信じるのはあまりに世間知らずだと私は思っている。

   その一方で、制度導入の外注に群がる業者は大儲けをして、その一部が(一部と言っても2.4億円)自民党に還元されている。

 マイナカードが普及しないとして政府は2年後に健康保険証をマイナカードに切り替えると脅したが、10月12日に日本医師会は反対声明を出し、政府はマイナカードのない人には別のカードを出すとひっくり返した。そんなカードを新設するなら現状の保険証で何の問題もない。

 もう一度言うが、貴方に隠し財産があるかどうかは知らないが、貴方の病歴、現在の健康状況、それらいろんな個人情報が、ある日素っ裸にさらされる危険性がある。

 私は年齢にしてはAIなどに馴染んでいる方、使っている方だと思う。それだけに、ネット社会の怖さも知っているつもりだ。
 ネットは怖いと手を出さない人が、マイナンバー(国民総背番号)を信じているのが怖い。「うまい話には乗るな」と広報しているのは政府である。

2022年10月28日金曜日

夢みる人

   一坪にも満たない菜園だが、土いじりは厳しくかつ楽しい。
 都会の人間は暑いと暑すぎると文句を言い、寒くなると寒いと言い訳に使う。
 しかし土はそんなわがままを許してくれない。
 種まきの時期を逸するとうまく育たないし、水がきれると枯れもする。

 何かを依頼してもあれこれ理由をつけて断られることがあるが、これが農業だと今シーズンは全滅することもあるのにと、心の中で寂しく思う。

 そして同時に、土いじりは常に未来を夢見てする作業だ。
 春なら春に種をまくとき、当然に連作障害を考えるから、来年の春、そして再来年の春も一緒に夢を見る。
 もちろん今シーズンの収穫も夢を見る(しばしば裏切られはするが)。

 これが林業だと、孫やひ孫のために植林するのだから、俄かファーマーにはその足下にも及ばない。
 故CWニコルさんが森づくりをしていて、「あなたは完成した森を見ることは絶対にできないのに楽しいか」と尋ねられ、「完成した森を想像することができるし、その夢を見ることができる」と語ったのを講演で聴いた。

 先日まいたウスイエンドウの芽が出てきた。その可愛さはペットと同じだ。
 いま私は来春の豆ごはんの夢を見ている。
 孫の凜ちゃんは豆ごはんが好きだ。きっと「ボーノ」と言ってくれるに違いない。

2022年10月27日木曜日

満月の思想

   記紀神話では、イザナギが左の目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが、鼻を洗ったときにスサノオが生まれている。この三神が三貴子と呼ばれ、八百万の神々の中でも別格である。
 にもかかわらずアマテラスやスサノオに比べてツクヨミ(月讀命)は格段に影が薄い。これは稲作民族の価値観の反映ではないかと、これまで何回か書いてきた。

 稲作にとって空梅雨と冷夏は死活の難題だったから、太陽神、日光の化身アマテラスへの尊崇はよく解る。

 〽月の砂漠を・・ではないがシルクロードの隊商は昼間は休憩し夜に行進した。果ての見えない炎暑砂漠地帯では夜間行進が当然で、月と星こそが羅針盤であった。

 ギリシャ神話のような、星座にまつわる神話の発展もそれゆえであろうし、それに比べて列島のこの国の星にまつわる神話のあまりの少なさは見事に対照的である(七夕などは中国がルーツである)。

 先日東大寺ミュージアムで、有名な日光菩薩、月光菩薩について、その仏像の「どこが日光なら日光である特徴なのか」と尋ねたが、そこの職員二人は「解らない」ということだった。そもそも日光菩薩、月光菩薩ではない可能性もあるようだ。

 その後、高野山真言宗の吉田真譽師の講演を聴く機会があって、金剛界曼荼羅が月輪(がちりん)によって表されていること、満月が多く例えに用いられていることを知った。そして師がインドを旅した経験から、彼の地では昼間(日光)は容赦ない環境で、夜間に人々は安らぐと言う話を聞いた。
 それであれば、大日経は中国ではなくインドで編まれたものに相違ない。
 (掲載した絵は師の作品)

 近頃の日本は、もう温帯というよりも熱帯地方と思われるほどの気候変動が実感されている。
 寒がりの私も、だんだん昼間よりも夜間が好きになってきた。近頃は未明に南の空を見上げて、冬空の王者オリオン周辺のペテルギウス、リゲル、アルデバランなどを訳もなく眺めている。視力が急速に落ちてきて、スバルは見えなくなってきた。

2022年10月26日水曜日

協会はchurchでない

   先日、久しぶりに旧友たちが集まった。その折、なかなかに頭がきれてジョークが豊富なA氏が「おもろいのがある」とネットに投稿された画面をB氏に見せてくれたという。

 それは、日本共産党の「統一協会の対策会議」の会議名を記した看板が「統一協会」になっていると「協」の文字に赤丸印をつけて、「誰も間違いに気づかない」とコメントされているものだった。

 日本共産党が誤字を見過ごしたという逆立ちした話が出回っているようだ。ついては、以前にもこのブログで書いたことだが、改めて「統一協会」という表記について書いてみたい。
 内容に賛同されるならどうか正確な事実を拡散してほしい。

 そもそも今問題になっている「世界平和統一家庭連合」の旧名称は、正式には「世界基督教統一神霊協会」だから「統一協会」と略称するのが自然であり、初期にはメディアも統一協会自身もこの略称を使っていた。
 例えば1964年7月7日付け朝日新聞は「親泣かせの『原理運動』」と告発した記事でも「最近は『統一協会』という」と書いていた。

 その後、原理運動や霊感商法が世間の批判を浴びたことから、統一協会側が普通のキリスト教会とまぎらわしい「統一教会」と称するように転じ、メディアにも「統一教会」と表記するよう執拗(しつよう)に求めてきた。
 「キリスト教」「教会」という文字を掲げることで、反社会的なイメージをチェンジしようという企みだった。
 そんなことで新聞社などが発行するハンドブックなどでは略語として「統一教会」とするようになり、いまでは多くのメディアが「統一教会」と書くようになっているが、それは本来のジャーナリズムからしても良くないことだった。

 このように、安倍政権下の「募ったが募集はしていない」的な言葉遊び、そのことで物事の本質を目くらましにする、庶民の持つイメージを誤った方向に誘導する、そういう事案の先行事例ということができる。

 もっと言えば、当事者が英訳でHoly Spirit Association for the Unification of World Christianityと、はっきりとここではassociation(アソシエーション)(協会)と言っているのをchurch(チャーチ)(教会)と書くなど、どこかに忖度してペンを歪めたとしか言いようがない。こんな答案は文句なく✖だろう。

 以上のとおり、この表記問題は、もちろん誤字というレベルのことではなく、いくつかの裁判でも敗訴しているような無法カルト集団の横車に負けて「統一教会」と書くか、どんな圧力にも屈せずに正確な「統一協会」との表示を続けるかという試金石と言ってもよいことだと私は思っている。

2022年10月25日火曜日

切り火を受けて

   この間から「キェーキキキキ」とモズが高鳴きをして如何にも秋だという風なので、写真が撮れたらひと言書こうかと考えていたが、「ヒーヒーヒーカチカチカチ」のジョウビタキの方が先に撮れて、秋を書くまもなく冬になってしまいそうだ。

 カチカチカチが火打石のようなので「火焚き=ヒタキ」というのだが、火打石が死語になった現在、この説明をどうしたらよいものか。

 時代劇「銭形平次」では平次親分が出かける際に女房のお静が「切り火」を打ちかけているが、こんな「切り火」の意味もテロップででも解説が必要かも。

 なおジョウビタキの「尉(じょう)」は、成鳥♂は頭が白いので白髪、そして写真のとおり紋付の羽織を着ているので「尉」。これも、ちょっとした解説が必要かも。

 それにしても、そういう風に名付けた先人たちの想像力の豊かさよ。

 ジョウビタキの声を聴いたら、背なから切り火をもらって邪気を払ってもらっていると考えると、この鳥・・なんだかありがたい。


 ※ 高鳴きしているモズの写真を追加

2022年10月24日月曜日

奈良漬はお好き?

   先日テレビのケンミンショーで”味噌おにぎり”を取り上げていて、主に西日本の人たちが「わあ、味噌を生で食べるなんて」と言っていたが、私は金山寺味噌や蕗味噌など”食べる味噌”も嫌いでないから、関西人全てが生味噌を拒絶しているわけではない。
 そういうことで、この番組は100%娯楽番組だと思って怒らずに楽しく見ている。

 おにぎりの外側に味噌を塗って食べるのは指が汚れるという難点はあるが、オハギやアンコロ餅の例もある。ピザやハンバーガーやフライドチキンもそうだ。
 つまり、番組の味噌おにぎりに私自身は飛びつきはしないが、”それもアリ”だと私は思っている。

 この番組では、「このように食べているのはこの県だけです」というアナウンサーに県民が「ええっ!」と驚くのは愉快だが、料理や味には大いに風土があって良い。半分負けず嫌いでも県民が「こんな美味しいものを知らないなんて」と切り返すのは正しい。
 味噌おにぎりに顔をしかめる大阪人は紅生姜の天ぷらを笑われているのを知らない。他県人は概ね顔をしかめている。

 さて、孫の夏ちゃんは私の作った”だし巻き卵”を「祖父ちゃんのは甘くない」と低評価なのだが、私は絶対に砂糖やみりんで甘くはしない。
 だし巻き卵に砂糖を加えるかどうかは天下を二分する見解であり、多数決や法律で決めるべきものではない。結婚してスタートした家庭がどの味を承継するかどうかは自由だ。私は入れない。

 だから、味や料理に正しいとか正しくないとかはないのだが、できれば先入観や予断で語らず、自分の舌で判断すればよい。
 付け加えれば、テレビのタレントなどが滅多矢鱈に「あま~~い」と言って食材を誉めるのには辟易している。テレビのこっちで波平さんばりに「ばっかも~~ん」と叫んでいる。

 そこでようやく本題だが、奈良漬のことである。
 先日妻が今西本店で奈良漬を買ってきたが、店では「これは辛いですよ」「黒いですよ」と、「それでも食べますか」的に念を押されたと、面白く語っていた。

 この店のは3年以上かけて清酒の粕だけで6回以上漬け替えた「純正」である。
 袋の説明書きにも、「味をきつく感じられたなら洗って切って3~5日間冷蔵庫で冷やせ」と蛇足があった。
 それほど説明が必要なのは、今日販売流通している奈良漬けの99.99%が現代風に”甘く”アレンジされたものだからである。伝統どおりの純正無添加派の方が弁解めいた説明をしているという、この”話の転倒ぶり”もすこぶる可笑しい。

 賞味期限は2年先まである。私は非常に好んでいる。
 一般の奈良漬を「甘すぎる」と批判のお方には一度「添加物ゼロ」のほんまもんの奈良漬をお勧めする。
 料理や食材のアレンジというか進化の全てを否定しているわけではないが、上三条通の今西本店。伝統を頑固に守り通している根性が良い。

2022年10月23日日曜日

認知機能は?

   運転免許証の更新が近づいてきて、いわゆる高齢者講習に行き、認知機能検査を受けてきた。 
 まさかレッドカード、イエローカードはないだろうとは思いつつも、記憶力の低下は日々確実に感じている。微妙な心境で臨んだ。

 掲載した写真は人形で隠したが、その下の16枚の絵を覚えて、他の作業をしたのち「先ほどの絵の内容を書け」というものだった。

 結果を言うと、16枚中4枚の絵柄が出てこなかった。そのあとヒントが出て、その段階では全問正解した。

 最初の16問中12問というのが「まあまあ」なのかどうかは知らないが、自分自身では予想以上に点数が低く、些かショックを受けた。

 この講習自体は「予習」つまりは「試験対策」をしてきたならどうにでもなるが(私はしていない)、何といっても実態は12/16であるから、大切なのはその実態だ。さてどうするか。

 実技では、段差に乗り上げて、即ブレーキを掛けるというのがあった。全く新しい実技だったが、ブレーキの踏み間違いで急発進したものを即停止させるもので、反応力を試すものだった。この話と実技は参考になった。
 そろそろ、いろんな安全装置の付いたクルマに乗り換えようかと妻と相談している。悲しいが現実である。

2022年10月22日土曜日

殿様飛蝗

   以前に読んだ、前野 ウルド 浩太郎著『バッタを倒しにアフリカへ』はとても面白かったが、そのとき思ったことは「日本のバッタはもう倒されてしまったようだ」ということだった。私の周りではほんとうに見ることが少なくなった。

 私が小学校低学年の頃はあちこちに野原があった。野原というのは敬称で実態は焼け跡だった。そんな焼け跡もとい野原にはバッタがたくさんいた。

 そして今から40年ほど前、土地区画整理事業の原野のような土地にパイオニアとして住み始めたときにもバッタ(そのときはイナゴ)が大発生し、そのイナゴを脱糞させて炒めて砂糖醤油で絡めて子供たちと食べたりした。

 その後、街が整うのと比例してバッタは少なくなった、特に写真のような5センチを超えるような大きなバッタは少なくなった。名前は、その印象どおり、トノサマバッタである。

 奈良盆地の南部では今も”虫送り”の行事がある。テレビで放映されたりする。松明を燃やし子供たちが大声でシュプレヒコールしながら行進する。その昔は”単なる行事”ではなく、光に飛び込んでくる”誘蛾灯”のような実利のある行事だったのだろうか。
 そして、人力では及ばないほどの害虫被害に神の御利益を願うのは、ごく素朴な農民の心情だったのだろうか。そしてそして、デモ行進のルーツは神事であったような気がする。

2022年10月21日金曜日

秋にウグイス

   〽 私しゃ真室川の梅の花 貴方またこの町の鶯よ・・ではないが、「梅に鶯」はこの国万民の決まり文句である。
 ところが、通常梅の開花の時期にはホーホケキョはほとんど聞かない。どちらかというと3月後半からの「桜に鶯」の方が正しい気がする。

 それでもこれほどの誤解というか共通した幻想が認められているのは、メジロをウグイスだと誤解・錯覚したためだろう。事実、圧倒的な「梅に鶯」の絵画は実は「梅にメジロ」である。

   選挙カーの「ウグイス嬢」ではないけれど、声はすれども姿を見せないのでこのような誤解が今現在までも続いている。

 鶯は藪からめったに出ないうえに、囀りの時期以外はチャッチャッチャッというかジャッジャッジャッというようなもひとつパッとしない地鳴きなので、ほんとうに「声はすれども姿は見えず」で、「ほんにおまえは・・」という漫才を思い出す。

 どういうわけか紅葉の始まった街路樹にウグイスがやってきた。
 やっぱり「似合わない」。既成概念がそうする。
 「秋には藪の中にいろ。お前は嘘でも早春がよく似合う」。私も勝手なものである。

2022年10月20日木曜日

金木犀 銀木犀

   🔳季節が移って困ったこと、その1、蚊の襲来。
 「今年の夏は蚊が少なかった」との声は多かった。気温が30℃を超えると蚊は不活発になるらしい。
 その反動かも知れないが、少し気温も下がって雑草の整理をしようとすると、蚊の大軍団に襲われる。
 そこから逃げ帰ると一瞬のすきに蚊も屋内に忍び込んできて、無防備な人間はその後長時間悩まされる。

 その蚊対策だが、わが家で一番重宝しているのが「電撃殺虫ラケット」。
 殺虫剤や蚊取線香のように空気を汚さない。
 何よりも、バチッとやっつけたときには戦果が目に見えて、達成感というか快感が湧いてくる。「電撃殺虫ラケット」お勧めである。

 🔳季節が移って困ったこと、その2、秋の花粉症。
 秋は収穫の秋である。ということは実りの秋で、春のスギ花粉ではないが種々の花粉の季節である。
 今年の私の症状は、クシャミと鼻水で、それほど深刻ではないが不愉快な通奏低音だ。
 今年の秋は少し酷いと思っている人は私だけではないようだ。
 それが証拠には、頻繁に複数のご近所から大きなクシャミの声がする。
 「大変ですね、ご同輩」と心の中で同情している。
 近所の人も私の声に同情しているかも。

   🔳それらとは反対に季節が運んできてくれたプレゼント、それが香り。
 街中に金木犀の香りが漂っている。朝に窓を開けると気分が良い。
 数は少ないが銀木犀も負けじと咲いている。

 この香り以外は特徴のない葉の色や形だが、1年でこの時期だけは強烈な存在感をアピールする。
 掲載の写真は金木犀と銀木犀。
 そういえば若い頃、食前酒に桂花陳酒が出てきたときには驚いたが、今ではなんとなく懐かしい。

2022年10月19日水曜日

表現者になる

   「室町時代に生まれた俳諧は元々人間生活の持っている”おかしみ”や”滑稽さ”や”ユーモア”を表現したものだった」とは、毎日新聞特任編集委員の近藤勝重さんの言葉。

 若い頃、俳句をしている大先輩から芭蕉の言葉として”軽み(かろみ)”という言葉を教えてもらったが、よく考えると芭蕉後に軽みが唱えられたのでなく、軽みは元々俳諧に備わっていたもので、それを川柳が今日に引き継いでいるという。なるほど。
 近藤氏に言わせると子規あたりからの俳句はそこを忘れて?少しスマシタものになったと私は聴いた。

 ”聴いた”というのは、毎週土曜日MBSラジオ『しあわせの五七五』の15日朝の放送でそう聴いた。近藤流健康川柳道場のコーナーで、これはポッドキャストで何時でも聴くことができる。

 そのコーナーで近藤勝重氏は、「人生80年として60歳以降は人生の後半戦に入る。そのセカンドステージをどう大事に生きるかとすると、表現者になることだ。企業社会の中でないがしろにされてきた自分本位の人生に切り替えていくためには文芸とりわけ川柳を始めるのが良い」と語ったのが大いに胸に響いた。(川柳ときたのは近藤氏だからかもしれない)
 川柳に拘らず、自分史でもいいし、文芸でもいい、誰に気兼ねすることもなく”私はこう思う”と表現することが人生の仕上げになっていくようだ。大いに頷く。

 歳を重ねるといろいろ健康に問題が出るし、だいたい今さら新しいことに挑戦するのは面倒だ。・・と、後ろ向くか、それともかけがえのない大事な人生だと前向くかだけの違いでないか。
 アイデンティティという言葉がよく言われたことがあったが、広い意味で表現は自己の存在証明だろう。
 とすると、こじつけではないが、例えば高齢者にとって、機関紙活動への投稿(依頼)はその方のセカンドステージを真に豊かにする”ものすごい”アイテムではなかろうか。

2022年10月18日火曜日

ロシア産タラバ蟹

   ラジオのアナウンサーをパーソナリティというようになったのはいつ頃からのことだろう。
 この「名乗り」が一番発揮されるのはコマーシャルでないかと私は思う。

 用意された原稿を単に読むアナウンサーと違って、番組でけっこう自分の見解を語るパーソナリティが「CMです」とは言わずに「次のコーナー」的にCMに入り、例えば如何にも目の前で食べているかのように感想を述べ、食べ物でなくても「私も実際に使っていて・・・」のように感想を述べるのは、ナカナカ説得力を感じさせる。
 テレビなら画面の下に「これはCMです」とか「個人の感想です」と出さなければならない状況が注意なしでラジオから流れていく。

 それゆえに、今の今までロシアを批判し経済制裁を語っていた身(パーソナリティ)が、通販会社の社員とのトークに移り、「これは超お買い得、ロシア産タラバ蟹」となるのだから、結局「この国は資本主義だ」「スポンサーあっての放送だ」と悟らされることとなる。

 お金つまり資本が、金儲け・利益になびく原理というと、16日付け歌壇に『家族葬の会館となる 若者の減りゆくまちの結婚式場 (観音寺市)篠原俊則』というのがあって「ああ、あるある」と笑わされた。

 ところで、GDPでは劣ったロシアが西欧の先進国をある意味キリキリ舞させているのはガスと食糧だというのも、エネルギーと食糧を致命的なほど外国に依存している日本からすると教訓的でないか。
 対米従属一本槍で産業構造も農業も歪めてきた自公政権はほんとうのところ売国的であろう。地熱、潮流、風力、小型水力、太陽光等のエネルギー開発を真剣に追求する政治に転換し、食糧自給率の抜本的引上げに舵を切り替えさせなければと思う。

 再生可能エネルギーの話をもっとしたいなあ。

2022年10月17日月曜日

東方のヒマワリ畑

 この地ではヒマワリ畑にカワラヒワ

    12日に、今春、ウクライナのことを思って一坪菜園にヒマワリを植えたこと、そのヒマワリの種を食べにカワラヒワが来ることを書いたが、そのときの写真はカワラヒワが横の柿の木に移ったときのものだった。

 このヒマワリ畑は2階の窓の下なのだが、カワラヒワは私の気配を感じると直ぐに逃げ去ってしまうのだ。
 そんなもので、気配を消して、少し汚れた網戸越しに写したのが今回掲載の写真。偶然、ご自慢の羽根の模様を少し開いて見せてくれた瞬間。

 さて、ウクライナのヒマワリ畑には砲弾が来ているのだろうが、幸い東方のこの地ではカワラヒワが来ている。
 私たちは十分に身が安全な状態でニュースを見ているが、彼の地では非軍事的な日常空間で命が脅かされている。

 徴兵されたロシアの若者も悲惨である。もちろんウクライナの人々も。21世紀、人類は原点に帰って語り合う必要がある。冷笑は加害者を免罪する。

2022年10月16日日曜日

同時流行対策

   今冬は、新型コロナウイルス肺炎と季節性インフルエンザの同時流行の危険性が指摘されている。
 政府発表では1日にコロナ45万人、インフルエンザ30万人、計75万人発症も有り得るという。
 医療体制が維持できるか危うい。

 その指摘の一番の根拠は、オーストラリアにおけるこの秋(南半球の冬から初春)のインフルエンザの大流行である。
 オーストラリアでインフルエンザが大流行した半年後に北半球で大流行するパターンは何回も繰り返されている。
 インフルエンザとの同時流行が新型コロナの診療を手薄にすることは間違いない。

 政府は経済最優先で内外の旅行を煽っている。コロナの統計も手抜きを始めた。まるでコロナは終わったかのような宣伝が増えている。
 私たちは、誰かの判断と指図を口を開けて待つのでなく、ひとり一人が分析し、対処しなければならない。
 そんなもので、とりあえずは「高齢者インフルエンザ予防接種」を受けてきた。
 私はワクチン陰謀論には組しない。

2022年10月15日土曜日

神在月

   (旧暦)10月の代表的な異称は神無月で、出雲地方ではそれが神在月であるというのは有名な話だが、その理由が、そもそも古く日本国中の神々の支配者が出雲大神であったからとの解説は腑に落ちない。

 それよりも、出雲に神々が集うとの文献上の初出が12世紀半ばであることからも、廻国聖や御師による創作ではないかと私は考える。
 陽である神々は、10月、つまり極陰の月に、都から見て極陰の方角である乾にある出雲に集いて世界は再生するという陰陽説に説得力を感じるが、証拠はない。

 そんなことよりも、ヤマト王権の天孫の神々によって国譲りをさせられた地の神々の代表、中央の歴史書が本質的な部分で抹殺に似た扱いをした出雲とは何かということが気にかかる。

 今読んでいる『越境する出雲学』岡本雅享は、非常に実証的で頷く事項も多い。
 北九州、高志(越)から会津、新羅にまで出雲の足跡?は広がっている。

 西洋人にとってコロンブスやバスコ・ダ・ガマが英雄であって原住民の歴史など見向きもされなかったように、忘れ去られた出雲の足跡を民俗学の方法で解いていった名著だと思う。
 邪馬台国畿内説、北九州説に関わりなく、被征服者の代表たる出雲を見ずに日本の歴史は語れない。
 そういう観点は、皇国史観、天孫の歴史で「戦後レジームからの脱却」を詠う日本会議的反動勢力に騙されないためにも大切な観点であろう。

2022年10月14日金曜日

ささげご飯

   関西では赤飯、赤ご飯というと小豆(あずき)で作るのがが常識だが、関東(お江戸)ではササゲ(豆)が常識だと本で読んだ。

 その理由は、小豆はよく皮が割れるので、つまり豆の腹が割れるので、それが切腹をイメージさせ嫌われ、皮の割れないササゲ(豆)が用いられたという。

 さて我が一坪菜園のササゲだが、まあ何でもそうだが、収穫までは比較的簡単だが、いざ脱穀となるとこれが結構邪魔くさい。

 そこで今年は妻が、昔ながらの大豆の脱穀を真似て棒で叩いて脱穀を行った。
 その結果、大豆よりは皮が柔らかかったので、けっこう皮を破ってしまった。切腹だ。これではお江戸で商売(販売)できない。

 ただし、わが家は武士でもないし切腹の連想もないから、そのまま、「うるち米+もち米」でささげご飯にした。

 閑話休題(それはさておき)  六十干支(かんし)のスタートは甲子(きのえね)で、大正13年甲子の年に完成したので甲子園球場というのは有名だが、昔は「日」もその60日サイクルで数えられていた。父が存命だった小学生の頃、その甲子の日には大黒様の掛軸をかけて赤ご飯を供えるのが我が家の慣わしだった。

 そんな思い出があるものだから、ささげご飯など赤ご飯には元気の素があるように感じたりする。善哉も吉祥や厄除けの食べ物とされている。
 過ぎた60日の無事を感謝し、向かう60日の安寧をスタートの日に願うのは、素朴な先人の民俗行事であったことだろう。

2022年10月13日木曜日

柔構造

   阪神淡路大震災の折、私は大阪市内の馬場町のバス停を降りて驚いた。 周囲のビル群の中で、私の出勤すべきビルだけが桁違いに窓ガラスが割れていたのだ。
 その理由が、古い建築で「がっしりした」建物のため、柔構造でなかったためだということは後に知った。

 神戸周辺の、いわゆる近代建築に大きな被害があったのも同じ理由だろう。考えさせられる。

 先日、興福寺五重塔の特別拝観に行ってきた。
 いうまでもないが、鉄骨やコンクリートとは無縁の木造建築で、釘も使われていない。
 土台の石の上に固定されずに柱が立てられていて(ひょいと乗せられている感じで)、塔の四隅も同じで、全体が四隅ではなく、その一本の心柱で支えられている。
 これが普通のお寺の本堂のようなものなら何となく納得もできるのだが、あの高さである。
 究極の柔構造だとほんとうに感心した。

 拝観の周りのみんなは安置されている仏像に感心されていたが、私は心柱の土台を覗き込んで圧倒されていた。

 牽強付会ではないが、歳をとると頭は固くなる。待て待て、柔構造こそが強いのだと反省しながら帰ってきた。

2022年10月12日水曜日

河原鶸(カワラヒワ)

   ヒマワリがほゞ咲き終わって、たくさん種ができてきた。
 野鳥はよく知っていて、順番に食事に来る。
 カワラヒワの食事中を撮ろうとすると、直ぐに気配を感じて隣の柿の木に逃げて行った。

 野鳥はクチバシを見ると何が主食かはほゞ見当がつく。
 ヤマガラやシジュウカラとよく似たこういうクチバシの野鳥はヒマワリが好きである。

 キリキリキリ ジューーイ とまあまあ美しい声だし、羽の模様も美しい。
 その模様、頭の上を飛んだ時には模様が透かしになってとてつもなく素晴らしいのだが、それを写真に残すのは難しい。

 わが家周辺ではトップクラスの美形である。

2022年10月11日火曜日

零余子(むかご)

 音のして夜風のこぼす零余子かな 飯田蛇笏

   収穫の秋、わが家では自家製の「零余子ご飯」や「ささげご飯」をよく食べている。
 この種の豆ごはん、孫の凜ちゃんも喜んで食べてくれる。

 不味いものは忖度抜きで舌で押し出すし、気に入ったときはほっぺたに手を当ててボーノと言ってくれるから、立派なベロメーターだ。

 零余子は自然薯(山芋)類の茎にできる「実」で、そのまま齧ると当たり前だが長芋の短冊と似た味がする。
 零余子ご飯は、零余子を皮のまま簡単にお湯で洗ったのち、少し塩を加えてお米と一緒に炊くだけだから何の手間もいらない。微かに秋の野趣が薫る。

 庭の隅のどうでもよいところに毎年勝手に生えてきて零余子ができる。
 時々スカシバのバカでかい青虫がついて葉っぱを食べるが、零余子には大した影響がないのでそのままにしている。

 コロナ禍で人どおしの触れ合いが希薄になったが、その分、自然界との付き合いは深まった。次は穂紫蘇の収穫で夏野菜類は打ち止めとなる。だが冬野菜の準備は全くできていない。一度土を休ますのも悪くないと思う。どうするか。

2022年10月10日月曜日

黄塵の朝

   去年の10月12日そして今年の10月1日のブログの続きになる。 
   東大寺の有名な別当であった故清水公照師の上の書画を手に入れたが、情けないことに浅学ゆえ、後ろから2行目の文字を読むことができなかった。
 師の故郷にあり、師の多くの作品を所蔵されている『姫路市書写の里・美術工芸館』に問い合わせても結論は出ず、結局勝手に、黄砂という言葉からヒントを得て、というか強引に引用して、西域の砂嵐を「黄塵」と言ってみるのが最もふさわしいと自分自身を納得させていた。

 そこで先日、孫の夏ちゃんが書道で文部科学大臣賞をもらったことを書いたが、夏ちゃんのお父さんを通じて、そこの先生に私の見解の妥当性について尋ねてもらった。
 その結果が「黄塵だろう」という答えだった。

 で、私の推理というか、ヤマ勘も立派なものだったと自惚れている。
 ただ、その理由などについて、解読していただいた先生と直接「やりとり」できていないが、ちょっと自慢である。

 『 豚 山羊 沙州のニラを添えて食う 西域の営み 黄塵の朝  公照 』

 旧地名である「沙州」の敦煌は今は甘粛省の敦煌だが、すぐ西には玉門関と陽関がある。 漢詩 〽西のかた陽関を出ずれば故人無からん」 の陽関でその先は新疆に続く。
 私が就職したころは、送別会というと先輩がこの詩を吟じてくれたものである。

 新疆の現在というとウイグル人の人権問題があるが、とりあえずは今日の記事ではロマンあふれるシルクロードとだけにしておこう。
 西域の砂嵐はけたたましく時には日本にまで届く。黄砂である。
 清水公照師は黄塵、・・そんな砂嵐の中で朝食をとったことだろう。目に浮かぶ。

 そして道草だが、この書は、仏教は原理的には肉食を禁じていないことを暗に教えていて面白い。南無~。

2022年10月9日日曜日

お知恵拝借

   23日のピクニックの準備に関して少々迷っていることがある。
 キャンピングチェアをたくさん用意できたらいいのだが、所持している人も限られているし、準備する(搬入する)人手も限られている。(実行委員には、外に食料品の準備・搬入もあるし)

 そんなことを悩みながら百均を探してみると、「レジャーマット」という一人用の座布団みたいなものがあった。

 写真1(一番上)のとおり、軽くて小ささから搬入するには便利だ。一人で10個だって持参できる。それに110円は魅力的だ。

   だが当然、110円は110円で、写真2のとおり、一言でいって、薄いし小さい。
 薄い方の問題は110円ということで我慢するとしても、寸法の小さいのは、太った人にはきついかもしれない。(写真3と写真4)

   もちろん、お金を出せば(値段の高いものには)、よさそうなものが幾つかあるが、それはズバリ会計が許さない。

 と、毎度のことながらひとつのイベントのためにはけっこう悩んでいる。

   どなたか、折りたたむと軽くて小さくて、使用するときは厚くて大きくて、そして廉価なモノ(や方法)はないでしょうか。
   ちなみに、550円とか1000円ちょっと出すとするとキャンピングチェアの小や大があるしレジャーマットの大もあるが、それは、会計も搬入の人手も上手くいかない。

 写真を撮ってもらった妻に言わせると、どちらかというと、キチキチ一杯ながらこれでも「セーフ」だというのだが。

 グッド アイデア教えてください。

2022年10月8日土曜日

23日はピクニック

   冬眠ではないがコロナ夏眠を抜けて、来年の統一地方選挙を見据えて再起動のスイッチが入った。
 23日(日)に扇町公園でミニ ピクニックをしようということになった。
 昨日はお誘いの文書案を起案した。
 ホームセンターでレジャーシートを買ってきた。
 今日は、幟を作り始めている。初めてA4対応の手貼りラミネートの作業をしたがけっこうこの作業は困難だった。
 百均にレジャーマットという座布団のようなものを見つけた。買うかどうか仲間に提起中だ。
 起案文書がGOになれば広く郵送して、電話等でお誘いするつもりだ。
 コロナ禍の巣籠りが長かったので、皆な若干寝ぼけているが、逆算をすればこのピクニックは大事だと思う。
 皆な、よろしく!
 

 

2022年10月7日金曜日

権威も疑う

   先日、緻密な理屈が好きな友人が「三省堂の辞書(新明解か?)に「《過半数》とは《半分以上》」とあった。ついては今まで当然としていた解釈は間違っていて、半分以上つまり総数100人なら51人からでなく、50人から100人が《過半数》になるのでないか」と問題を提起してきた。

 私は「その辞書は不正確、もっと言えば誤りだ」と言ったが、「天下の三省堂の辞書が誤っているのはおかしい」という風にその顔は不満げだった。

 そのため私は、彼の辞書の見間違いではないかと、帰宅してから手持ちの辞書を手繰ってみた。
 その結果、
三省堂 明解国語辞典
 過半=半分以上
三省堂 大明解漢和辞典
 全体の半分以上の数
永岡書店 新編広語辞典
 全体の数の半分以上
と、彼の言うよう1/2「以上」と書いてある辞書が見つかった。もっと簡便な実用事典類にもそういうものがあった。
 彼の見間違い、読み間違いではなかった。

 そも、《過半数》だとか《〇/〇以上》という語句は日本国憲法自体にも出てくる文字であるから、これは捨てておけない。
 
 辞書類の続きを言うと、三省堂とは反対に、
集英社 新修広辞典
 全体の半分より多い数
新潮社 新潮日本語漢字辞典
 全体の半分より多い数
岩波書店 広辞苑
 全体の半数をこえる数
と、正確な辞書も当然にあった。また直接的に《過半数》ではないが、
ぎょうせい 法令解釈の基礎の「法令用語の意味」の章には
 数量的限定をする場合、基準点となる数量を含む場合に用いられるのが「以上」「以下」、基準点となる数量を含まない場合に用いられるのが「超」「超える」「未満」「満たない」、
 一定の数量を基準として、その基準数量を含んでそれより多いという場合には「以上」を、その基準数量を含まずにそれより多いという場合には「超」又は「超える」を用いるとある。
(公用文の作成要領の法令用語の章も同じ)
 
 ちなみに、厚生労働省・都道府県労働局・労働基準監督署による、労働基準法36条協定のパンフレットには《過半数労働組合》の解説として、労働組合員数/すべての労働者>50%と明記していて、「≧でない」、つまり「50%である数は含まない」のが《過半数》であるということは明白にされている。 
 答えは明白で、100人の《過半数》は51人から100人で、100人の《半数以上》は50人から100人となる。
 
 このように一部の辞典の解説は、販売部数の巨大な、いわゆる大手出版社の辞書であったとしても、不正確というか、誤りである場合がある。
反対に、このことについては、ネット上の各種辞書は解りやすく、かつ正確であった。

 辞書の誤りということでいえば私は白川文字学を思い出す。
 白川静氏は漢字学の聖典ともいえる後漢(紀元100年)時代許慎が著した『説文解字』の誤りを発見したところから本格的に展開した。
 例えば、『告』という漢字について、説文解字以降中国や日本で当然とされていた「角に横木をつけた牛が何かを口で訴えているようなので告げるの意」というのを「そんなあほな」と批判し「サイ」という言霊の入れ物を発見したのだった。
 言いたいことは、「権威」のあるとされているもの(辞書)でも単純に信じるな!ということになるだろうか。
辞書を作る話と言えば、三浦しをん著『舟を編む』も面白かった。

2022年10月6日木曜日

秋茗荷

   茗荷(ミョウガ)がそろそろ葉も弱って来てシーズンも終わりかなと思っていたら、何本も花(ミョウガの子)が咲いていた。

 ざっくりした感想だが、初夏の頃、近くの大手スーパーでは、3本のパックが90円台、安いときは70円台だった。それがその後だんだん値上がりして、140円、150円台で推移している。

 これはどうしてだろうか。もしかしてビニールハウス内で冷房でもかけて成長をコントロールしているのだろうか。

 大手スーパーのことだから露地栽培ということもないだろうが、だとしたら需要と供給の関係で、需要の多い夏季に消費者の足下を見て価格が設定されたのだろうか。

 100円ちょっとのことで目くじらを立てている訳ではないが、ミョウガの値段は不思議だと思っている。
 初夏は採れ過ぎで安かっただけだったのだろうか。

2022年10月5日水曜日

アシナガバチ

   いつも出入りしている場所のすぐ横の樹木の剪定をしていたら、やたらにハチが飛んできた。
 で、少し慎重に作業を進めると、写真のとおり、巣作り真っ最中のところに出くわした。個体は結構大きいからセグロアシナガバチだと思われる。
 アシナガバチはスズメバチ科であるから油断はできないが、スズメバチに比べると危険性は数段落ちる。噴射式の殺虫剤で難なく駆除をした。

 回想法ということで、老人ホームに入居していた当時、義母には昔の話をよく聞いた。
 その中で、「蜂の子を指でつまみだしてよく食べた」というのがあった。今から考えると親蜂に刺されずにどうやって巣を捕ったのだろう。もっと聞いておけばよかった。

 それにしても、親の世代までの日本人は逞しかった。大人になるまで肉や魚をほとんど食べた記憶がないとも言っていた。
 しかし、長生きした義母の話から遡って「逞しかった」と思うだけで、多くの長生きできなかった人がいたと考えるのが正しいかも。

 「ああ野麦峠」を読んだとき、持っていた先入観と全く違って証言者がみな明るかったのに驚いたことを思い出す。そう、結核や塵肺で死んでいった女工たちは証言できなかったのである。

 殺虫剤のため食べることもできなかったが、セグロアシナガバチの幼虫は少し美味しそうだった。
 義母は「プッチュウと食べまんねん」「甘くて美味しかった」と私に教えてくれていた。

2022年10月4日火曜日

世界は広い

   10月2日の記事で触れたクイズの答はお解りだろうか。何かで答の知識をお持ちのお方は置いておいて、初めて考えて解くのはけっこう難しい(と思う)。

 答をいうと、どこから始めてもよいのだが、例えば④からスタートして⑦を結び、そしてここがポイントなのだがそのまま下に止めずに進み、少し先で「レ」のように曲げ(ここまでの縦線が1直線)、⑧と⑥を結んで更に上辺を右に伸ばした地点まで行き(これが2直線)、左へまげて③②①を結び(3直線)、①から右斜め下に⑤⑨と行く(4直線)で、4角(4つの直線)の一筆書きで9つの点を全て結んだことになる。

 高校1年生の折に先輩と哲学の話をしているときにこれを提出され、解けなかったことを今も覚えている。
 そのとき私が解けなかった理由は、この数学の世界を、勝手に外側の8つの点で囲まれた正方形の世界と信じ込んだことである。④から⑦を結んだ先の世界(点)や⑧から⑥を結んだ先の世界が想像できなかったことにある。

 もうお解かりだと思う。例えば、「消費税は福祉に使う」という言葉を前にして、「福祉のためなら仕方がない」というのと同じである。消費税の一部は確かに福祉に充てられても、従前からあった社会保障費国庫負担が減らされれば、答は福祉以外の富裕者減税、さらには増額された軍事費に使われたというのがモノの本質となる。

 囲まれた正方形のようなロジックに騙されてはならない。この正方形の外に大きく世界は広がっており、そこから俯瞰する眼がなければ我々はともすれば騙される。その行きつく先は洗脳の世界である。

 写真は直接的には関係ないが日の出である。太陽はすぐそこの森の後ろから出てきたように見えるが実際ははるか遠くである。日の出とともに星々は消えたように見えるが「見えないけれどあるんだよ」という詩のとおりである。地球全体に朝が来たように見える(思える)が、夜の国もあるし日暮れの国もある。当たり前だ。当たり前だが時々人々は勘違いをする。

2022年10月3日月曜日

ハロウィン

   ハロウィンは、デパートやスーパーやテーマパークなどの商業主義に煽られて今日があるのが気に入らないが、元々は古代アイルランドのケルト人のお祭りで、日本の民話や村祭りに似た素朴なものであったから、私は写真のとおりの本も持っているし嫌いでもない。

 ただ「日本人なら日本の年中行事を大事にしろ」と反発もしてきたが、残念ながら幼稚園や保育園では堂々たる「年中行事」の地位を確保している。

 そんなもので、つまらない「魔法の杖」みたいなものを試しに百均で買ってきたが、孫の凜ちゃんは直ぐに「ハロウィン!」と言ったので驚いた。
 この孫が喜ぶなら、妖精だろうが悪霊だろうがカボチャのお化けだろうが構わない。ゾンビでも。

   さて、孫の通学を担当する日があるが、夏には畦地梅太郎のTシャツを着て行くことが多かった。そんな時、スクールバスの再任用のような先生に「お爺さん、いいシャツですね」と何回か誉め?られた。
 お爺さん??? 些か心外だったが、先生から見たらゾンビみたいだったのだろう。

 


2022年10月2日日曜日

ドツボにはまる

   10月1日から、一定の所得のある後期高齢者の医療費の窓口負担が1割負担から2割負担に、経過措置があるものの倍化(100%値上げ)された。
 例によって、そのニュースの「街の声」がテレビで流されたが、「いずれは辿る道だから」と値上げは辛いという声に被せて、「若者に負担がかかっているのだから高齢者は我慢すべき」という声が大きく取り上げられていた。
 さて、一見「公平」に見えるこの報道姿勢は正しいだろうか。
 財源はほんとうに若者にシワヨセられているのだろうか。

 ニュース内の後者の発言者は、後期高齢者(医療制度)は協会けんぽや国保から脱退している事実を知らずに語っている。後期高齢者の医療費は若者の保険料で負担されているという間違った認識がある。(それを指摘・訂正せずに報道したテレビは許せない)。
 「風が吹けば・・」ではないが、結局社会保障費には予算(税金)が投入されているから、そういう意味で「若者にシワヨセ」というなら、そもそも国家や財政というものはセーフティーネットが重要な仕事でないか。
 あるいは、予算(税金)を考えた場合、向こう5年間で5兆円を超える軍事費の増額をこそ不要不急としなければならないのではないか。

 10代の頃先輩から出されてうなったクイズを思い出す。
 「田の字の9つの交点を4本(4角)の一筆書きで結べ」という有名なものである。
 うなったのは、「小さな既成概念から抜け出せていない」と指摘されたからである。
 「後者の街の声」は小さくない。既成概念というよりも、偽りの土壺から抜け出せていないのでないか。
 同じようなことは、多くの課題について、少なくない人々の頭を捉えている。

2022年10月1日土曜日

清水公照師の書

   20211012日のブログの続きを書く。
 先ず「おさらい」をしておくと、私は、東大寺の有名な別当であった故清水公照師の書画を手に入れた。
   ところが情けないことに文字の一部を浅学ゆえ読むことができなかった。
 そこで、師の故郷にあり、師の多くの作品を所蔵されている『姫路市書写の里・美術工芸館』に問い合わせて教えを請うた。
 後日、学芸員の方が検討された結果の回答があり、『豚 山羊 沙州のニラを添えて食う 西域の営み 塵の朝  公照』で、は不明』。附記として、『清水公照は「中国・西域の旅」と題して、昭和635月に(敦煌、西安、北京)などの中国旅行をしています。沙州とは現在の敦煌(とんこう)周辺地域のことで、砂漠で有名ですが砂ぼこりなどが街に舞うそうです。この時の様子を描いたものと思いますので、「芥塵」「埃塵」かも知れません。』とあった。そしてこれはほゞ私の推測と外れていなかった。 
 ただこの文字が朝食に係るとすれば「羹」(あつもの)(羊羹の羹)もアリかと考えたのだが、その場合、次に付く「塵」以外の相応しい文字が見つからなかった。ただ、「羹(あつもの)の廛(みせ)」というのもあるにはあった。
 結局、私は勝手に、黄砂という言葉からヒントを得て、というか強引に引用して、西域の砂嵐を「黄塵」と言ってみるのが最もふさわしいと自分自身を納得させたのだが、もちろん、書や漢字の理屈の裏付けはない。
 こうして、『 豚 山羊 沙州のニラを添えて食う 西域の営み 黄塵の朝  公照 』と私は読んだ。(以上がおさらい) 


   それから1年が経過して、「支障のない程度の小骨が喉の奥に刺さっている」ような微妙な感覚で来たので、今般、改めて各種漢和辞典、さらに『くずし字解読辞典』や『五體字類』のページを繰ってみたところ、別掲(上記)写真のとおりの字(体)を見つけた。

 いずれも「帯に短し襷に長し」なのだが、埃はいくらくずし字だとしてもツチヘンが必要だろう、また「塵埃」がひっくり返ったとしたら文字に「味」がない。
 茅は、茅が広い野原を指すことから意味が通じるのではないかとも考えたが、矛の下がハネていないので採用できず、
 芥は、「塵芥」をひっくり返したわけで「塵埃」同様「味」がない。字体も微妙に合わない。
 結局、当初の思いどおり、黄砂の塵で「黄塵」ならくずし字としても許容できるし意味も許容できるように思ったが、
 最後に「莫」を検討したところ、「莫莫はちりほころが盛んに起こる形容」とあり、「莫は漠に通ず」ということもあるらしく、漠はそれ自体「砂漠」「ゴビ砂漠」も表しており、莫高窟旅行の最中の砂嵐を「莫塵」とするのも大いに有り得ると考えた。ただし、その熟語は発見できていない。

 よって、結論的には「莫塵」も捨てがたく心残りもあるが、発音の語呂の悪さもあり、元に戻って「黄塵」でもよいかと納得した次第。
 読者皆様のご助言を乞う。