2020年6月30日火曜日

国民平和大行進

自分自身のためにおさらいをしておくが、核兵器は20195月の統計で約14千発地球上に存在している。
 【アメリカ(6185発)、ロシア(6500)、イギリス(215)、フランス(300)、中国(290)、インド(140)、パキスタン(150)、イスラエル(80)、北朝鮮(25)で13,890発】
広島、長崎の原子爆弾は、現代から見れば極めて旧式の小型のものだったが、4か月余りのうちに21万人の命をうばい、生き延びた人々も放射線障害などによって長年苦しんだ。被爆者が語る言語に絶する体験は、この兵器が他に例をみない非人道的な、大量破壊兵器であることをはっきりと示している。いかなる理由であれ、いかなる地においても、再び使われてはならない「悪魔の兵器」だ。

 また、現存する核兵器のごく一部(100発程度)が都市で爆発しただけでも、舞い上がった粉塵によって、地球全体の気候に変動がおき、20億人が飢餓にひんすると、核戦争防止国際医師会議「核の飢饉2013年」は忠告している。

さて、アメリカのトランプ政権は、核兵器をより使い易くするための新たな「小型」核兵器の開発に踏み出し、1980年代の米ソ対立時代につくられたINF条約(中距離核戦略全廃条約)から一方的に離脱を表明した。
 一方、ロシアも、アメリカの動きに対抗し、地域紛争での核兵器の先制使用や新型核兵器の開発をすすめているる。こうした下で、新たな核軍拡競争も高まっており、2021年に期限をむかえる米ロの戦略核兵器制限条約(新START)が延長されない可能性もある。またアジアでは、核兵器を持つインドとパキスタンの軍事緊張が高まっているす、北朝鮮も「核兵器投下も辞せず」のアナウンスを再び強調している。

 なお、米ロ両国では約1800発の核弾頭を搭載したミサイルが「高度警戒態勢」にあるといわれていて、これは何か異変があればすぐにでも発射できる状態になっているということで、意図的な核攻撃だけでなく、人為的なミスなどで、核ミサイルを打ち合いかねない危険な状態にある。また、核兵器にかかわる重大事故は、世界各地でいくつもあったわけで、つまり、核兵器が偶発的に使われてしまう危険も常にあるのである。

 このような核兵器を廃棄し、それを検証し、再び製造されないようにするには、国際的な枠組み=条約が必要になる。大量破壊兵器の禁止を取り決めた条約としては、化学兵器条約(1997年発効)、生物兵器条約(1975年発効)があるが、もっとも残虐で最大の被害をもたらす核兵器についてはこうした法=条約はなかった。

 この状況を克服するためにつくられたのが、核兵器禁止条約(以下、TPNW)で、20177月に、国連加盟国の約3分の2にあたる122カ国が賛成して採択された。TPNWは、国際協定として歴史上はじめて、核兵器を明示的に違法化し、禁止するもので、これまでも様々な核兵器に関する条約があったが、核兵器を違法化したものはなかったわけで、ここにTPNWの歴史的な意義がある。

 条約は、「核兵器使用の被害者(Hibakusha)および核実験の被害者の容認しがたい苦難と損害」に留意し、核兵器廃絶を訴え続けた「ヒバクシャ(Hibakusha)の取り組み」を評価した(前文)。このように、禁止条約は、被爆者を先頭とする反核運動がつくりあげた条約だと言える。
 文字どおり私たちの運動が、「微力であっても無力ではない」ことが証明されている。
 条約はすでにこの6月で38カ国が批准していて、50番目の国が批准してから90日後に発効することになっているので、あと12カ国だ。ただし日本政府は後ろ向きというところが問題だ。

   よって今こそ2020年原水爆禁止国民平和大行進の出番だ・・といいたいところだが、新型コロナウイルス感染の広がりで規模等が大幅に縮小された。
 ついては、「心は歩いています」という思いを込めて、できればOB会で広島にペナントを送りたいと思っている。
 広島では84日に平和資料館または原爆ドームを全国からのペナントで包む行事が予定されている。
 広く賛同の声をいただきたいと願っている。

   炎天や心はヒロシマナガサキへ

2020年6月29日月曜日

海水浴場

   新聞が『海開きをすべきかどうかビーチ苦渋』というような記事を大きく掲げているときに大声では言いづらいが「海水浴場」へ行ってきた。

 息子ファミリー&娘ファミリーが一緒に誘ってくれた。
 そんなもので、ほんとうに何十年ぶりかで「箱眼鏡」や「水中眼鏡」を引っ張り出した。
   名前に「浜」がつく中学を出た身としては、どうしても「海水浴」という言葉に反応して嬉しくなるのだ。

 磯では孫の夏ちゃんに「嫁の日傘」の採り方を伝授し、ワタリガニの子供も捕ってやったりした。
 水泳が得意な夏ちゃんは水着に着替えた。
 孫の凜ちゃんは、些細な波に足をとられて転倒したりだが、水や砂で大いに遊んだ。
 こうなれば何十年ぶりかで次は海パンで海に入るぞ。
   海は私に元気をくれる。

 さてサービスエリアの印象を言うと、自分のことは棚において「皆こんなに出かけていいのか」というほど賑わっていた。
 ただし、ほゞ100%マスクはしている。

 行った海水浴場は海開き前ということもあり大混雑はしていなかった。
 脱衣場の密が避けられないというのが問題視されているが、我われも含め少なからず簡単テントを広げているから、夜の街を自粛して潮風に吹かれるのはセーフではないだろうか。

   最後の写真は箱眼鏡を家で点検していたところ。
   昔?の道具は丈夫にできている。


 海恋し 潮の遠鳴り 数へては
 少女(おとめ)となりし 父母の家
            与謝野晶子

 巨大コンビナートができる前、南海電車堺駅ではドアが開くと同時に潮の香が入って来た。
 私は校区の中では一番海から離れていたが、早朝の寝床には焼玉エンジン・ポンポン船の出航する音が響いてきた。
 悪ガキみたいな私が上の歌を短歌らしく詠んだので担任でもあった国語教師に驚かれたことがある。
 その恩師は昨秋逝かれた。

2020年6月28日日曜日

良心と偽善のあいだ

 昨日は関電の株主総会について「倫理がかけている」と書いたが、保阪正康著『昭和史の本質』(新潮新書)のサブタイトルが『良心と偽善のあいだ』であった。
 丁度、エールの主人公古関裕而にもかかわる部分で次のような文章があった。

▮昭和20年1月に西條八十作詞、古関裕而作曲で「比島決戦の歌」が発表された。この中に「いざ来い ニミッツ マッカーサー 出てくりゃ 地獄へ 逆落とし」という何とも品のない一節がある。西條八十ともあろう作詞家がこんな表現をするだろうか、との感想が湧く。これが戦時下の国民歌謡というわけだ。
 戦後になって明らかになったことだが、西條はむろんこんな詞は作らない。陸軍の将校が、ニミッツやマッカーサーの名を入れろと命令する。西條はとんでもないと譲らない。あまりのしつこさに、西條は「レイテは地獄の三丁目 出てくりゃ地獄へ逆落とし」と直したのだという。ところが陸軍側が勝手に、「ニミッツ、マッカーサー」に直してしまったそうだ(塩澤実信『昭和の戦時歌謡物語』)。
 ・・・戦時下社会は分析すればするほど、偽善が横行していたことがわかる。負けているのに勝っているとの国家的キャンペーンから日常のモラルまで、そのすべてが偽善化していた。その結果、どうなるか。麻痺状態になるのである。客観的判断が失われ、主観的願望が社会の常識になる。・・・実は戦争の怖さは、そういう人格障害的な空間になり、そこに生きることはなんらかの病理的な現象を伴うということである。▮(引用おわり)

 それにしても、作家や音楽家などなど「世論」に影響を与える人々の果たした役割は大きかった。さて戦後民主主義と教育、教養はそれを克服しただろうか。
 政府・与党が電通を利用する。大阪府市政・与党がヨシモトを利用する。
 現代社会の病理は戦前に近づいていないか。


2020年6月27日土曜日

鯛は頭から

 国会で「鯛は頭から腐る」と言われて顔色を変えて怒った安倍総理だが、その反応は核心を突かれたが故の怒りだったのだろう。
 コロナ問題では先日来、この国では物事の本質的な目的とそのための手段などがひっくり返って論じられることが少なくないと語ってきたが、議会制民主主義も驕れる安倍政権によって同様のこととなっている。

 曰く、「十分に時間をかけて議論を尽くした」という強行採決である。
 到底十分とは言えない極端に短い審議時間。衆院予算委員会などでは「往復」の持ち時間として質問に答えずだらだらと無意味な「答弁」を続けてあえて質問を封じる策。万人が議論不足と認めるような状況を物理的な時間だけで充分だという詭弁。などなどである。

   国会が閉会された今頃なぜこんなことを書くかといえば、つい先日の関電の株主総会に呆れ果てたからである。
 持ち時間「1議案1分」。しかも「それは感染防止の観点」と言うに及んでは言語道断だろう。
 
 私も現職中は審議会などの経験があるし、確かに形式に流れたこともあるが、これほど酷い「強行採決」は知らない。あえていうが関電の株主総会は「強行採決」である。
 いくら経営のことであっても民主社会で守るべき倫理が欠けている。
 「鯛は頭から腐る」そしていま腐敗は全身に及びつつある。

   湿度99%朝から眠い溽暑かな

2020年6月26日金曜日

大鳶刺亀

   近くの草むらに名前の知らない昆虫を見つけた。
 ゾウムシ、ゴミムシ、カミキリムシなどの仲間だろうか。
 ところがその種の甲虫類の中を探してみても解らない。そして見つけた名前は、大鳶刺亀(オオトビサシガメ)。大きな鳶のような刺す亀虫。なんともおどろおどろしい名前だ。
 カメムシ目だが肉食で刺されるとアシナガバチと甲乙つけがたい程痛いらしい。
 姿は肉食昆虫らしく精悍だ。
 で、そっと写真を撮ってお別れをした。

   別の日、次の昆虫を見つけた。これは10ミリほどの小さな奴で結構ユニークなフォルムだ。
 上のサシガメに似ているようで似ていない。図鑑とネットで色々調べてみたがピタッと合う写真が見つからない。
 どなたか、この昆虫の名前を教えてください。
 ベースの葉っぱはヌスビトハギです。

 蝶や蜻蛉や黄金虫や有名な昆虫は何となく名前にたどり着くが、世界の昆虫は知られているだけで百万種を超えるというから、たどり着けなくても当然といえば当然だ。昆虫すごいぜ。
 写真は一瞬。名前調べは一日懸けても判らない。

   半ズボン虫撮る己だけが生き残る(養老孟司・池田清彦・奥本大三郎著『虫捕る子だけが生き残る』小学館101新書というのがある)

2020年6月25日木曜日

梅雨時の花二題

   クチナシの花に限らないが、この種の白い花の盛りは一瞬だ。365日のうちの2~3日が過ぎればそれは黄ばんでさらに茶色に変色して、「卯の花腐し」の言葉があるようにまるで腐った感じがする。
 しかもその盛りが梅雨の最中に起こるから、例の歌謡曲ではないが、クチナシの花はハクモクレンほどの明るさもなく可哀相である。

 妻は〽今では指輪も回らぬほど太ってしまったが、それもよし。
 クチナシは姿よりも香であり、それは鬱陶しい梅雨空を忘れさせる。
 
   もうひとつ、梅雨というと、象潟や雨が西施のねぶの花 が思い起こされる。
 しかし私の印象ではどうも合歓の花はバタ臭く、春秋時代の美人のイメージにつながらない。
 昨日今日入って来た外来の洋木の感じがする。

 というよりも、大陸の文化は私がイメージする東洋というよりもけっこうバタ臭く、芭蕉翁の感覚の方が素直であったかもしれない。
 京劇のそれには侘び寂びは無用かも。
 
 例の「令和の梅花の宴」もそうだが、現代の政府首脳らが「日本の古典だ」と騒ぐ一方で、古典学者は一様に「当時の梅はバタ臭いものの象徴でもあった」と解説している。
 まあ京都人が「大阪とは違う」と言っているような差なのかもしれないが。

   くちなしの香と晴天とは似合わない

2020年6月24日水曜日

ヤマモモは悲しからずや

   三密でない外出にもマスクを装着して、何処も触らなかった手も手洗いする昨今だから、街路樹のヤマモモを摘んで食べるなどというのは危険極まりない所業と思われているのだろう、きっと。

 感染防止、三密を避けるのが目的であって、手洗いもマスクも一手段ではないだろうか。
 何かこの頃、目的と手段がひっくり返って語られる傾向がある。おかしなことだ。

   孫の夏ちゃんが来れば脚立を担いで採りに行くところだが、休校が終わって一転多忙の日々らしくわが家になんぞ来ないから、私が外出のたびに数粒ずついただいているだけだ。

   私の感覚では今年は糖度も酸味も上出来だと思う。美味しい。
   それにしてもその夥しい落果はなんと勿体ないことか。
 山極壽一先生らも「人間社会の驕りがパンデミックを生んだ」と指摘されている。
 「ヤマモモは摘んで食べる」こういう常識を忘れたが故のパンデミックと心得よ。
 
   もったいない国のヤマモモの落果かな

2020年6月23日火曜日

フェイスシールド

   松井大阪市長は5月22日、新型コロナ感染防止のため、市内の小中学校の児童生徒約165千人と教員にフェイスシールドを配布し、授業中の着用を呼びかけた。
 記者団には「小学生は向き合ってしゃべっちゃだめよと言っても会話してしまう。小学校からやる必要がある」「マスクはいらんかもね」と話したと報じられているが、さてその医学的根拠は・・・・?

 6月9日『大阪府医師会 学校医部会』は次のとおりフェイスシールドに関する意見を公表した。

 ▮ フェイスシールド活用に対する意見 ▮
 フェイスシールドは、相手の方からの咳、くしゃみの飛沫が本人の目に入るのを防ぐために使用するもので、自分の唾液や痰が相手に飛ぶのを防ぐための物ではありません。
 医療現場では、フェイスシールドは感染者と直接接するリスクの高い場所で、あくまで医療用マスクや防護服、手袋などと併用されているものです。学校に於いてもフェイスシールドは教職員が体調不良の生徒に対応するなどの特定の場面で使用し、生徒に一律に装着を促す必要はないと考えます。
 5 22 日付け文科省「学校に於ける新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル~『学校に於ける新しい生活様式』」の中でマスクの着用や手洗い、換気、身体的距離を保つことの徹底などは記載されていますが、フェイスシールドについては一律に必要なものではなく、現場の必要に応じて使用されるものという基本的な考えが示されております。
 マスク装着の理由は飛沫を飛ばさない事であり、実際に医療現場では、患者・医師の両者がマスクを装着し、診察をしている場面では感染のリスクは極めて低いというのが、日本環境感染学会の意見です。学校内で全員がマスクをしていれば1m以内の近距離であっても高い確率で感染を予防できると考えられます。それに基づいて考えると「学校に於いてフェイスシールドが必要となる場面はほぼない」と言えると思います。
 一方でフェイスシールドを着用することによるデメリットの方が大きいと考えます。
 例えばプラスチックの断面が当たることによる外傷、視界を妨げることによる事故、熱が籠ることによる熱中症の助長、頭部を締め付けることによる頭痛や集中力の低下による学習の妨げなどが考えられます。さらに過剰な感染予防対策は不安を助長し、児童の精神衛生上にも問題があると思われます。
 大阪府医師会学校医部会としては学校に於ける感染拡大防止対策として、生徒、教職員のマスク装着、手洗いを徹底し、フェイスシールドの使用は生徒に関しては原則不要と、教職員に関しては、体調不良の生徒の対応時などに限定して使用することを推奨します。
          令和2年6月9日
          大阪府医師会 学校医部会

   続けて、613日『一般社団法人 大阪小児科医会』も次のとおりのコメントを発表し、これはメディアでも取り上げられた。

 6月より順次小中学校の登校が始まり、子どもたちを新型コロナウイルス感染症から守ることを第一に様々な取組みがされるなか、フェイスシールド着用も話題になっています。小児科外来でも、お子さん本人や保護者の方から、フェイスシールドについての疑問や不安をお聞きします。

 フェイスシールドは基本的には装着した本人が感染しないための目の防護具であり、他人にうつさない効果はかぎられています。そのため、感染者に直接対応する医療従事者などを除き、一般的な感染予防、特に子どもたちへの使用はすすめられません。従って、学校生活での感染拡大防止策としては、文部科学省が522日に発行した「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル~「学校の新しい生活様式」~」に説明されていますように、換気の徹底、身体的距離の確保、手洗い、マスク着用を基本にすれば十分であると考えます。さらに過剰な感染予防策は、子どもの心身へ影響を及ぼす可能性があります。

 大阪小児科医会ではこれらの事を踏まえ、検討を重ねて、ポスターを作成しました。これから新しい行動様式で学校生活を始める子どもたちとそのご家族、関係者のみなさまの一助となれば幸いです。
           2020613
           一般社団法人 大阪小児科医会

 読者の皆さんはどう考えられるだろうか。
 私は「後出しじゃんけん」で「無駄な公金の支出を返せ」とまでは言わないが、玉石混交の情報社会を”理性的に判断して生きよ”というべき教育の現場で、こんなエビデンス(医学的根拠)のない「思い付き」が横行してはならないと思う。
 宇沢弘文著『社会的共通資本』の指摘ではないが、政治家はその道の専門家の意見に謙虚でなければならない。
 メディアへの露出を政策の最重要判断基準とするような府市政は有害であろう。

   夏近し虫捕り網を買い足して

2020年6月22日月曜日

372年を逃す

鏡で投影して撮影
   20日(土)の夜はほゞ新月で星空が綺麗だった。北斗七星も輝いていた。
 開けて21日(日)は夏至で日蝕だった。

 ところで夏至は可哀相である。春秋の彼岸にしても冬至にしてもしきたりや食べ物が種々連想されるのに、少なくともわが家には夏至というこの日に限った年中行事はない。
 
   さて日蝕の方だが、冲方丁著『天地明察』を引っ張り出してパラパラと読み返した。
 日蝕や月蝕の予言は、家柄も権威も観念も呪術も信仰もお構いなしの計算だ。唯物論だ。そこのところが痛快だ。
 将軍綱吉の時代、後のケプラーの法則を発見して改暦をなした春海の話である。

 夏至に日蝕がみられるのは372年ぶりのことらしい。日本列島では皆既日食や金環日食でないのが少々物足りないが、夏至の日蝕ということで想い出にしまっておこう。

   1 残念ながら思いっきりの曇り空で372年ぶりの夏至日蝕を逃してしまった。写真は鏡で反転させた小さな太陽を拡大したものだ。普通には左下が欠けたように見えるのが右上が欠けて見えている。雲の関係だろうか、鏡で投影したときの当たり前の現象だろうか、少し難しくて解らない。

 2 ピンホールを作ってみたが曇り空が晴れることなく、こんな程度の失敗に終わった。372年に逃げられた。

 3 3枚目の写真は曇る前(日蝕前)に撮ったもので、本来ならこの一つ一つの小さな丸い影が部分日蝕して写るはずだった。人間がいくら祈っても曇りは曇り、これも自然界を理解する上での教訓だ。1,2,3ともスマホの撮影だったので、これにて終了。

   旧友はコロナ社会へ退院す

2020年6月21日日曜日

髪切虫

 NHKBSの番組に『クールジャパン』というのがあり、先日、再放送の『日本の名前』という中で”料理の名前”が紹介され、欧米では「何々と何々をソテイした何々ソースあえ」的な料理名がほとんどだが、日本料理には「風呂吹き大根」というような文芸的?な名前があって魅力的だというような会話があった。

   その伝でいくと、英語でロングホーンド・ビートル、フランス語ではロンジコルヌで「角の長い甲虫」。中国でも「天の牛=天牛」という外形に則した名前に対して、その能力に着目して日本人が髪切虫と名付けたというのも少し可笑しい。

 髪切虫の幼虫は鉄砲虫と言って樹木の害虫だし、松枯病などの原因線虫を運んだりするので害虫中の害虫だが、虫捕り少年にとってはなんとなく嬉しい昆虫だ。
 比較的捕りやすい、色や種類が豊富、何よりも恰好がよい、そして掴むとギイギイとロボットのように鳴き、髪の毛や紙をくわえさせると見事に切る。遊んでいて飽きない。

 だから、エゴノキについていても駆除するよりも先に写真を撮ってやろうと思ってしまった。
 正面から撮ったゴマダラカミキリの触角は、羊や牛のホーン(角)というよりも、西洋の童話あたりに出てくる悪魔の角のようにも見えないだろうか。堂に入った悪役である。

   天牛や広域移動は自粛せよ

2020年6月20日土曜日

首掛け扇風機

   首掛け扇風機を買った。
 事前にネットで品質をいろいろ調査して、7枚羽根の最新のものにした。
 まあまあ今のところは気に入っている。
 孫の夏ちゃんは手持ちの扇風機を持っているが、これを見ると欲しがるかもしれない。

 私の買ったのは㈱東亜産業のファンズフリーというもので、イオンやホームセンターには7枚羽根はなかったからネット通販で購入した。
 10万円は相当先食いをした。
 プリンター、ビニールプール、オーニングテント、エトセトラ。
 妻は一族の女子会を2回行った。
 正しく怖れて正しく乗り越えるだ。

 さて、久々に大阪市内に出かけると、電車に関西一円の民鉄の吊広告があって、マスクだとか換気だとか注意書きが書いてあった。
 同主旨の車内アナウンスまで聞こえてきたが、ナント、あまりしゃべるなとまで言うか。
 そこまで言うなら、夕方の乗客が増えた状態でなぜ6両編成か? 三密を避けるなら、昔どおり8両編成10両編成にしてゆったりと乗せたらどうか。
 どこかの知事ではないが、庶民は自分で自衛しろ・・だ。
 それに、雨模様なのに窓を開けろだと・・・、エヘン、私には首掛け扇風機がある。
 え、ウイルスを撒き散らせているだけですか!!

   飽食の道に山桃散らばれり

2020年6月19日金曜日

マスクはしても口は閉じない

 タイトルほどの大層なことを書くのではないが、政権が国会を閉じて逃げ出したので、マスコミはコロナと夜の街とか、芸能人の不倫とか、北朝鮮のナンバー2とかに移っていくだろう。
 いや、腐っても鯛という言葉があるように、いくら埃だらけの政権でも勝手には退場しないだろうし、ギャンブルや野球の予想・評論よろしく、石破だ小池だ小泉だというような話題で同種・同族の権力に「閉塞感の救世主」を期待する声も出てくるだろう。

 また、大阪の維新は府市政を通じてヨシモトと契約をしているから、安倍よりはさらに上手に「やってる感」の露出を演出するだろう。
 だとすると、心ある人々が、三密を警戒しながらアナログやSNSや多様な用具でまともな意見を発することがますます大事になってくる。
 「マスクはしても口は閉じない」を合言葉にしたいものだ。

   あと10日もすると水無月の大祓があり、茅の輪くぐりなどがある。
 大祓の中心的行事は人形(ひとがた)で、体やなんかのケガレをそこに移して(吸い取らせて)その人形を燃やしたりする。元々は人形は水(川)に流すものだった。
 そして、水無月の大祓だけでなく、疫病が発生したときなど臨時にもそれは行われた。
 
   さて、川に流された人形つまり濃縮された穢れの塊はやがて魂を得て動き出すのだが、それが河童になったという伝承が各地にある。
 だから河童に、人間の身代わりにコロナ禍を一身に背負ってもらうためには川に胡瓜を投げ入れなければならないが、それは環境衛生上よくないから、そんな伝承を思い浮かべて今夜も胡瓜を食べることにする。

 続日本紀によると桓武天皇の母・高野新笠は百済の武寧(ぶねい)王の子孫であり、遠祖は河伯(河童)の女(むすめ)が日精に感じて生まれた都慕(とぼ)王とされているから、そもそも河童を馬鹿にしてはいけない。ジャンジャン。

   疫病を流す水無月大祓

   コロナ下に入院したる友のあり面会できぬとメールを受けり

2020年6月18日木曜日

紫陽花

   物理的行動力に制約を感じる高齢者が社会とかかわり何らかの発信をするとすれば、IT機器は有力な道具になる。
 その高齢者が「それは苦手だ」というのは発想が真逆で可笑しい。(歩くことが困難になっても”車椅子は嫌だ”と言っているようなもの)

 我々が出しているミニコミ紙も印刷して郵送してと最終形態はアナログそのものだが、編集作業等はリモートでやりとりしながら進めている。だから自慢ではないが昨日今日のテレワークではない。
 
 そのテレワークでは何人かの分担の「送付状」のプリントアウトが私の担当だが、昨日作業した全員の原稿が紫陽花の写真を入れていたのも、季節の発想が自分も含めてワンパターンかなと少し可笑しかった。

 発想が‥ということでは、昨日の記事に載せたとおり私は「コロナ除けの隅鬼」の写真を送付状に入れたが、友人のには「疫病退散のアマビエ」が掲載されていた。
 科学的世界観で社会を冷静に分析・批判するミニコミ紙の送付状に「魔除け」というのも・・まあ、みんな大人だから笑ってくれるだろう。

 さて、季節を代表するかの紫陽花だが、間違っても葉っぱを食べてはいけないらしい。
 青酸、フェブリフジン、イソフェブリフジンなどという有毒物資を含んでいる。
 料理屋さんなどで(あるいは料理屋さんを真似て)、季節感を出すために紫陽花の葉っぱが敷かれていたり添えられていて、食べて食中毒を起こす事故があると本に書いてあった。
 ただ植物の有毒成分から薬が生まれることも多々あるので、もしかしたら将来、コロナ肺炎の治療薬が紫陽花から生まれる可能性も全くないとは言えない。
 綺麗な花を見ながらそんな希望を夢見てみた。

   山寺の紫陽花見よとほととぎす(季重なり)

2020年6月17日水曜日

紫陽花寺

   数か月ぶりに不要不急の外出をした。といってもクルマで30分もかからない南山城は加茂の当尾(とうの)の花の寺として有名な岩船寺(がんせんじ)で、密を避けて朝一番に出かけた。

 三重塔を背後に抱いた紫陽花は美しく、ウグイスやホトトギスの声をBGMに本堂でお坊さんから丁寧な説明もいただいた。

   豪華な紫陽花は見飽きたというと紫陽花に失礼だが、原種のような可憐な花が印象深かった。

 池にせり出した紫陽花には多くのモリアオガエルの泡卵が付いていた。そして親蛙も静かに次の雨を待っているかのようだった。

   岩船寺は、三重塔の垂木を支える組物の隅鬼(すみおに)=(天邪鬼)も有名で、重要文化財となっている。
 そのキーホルダーが「魔除けのお守り」になっていたから、コロナ除けのため孫の玩具としていただいてきた。
 右の写真を通じて皆さま方にもコロナ除けのご利益がありますように。(合掌)

  当尾(とうのう)の紫陽花古刹の天邪鬼

2020年6月16日火曜日

東京都知事選

 東京都知事選にれいわ新選組の山本太郎氏が立候補を表明した。
 革新票が宇都宮健児氏と割れるのは間違いない。
 いろんな言い分はあろうかと思うが、ここは小異を残して大同について欲しい。
 時の氏神よ、買って出よ!

 対小池知事の対立軸(公約)も大切だが、民主主義を願う人々の大同団結に心を砕く度量は公約以上に大切なことではないだろうか。
 もう一度言う、時の氏神よ買って出よ!

 普通の庶民も声をあげよ!

2020年6月15日月曜日

新型コロナの死亡者数

 新型コロナウイルスの死亡者数について、山中伸弥教授が発信されている内容がある意味「衝撃的」なので、記録の意味も込めて転載しておく。(▮・・▮は山中先生の主張、一部筆者加筆)

 まずは東京都の死亡者数について、
 ▮東京都の4月の死者数が公表されたが、3月、4月とも平成11年以降で最多であり、過去5年間の平均より3月と4月の合計で1481人多かった。新型コロナウイルスによる死者数として報告されているのは3月と4月の合計で119名であり、実際には10倍以上多かった可能性が考えられる。

 報告されてる新型コロナウイルスによる死者数と、超過死亡数の乖離は世界各地で報告されている。
 今年の1月や2月は季節性インフルエンザが少なかった(JAMAの論文)ことを考えると、1月や2月にもすでに相当数の新型コロナウイルスによる死亡があったのかもしれない。

 次いで大阪府・大阪市の死亡者数について、
   ▮大阪府と大阪市について月別死者数をまとめてみました。
 東京都と同様に大阪府、大阪市共に今年3月と4月は、過去4年間に比べて死者数が多かったことがわかります。過去4年の平均値と比べた超過死亡数は、大阪府では187名(3月)と865名(4月)、大阪市では67名(3月)と260名(4月)でした。
 これらの超過死亡のうち、実際に何人が新型コロナウイルス感染症の結果であったかは不明ですが、新型コロナウイルスによる死者数は、大阪でも報告よりもかなり多い可能性があります。▮

   ちなみに大阪府の公表されている新型コロナウイルスの死亡者数は、6月11日現在の総合計で85名だから、3月+4月の超過死亡者数1,052名と大きな差がみられる。
 コロナ騒動の余波で医療が行き届かなくなって病院や介護施設で亡くなられた方も考えられるが、山中教授がおっしゃる通り、PCR検査が極端に門前払いされた結果、実際には新型コロナウイルスによる死亡であったものが、他の肺炎等の病名(死因)でカウントされた可能性が否定できない。

 私は社会の経済活動も大事なことで、補償もなくそれが長期間停止させられると別の意味で命にもかかわるから、一定の政治的というか社会的な判断、決断が必要なことを否定しないが、その場合でも、科学的データはオープンにされ議論され理解されることが何よりも重要だと考える。
 そういう意味で、データを隠蔽したり改竄したりすることに痛痒を感じない政府の姿勢は許せないと考える。
 世論のために習近平訪日やオリンピックを優先し、補償問題のためにコロナ問題を矮小化した結果が、山中教授指摘の統計の怪だと思われる。

 そういう意味では、まったく実態から乖離した「感染者数」で「感染者数、感染者数」と報じ続けたマスコミの責任も重いが、地方自治体でいえば、次の大阪府の態度も極めて不真面目なものであった。
 そのことについて、山中教授のコメントは次のように述べておられる。
 ▮大阪府が5月23日、いわゆる大阪モデルの基準を、結果を見てから黄色にならないように変更しました。元々の基準では、感染経路不明者の一週間の合計が、前週との比で1を超える、すなわち前の週より多くなると黄色信号にするとされていました。これが23日現在で0.91となっており、24日に仮に新規感染が0でも1を超えてしまうので、この基準を除外するというのです。
 結果を見てから基準を決める。科学でこれをすると信頼性が揺らぎます。この報道が本当であれば、大阪府の対策が、科学から政治に移ったことを意味します。
 大阪府民として非常に心配です。人は権力や上司に忖度するかもしれませんが、ウイルスは遠慮ありません。

   データーを嫌悪する首長がヨイショされ (川柳)

2020年6月14日日曜日

ヤマボウシ

   丸い頭に白い頭巾の裾が肩に広がっているといわれれば、なんと上手いネーミングかと感心する山法師。
 昨秋は近江坂本の日吉大社に遊んだが、ここの神輿を都に放り込んで山法師たちが強訴を繰り返した。 
 白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたと平家物語にある。
 玄関の山法師がわが玄関だけでなく、隣近所の道路上にまで及ぶ落花狼藉に「わが心にかなわぬものよ」と溜息をつきながら掃除を繰り返している。

   北嶺の山法師に対して南都の僧兵は奈良法師と呼ばれたらしいが、中世の大寺院はちょっとした戦国大名以上の荘園主でもあった。
 国の法秩序などあってなきが如き時代であったから、現代の感覚で私兵だ傭兵だと否定的に語る必要はないだろうが、単なる信仰と勉学の寺院でもなかった中世大寺院の事実は押さえておく必要がある。

 「ハナミズキに似てますね」とおっしゃる方もいるが、それはハナミズキを見て「ヤマボウシに似ている」と言ってほしいと、反”対米従属”の愛国主義者は思う。

   ほんにその落花狼藉山法師

2020年6月13日土曜日

法衣の下の鎧

 7日に投開票された沖縄県議会選挙では、日本共産党が史上最高の公認7議席(全勝)獲得し、玉城デニー県政与党も過半数を維持した。(しかし合計では後退した)
 自民党など県政野党は「中央とのパイプ」という相も変らぬ利益誘導と、「共産党はコロナ補正予算に反対した」というようなデマ宣伝で過半数奪還を試みたが県民の良識が許さなかった。
 安倍政権はそれでも辺野古建設を強行するというが、2兆5500億円を超えて天井知らずの建設費をコロナ対策や沖縄の失業対策などにどうして振り向けようとしないのだろうか。

 それはそうと、この県議選では公明党が現有4議席であるにもかかわらず、予定していた公認2名を降ろして結局4から2議席へと半減した。奇怪なことである。
 自民党との選挙調整かもしれないが、公明党自身は「コロナ下の運動自粛」と言ったようである。

 勘ぐれば、創価学会員を会館に集めて「選挙の指示を洗脳するのが困難」「他県、他地域から動員するのが困難」ということだろう。
 いずれにしても、この党の「目標よりも戦術優先」の態度が法衣の下に見え隠れしている。

 そも日蓮上人は権力者に諫言して弾圧されている。間違っても権力の尻尾になって利権のお裾分けに預かろうなどとはしなかった。

 例のアベノマスクだが、伊藤忠商事などと並んで、たった五人の社員しかいないユースビオという会社に、政府は五億円超のマスク調達の発注をした。
   この会社の社長は有名な創価学会員で、公明党議員の支持者。会社は代表者も、事業内容も不明という、ペーパーカンパニーのような会社。常識的に言えばダミーのトンネル会社である。
立地住所は震災のタックスヘヴン狙いの数社が同居のプレハブ小屋、社長は脱税で執行猶予中、マスク製造販売の実績なく登記変更中だというのだからひどい話だ。

真面目な法華経信者は心の底から怒っていることだろう。

  頬白や電線上のアリアかな (川柳)

2020年6月12日金曜日

夏は来ぬ 2

佐佐木信綱 作詞 『夏は来ぬ』

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

以上の歌詞をネットで繰っていると、漫画家ホシナ コウヤ氏のブログが跳び込んできた。私は知らないが、小川幸辰、おがわ甘藍とも称されている有名な漫画家らしい。
漫画とは遠いが的確な評論だと思うので抜粋して(一部筆を入れて)紹介する。

ホシナ コウヤ氏の評論 
佐佐木信綱のこの詩は、一番は今で言う5月初旬から下旬、二、四番は6月の入梅以降、三番はその間くらいの5月末から6月ごろを歌っていることになります。かなり時期的にズレのある歌詞だ、ということがわかるかと思います。この不自然さは、佐佐木が一番から四番それぞれに古典文学を元にあえて作詞しているためです。今で言うカヴァーアレンジといったところ。
和歌の心「夏のあくがれ」こそが歌のテーマです。

 まず一番は、万葉集の定番の組み合わせ「ウツギとホトトギス」から。 
 卯の花の 咲き散る岳(おか)ゆ 霍公鳥  鳴きてさ渡る 君は聞きつや (読人不知 巻十 1976
 五月山 卯の花月夜ほととぎす 聞けども飽かずまた鳴かぬかも (読人不知 巻十 1953
 卯の花の 過ぎば惜しみかほととぎす 雨間も措かず こゆ喧き渡る (大伴家持 巻八 1491)
  卯の花とホトトギスのコラボは万葉集中15首もあります。夏の早い曙も待たずに暗い空にエコーがかかって啼きわたるホトトギスの、何かを訴えているような物悲しく切迫したさえずりを、王朝人は愛する人を恋い慕うエレジー(哀歌)として聞きました。また海を越えて渡ってくるこの鳥の声を、あの世から帰ってきたなつかしい死者の魂の声としても聞きました。
 卯月(旧暦四月)から咲く卯の花は、ホトトギスの到着と入れ替わるように散り始めます。この両者の短いセッションを、恋人とのわずかな時間の逢瀬の喜びと別れの切なさ、あるいはあの世とのあえかな交信の儚さにも仮託し、セットで謳われたのです。

二番は、「栄華物語」御裳着(みもぎ)巻の古歌から。
 五月雨に 裳裾濡らして 植うる田を 君が千歳の みまくさにせむ

三番は漢籍の「晋書/車胤伝」の「車胤聚蛍」(しゃいんしゅうけい)、ホタルの火を集めて勉学に励んだ車胤のエピソード「夏月則練囊盛數十螢火以照書」(蛍雪の功)が下敷きですが、そこに橘をからめています。橘には過ぎし日・なつかしい人を思い出す、という和歌の符丁があります。思い出す面影は若き日の恩師でしょうか。

四番は、源氏物語(紫式部)の「第十一帖・花散里」と「第十四帖・澪標」から。
 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ(第十一帖)
 水鶏だにおどろかさずはいかにして 荒れたる宿に月を入れまし(第十四帖)
 光源氏の妻の一人、麗景殿女御の妹の三の君・花散里「夏の御方」の住まいを「楝散る川べの宿」となぞらえています。

各章に通呈するのは、なつかしい過ぎし日/人を思い出し、愛惜する情緒。それがホトトギスの声や卯の花、橘、センダンなどの生き物たちに仮託されています。過ぎ去ったものへの愛惜と、今と未来に向けての前向きな希望が響きあい、ない交ぜになった独特の感覚。これを古語では「あくがれ」今の言葉では「憧れ」と表現してみます。
「あくがれ」=憧れとは、「本来あるべき所から離れて、心や魂がさまよう」ことを言います。日々の生活の場、やるべき雑事から遠く離れた、過去、理想、会いたい者に思いをはせる和歌の心。
 「出典が何か分かるかな?」というちょっと上目線の謎掛けと、これほどの風情のある夏をもつこの国の自然と、それを情緒豊かに歌った古人の文化を大事にせえよ君たち、というメッセージこそ、佐佐木の熱い思いだったのではないでしょうか?(引用おわり)

 ホシナ コウヤさん、ありがとうございます。

   秋の田を予祝し泳ぐや兜えび

   入梅の道にポツンと布マスク

2020年6月11日木曜日

夏は来ぬ 1

 『夏は来ぬ』この詩(題名と歌詞)は孫の夏ちゃんの名前の由来のひとつ。
 作詞家佐佐木信綱氏は元「佐々木」と名乗っていたが、訪中した際「々などという漢字はない」と言われて「佐佐木」にしたという話は有名。元日本文学報国会短歌部会長も学問という面では真摯であった。

   内田樹氏の言葉を借りれば、「なぜ安倍政権は、日本よりも早くコロナ収束に向かった韓国や中国に学ばなかったのか」「それは科学抜きで、韓国や中国になんか学べるかというイデオロギーだけである」と的確に指摘されている。

 おかげで鬱陶しい夏が続きそうだし、秋から冬にかけての再来が心配なまま残っている。

 さて、10日、夏野菜の初収穫を行った。
 蒸し暑い梅雨が間近だが、初物を食べて命を永らえることにする。
 永らえた命で「寸鉄人を刺す」言葉と歌を探し求めたい。

   孫の名の由来となりし夏は来ぬ

2020年6月10日水曜日

翡翠豌豆

   家庭菜園で収穫して冷凍保存しておいたウスイエンドウで『翡翠豌豆』を妻がつくった。
 孫の凜ちゃんが大喜びでパクパク食べた。
 『翡翠豌豆』は冷蔵庫で冷やして食べる。
 初夏の夕食が爽やかに彩られる。

 もうすぐ(明日にでも)夏野菜の半白胡瓜と万願寺唐辛子の初収穫だ。
 少しおかしいのは、一般に冬野菜とされているレタスが、冬が過ぎて春が過ぎて夏が立ったというのに元気なことで、夕食前に葉っぱを6~7枚採ってくると簡単にサラダができる。
 スーパーに出ているような玉のようなレタスでなく、堂々と背が伸びたものを順に葉っぱをちぎっていただいている。
 道行く人が「あれは何だろう」というような顔をして見つめていかれる。

 冬野菜と夏野菜が一緒に茂っているのも不思議なものだが、冬野菜だ夏野菜だと決めつけているのは人間様で、野菜の方は知ったことではない。

   幼児(おさなご)が翡翠豌豆(ひすいまめ)喰う夏日の夕

2020年6月9日火曜日

差別問題はこの国にも

   白人警察官による暴行死に端を発した人種差別反対の抗議行動はアメリカ全土、そして各国にも広がっている。
 アメリカの人種差別は、単に所得格差(これはこれで重要な問題だが)に止まらず、理由もなく警察官によって拘束され、命の危険さえも感じる差別が「常識として」存在する故の運動の広がりだろう。

 それは対岸の火事だろうか。
 あまり報じられていないが、日本でも入管施設における差別や暴行は明らかな人種差別の域だという指摘もある。

 そもそも歴史を振り返るとアメリカにおける黒人(アフリカ系の人々)はアメリカ南部のプランテーションの奴隷として「購入され」たもので、戦前の日本の朝鮮人、中国人徴用工と類似している。
 私は、「徴用工問題は朴大統領と解決済みだ」と言って切って捨てる論や、歴史的資料で疑いの余地のない従軍慰安婦を認めない論は、基本的にはトランプと同じ穴の狢でないかと考える。

 中国では香港の民主主義を圧殺する法律がつくられた。国家侮辱罪などは橋下維新知事(当時)の口パク処分を思い出させる。
 
 アメリカの運動に連帯するというのはとても良いことだが、我が身というか日本を顧みて考え行動することも大切だろう。


 39日の記事で、社会心理学者加藤諦三氏の見解を紹介した。それによると、現代社会は人類の「幼児化」がキーワードらしい。
 幼児化とは、心理的に退行することで、それは意識の下に広がる無意識にある心理的な動きで、本人は、自分が退行していることに気づいていないものだ。
 具体的なものの一つに人種差別に似た移民問題がある。
移民・難民の排斥は、「異なる者への恐怖」から、相互理解の努力をせず、ただ、怖いから排除しようという幼児化の動きだ。

 幼児化は、相互理解、寛容、といった、行うことが難しいことを避けることで、自分を成長させないもの、自ら成熟を拒否してしまうものだ。
 では、なぜ、この時代に、幼児化が広まったのか? それは、不安。
 自分の存在を確かめられない不安が、幼児化を作り出したのでは?

 コロナ肺炎では、例えばシカゴでは、人口の30%が黒人だが、コロナの死亡者数は70%に達している。
 新自由主義つまりは「小さな政府」は庶民を切り捨てる政治である。

   中学生あの時学んだ公民権

2020年6月8日月曜日

民度とマスク

   麻生副首相の「民度」発言は、ナチスの「アーリア人は優性(日本人は民度が高い)」とした思想と同じだという指摘は当たっていると思う。以前には「憲法改正はナチスに学べ」とまで言っていた。
 副首相は「日本はロックアウトしなかったにもかかわらず国民が従った」と「民度の証明」を開陳したが、それを裏側から「同調圧力」「従順な国民性」と評して批判的ながら「コロナ対策に果たした影響」を認めている論調もある。
 私は6日の記事でそれを全く認めていない訳ではないとしながらも、アジア大洋州のデータと照らし合わせて、主要な「ファクターX」はそうではないだろうと意見を述べた。

 とはいうものの、テレビでは「夜の街」に繰り出した若者が「だって解除されたんでしょ」とインタビューに答えているのを見ると、自分の頭で考えるのではなくて「宣言されたから自粛する」「解除されたから元どおり」という風潮が現にあると少々気が滅入った。

   よく似たことはわが街周辺のマスク事情でもいえるように思う。
 私はショッピングモールの入口ではマスクをするが、人通りのまばらな街路樹いっぱいの遊歩道ではマスクを外している。咳エチケットとしては十分だと考えている。
 しかし、そよ風もありフィトンチッドこぼれる遊歩道をマスクをしたままの人も多い。
 「念には念」で慎重なのだといいのだが、どうもそこには「マスク、手洗い、うがいと言われているからしている」のではないかと想像される。
 小さな子供にも同じようにさせているが、コロナ以前に熱中症で倒れる可能性も低くない。

 そもそも患者数は感染者数では断じてない。さらに検査を絞りに絞って行わないのだからいわゆる「感染者数」も正しくない。尾身副座長自身が「(実際には)10倍か15倍か20倍か誰にも分からい」と国会で述べている。
 そのような非科学的な「感染者数」をもって「大変だ」とか「山を越した」とか報じられ、「そのエビデンス(科学的根拠)は何か」という声が抹殺されている。
 このマスコミの現状をもって「民度」と言うなら、確かにナチスドイツの時代に近づいている。

   どこにいるウイルス奴五月晴れ

2020年6月7日日曜日

危険な道具

   ボーガンを使った殺人事件が起こり「危険な道具がなぜ禁止されないのか」という声がマスコミによって報じられている。
 私はアメリカでの銃規制の声に賛成だし、日本の現行銃刀法などによる規制にも反対ではない。
 しかし、こういう事件があった場合、度々「危険なものは禁止しましょう」という主張がテレビコメンテーターなどから軽々しく発せられるのは、ほんとうにそれで良いことだろうかという疑問も持っている。

 悪い人間が扱えば危険なモノは世の中にごまんとある。
 魚を突くヤス(モリ)だって包丁だって鎌だって・・・、
 先日亡くなったCWニコルさんが「男の子には冒険をさせるべきだ」という文脈の中で、確か「男の子には猟銃とナイフは教えるべき」的な主張もあったように記憶している。もちろん桁違いの大自然の中を冒険するという文脈でだが。

   そんなレベルとは月とスッポンの話だが、私は今年3年生の孫の女の子である夏ちゃんに手斧(ちょうな)、鉈(なた)、そしてマッチを持たせて使い方を教えている。日曜大工も教えている。
 「危険なモノは禁止しましょう」は少し思考停止のような気がする。
 一切の規制が不要というわけではないが、もっと社会教育の角度から論じられて然るべきではないだろうか。

 閑話休題  手斧や鉈は購入時には刃はついていない。それでも危険と言えば危険なモノである。
 それをヤスリと砥石で丁寧に刃をつけると文字どおり刃物になる。そういう切れ味のある道具で薪をスパッと割ると「仕事をしている」充実感があるし道具の怖さも実感できる。

   手斧(ちょうな)にて枝払え娘(こ)よ夏木立

2020年6月6日土曜日

卑しい副総理発言

麻生副総理兼財務大臣は、6月4日の参院財政金融委員会でコロナ対策について、「こういうのは死亡率が一番問題。死亡率を調べてみると、人口100万人当たり、フランスが228人、アメリカが824人、イギリスが309人、日本は7人だった」と述べ、そのうえで「おまえらだけ薬を持っているのかと海外からかかってきた電話でよく言われたが、『お宅とうちの国は国民の民度のレベルが違うんだ』と言うと、みんな絶句して黙る」と述べた。

 上の表は日本医事新報Web520日菅谷憲夫慶大教授の論文の中のもので、6月1日のブログ記事でも紹介した。
 5月16日(一部18日)のデータであるから数字は古いが各国の傾向はよくわかる。
 山中伸弥教授らもこの傾向を前提として意見をあげておられる。 


 下の表は、768名の医師と医療事典を作成するプロジェクトMEDLEYのニュースの中の表である。
 このデータは6月5日更新と言われているから数字としては新しい。
新型コロナウイルスの流行状況
 (人口100万人あたりの死亡者数)
米国                      328.8    
ブラジル               155.7    
ロシア             36.8      
英国             605.9    
スペイン               578.2    
イタリア               555.9    
インド               5.3        
フランス                433.9    
ドイツ          103.4    
中国                3.2        
韓国                5.3        
日本(ク船除く)     7.2        
202065日更新、参考:Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE , WHO, 厚生労働省, 総務省統計局)  *日本の死亡数は自治体公表資料集計分(厚生労働省HPより)

 上の表にしても下の表にしても、麻生大臣の数字とは微妙に異なる。
 微妙どころか、フランス、アメリカ、イギリスの数字は大きく異なる。麻生発言は、論旨も問題だが、前提たるデータが無茶苦茶ではないだろうか。

 で上の表だが、明らかに人口当たりの死亡者数でいえば日本はアジアではフィリピンに次いでワースト2である。
 「天に唾する」とはこういうことで、麻生説に従えば日本の民度はアジアで最低クラスということになる。
 何でもかんでも政権の言うことに反対という立場には立たないが、科学やデータを直視せず、自分の都合のよい思い付きのためにデータを摘むのは閣僚としては全く失格だろう。

 ただ、欧米に比べてアジアの人口比の死亡者数が少ないことは指摘されているところなので、山中伸弥教授はその理由をファクターXとして研究されている。私も衛生環境や生活習慣など「民度」的なものを無視するつもりはないが、重ねて言うが、麻生説なら日本人の民度はアジアの最低(ワースト2)になる。

 民度という不確かな言葉は多用したくないが、アメリカでトランプがロックダウンを言い始めたときに銃砲店に行列ができたとの記事に接したときには、その社会意識の彼我の隔たりに私はため息をついた。
 そんな折、5月31日の朝日新聞の朝日歌壇にすごい歌があった。
アジア人初めて銃買う人多しコロナの元とねらわれる故 (アメリカ)大竹幾久子』というものだった。

   こうして私のアメリカ感がトランプに引きずられて悪化していた際、警官による黒人男性暴行死に端を発した抗議行動に、各地の警官が(白人も含めて)片膝をついて連帯の意思を表明したというニュースがあり、トランプと対極のアメリカの民主主義に感じ入った。
日本でも、公務労働者の精神として大事にしたいことだと思った。
パンデミックで一番大事なことは国際的連携・協力だろう。「お宅とうちの国は国民の民度のレベルが違うんだ」と言うような閣僚はトランプと共に退場してもらいたいものである。

  入梅の宣言前の炎暑とは

2020年6月5日金曜日

都市鳥

 環境も確かに変わった。
 数十年前には奈良公園でサンコウチョウやオオルリも見たが、私の足が遠のいた所為もあるがここ数年は出会っていない。
 本を読むとさらに以前にはアカショウビンもいたらしい。

   わが家周辺では、2011年東日本大震災の年にイソヒヨドリを初めて見た。
 知らないものだから「ツグミ類のアカハラに違いない」と私は誤解した。写真1のとおり私が誤解したのも理解していただけるものと思う。

 名前のとおり磯のヒヨドリ(ほんとうはヒヨドリではない)であったが都市に進出して来て、今では「都市鳥」中に堂々たる位置を占めている。
 わが庭で言っても、鳴声でいえば圧倒的な主人公になっている。早朝から夜間まで鳴いている。4羽ぐらいが追いかけっこをしたりもしている。
 
   写真2は後ろ向きなので解り難いが右の餌を咥えているのが♀だと思う。とすると、一番わかりやすい解釈は左の♂から右の♀へのプレゼント(給餌行為)直後だと思われる。
 (あるいは屋根の向こう側に♀がいて、これは♂どおしの喧嘩?右の♂の咥えている餌を左の♂が横取りしようと狙っている?) 

   「環境も変わったなあ」「時代も変化したなあ」などと夫婦で話した。
 (3枚の写真は別々の日に撮ったもの)


2020年6月4日木曜日

晶子の時代と

 私の亡くなった母のことだが、SARSの際に近所の医院に行った折、医師がスペイン風邪のことをあまり知らなかったので当時のことを滔々と語って来たらしい。90歳をはるかに超えていた。
 「火葬場が追い付かず棺桶が並べられていたのだ」とおまけのように母から聞いた。

   そのスペイン風邪の折、母の女学校の先輩にあたる与謝野晶子はいくつかの評論を発表している。要旨曰く・・
 「風邪までが交通機関の発達に伴(つ)れて世界的になり、この風邪の伝染性の急激なのには実に驚かれるにもかかわらず、政府はなぜ多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのか」
 「盗人を見てから縄を綯ふやうな日本人の便宜主義」・・と糾弾し、
 「社会的施設に統一と徹底との欠けて居る為に、国民はどんなに多くの避けらるべき禍(わざはひ)を避けずに居るか知れません」・・と語り、
 「かう云ふ流行病のあるたびに、私は都市の衛生設備の不完全を悲しみます。此頃の電車の過度な満員などは人間を詰込んで病毒を強制的に伝染させる箱のやうな感じがします」・・と述べている。
 なんという先見性だろうか。

 とすれば、我われもまた未来に向けて語らなければならない。
 月が替わって日本列島は梅雨の季節を迎えた。ここ数年の経験では集中豪雨の被害も想定される。避難所にソーシャルディスタンスは確保されるのか、衛生的で三密に至らない避難所をどう準備しておくべきか、感染者が発見された場合の対応策は準備されているか・・・

 原因不明ながら欧米に比べて死亡者数が少なかったというアナウンスに酔っていてよいのか。(言っておくが日本はアジア大洋州ではワースト2である)
 「『感染者』が減った」「宣言は解除された」「笑顔が戻ってきた」的な報道でよいのか、メディアの皆さん。そして国民ひとりひとり。
 「100年後も盗人を見てから縄を綯ふやうな日本人の便宜主義は変わっていない」と晶子さんに笑われないか。 

   気の所為か額紫陽花の色浅し

2020年6月3日水曜日

県境を跨ぐ

 8割おじさんこと北大西浦教授を非難する文書が少なからず目についた。
 中には「風俗業やその客など”要請”に応じてもらえない層がいくらか出てくるだろうから8割と言う」という教授の論立てに対して「風俗業に従事せざるを得ない人々への差別感がある」というものがあったが、実社会の社会政策を立案する場合、冷徹に現実を見据えるべきだと思うので、私は教授の主張を納得した。

 また「現実に日本全国8割外出自粛にまで至らなかったのにピークが収束したから教授の主張は間違っていたし、そのために経済を停滞させた」という論があるが、それは結果論だと私は思う。
 山中教授の言葉を借りれば「ファクターXはまだわからない」。

 その「外出自粛」だが、関西圏ではいち早く休業要請の始まった大阪から、つまり大阪ナンバーの車が奈良県のパチンコ店に来ているというニュースが大々的に報じられ、その後全国でも「県境を跨いだ移動の自粛」が繰り返しアナウンスされた。
 芸能人の不倫騒動ではないが、地域で感染者数が発表されると、何処の病院だ、何処の誰だ、何処でうつった、どんなところに立ち寄った‥などという噂が飛び交った。
 さらには、他県ナンバーの車が走っている、マスクをしていない人がいる、営業している店がある等々の「自粛警察」「自警団」が噴出した。

我が家はこの図の地域ではありませんが・・
   それらを生み出した素地には、データを明確に提起しないまま情緒的に恐怖感を煽るような政府や自治体首長らの発言、それを嫌というほど繰り返すテレビ等のメディアがあるが、裏返しの話としては、少なからず日本国民が自分の頭で情報を整理して考えるという常識を失いつつあるのではないかと私は心配している。
 恐怖感が思考停止を生み、与えられた枠組みの”形式を絶対”として、それ以外を許せないというのはこういうことだろう。

 そんな気持ちも底に秘めて(実際にはそんなに深刻には思っていないが)短歌を捻ってみたところ、赤旗・読者の文芸・鈴木英子選に採ってもらった。

 県境(けんきょう)を跨(また)ぐなというアナウンス胸に刺さるも県境(くにざかい)に住む