2020年5月31日日曜日

鱧の皮

 5月28日のブログ記事に 孫の食む甘き穴子の胡瓜揉 と駄作を書いたところ、「(私は)鱧の皮で胡瓜揉を作っていました」とのコメントをいただいた。
 私も、うざく(鰻)も穴子も良いが鱧の皮を使うことも少なくない。うれしいコメントだった。

   祭鱧(まつりはも)という言葉がある。その祭を京都の人は祇園祭というが私などは天神祭だと思い込んできた。(どちらも正解に違いない)
 どちらにせよ、鱧の旬は夏であり胡瓜も言わずもがな。
 なので鱧の皮の胡瓜揉は夏の季節感を100%漂わせている。これが好い。鱧皮の味というよりも季節を味わうのである。

 今では料理も食材も地域性が薄れたが、元来鱧も鱧の皮も上方の料理と食材だった。
 食材とは言ってみたものの、鰻や穴子が堂々たるそれであるのに比べて、鱧の皮は蒲鉾製造時の”あまりもの”である。
 よく似たものに鰻や穴子の頭だけがあり、それを半助というが、こういう”あまりもの”ほど、ほんとうは美味しい。
 話は寄り道ながら、昔、奈良出身の明石家さんまが師匠の笑福亭松之助に「半助買うてこい」と言われて何のことかわからなかったという話をしていたことがあった。これは寄り道。

 そんな「鱧の皮」が堂々と季語になっているのも少しおかしくも好もしい。
  好きやねん天神祭鱧の皮 坪内稔典
  大阪で生まれて逝きて鱧の皮 永田佳子 というのもある。
 魚偏に豊と書いて鱧というのはよいが、骨切の下手なのにあたると腹も立つ。

   コロナ禍や夏祭なく鱧の皮

2020年5月30日土曜日

初代天皇とオホモノヌシ

三輪山
   「初国(はつくに)知らししミマキ天皇」(初代天皇ミマキイリヒコ)とされている崇神(すじん)天皇の世に疫病が流行して民が死に絶えそうになった・・というのが、文字(日本書紀)になったこの国の感染症の歴史の初見である。

 崇神天皇が夢占いをしたところ、三輪山の大物主の祟りであること、オオタタネコという人物に大物主を祭らせれば天下は安らぐだろうことがわかった。
 そこで、現堺市にあたる茅渟の県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に居たオオタタネコに大三輪のオホモノヌシを祭らせて感染症は終息した。オオタタネコはオホモノヌシの子孫であった。

 オホモノヌシはアマテラスら天津神(あまつかみ)に対する国津神(くにつかみ)の代表である。
 そのオホモノヌシが祟ったというのだから、庶民の生活を軽んじた天皇ら「上級国民」の驕りが厄災の原因だと日本書紀は伝えたのだろう。
 う~む、歴史は奥深い。

 オオタタネコのスエムラは、初期須恵器の圧倒的な生産地であった。現代で言えば最新のコンビナートのようなものであった。
 それは朝鮮半島洛東江流域から渡来した最新の科学者、技術者の大集団であった。
 ますます歴史は奥深い。

 安倍首相ら日本会議の右翼の人々は神話と歴史をごちゃまぜにして古事記や日本書紀を語ることが好きだが、その理解はあまりに浅い。
 前述のように崇神記を読めば、現安倍政権の無策ぶりがよくわかると私は思う。

   久々の自転車に足はフレイル

2020年5月29日金曜日

コロナウイルスK型のこと

 山中伸弥先生ではないけれど、日本政府のコロナウイルス対策はどう見ても落第点であるにもかかわらず、死者数等の「結果」がよいのは何故だろうかと多くのまじめな研究者が研究している。(死者数も小さく公表されている疑いが濃厚であることは解ったうえで)
 例えば「日本株」型のBCG説などもアジアと西欧の比較で興味深い。

 もっと社会習慣に注目した説としては、キスやハグが一般的でない、マスクに抵抗がなく実際に広がっている、清潔な水が豊富で手洗い・うがいも浸透している、政府等「権威あるもの」の要請に従順に従う国民性、靴(の裏の泥)を脱いで室内に入る習慣などが指摘されている。
 その上で「西欧の言語に比べて破裂音が少ない日本語」(大声の破裂音は多量の唾を飛ばす)という指摘もなかなかユニークだが一要素かもしれないと思わせる。(こういう話は私は好きだ)

 とまれ、もっと医学・疫学の方面から思わぬ説が提起されている。

 そういう、下記に転載する プレジデント オンライン 5月27日の記事は私には大いに参考になった。
 正直なところ十分に理解できているわけではないが、ご紹介するので皆さま方も検討して、ご意見やご感想などをいただけるとありがたい。(以下 転載)

  ◆世界がモヤモヤする「日本の奇蹟」を裏付ける"国民集団免疫説"…京大教授ら発表

  新型コロナウイルスの感染拡大で、一時は日本も医療崩壊の危機に見舞われた。だが、日本が「不幸中の幸い」だったのは、世界各国に比べて死者数が大幅に抑え込めたことだ。京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授と、吉備国際大学(岡山県)の高橋淳教授らの研究グループによると、「実は日本人には新型コロナウイルスの免疫があった」という——。

  断トツで少ない日本のコロナ死者数
日本政府の新型コロナウイルス対応はたびたび批判を受けてきたが、日本は新型コロナウイルス感染症による死者数が群を抜いて少ないのは事実だ。521日現在の世界各国の 死者数は次のとおりである。 
アメリカ合衆国 93806
イギリス 35704
イタリア 32330
フランス 28132
スペイン 27888
ブラジル 18894
ドイツ 8270
中国 4634
ロシア 3099
日本 784
韓国 264人 
 なぜ国ごとに死亡者数に開きがあるのか、特になぜ日本はここまで死亡者数を抑え込むことができたのか。国民から散々批判を受けた、政府の新型コロナウイルス対策が正しかったという証拠なのか。それとも違う要因があるのか。
  京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授と、吉備国際大学(岡山県)の高橋淳教授らの研究グループは、「日本人には新型コロナウイルスの免疫があったので死者数を抑え込むことができた」という内容のプレプリントをCambridge Open Engageに発表している。

  研究グループによると、新型コロナウイルスには3つの型があるという。S型、K型、G型だ。最初にS型が発生し、それが変異したものがK型。武漢でさらに変異した感染力の強い型がG型だ。

  今年インフルエンザ感染者が少なかった真の理由

 今年、日本ではインフルエンザの感染者が少なかったといわれている。新型コロナウイルスへの警戒で手洗いが励行された結果と見る向きもあるが、実は日本人が早期に新型コロナウイルスに感染していたため、インフルエンザにかからなかったというのが上久保教授らの見解だ。
 実は、インフルエンザに感染すると、新型コロナウイルスに感染しなくなる。逆もしかりである。これをウイルス競合、あるいはウイルス干渉と呼ぶ。先駆け(sakigake,S)であるS型は、無症候性も多い弱毒ウイルスなので、インフルエンザに対するウイルス干渉も弱かった。S型から変異したK型は、無症候性〜軽症で、中国における感染症サーベイランスでは感知されず蔓延したが、日本のインフルエンザ流行曲線が大きく欠ける(kakeru,K)ほど、K型ウイルスの流入が認められたという。

  武漢においてさらに変異した武漢G型(typeG,global)は、さらに重症の肺炎を起こすため、中国の感染症サーベイランスが感知し、123日に武漢は閉鎖された(武漢市長によるとむしろ閉鎖により約500万人が市街に流出したともいう)。一方、上海で変異したG型は、最初にイタリアに広がり、その後ヨーロッパ全体と米国で流行した(欧米G型)。

  実は日本人は早期から新型コロナに感染していた

 日本政府が行っていた入国制限は、39日までは武漢からに限られていた。その結果、S型とK型が武漢以外の中国全土から日本に流入・蔓延し、多くの日本人が感染した。日本人は、武漢で猛威をふるったG型が日本に到来する前に、すでに新型コロナウイルスの免疫ができていたということなのだ。旧正月「春節」を含む昨年11月~今年2月末の間に、184万人以上の中国人が来日したともいわれている。
  なお、G型ウイルスはK型より非常に感染力が高い。そのため、G型に集団免疫が成立するには、集団の80.9%の人が感染して免疫を持たなくてはならないという。一方、K型で集団免疫が成立した段階では集団54.5%しか感染して免疫を持っていないため、80.954.5=26.4%に新たに感染が起こる。K型で集団免疫が成立していたにもかかわらず、日本に流行が起こったのはこのためだ。

  一方、アメリカやイタリアなどの欧米諸国は、中国からの渡航を日本よりも1カ月以上早い2月初旬より全面的に制限したため、K型の流入は大幅に防がれた。一方、S型が広がっていた時期には渡航制限が無かったため、S型はかなり欧米に蔓延した。

 ADEという恐ろしい現象

 実は、S型に対する免疫はG型の感染を予防する能力が乏しく、さらに、S型への抗体には抗体依存性免疫増強(ADE)効果があることが推測されている。
 抗体依存性免疫増強(ADE)効果とは、抗体の助けを得てウイルスが爆発的に細胞に感染していく現象のことである。ADEが起きている間、ウイルスは細胞内に入っていき、血中からは減るので、一見病状が改善したような状態がしばらくは続く。しかし、ある時点でウイルスが細胞を破裂させるかのように大量に出てきて、患者の急変が起こる。
  この「S型への抗体によるADE」と、前述した「K型への細胞性免疫による感染予防が起こらなかったこと」の2つの理由により、欧米ではG型感染の重症化が起こり、致死率が上がったというわけだ。

  日本は武漢以外の国からの入国制限を始めるのが遅かったおかげで、K型への集団免疫ができ、感染力や毒性の強いG型の感染を大幅に抑えることができた。他国に比べて遅いと言われた入国制限のタイミングは、逆に感染予防に功を奏したのだ。しかし、台湾やオーストラリアなどは早期に入国制限を行ったが、こういった中国と関係があらゆる面で深い国々の場合は、武漢閉鎖時に反対に500万人の流出があったのと同じような現象も起こりうるため、入国制限直前に多数の入国があるかもしれない。

  ADEと重症化の関連性は、ウイルス撃退の鍵になる

 ADEが欧米の新型コロナウイルス患者の死亡率を高めたことがわかったため、ADEを手がかりに、今後どんな患者に重症化のリスクがあるかが推定できる。妊婦、妊婦から抗体を受け取る新生児、免疫系の発達が未熟な幼児、そして免疫系が衰えた高齢者だ。
  なお、ADEによりウイルスが細胞に侵入した場合、細胞の外にあるウイルスを測定するだけでは体全体のウイルス量はわからない。ヨーロッパでは、ウイルス量が低下していたにもかかわらず重症化した患者が報告されている。

 また、昨今免疫パスポートのための抗体検査の導入が世界で叫ばれている。新型コロナウイルスなど無症状感染が多く蔓延している場合、誰が感染して誰が感染していないかの鑑別が難しい。しばしば陽性と陰性の境界値(カットオフ値)を決定することが困難であり、カットオフ値を高く設定しすぎていると、感染の既往があったとしても、多くは陰性を示してしまう場合があることにも言及している。
  また、特にK型に感染した人は、T細胞免疫が誘導され、G型の感染を予防する。その場合は、G型ウイルスが体内に入りこめないため、むしろG型の抗体はできない可能性が高いという。

  未知のウイルスの解明は着実に進んでいる

 そのため、日本人の50%強は武漢G、欧米G型への抗体を持っていないと推量され、正しいカットオフ値を設定された抗体キットなら、約30%で武漢G、欧米G型への抗体は陽性になると推量し、CD4T細胞の検査(K型により獲得したT細胞免疫の評価)と正しいカットオフ値を設定された抗体キットのコンビネーションでの評価が必要と研究グループは言及している。検査すれば簡単に白黒はっきりすると考えられがちだが、検査とはそういうものではないようだ。
  新型コロナウイルス感染者を重症化させているのがADEだとわかったということは、特効薬を開発したり予防策を練ることも可能になったということだ。新型コロナウイルスの収束まで先が見えないが、未知のウイルスの解明は着実に進んでいる。

2020年5月28日木曜日

俳壇歌壇から

 5月24日付け朝日俳壇、朝日歌壇からちょっと気に入ったものを紹介する。
 まず、コロナ関連で2つずつ。

 疫鬼(えきき)舞ふ祭みな止む列島に (藤沢市)朝広三猫子
 患者数死者数羅列葱坊主 (岩国市)冨田裕明

 五兆円軍事費使うこの国で紙のマスクが手に入らない (神戸市)康 哲虎
 「しばらくは家で様子をみて下さい」ようすをみつつ逝きし人はや (前橋市)荻原葉月

 次いで社会で1つずつ
 
 子供らに正義は勝つと教えつつ死を選ばれし赤木氏をおもう (対馬市)西山悦子
 頭から腐る憲法記念の日 (福島県伊達市)佐藤 茂

 外にもなかなか「う~む」と感心した歌や句も多かったが、私の好みで6つの俳句と短歌をご紹介した。

 『寸鉄人を刺す』という言葉があるが、若い頃から「お前はボキャブラリーが貧困だ」と言われてきた身としては、その寸鉄が選び取れない。
 で、何の風刺も批判もないが初夏の夕餉の景色を一句。

   孫の食む甘き穴子の胡瓜揉

2020年5月27日水曜日

レムデシビルの不思議

   厚生労働省は57日、薬事・食品衛生審議会医薬品第二部会をweb会議形式で開催し、米Gilead Sciences社が、COVID-19に対して開発している抗ウイルス薬「ベクルリー点滴静注液100mg」等(一般名レムデシビル)の特例承認を了承。厚労省は同日付で同薬を正式に特例承認した。

「コロナのため」との印籠が出されると「特例承認」も称賛の表彰台に祭り上げられるが、私のような「心配性」は「特例三日承認」に何か気分の悪さを覚えている。

 レムデシビルは、Gilead社がもともとエボラ出血熱を対象に開発を進めていた低分子化合物で、細胞内で代謝された後、ウイルスのRNAポリメラーゼを阻害することで、SARS-CoV-2の増殖を抑制すると考えられている。
試験管内(in vitro)の実験でウイルスの活性を抑えることが分かっており、有望な治療薬候補として複数の臨床試験が進められてきた。

しかし、アメリカ国立アレルギー・感染症研究所が資金を提供した10か国の国際共同治験(日本も参加している)1053名の患者をレムデシビル投与群とコントロール群の2つに分けた臨床経過を比較したところ、人種別では、白人では有意な効果があったが、黒人では効果は少なく、アジア人では効果が認められなかった。この論文は山中伸弥教授が紹介されている。

まだまだ研究途上の話であるので速断は慎まなければならないが、明日にでも日本で治療薬として有効になるかのような報道には疑問符をつけておいた方がよさそうだ。
効果があればアメリカ製でもドイツ製でも中国製でも構わないが、安倍内閣はトランプに言われたら科学的知見を踏み外して追従するから冷静に情報を読み解いていく必要がある。

  目覚ましは鶯に代わりて鳬の声

レムデシビルのことではないが、コロナ対策の現状について、下記の神戸大学感染症内科教授岩田健太郎氏の話は大いに参考になる。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-kentaro-iwata-2?fbclid=IwAR0_9r7bJvRUwvESiVgE1lON0iaRhf1tzEe7dwwUWUTCZyJBAKam4CElTPE

2020年5月26日火曜日

高層住宅型菜園

   素人菜園は面白い。
 農業の本や農家の方に言わせると「胡瓜は何センチ空けて植えよ」「何節目で切って止めよ」というような「原則」が示されているが、私は毎年ほとんどそんな「原則」を守っていない。
 「だから失敗するのだ」というお叱りの声もあろうが、出荷するわけでもなく楽しんでいるのだからこれで良い。

 だいたいが猫の額のような菜園だからそんな「原則」を守っていては面白くない。
 だから写真のように胡瓜は上に伸ばして、その下の空間はレタスなどの葉物野菜を植えている。さらに虫よけにマリーゴールドを植えて飾っている。
 胡瓜は上で頑張れ、レタスは下で頑張れ、だ。

 道行く大人は「野菜が成長してますね」と誉めるが、小さな子は「お花が咲いてる」と叫んでくれる。

 別の畝ではトマトなどの夏野菜の下に冬野菜であった水菜などが今も大いに茂っている。
 夕食前などにちょっと摘むとサラダもできるし付け合わせも豪華になる。
 ものにもよるが、冬野菜、夏野菜と区別するのも人間の勝手であろう。
 
   麦秋や小さき菜園ニューモード

2020年5月25日月曜日

先輩からの手紙

   大先輩のAさんから手紙をいただいた。郵送したミニコミ紙の御礼だろうと軽い気持ちで開封したが、思いもよらないお便りだった。

 4月の下旬に風邪の症状の熱が出て、まさかと思いつつ「新型コロナ受診相談センター」に電話すると、「37.5度以上なければ2~3日自宅で様子をみてください」との例の説明だったそうだ。
 それでも心配で以前に肺炎で治療を受けたかかりつけ医に電話したところ「すぐ来い」とのことで、肺のX線、CT、血液検査などを受け、その後も定期的に症状を追跡されている。
 ご本人の推測では、多分弱いコロナウイルスだったのかなと思っておられるとか。

 家では隔離されていて、今回も実際に恐怖を感じられたことが、前2回の肺炎の経験と併せて綴られていた。
 特に前2回の肺炎では「このまま家に帰ったら死にますよ」と即入院になり、呼吸困難が続き、死の恐怖を味わったと・・・。
 そして、私はというと先輩のその当時の年齢なので、「コロナ、なめたらあかん」とご指導いただいた気分でいる。

 友人のBさんもブログで、甥っ子たちが感染し、見舞いにも行けず心配をして落ち込んだことを書いている。
 そういう意味では新型コロナ肺炎は他人事ではない。
 ただ、やみくもに恐れる必要はないようにも考えられるから、三密を排して手洗い・うがいを徹底すればよいように考えている。マスクは咳エチケットとして使用するが、感染は防止できないように思う。
 「コロナ社会と付き合う」というのは正しい認識ではないだろうか。
 だから「大阪市内へ一切出歩かない」というのもどうかと思う。溜まっていた仕事を再開させなければ・・・。

   どことなくコロナ含みし五月晴

2020年5月24日日曜日

初夏の一日

 検察庁法のこと、黒川賭けマージャン発覚の不思議、一般定年制度廃案の卑怯、検事総長への横車、それらのお先棒を担いだ維新の正体、書きたいことはいっぱいあるが、呼吸には吸気と呼気が必要だろうから、少し長閑な日常を綴ってみたい。

   外出の際は手袋がいいとか、エレベーターのボタンは肘でとか、口や鼻の周りを触るなとか、総理や知事さん方の新生活のご指導は丁寧だ。望むらくは日本語で言ってくれませんかK知事さん。
 妻が庭のワイルドラズベリーを道行く親子連れの小さな子にあげて食べさせたが、あとで考えると母親は時節柄心配だったかもしれない。
 私も散歩道の桑の実を摘んで食べたが、政府や自治体、マスコミの丁寧なご指導のことを考えると、我ながら「ようやるわ」と可笑しくなった。木の実収穫食事依存症?
 マスクして桑の実摘む矛盾かな


   あちこちでカマキリの孵化が始まった。
 多くの「植物などを食べる昆虫」が増えてからおっとり孵化をしてきて、そういう昆虫を食べようという生物界のメカニズムには常々感心させられる。
 カマキリ(蟷螂)が大嫌いだという読者もおられるが、いわゆる芋虫や蛹を経ずに不完全変態する(親と同じ格好で卵から出てくる)カマキリの子はとてつもなく可愛い。
 独歩せし7ミリ程の子蟷螂(とうろう)


   世間ではコロナの緊急事態が解除されると「もう終わった」感が広がっているが、感染症や怖い病気は山ほどある。
 私の孫は免疫力が非常に低いから何病によらず重症化しやすい。つまり命の危険がある。
 そして、これからの季節はそういう多くの伝染病を蚊が運んでくる。
 そんなもので先日は、夏めいて虫コナーズをペタペタと と詠んだ。
 今日はその上に重ねて詠みたい。
 孫が来る東西南北に蚊遣置く

 この蚊遣は、その口で如何にも蚊を大量に飲み込んでしまいそうな、私の気に入っている一品である。

2020年5月23日土曜日

恋狂い

 東京高検検事長の定年延長問題で、私は、これは安倍首相が指示しやすい、何でも言うことを聞く黒川検事長を検察トップに据えようとしたものだと批判してきたが、私は今、少し言葉を変えた方が正確ではないかと思うようになった。
 つまりこの問題の本質は、少なくとも本年年頭頃以降については、三権分立を守ろうとして、広島地検の「前法相を立件し首相自身にも及びかねないと考えられる捜査」を止めさせない稲田検事総長の追放こそが政権の主目的ではないだろうか。
 つまり「黒川引上げ人事の画策」というよりも、稲田追放劇の当馬(あてうま)が黒川なのではないだろうか。
 うがった見方のひとつには、当馬であることが判っていて、利用されるだけの身であることを判っていた黒川自身が仕組んだ賭け麻雀の大芝居という指摘もある。
 この見方があたっているかどうかを判断する材料を持っていないから真偽の判断は留保するが、頭の中を「稲田検事総長追放反対」「三権分立を犯すな」としっかり据えないと、黒川辞任で「ホッとした」となってしまわないか。(このテーマおわり)

   22日の朝からイソヒヨドリが騒がしかったが、10日から16日がバードウィークだったから当然求愛行動だと思って放っておいた。
 ところがベランダから覗いてみたら♂と♂だった。とすると近くに1羽の♀がいて、激しい三角関係で恋の真っ最中かと探したが♀は見当たらない。そのうちに体中の羽毛を逆立てて、どうも穏やかでない雰囲気になってきた。

   私の持っている本には「イソヒヨドリが縄張り争いをする」との記述はないが、餌が目的か♀が目的かは知らないが、どう見ても♂どおしの「縄張り争い」の様相だ。

 そのうちに一方が襲いかかろうとし、すさまじい空中戦を10分間ぐらい始めた。
 もうそれは「恋狂い」の域で、私の眼前50センチほどで私にぶつかるのではないかと思うほどの空中戦が続いた。それは断続的に一日中続いた。

 さて一寸の虫にも五分の魂、美しい小型の野鳥も恋狂いになると恐ろしい。

 と話は面白く「恋狂い」にしたが、冷静に眺めるといわゆる「縄張り(テリトリー)争い」が正しいような気がする。
 その理由の第1は、イソヒヨドリは電柱のてっぺんや屋根の角、高層建築の出っ張りなどでよく鳴いているが、それは百舌鳥に似て縄張り宣言を想像させる。そういう所にとまる鳥はだいたいが気の強い鳥である。

 第2は、普通のヒヨドリとは種が違うので何とも言えないが、普通にはヒヨドリが縄張りを持っているとは書かれていないが、私の観察では明らかにわが家の庭を縄張りにしているヒヨドリがいる。
 そ奴は、自分が食事をしていないときも庭を眺めていて、他のヒヨドリや野鳥がやってくると襲いかかって追い出す。故に、本に書いてないからといってイソヒヨドリは縄張りを持たないとは言えないだろう。

 世の中は既成概念で見てはいけない。

   桑の実を摘んでコロナ自粛かな

2020年5月22日金曜日

忍び音を聞いた

 (万葉集 巻14 3352)に、信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時すぎにけり という歌がある。この「時すぎにけり」について多くの解説は「もう時季が過ぎて夏になった」「あれから時は経ってしまったと思う」と述べ、それは「都に残してきた人・・」「旅から帰ってくる夫または恋人」「死別」から・・時すぎにけり・・などとされている。

   ところが昭和44年、後藤利雄氏が「これはホトトギスの聞きなしだ」「東歌らしい農耕生活のにおいがする」と指摘した。
 少なくない民話が「ホトトギスは田植えを促して鳴いている」とあるのと併せると説得力がある。

 5月21日、忍び音を聞いた。私はホトトギスの注意に従って慌ててウスイエンドウを全部収穫し夏野菜を足して植えこんだ。
 私はマンションであってもプランター菜園などをした方が良いように思う。
 なぜなら、菜園を見ると意識は必ず未来に向かうからである。
 夏野菜はいつまでに植えなければならないか。
 夏野菜が終わったら秋には何を植えようか。(実際、タキイ種苗から夏秋のカタログが届いた)
 至極普通にそのように考える。
 
   想像だが、そういう自然と接していない大都会の人々の何人かは『外出自粛』でなすすべがないような気がする。
 話をしていても未来を語ってこない気がする。
 菜園をすると、植えた苗はこの先どうなるか、実物(みもの)野菜はいつごろから肥料を変えようかなど、意識は先へ先へと行く。
 未来を語らない話は、炉端(か酒場)の政治談議と変わらない。
 
 卯の花も満開だが、私は少し元気をなくしている。

   心して杜鵑聴け時すぎにけり

2020年5月21日木曜日

山が動きはじめた


 20日の夜にテレビが「渦中の人黒川検事長が緊急事態宣言下で接待賭け麻雀をしていた」と報じた。21日の週刊文春に載るという。
 51日と13日に、産経新聞記者宅で産経記者2名と朝日元記者とで麻雀をしていたことは朝日新聞も認めている。
 「麻雀ぐらい」と言っても「賭け麻雀」は立派な賭博罪法違反である。
 検察庁法改正問題の際「検察官も国家公務員だから問題ない」などと解説されていた評論家の皆さんがいたが、接待麻雀だけでも国家公務員倫理法違反である。
 それが、安倍内閣が検察庁法を無視して「口頭決裁」で定年延長し、この夏には検事総長と目され、そのために一般の国家公務員の定年延長と政治的に抱き合わせて(検察庁法を認めなければ定年延長してやらないと)悪法を国会に上程されていた当の人物だというのである。

 さらに相手の産経記者は、つい先日も森雅子法相が黒川氏の定年延長を正当化するインタビュー記事を担当。署名記事でも『昨年1月の時点で「黒川総長」が固まったとみられている』「黒川氏は日産ゴーン被告の逃亡事件の指揮という重要な役割を担っていることもあり定年延長・・とみられる」などと黒川氏の人事を擁護していた。
 さらに、14日の産経朝刊で、「法務省は検察庁法改正案の批判に対する見解をまとめた」「一般の国家公務員の定年引き上げに関する法改正に合わせて改正するものであり、黒川氏の勤務延長とは関係がない」などという「法務省の見解」を報じた。
それが実は、共産党の山添拓参院議員が、「いかなる見解か全文を読みたいと法務省に問合せ、待ち続け、今朝になり「法務省の見解をまとめたものはない」と電話で回答。審議の重大局面に、政府が関知しない「見解」が報じられるとは…?」とツイートしたから、官邸あたりの虚偽の世論操作に一枚噛んでいたのは間違いない。

 もちろんこれは単なる黒川氏個人の問題でなく、特例的に同氏の定年延長を決めた安倍政権の責任が厳しく問われる問題である。
 同時に、「記者クラブ」「番記者」という仕組みの怖ろしさも我々に再認識させてくれた。マスコミとネトウヨによって世論が誘導されるという‥。

 私は、検察庁法改正に憤り勤行に及んだ友人のご住職に「公明党に仏罰を!」とコメントを送ったが、こんなに早く仏罰が下るとは・・・。
 おまけを言えば、「自公が絶対多数だから検察庁法反対などというのは意味がない」などと共産党の志位委員長に喧嘩を売ってオウンゴールした維新松井代表にも・・・。

 「潮目が変わった」と言われる「時代の激動」を作った大きな力は「もう許せん!」と声を立て始めた市民のSNSであったことは間違いない。それと野党共闘による院内の論戦が噛み合ったのだといえる。
 20日、そんなSNSの話を何人かにしたが、どうか今一度私の言葉を思い起こしてほしい。友人もそう伝えてほしい。

2020年5月19日火曜日

昔、半魚人という映画があった

   民俗学がけっこう好きな私だが、アマビエは知らなかった。それが知らぬ間に厚労省のコロナ感染防止のアイコンにまで昇進していた。
 奈良ではお酒の春鹿がアマビエのラベルのお酒を売り出した

 そもそもは、弘化34月中旬、肥後の国の海中より現れた妖怪が、役人に対して「吾は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り「当年より6か年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。(防疫のために)吾の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」と告げ海の中へ帰って行ったという。(まるで半魚人だ)

   さて「厚労省はこんなアイコン作る暇があったらもっと医療支援をしろ!」と言うほど私は野暮ではないが、上方の人間としては、17日に書いた神農さんの虎がアマビエに取って代わられたのが口惜しい。(と笑っている)

   妖怪というと、自公政権のもう一つの頭である公明党の山口那津男代表が検察庁法案で「政府はもう少し説明責任を尽くしてもらいたい」と、まるで他人ごとみたいな文言をツイッターに書いて、創価学会員と思しき人々からも批判が殺到していると報じられている。
 検察OBの意見書に比べてナントいう人間の軽さだろう。
 正体のはっきりしない人物のことを妖怪「鵺(ぬえ)」というが、人の道にも仏の道にも反している。

   アマビエを笑うな御霊会は中止

2020年5月18日月曜日

検察OBの意見書(全文)


 コロナ疲れなどがあると長い文書を読む気力も萎える傾向があるが、テレビのニュースやワイドショーやネット上の短文のSNSで解ったつもりになるのはいただけない。
 よって、検察OBの意見書の全文を掲載するので時間をとって読んでみて欲しい。
 私は、現在の検察が100%正しいとは決して思っていないが、安倍政権提出の法案が決定的に三権分立をおかすもので許してはならないものだと考えている。
 私は官僚制度の枠外の地方出先機関の一公務員であったが、法律の持っている民主的側面を大事にし、それをゆがめようとする時々の圧力と抗いつつリタイアした。そして後輩たちが誇りをもって仕事ができるように願い、それの障害となる政治を批判してきた。
 意見書の元高官とはレベルが違うだろうが、偉そうに言うが心意気は同じである。
 心意気に同意していただける方は、FBなどに「いいね!」をポチッとするだけでなく、自らの言葉で意思表示をしてほしい。


  東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書

 1 東京高検検事長黒川弘務氏は、本年28日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の131日、その定年を87日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。

 検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年420日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。

 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。

 2 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)428日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。

 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。

 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。

 3 本年213日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。

 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。

 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。

 加えて人事院規則11―87条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。

 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。

 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出される(会社法違反などの罪で起訴された日産自動車前会長の)ゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。

 4 416日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。

 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認めるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。

 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。

 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。

 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。

 5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。

 振り返ると、昭和51年(1976年)25日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。

 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても(1954年に犬養健法相が指揮権を発動し、与党幹事長だった佐藤栄作氏の逮捕中止を検事総長に指示した)造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。

 事件の第一報が掲載されてから13日後の218日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。

 この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶(やすよし)氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。

 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。

 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。

 しかし検察の歴史には、(大阪地検特捜部の)捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。

 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。

 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。

 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。

 【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。

 令和2515

 元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき) 
 元法務省官房長・堀田力 
 元東京高検検事長・村山弘義 
 元大阪高検検事長・杉原弘泰 
 元最高検検事・土屋守 
 同・清水勇男 
 同・久保裕 
 同・五十嵐紀男 
 元検事総長・松尾邦弘 
 元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし) 
 元最高検検事・町田幸雄 
 同・池田茂穂 
 同・加藤康栄 
 同・吉田博視 
 (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男

 法務大臣 森まさこ殿

2020年5月17日日曜日

不思議な国

   厚労省がようやく東京、大阪、宮城で10,000人規模の抗体検査をすると発表した。
 大阪の知事がまるで大阪独自に実施するかのように発言し、在版メディアが「よいしょ」するかのように垂れ流し報道するのはいただけないが、山中伸弥教授が首相に「今後、経済を再開する一つのカギはPCR検査と、陽性者を同定した場合の隔離を徹底的に行うことだ」と述べ、大学の研究所などを活用したPCR検査能力の抜本的拡充を提起し、「必要な数を考えれば(現在の検査能力件数)2万では足りない」と批判したとおり、『調査なくして政策なし』である。緒についたばかりだが(抗体)検査することは良いことだ。

 口を酸っぱくして言いたいが、28歳の力士にしてもすぐにPCR検査されていたらと考えるのは不思議でない。
 そもそも検査しないと感染者数にはならない。その検査が当の尾身副座長までが言うように圧倒的に少ない。
 それでも、厚労省も大阪府もマスコミもそういう非常に不確かで政治的な数字でありながら、「感染者数は」「感染者数は」と言い、「それはおかしくないか」という正論は無視されている。この国は何という国だろう。

 いわゆる緊急事態の一部解除を受け、治療薬やワクチンが今にも実現するかのような報道もあるが、そもそもインフルエンザの確かなワクチンも確かな治療薬もいまだに実現していない現実を忘れてはならない。
 インフルエンザでは国内で毎年3,000人強が死亡しており、2019年1月でいえば1日平均54人が死亡している。
 私の言いたいことは「インフルエンザに比べると怖くない」ということではなく、「政府はきっちり調べてデータを公表すべきだ」、一人一人の国民が正しいデータに基づいて「正しく怖れる」ことだと強調したい。

 感染症の爆発というと大阪だけで1日に150人が死んだという文政5年(1822)の虎列刺(コレラ)があった。このとき大阪道修町(どしょうまち)で売られたのが『虎頭殺鬼・雄黄円』という薬だった。神農さんの虎の起源である。
 神農さん、再び出番でっせ!
 
   夏めいて虫コナーズをペタペタと

2020年5月16日土曜日

話しているんやね

 休校中のため時々孫の夏ちゃんが避難してくるが、あまりにゲームばかりするので、妻がお菓子作りを誘うと先日、寒天の粉を持ってきた。
 夏ちゃんは箱の裏面の解説を読んで、何を何グラム、何を何リットル、何を何カップ、何度で何分何十秒などなどなどと読み上げたが、わが家にはまともなその種の計量器がない。
 妻は「だいたい目分量でできる」というのだが、夏ちゃんには許せないみたいで溜息をついていた。
 
 わが家に来ているときにはゲームが主で、我われが学校のことなどを聞いてもあまり話には乗ってこない。だから、どちらかというと寡黙なのかと思っていた。が、

   つい先日、避難してきたときにキッチンスケールを「あげる」と言って持ってきた。
 ということは、こちらにいるときは面倒くさそうにごろごろしているのだが、帰ってから「おばあちゃんのとこはこうやった、ああやった」と話しているのだろう。
 そして夏ちゃんのお母さんがキッチンスケールを「持っていきなさい」と買ってくれたに違いない。

 「けっこう普通の小学生らしく話しているんや」と夫婦で頷きあったが、というか、祖父母の家にあきれ返ったのか、哀れに思ったのか。

   初鰹料理はみんな目分量

2020年5月15日金曜日

年年歳歳花相似

 今年(こんねん)花落(ち)りて顔色改まり
 明年(みょうねん)花開いて復(ま)た誰か在る

 年年歳歳花相似たり
 歳歳年年人同じからず

   今年もムッとするような樹木の恋の季節がやってきた。
 年年歳歳エゴノキにはクマンバチがやってきて、庭は、木と言わず草と言わずそれぞれテンでバラバラで蜂蜜をばら撒いたように香っている。ハナムグリは先日書いた。

   季節どおりにスイカズラ(忍冬)も開花し、例年どおり私は「忍冬唐草紋(にんどうからくさもん)」を連想する。

 今春、新型コロナ肺炎が世界を覆ったが、台湾や韓国の対応策は世界中で注目されている。注目していないのは、否、アラ探しでケチをつけているのは安倍自公政権だけと言ってよい。
 中国の大国主義も良くないが安倍政権のアジア蔑視策もひどい。そのイデオロギーを通してしか世界が見えていないから、実際には明らかに台湾や韓国の後塵を拝している。

 飛鳥以降の古代史を見ると瓦の文様などにこの「忍冬唐草紋」が用いられている。
 そしてそのデザインの故郷はエジプトやメソポタミアと言われている。
 その時代の日本の支配階級(エスタブリッシュメント)の方が桁違いに国際派であった。

   君の名はメソポタミア由来の唐草紋
   忍冬は生命のリレーという模様

2020年5月14日木曜日

ツイッターデモと十七文字

   13日付け朝日新聞が「検察庁法改正案 SNS批判」という見出しで「ネット上で9日夜から広がった#検察庁法改正案に抗議します・・のツイッター投稿が600万件に上った」ことを報じた。
 報じられたこの現象はツイッターデモとも言われ、新語流行語になるかもしれない。(その後900万を超えている)

 記事は「首相周辺はおよそあり得ない数字と言っている」とも書きながら、その横に並べて東大計算社会科学の鳥海准教授の分析を掲載し、「複数のリツイートの人もいたが、自動的に投稿や拡散を量産する『ボット』や不自然な傾向はほとんど見られなかった」「同じ内容を何回も投稿する『スパム』も少なかった」「少数による意図的につくられた動きでは!との指摘は誤りだ」と、右側の「与党強硬600万疑問視」の見出しに対して左側で「不自然な量産見られず」と見出しを打っている。

 この記事で私が感じたことは、首相周辺がなぜ600万を「疑問視したか」で、結論を言えば、早い話が、自分たちがアルバイトなどのネトウヨや先にあげた機械的な操作を使って「世論」を捏造してきたからだろう。
 実際ネトウヨの投稿には、単純な文字や事実の誤りが全く同じ不自然なツイートが大量に拡散されている例も多々ある。

 この「疑問視」に関連して参考になるフェイスブックの記事が先日あった。西沢昭裕氏の59日 の投稿要旨(該当部分)を以下に抜粋する。
 ◆人間はだいたい自分のやってきたことを基準に他人をみる。 
 正直者は他人もみな正直者だと錯覚する。
 いっぽう、安倍晋三のようなウソつきは、人間はみな俺のように大なり小なりウソつきなんだと勝手に得心しているのである。
 こういうことを痛切に感じたのは、昔、沖縄の渡嘉敷島に行って集団自決の現場で幼児で生き残った金城さんの証言を聞いたとき。金城さんは自決した母親にとりすがって泣いているところを上陸してきたアメリカ兵に助けられた。
 渡嘉敷に駐屯していた日本軍守備隊長は米軍上陸を目前に、島民を集めて集団自決しかないと説得した。男も女も子供も、敵はすべて容赦なく皆殺しにするからと住民をこんこんと説得した結果、住民らは愛するものが無惨な殺され方をするよりはと、家族ごとに支給された手りゅう弾で自決に追い込まれたのである。1945328日のこと。 
 実はこの守備隊長らの部隊は、渡嘉敷島守備を命じられる前までは、中国大陸で日本軍に抵抗する中国の民衆を文字通り皆殺しにする、いわゆる三光作戦をやってきた部隊だった・・。(引用おわり)

 よって、人間というものは、他人のことを語っているようで実は自分のことを語っているのだなあ・・というのが私の感想。
 いやはや言葉とは恐ろしい。(以上、長すぎる前説(まえせつ))

写真は記事とは連動していません
   そういう恐ろしさを知らぬまま、13日付け赤旗『読者の文芸 俳句 三宅やよい選』に拙句を拾ってもらった。
 春陰や共感疲労を検索す  というものだ。

 十七文字のため読者がどのように感じてもらってもいいのだが、蛇足ながら作者の気持ちを書いてみる。
 春陰(しゅんいん)は春の季語で、花曇りよりももっと暗くて陰鬱な春の曇天である。
 共感疲労(きょうかんひろう)は、自分は実際には直接的には問題に突き落とされてはいなくても、コロナのニュースなどで、いろんな辛い悲惨な問題に直面している方々の姿を見るにつけ、その辛さ悲しさに共感してこちらのメンタルが疲れ切ってしまうという新しいストレス障害の名前である。

 「そうだよなあ、何か気が塞ぐなあ」「こんな気分を何とか言ったよなあ」「確かあ・・・・」
 と念のためネットで「共感疲労」という言葉を検索したというような、実に他愛もないことなんです。

 蛇足の蛇足ながら、現職の頃、いわゆる「過労自殺」や「鬱」の労災を担当してきた。
 その頃の精神科の先生の話を基に考えると、人は「共感疲労」を感じて当たり前だということになる。
 反対に、この状況下で「別に」と共感疲労を感じないとしたら、それは人として当然あるはずの感受性や人間性に問題があるかもしれない。
 ただし、共感疲労で「仕事ができない」というような谷底に落ち込まないよう、一定の対処(歯止め)が必要で、そんなときは頭の中に竹林を造成して、十七文字などを捻ってみるのも良い。文学や芸術は辛いときにも(こそ?)人を救う。

2020年5月13日水曜日

ウグイスの谷渡り

   鮮明ではないがウグイスの写真はこんな程度で勘弁してほしい。
 例えば、ほゞ3m先に居るのはわかっている、かすかに動く影もわかる、それでも決して姿を現すことがない・・・という感じのウグイスだから。

 写真は、少し先の樹林の奥にようやく捉えた。パソコンで拡大し、かつ明るくした。
 原版は暗く小さい。
 
   毎日2か所ほどの小山からわが家にさえずりが聞こえてくる。
 互いに縄張りを宣言し、求愛の歌を歌っているのだろう。
 時々は高らかに「谷渡り」も聴かせてくれる。
 そもそもウグイスのさえずりは「法 法華経」。
 この素晴らしいソプラノ歌手の近所を飛び回っているのがツバメで、こちらは「土食って虫食って渋~い」。
 『聞きなし』もこれほど違うと(的確ではあるのだが)可哀相だ。

 5月も中旬になりそろそろ鯉のぼりも終おうかと思いつつある。
 道行く隣の丁の方が「写真を撮らせてもらいました」「FBにあげてたくさんの「いいね!」をもらいました」と妻に挨拶があったそうだ。
 私の周辺では、団地サイズも含めて鯉のぼりが激減している。
 子どもたちはどこかの施設などに左右にロープを張って、そこにぶら下げた形が鯉のぼりのスタンダードだと思わないだろうか。
 年中行事は生活にメリハリをくれると思うのだが。

   またの名はショックドクトリン火事場泥 

2020年5月12日火曜日

コロナ騒動の中でレジリエンスを考える

   レジリエンスということを2015326日と1027日に書いたが、今回のコロナ騒動の中で改めてその重要性を感じている。
 枝廣淳子氏によると『レジリエンス(resilience)は「復元力」「弾力性」「再起性」などと訳される言葉だが、私は「しなやかな強さ」と訳す。強い風にも重い雪にも、ぽきっと折れることなく、しなってまた元の姿に戻る竹のように「何かあってもしなやかに立ち直れる力」のこと』と書かれている。

 国の影響力を超えた感染症、異常気象、金融危機などなどが考えられる今日、目先の利潤だけに没頭する社会はしなやかさを欠いてぽきっと折れやすい。
 物理的な対策だけでなく、暮らし、社会、心理を含むシステム全体で考えるのがレジリエンス。

 氏の著作『レジリエンスとは何か』(東洋経済新聞社)にはキューバの市民防衛法が紹介されている。面白いので紹介したいが紙面がない。ちょっとだけ摘んでみる。

 キューバのハリケーンのすさまじさは日本の台風の比ではない。「市民防衛制度では、リスクが高い地区のことをまず調べ、次にそれを減らすために対応を行う。政府や公社等はもちろん、企業、病院、工場等あらゆる組織が、何が脆弱で何を守るべきか、災害時には何をすべきか計画を立てている」
 「優れた気象観測技術を駆使して予測し、いち早く危険を知らせ、水、食料、電気と万全の準備をしたうえで安全な地帯に避難する」
 「ハリケーンが接近する前に、飲料水が運ばれ、病院、パン屋、食品加工センター、ホテル、学校、電話センターには72時間稼働する発電機が準備される」
 「直撃の予想で避難命令が出れば、避難にかかる費用はすべて負担されて避難する。1998年のハリケーン・ヘルでは対象地域から818,000人と750,000頭の家畜が72時間内に避難した。ペットも避難できるしペット用の獣医も配置される」
 「出た町には泥棒が入らないよう警官が配備される」
 「避難所には診療所、ベッド、医療機器、資材が用意される」などなどなど・・・、
 米国の関係者も「たとえ我が国の政府がキューバ政権をどれほどけなそうとも、大成功していることは事実だ」と述べている。

 一言で言って、「災害は起こるものだ」という前提で、それでも国民の命と生活を守り切るという備えをしている。
 いつ来るかわからない非常事態に備えるのは無駄だ、セフティーネットは無駄だと、目先の効率だけで行動する自公や維新の政治の対極と言える。
 よかったら、レジリエンスを少し齧ってみて欲しい。

   コロナ風邪しなやかにかわさん五月闇

2020年5月11日月曜日

SNSは民主勢力の武器でもある


   友人からメールがあった。曰く・・・
 「今日の赤旗の一面の「検察庁法案空前の抗議」では、きゃりーぱみゅぱみゅさんなどの著名人が続々と投稿している記事がありました。同感なのですが、ツイッターをしていないので、投稿が出来ないのです。

 勉強してツイッターの投稿をすれば良いのですが、頭の老化激しく、やる気が出ません。昔、近畿地協で「ヤッホーがこだまする」?の取り組みを思い出しました。
 年寄りにとってはアナログが懐かしいのですが、今やデジタルです、が、ついて行けません。

 そこで、虫の良いお願いなのですが、デジタルに対応するツイッター、インスタグラム、ユーチューブ、ブログ、ホームページ等々、ネットで発信する方法のマニュアルを作成していただけないでしょうか。
 年寄り向きに単純にデーターを入力していけばたどり着くようなテンプレート的なものが良いのですが、いかがでしょうか。先進技術のご伝授、ご指導よろしくお願いします」・・・というものだった。

 ・・・で、考えたが第一歩はフェイスブックがよいのではないかと考え、それをメールした。
 そして午後には立ち上がった。

 ささやかなことだが、みんながこのように一歩踏み出せば社会は変わると思う。
 「一人がそうするだけでどれだけの効果がある?」などという人は、頭の中が成果主義に占領されているように思う。

 この話、素直にうれしいね。

豆ごはん

   東京あたりでは野生化したインコが群舞しているらしいが、わが家周辺ではそんなことは聞いていない。
 だから雀と一緒に電線にとまって、チュンチュン チュンチュン鳴いているときは勝手に雀だと思っていた。

 それにしても妙に胸の白い雀だなとカメラを望遠にするとこのとおりインコ(セキセイインコ?)。
 さすがインコ、雀の物まねにはすっかり騙されるところだった。

 この時も電線の方はインコとは全く思わず、違う場所のイソヒヨドリをカメラで追っていた。
 そして、少しおかしいな!と思いつつも、鳴声から雀だとばかり思いこんでいた。思い込みはほんとうに好くない。
 野鳥たちは恋の季節である。恋は思い込みである。

 
   わが家にはなかなかやってこないが、ウグイスの声だけはほゞ一日中聞こえている。

   夏鳥の声詰りたる豆ごはん

 ウスイエンドウが順にできている。
 膨らんだ豆から順にいただいている。
 孫の凜ちゃんも喜んで食べている。
 いささかつまらぬことも多い世の中だが、七十五日命が伸びた。
 七十五日分発信する機会が増えた。
 機会が増えたといっても、こんな鳥や虫の話を発信していてもなんの役にも立たない。ご容赦を!

2020年5月10日日曜日

コロナあるある

遊歩道に向いて座っているわが家のたぬ子
   街の風景で変化したこと・・・、① 見たことのない孫と手をつないだご同輩。(相手もそう思っているだろう)
② そう遠くない家から出入りしている初めて見る高学年の子供たち。(長引く休校)・・・、

 それでもご婦人に比べて屋外での爺さんの姿は相対的に少ない。家でニュースばかり見ていると鬱になるぞと少々心配。
 「いやいや鬱になんぞならない」というなら、その方が老化と感受性が低下している証拠で、ほんとは怖い。

 先日書いたが近くの公園が静かである。
 母親である娘に聞くと子供たちは「オンラインお稽古事」に縛られているらしい。いいか悪いかは知らないが、ここは日本だなと感心している。

 基本的な食料品等の生活物資をイオンで調達しているが、ここ数か月は朝の8時半に行っている。
 この時間帯の客には見慣れた顔が多い。基本的にはよく似た思考方法の同類と想像され、マスク着用、間隔維持等々客層には不満はない。惜しむらくは鮮魚の品揃えが間に合っていない。

 「府県をまたいだ移動はするな」とアナウンスが繰り返され、奈良のパチンコ店に押し寄せる大阪ナンバーの車がニュースで糾弾されている。
 そして前述のイオンは西村まさゆき著『ふしぎな県境』にも紹介されているが、建物の中に京都府と奈良県の府県境がある。
 私が次いでよく行く近商もホームセンターも、もっと言えば散歩コースも他府県になる。私はほゞ毎日他府県に越境している。申し訳ない。

 わが家の前?裏?は遊歩道であるから緊急事態宣言で散歩をする人が目につく。
 お互いに2メートルを意識して皆がケーブルカーのようにスーッと離れてすれ違っているのがちょっと芸術的である。
 先ほどの件を一言抗弁すれば、この散歩でわが家の前まで来る人も少なからず他府県の人である。些末な話だが。

 ラジオを聴きながら歩いている人もいる。
 鳥の声を聴いたり木々の若葉を楽しめばいいのにと私は思うが、向こうは情報も得ながら健康も得てサイコーと思っているのだろう。人それぞれ、多様性。

 三密を避けた趣味としての土いじりが大流行りで的を射ていると思うが、花や苗を売っているホームセンター花苗売場はオイオイオイと言いたいほど賑わっていた。

 義姉が体温計が壊れたというので「余っている体温計をあげる」と妻がスマホで話していた。
 こういう機会だからと電池切れしていた体温計の電池を買いに行くと、ホームセンターにも電化製品量販店にも品切れだった。
 量販店の店員さんに「どうしてこの品番だけないの?」と聞くと、「体温計に使われている電池だから」という答えだった。ちなみに「体温計そのものも品切れ」だという。
 マスクの買い溜めとは異なるが、「そうそう体温計体温計」とメンテナンスをした人が多いのだろう。我もその一人! 自分を横において「世間というやつは」などと言ってはいけない。はい。

   持ち時間短く長い蟄居かな

2020年5月9日土曜日

リアル民俗学

   外出自粛の最中、ひょんなことでこの本のことを知った。(写真参照)
 そんなことで、またまた近所の休店中の本屋には申し訳ないがネット通販でポチッと購入した。送料無料で翌日届いた。

 一気に読んでしまった。何もかも自分の直面した介護や墓や葬式の悩みとオーバーラップした。
 あまりに心に響き過ぎたので書評めいたことも書けない。

 「これから私が語ろうとすることは、個人的体験記でもなければ、民俗誌でもない。評論でもないし、いわんや小説でもない。ひとりの古典学徒が体験した、死をめぐる儀礼や墓に対する省察である」とは著者の弁であるが、私は単なる「エッセイ」というよりも、現代社会の現在進行形の民俗学と感じた。

 私の実母も明治の女であったから、常々「家で死にたい」と語っていた。ベッドの上から私に聞こえるように 〽狭いながらも楽しい我が家 と歌っていた。
 しかし、最後は老人ホームに入所をさせた。
 その間の心の葛藤は上野先生のようには文字にできない。
 結果として入居は大正解だった。
 家族介護の暗闇から解き放たれた私は思いっきり介護ができた。
 親子の会話もその数年間が一番深かった。
 そして文字どおり悔いなく見送った。
 『われもまた逝く』が最後の章の見出しだが、こういう文字にも素直に納得できる気分になっている。
 自分は大人であると思われる方には必読の書だと思う。

 去年までは介護今年はコロナの大連休

2020年5月8日金曜日

五月晴れ

ハナムグリ
   イクジイの1日だった。二人の孫を連れて近くの〇丁目公園に行ったが、我々3人だけの貸し切りだった。
 あとで娘に聞くと、世間の子供たちは「オンラインお稽古事」にどっぷり浸かっている(縛られている)らしい。

 そんな世間の事情も知らず、夏ちゃんはマユミの木(花)に飛んでくるハナムグリやコアオハナムグリの捕獲に精を出した。

コアオハナムグリ
   コガネムシは何でも食べる。コガネムシの仲間の食べ物の嗜好はバラエティーに富んでいて、大きくは奈良公園のルリセンチコガネのような食糞群と、農家に嫌われる食葉群に分かれている。

 そんな中でハナムグリの類は少々スマートだ。
 夏ちゃんに「ハナムグリの類は文字どおり花の蜜を食べに飛んでいるから綺麗だよ」と言ったら手に乗せて指輪のようにして遊んだ。

   コロナ禍は人間界のこと花潜

2020年5月7日木曜日

データなくして政策なし

 「調査なくして発言(方針)なし」は、私はかつての世界労連書記長ルイ サイヤンの言葉として覚えているが、二宮金次郎だ、毛沢東だという説もある。
 出典が誰であっても構わないし、そしてこれは労働運動だけでなく、経営方針や社会政策等であっても全く正しい。

   私はコロナ問題の当初から「検査数が極端に少ないのはよくない」と主張してきたが、政府に忖度した評論家やコメンテーターは曰く「検査を増やせば医療崩壊になる」曰く「クラスター周辺を追跡するのが正しい」と繰り返してきた。
 その結果、4月29日時点の比較では、人口10万人あたりのPCR検査数は、イタリアの3159件、アメリカの1752件など、他国に比べて日本が188件であったから桁違いに少ない。

 それが5月4日、専門家会議尾身副座長がPCRの検査数は、他国と比べ明らかに少ない。これは間違いない」「3月下旬以降に感染者が急増したことに十分に対応できなかった。今後は医師が検査が必要だと考える軽症者を含む疑い患者に対しても、迅速かつ確実に検査を実施できる体制に移行するよう求める」と言ったから、先の評論家やコメンテーターはなんと言い訳することだろうか。

 ともあれ、日本の検査数が桁違いに少ないため、感染者数そのものが実態を表していないと考えるのが常識で、事実慶応大学病院の調査では市民の6%、神戸の中央市民病院では3.3%に抗体つまり感染を確認している。

 そのため岡田晴恵白鴎大教授は「厚労省発表の感染者数は当てにならないから、死亡者数の方が実態を表している」として、10日単位の「一日当たりの死亡者数」を4月9日まで発表されている。私は厚労省データに基づいて東洋経済オンラインが発表している数字で4月10日以降も追跡した。その結果は次のとおり。

 3月1日から3月10日の間の一日当たり死亡者数は0.5人
 3月11日から3月20日の間の一日当たり死亡者数は2人
 3月21日から3月30日の間の一日当たり死亡者数は2.3人
 3月31日から4月9日の間の一日当たり死亡者数は4.2人
 4月10日から4月19日の間の一日当たり死亡者数は10.2人
 4月20日から4月29日の間の一日当たり死亡者数は17.9人
 4月30日から5月5日の6日間の一日当たり死亡者数は22人

 これは厚労省発表のデータが基本である。しかも、さらに隠されたコロナ死者が多数いる。
   日本法医病理学会は、解剖医アンケートで「死亡者のPCR検査を拒否された」の回答が多数とホームページで発表している。
 首相は「肺炎での死亡者はすべて検査しているから、日本の新型コロナ死亡者数は正確」などと強弁していたが、『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)や、さらにはNHK『おはよう日本』で、葬儀業者が新型コロナを疑われながら検査されないまま遺族に返される「グレーゾーン遺体」の存在を実名・顔出しで証言している。
 
 とすると、きわめて不確かな「感染者数」でピークは越えたと大合唱していいのだろうか。
 マスコミはもっぱら「いつ解除になるか」ばかりを追い、「大阪モデル」などという言葉が踊っているが、それらは共通して感染者数で語っている。
 そもそも人口比で見れば、大阪府の検査数は和歌山県の半分以下である。

 先日私は「徐々に解除に向かうのがよい」と書いたし、今もそのつもりだが、正しい判断は正しいデータに基づいてなされるべきだ。
 結論以前に、調査やデータを用いない政権やそれに追随するマスコミに踊らされているこの国が大いに心配だ。

 この現象は、この国において理系の論理が評価されていないということもあるが、人文系の「人の道」が軽視乃至蔑視されていることに遠因がある。  

2020年5月6日水曜日

天平の感染症

   『「天平」という名の非天平』とは千田稔著『平城京の風景』(文英堂)を監修された上田正昭先生の巻頭文の小見出しである。
 一昨日は近代の感染症のことを書いたが、感染症というと天平時代(奈良時代)も避けて通れない。

 長屋王の変の後、天変地異と飢饉が起る中、九州から西日本そして平城の都では、天平7年(735)から天平9年(737)に天然痘の大流行が発生した。
 藤原四卿をはじめ高官たちもバタバタと亡くなった。
 そのとき朝廷は・・・、

 今日の外出自粛に相当する鈴鹿、不破、愛発の固関(こげん)をおこなったという史料はないが、比較的東進が抑えらた事実から、当然に固関がなされたと考えるべきとの意見もある。
 そして朝廷からは、結構詳しい食事や薬や治療法が全国に発出され、隔離や衛生環境の注意も指示されている。
 さらには、減税、免租、頻繁な米穀の支給、逃亡者・浮浪人の現在地戸籍登録等々を見ると、その積極さに私は驚くとともに、1200年余後の政権に落胆する。

 何よりも、火事場泥棒的に怪しげな会社にマスクを発注したり、憲法改正を企てるなんぞの態度は、「その責任はすべて自分一人にある」と言った聖武天皇の風上にも置けない。
 今の政権のほぼ全員が『日本会議』や『神道政治連盟』に所属し、「神武天皇は存在した」とかの発言を繰り返しているが、実は歴史や伝統を一番軽んじて片言隻句だけを利用しているかがよくわかる。

   おぼろ月(づき)夜風に遠き蛙の音

2020年5月5日火曜日

菖蒲の鉢巻き

   端午の節句というと、粽、柏餅、そして菖蒲湯となる。
   現代のような科学的な薬がない時代、薬の多くは植物(薬草)から得られていた。粽の笹や茅、柏の葉、菖蒲に蓬。

 森林浴、檜、楠木のそれらは先日来書いてきたが、多くの植物には殺菌力があり、自然界はある種のバランスの上に成り立っていた。
 そのバランスの一角に居るということを忘れて自然の領域に踏み込みすぎた(自然破壊した)結果、大規模な感染症が発生するのだという有力な説がある。なお、殺菌力や薬効と有毒とは紙一重ということは言うまでもない。

   端午の節句にわが家では菖蒲湯に入って、その菖蒲を1本抜き取って鉢巻きにすることになっている。「家の習い」である。

 古くは万葉集に「あやめ草・・かつらにせん・・」という山前王(飛鳥ー奈良時代)の歌(423)があり、続日本紀天平19年に太上天皇(聖武)が「昔は五日の節に菖蒲をかつらと為したるに・・・今より後は(五月五日に)菖蒲の蘰(かつら)に非ざれば宮中に入るなかれ」との詔(みことのり)もある。

   節句というと「怠け者の節句働き」という箴言がある。
 5月1日に「人生もまた緊張と緩和」であると書いたが、緩和が下手だと緊張もまた上手くないということか。
 菖蒲の鉢巻きをしてその殺菌力を思いっきり吸い込むことにしよう。
 それにしても、非常事態下の五月五日はハレの日ですか、ケの日ですか。

   鯉のぼり庭木に尻尾を絡ませて


追記  万葉集巻の10、1955の詠み人知らず

霍公鳥 厭ふ時無し 菖蒲 鬘にせむ日 此ゆ鳴き渡れ
ほととぎす いとふときなし あやめぐさ かづらにせむひ こゆなきわたれ

 ※「あやめぐさ」ショウブ。邪気を払うとされた。
 ※「縵」つる草や草木の枝・花などを巻きつけて髪飾りとしたもの。
 ※「縵にせむ日」五月五日にアヤメグサを縵にする習俗があった。

 ホトトギスの鳴く声は いつ聞いてもよいけれど ショウブを髪に飾る日は ここを鳴いて飛んで行け