有力なその一は、現在の地名で「堀江」「難波」「三津寺(御津)」「湊町」として痕跡を残している辺り。
その二は、考古遺物である5~6世紀の土師器・須恵器、韓式系土器が出土している高麗橋付近。
その三は、天満橋付近。 その四は、上町台地の東側である。
各時代の難波宮(なにわのみや)の大極殿が上町台地北端の法円坂周辺にあったことなども考慮すると、高麗橋付近が最も有力だと思われる。 そこは、当時は合流していた淀川、大和川の河口にあたり、遡れば平城京にも通じていた。
私個人としては(夜の)ミナミに馴染んでいたし、堀江近くで勤務していたこともあり心情的には三津寺説に魅かれるが、公平に考えると高麗橋付近説の可能性が高いと考える。
「難波の堀江」も河内湖の水を大阪湾に流す、上町台地の北端、現在の大川と考えられる。
推古18年(608)小野妹子とともにやってきた隋の裴世清は、瀬戸内海から難波津、堀江、河内湖、そして大和川を遡って飛鳥の小墾田宮に来たと考えられているし、書紀の仁徳天皇の説話では、皇后磐之媛は、仁徳の浮気に怒って、大阪湾から堀江、淀川、木津川を遡って大和の北部近くの筒城岡の宮に行ったとある。
近頃は「大阪にカジノを造って儲けよう」というような品のない主張をするものがあるが、山根徳太郎先生ら先輩たちが、大都会のど真ん中に奇跡的に宮跡を残したというロマンの欠片ぐらいに思いを致してほしいものだ。
9月9日の記事と本記事は小笠原好彦先生の講義や著書『難波京の風景』を参考にして記述した。

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