2013年3月3日日曜日

上巳の節句に「ほしいひ」

  1月25日のブログに私が「道明寺天満宮」のことを書いたのを受けて、ひげ親父さんから「道明寺近くに『道明寺糒(ほしいひ)』というものがありますよ」とのコメントをいただき、私が「知らなかった」とコメントを返したところ、ミリオンさんから「知っておきなさい」と現物を贈っていただいた。感謝。感謝。
 私は、和菓子類の中では『道明寺』が大好きな部類に入っているのだが、にも拘らず、それが『道明寺糒』で作るものだとは全く知らなかった。
 だから、そういう新知識を知り、そして、その現物を手にとることができたものだから、私は今、言葉に表せないほど感激している。
 そこで、せっかくなので上巳の節句までとっておいたのだが、ついにその日がやって来た。(1日の誤差は許されよ!)
 この日の目標は桜餅。
 だが、さっそく頭を抱えてしまった。・・・というのも、「ほしいひ」に付いていた説明書と、 桜の葉のパックに印刷してある説明文、 そして、ネットにある十人十色というか百人百色というぐらいのレシピのうち、いったいどれを選択したらよいものか・・・・・・・? 中途半端な情報化社会は悩ましい。

 そこで、一番原点とも言えそうな、そして一番簡単そうな『ほしいひ』添付の説明書に沿うこととした。
 要は、ほしいひが2合であったから、1.7倍(3.4合)の適当な砂糖とほんのひとつまみの塩を入れた熱湯をほしいひにかけて10分間蒸らすだけ。
 食紅は使わずイチゴを擂りおろして入れてみた。
 最後に30秒電子レンジにかけたのが蛇足だったのか少し柔らか目になってしまったが、それらしい道明寺が完成。チキンラーメン並みの簡単さだ。(ひげ親父さん!醤油うことです!)
 餡子を包む段階で我が家にやって来た夏ちゃんも手伝ってくれた。(上の写真)
 そして完成した桜餅が下の写真。
 大きなのが13個出来上がったが、もう少し小ぶりにすれば15~6個はできることだろう。
 おやつの時間に夏ちゃんが「美味しいね」と言って丸々一つ食べてしまったから文句なしの大成功だ。これ以上の評価基準があるものか。(夜のデザートでもまた一つ平らげた。)
 夏ちゃんは、さかんに丸めたときの手振りをして「私が作った」と自慢げだった。

 ちなみに、右の紙筒がほしいひの入っていた袋。
 「ほしいひ」の文字は秀吉の文字とのこと。

 知らなかったことを一つ覚えることはほんとうに楽しいことだ。そんなことを50数年前に気づけばよかった。
 ひげ親父さん ミリオンさん ありがとう。記憶に残る上巳の節句となった。
 ちょっと爺ちゃんは鼻高々である。

2013年3月1日金曜日

右と左

夏ちゃんの好きな「くつ」
  (1) 2月13日に雛飾りのことを書いた。
  私の娘が誕生した昭和の御世に義父母が買ってくれた結構オーソドックスなものである。
 一応「京風」となっているが、調べてみると「関東風」のところもあり、いわゆる「標準」なのだろう。
  箱には、人形たちと一緒に「飾り方」の冊子が入っていたが『男雛がこちらに向かって右』(こちらから向かって左)となっていた。
  昭和以降の主流はこうらしいが、そもそもが“平安の御所(宮中)の再現である雛飾り”と考えるなら(諸説あるが)当然おかしい。もちろん私は左に飾った。
  蛇足であるが、それぞれの上席にあたる三人官女の長柄銚子、五人囃子の謡い、随身の左大臣または左近衛中将(長老)は冊子からして左のままである。当然だと思う。だから、この冊子自身が論理的統一性を欠いている。(なお、「京風」の中には男雛を左に飾るのもあるにはある。)
 男尊女卑を肯定しているわけではない。御所を全く超越した現代雛なら文句もない。女雛が上席だって文句はない。
 ただ、明らかに「平安宮」を装いながら戦前の天皇制に媚を売っているところが嫌らしい。
 
  近頃、「維新維新」とはしゃいでおられる方がおいでだが、この雛飾りは、明治維新から敗戦までの近代日本が文化の上からは極めて乱暴で無知な一面を持っていたことを思い起こさせる。
  繰り返すが、現代の標準マナーが右になったことをおかしいなどと言っているのではない。平安の再現を無茶苦茶に捻じ曲げていること、嘘をついていることが問題だと思っている。
 だから私などは、「維新」と聞くとどうしても乱暴な嘘つきというふうに連想してしまうのである。
 「憲法9条をすぐに変えようというのではないが憲法改正要件だけは変えよう。」という主張も同じことのように感じている。

 (2) 孫の夏ちゃんが一番好きなのは、「泣き上戸」の持つ沓台である。そして五人囃子の太鼓である。
 指さして「くつ、くつ」「たいこ、たいこ」と自分も「知っているんだ!」というアピールをしてその「発見」を嬉しがる。
 そして、人形よりもいろんな道具類を「これは?」「これは?」と知りたがる。
 盃も銚子もお膳、箪笥、重箱もみんなままごとの感覚で、その発見を楽しんでいる。
 しかし、槍や弓や火鉢はイメージできないようだ。此方の説明も難しい。針山・絎(くけ)台がヒュっと伸びた針箱なんか私の娘でも実物を覚えていない(判らない)のではないだろうか。
 夏ちゃんは雛人形そのものにはあまり興味がなさそうで、お雛様よりも「いないいないばあ」の「わんわん」の人形の方を喜んでいる。

2013年2月27日水曜日

近江の人には頭が下がる

  紅生姜を漬けていたのだが、黴を生やしてしまった。
  「塩が足らなかった」「紫蘇の一部が外に出ていた」と、妻は反省しきりである。
  ことほど左様に漬物といえども実際には難しい。
  それを・・・・・このように美味しい料理に仕上げるのであるから、近江の人には頭が下がる。

  義姉から湖北のお土産と言って鮒ずしをもらった。
  米粒は一旦除去し、酒粕を敷いた上にガーゼをかけ、その上に並べ直したという、少し「一般大衆」向きにマイルドにしたお土産ヴァージョンのものだったが、文句なしに美味しかった。
  テレビタレントなら「あま~い」と叫ぶところだろうが、鮒ずしが甘いはずもない。
 「この美味しさは何に一番近いやろ?」と妻と考え込んだが、塩辛よりもやさしいし、干物よりも香りが良いし、「やっぱり水産物加工品の中の雄やな」ということで一致した。

  熟れずしの起源は紀元前4世紀から3世紀の周から漢と言われている。
  しかし、塩漬けを行い、その後空気を遮断したうえで重石を掛けて、場合によっては2~3年飯で本漬けするのは他国にも例がないと、発酵学の権威小泉武夫先生は絶賛されている。
  それは清酒の醸造に似た繊細な管理によって初めて生まれる味らしい。
 だから、有史以前からの、この列島に住む民族の味である。
 発酵の味は大人の味である。
 だから、ハナから手を出さないのも、ガツガツ食べるのももひとついただけない。
 ゆっくりと味と香りを口中にころがして味わってみてほしい。

  食わず嫌いは人生を半分しか生きていないようなものだと私は思っている。
  ビバ鮒ずし。


2013年2月25日月曜日

お節介それとも

  私が息を殺して野鳥を観察していても、私の“ある種緊張したたたずまい”を一顧だにせずガヤガヤと人が歩いて来てジ・エンドとなることがしばしばある。
 あまりにしばしばであるから、全く怒る気もない。だいたい彼らに悪意など全くないのだから。
 ほんとうに怒っていない。ほんとうである。
 「カメラマンが息を殺して林の中を注視していたら何かある!と気を遣うのが社会人ではないか」などと決して怒っていない。
 
 先日も、近くの緑地で鳥を見ていたら、元気よく母子が散歩にやって来た。いつものパターンである。
 そこで私は、「シーッ」などという野暮なことは言わずに、小さな声で「ほら、あそこにキツツキさんがいるのわかるかなあ」と二人を無理やり私の世界に引きずり込んだ。
 『カラの混群』で、エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、コゲラ、メジロが賑やかなのだが、お母さんはただの一種も判らなかった。
 もちろん、それぞれを解説した。
 子供の方も、知らないおじさん(爺さん)から話しかけられて最初は文字どおりキョトンとしていた。
 これって、3.11の後よく流されたACジャパンの『親切それともお節介?』のCMそのものの図だなと我ながらおかしかった。
 まあ、世は孤独社会と言われているから、町内にお節介爺さんの一人や二人もいいのじゃないか。

2013年2月23日土曜日

続 戌亥の隅にどっさりこ考

 2月15日に「戌亥の隅にどっさりこ考」で陰陽道の神門の思想に由来がありそうだと書いたが、何か中途半端な感情が残ったので国立国会図書館関西館や各地の図書館に数日遊んだ。
四天王寺のいぬゐのやしろ

 すると、民俗学者柳田國男の「風位考資料」の中に、「元来、支那から輸入せられた方位説では、艮を鬼門として居る為に、書物の上では此方角の避くべきことを説きながら、我々の実際の生活では、乾を恐れて来た。 これも長い歴史をもった事柄で、屋敷の中でも乾の隅が怖い為に今でも鎮守を祀ったり、榎を植えたりなどしてゐる。 ・・・・・大体西北が日本に於ては一番恐るべき方角だったのである。 これを支那風に言へば鬼門といふことになるが、此方角の恐るべきものとの理由は、鬼が住む、害敵が住む処と言ふのではなかったろうと思はれる。 十万億土と言って西方を指す以前に、兎に角霊魂の帰り行く方角を西北と考へて居たのである。」とあった。

 そして、その弟子筋にあたる三谷榮一の「日本文学に於ける戌亥の隅の信仰」や「古事記神話の構成と本質:戌亥隅の信仰に関連して」という分厚な著作に辿り着いた。
 その分厚な内容を誤解を恐れず要約すれば・・・・、
 記紀の時代から、大和の朝廷にとって西北の出雲は「根の国」「食国(おすくに)」、つまり穀霊の居ます地、祖霊神の来向される方角と認識されてきた。
  その思想は、その上に特別の名前を冠されてその害を怖れられ、その恵みを期待された、西北からの風、雨、「神ナリ」の素朴な信仰とあいまって、朝廷祭祀、出雲国造神賀詞、風土記、三代実録、宇津保物語、源氏物語、今昔物語、宇治拾遺物語、平家物語、お伽草紙、日本永代蔵まで脈々と繋がり、宴曲、謡曲、中世歌謡、説教、俳諧、山伏神楽、花祭等々にも広がった。
 つまり、戌亥(西北)の隅は、朝廷から各家まで、最も神聖な場所であり福徳や祝福がもたらされる尊い方角、神のいます場所という、祖先人の並々ならぬ深い信仰があった。・・・・と、詳細に論述されていた。

 実際には、その思想が陰陽道の「神門の思想」と習合して「発展」したのだろう。
 この陰陽道で盛んになった「神門」とは、道教の教える太白星=金星=大将軍の方角であり、平城宮の西北の秋篠の八所御霊神社の大将軍社、難波宮西北の明神池・大阪天満宮の大将軍社、平安宮西北の大将軍八神社の存在が示すように、非常に重視された方角の信仰であった。(当時の公家の生活は方違(カタタガエ)と物忌みに明け暮れていたと言って良いほどに重視されていた。)
 蛇足ながら、なぜ陰陽道=道教は西北に大将軍を求めたか。ズバリそこが隋唐の都長安にとってシルクロードの出入口であることを想像すれば思考の必要もない。

 また、柳田國男の限界をもっと遡れば、福永光司が「記紀神話は道教の思想で書かれた」と喝破したように、皇極天皇が行ない、その後記録の残っている平安の宮廷祭祀では特別に重要な祭祀のひとつであった「四方拝」(これ自身が100%道教の祭祀)では、古くは北に向いて天(皇天上帝)を拝み、西北(戌亥)に向いて地(国土神・地祇)を拝み、そののち四方と皇祖の山陵を再拝したものであった。(内裏儀式)(江家次第)
 
 約めて言えば、それは隋唐時代に再編・集大成されたアジアの思想であり、大和の朝廷が抱いた前政権ともいえる出雲勢力への特別な意識であり、この列島では多く西北方向から変化し到来する雨、風、雷に対する素朴な畏怖と期待が習合した信仰、故に、祖霊や国土神の来訪若しくは帰去する、そして福徳をもたらす神聖な方角という信仰ではあるまいか。とまで言うと、誇大妄想と人は笑うだろうか。
 
 こうして、妻が「戌亥の方角は蔵を建てる大事な方角で清浄に保つべき方角」と思い込んできたことも、私が『節分の豆撒きの最後に「戌亥の隅にどっさりこ」と叫んでガシャンと戸を閉める』と伝え聞いてきたことも、なかなかどうして厚い厚い歴史の積み重ねに裏打ちされていたのだと我ながら感心して何となく喜んでいる。

 方角に吉凶があるというのも不合理な迷信だし、現代そのまま再現すれば差別や倫理の逸脱と思われる儀礼等もあるにはあるが、巷間「自国の文化を語ることのできない人間に国際的な交流はできない」と言われることなどに注目すれば、各種習俗に引き継がれてきた前時代の歴史全般を陳腐なものと考えるのも如何なものだろう。そういう接点に「しきたり」や「ならわし」があるのではなかろうか。
 世の中を見ていると、商業主義に支えられた形式主義やつまらぬ占いが濃厚にはびこる一方、千数百年の歴史つまり先人の生活力や思考の積み重ねが顧みられずに、いま次々と消滅していっているというそういう『歴史の瞬間』に立ち会っているような気がしてならない。

 と、偉そうなことを言えたものでなく、実は亡母は出雲大社の大黒様の信仰を持っていたが、私はそういうリアルな信仰が嫌で近寄らずにきた。そして今頃、豆撒きの掛け声の奥底に、大和の朝廷に抗い屈した遠い出雲の声を聞いて驚いているありさまである。
 「ただの豆撒きの掛声からそこまで言うか」とお笑いください。
 写真は四天王寺の乾社(いぬゐのやしろ)=現大江神社。愛染さんの隣。となると、実は思想史的にはすごい神社だったのでは・・・・。

2013年2月21日木曜日

ヒマジンと笑われた


  先日、現職の後輩から「退職したら何をして暮らそうかと悩んでいる。」「長谷やんは鳥を探してあっちこっち行ってはるんでしょ。」と、相当ヒマジンのように思われていることが判った。
 で、真実は指摘のとおりヒマジンなのだが、鳥の方はほとんどが我が家の半径数百メートルで、・・鳥の写真のためにあっちこっち遠出することはほとんどない。
 このイソヒヨドリの写真も、回覧板を回そうとドアを開けたら我が家の玄関前にいたもので、龍の髭の「青い目玉」を食べたり(2枚目)、アリッサムの花をついばんだり(3枚目)して、派手な衣装で暫し眼を慰めてくれた。

  冬枯れの木の枝に花が咲いたよう・・と言えば大袈裟だが、マヒワが小群(大群ではない。)で飛来してきたのをポケットカメラで撮影したのが次の写真。





 右の写真は別の場所のマヒワで、日陰では灰色に見えてしまうが、日が当たると鮮やかな黄色が美しい。
 細い枝先の木の実を逆さにぶら下がって忙しなくついばむのが可愛い。
  ついでに、その林の暗い奥の方の木にやって来たのはアカハラ。(と思う。もしかしたらシロハラ。)
 ケッケッというかキョッキョッというか、大柄に似ず可愛い声である。


  も一つついでに、空中のユスリカを捕獲するメジロのサンバ。(「メジロのサンバ」は私の造語)
  写真では美しいストップモーションだが、肉眼ではこのように美しく見ることはできない。
 
 写真はいずれも家から5分もかからない何時もの街路樹や歩道沿いの緑地。


2013年2月19日火曜日

何年振りかの緋連雀



 夕暮れに窓の外が騒がしいので覗いてみたら、電線に珍客が目白押しだった。目白押しだがメジロではない。
 最初は「またムクドリか。」と思ったが、そんなに汚い声ではない。
 強風のせいでもなく頭が派手になびいている。
 もしかして・・・、ドキドキドキ
 そう、光がなくキレンジャクかヒレンジャクかは判らなかったが、写真を拡大してみたら、尻尾の先がわずかに赤く見えるので緋連雀(ヒレンジャク)だろう。(もしかしたらキレンジャクとヒレンジャクの混群かも知れなかったが・・・・判らない)
 そう言えば、数年に一度、我が家を大群が訪問してくれる。
 「有朋自西比利亜来」(友ありシベリアより来る)との感動もつかの間・・・、
 あっという間に寒風に乗って去っていった。
 光量不足の写真に多いに不満は残るが、数年に一度のチャンスをよく残せたものだとやせ我慢を張っている。

 レンジャク類 レンジャク科 世界に3種 日本に2種
 日本には冬鳥として渡来する。スズメより少し大きくて太い。顕著な冠羽があり尾は短い。体はぶどう色で、翼や尾の先に赤(ヒレンジャク)や黄(キレンジャク)の斑がある。次列風切の先端には赤いろう物質の付属物がついている。繁殖期以外には群れでいることが多く、木の実や草の実を主食とする。渡来数や移動の範囲が年によって変化があり、日本にはほとんど来ない冬もある。
・・・・・・・とフィールドガイドに書かれている。
 ヤドリギが好きで、以前に奈良公園の飛火野の大木のヤドリギに群れていたときには感動した。
 その時のような鮮やかな色彩を記録できなかったことが返す返すも悔しい。

2013年2月17日日曜日

みんな嘘だったんだぜ

 昨日、現職の皆さん方とOBによる餅つき大会に参加した。
 結構楽しい集いであった。
 だがしかし・・・・、そこで感じたことだが、この餅つき大会に限らず、近頃現職の皆さんからは愉快な話題が少なく、悲鳴に似た、どこか疲れた声が多いように感じられる。誤解なら良いのだが。
 
 というところで私の意識は桜ノ宮高校に飛ぶ・・・・・。
 第一に私たちは桜ノ宮高校についてどれだけ正確な情報を持っているのだろう。マスコミの豊富な情報で「それは解かっている。」という方は、松本サリン事件の時はどうだったのだろう。フクシマの事故と現状をどれだけ理解できているのだろう。
 そして、「それにしても一線を越えて行き過ぎていた」顧問(昨日までの看板教員でなかったの?)を「厳正に」懲戒免職したという美談で収束しつつある現状で良いのだろうか。
 あの顧問を弁護するのではないのだが、あのことは、教育の場の運動部の歪みの氷山の一角ではなかったのか。
 成績主義、結果主義を学校経営のウリにしてきた者たちに責任はないのか。
 それを煽りに煽ってきたマスコミに反省は必要ないのか。
 常識外に手におえない生徒や手におえない親はいないのか。(してはいけない体罰との線引きなどできるのだろうか。)
 教師という集団のチームプレイをズタズタにしつつある管理統制の教育行政やそれに加担してきたマスコミに責任はないのか。
 私は、「みんな嘘っぽい」という感情がぬぐえない。

 と、言うことと同じような対応が日々現職の皆さんの仕事の現場でも繰り返されているように私は思う。
 人員削減で、第一線の意識や努力ではどうにも対処できない体制である。
 それは誰もが知っている。
 そして、ひとたびミスが発生すると、末端の担当者が「厳正に」処分される。
 管理者たちはひたすら「自分の在任中に事故が発生しないよう」祈っている。恥ずかしながら私も五十歩百歩の歩幅で歩んできた。
 何もかもが嘘っぽい社会の中で、早期退職の話だけがリアルである。
 そうそう、内閣の進める雇用部門の規制緩和もリアルである。

2013年2月15日金曜日

戌亥の隅にどっさりこ 考

  息子と娘が帰ってきた日の夕飯時に節分の話になったが、どちらも豆まき、イワシ、恵方巻の行事はきっちりしたらしい。
  イワシも恵方巻も多分にスーパーの戦略めいてもいるが、二家族とも立春前日・年越しの行事として粛々と行なったと言っている。それでよい。
  その際、例の「鬼は外、福は内、戌亥の隅にどっさりこ」と我が家に言い伝えられてきた掛声について、「その意味は何やろう」と私が言ったところ、妻が「戌亥というのは蔵の方角やから大事なん違う?」「私は今までそう(大事な方角と)考えて納得していた。」と意見を述べた。
  義父や義母の実家や親戚は元々が農家であったため、妻に言わせれば戌亥蔵=つまり「蔵は戌亥(北西)に建てる」というのが文句なしの常識だったという。
  ということで、いろんな本をあたってみたところ、平安末期には主に丑寅の鬼門を強調する陰陽道と、戌亥の神門を強調する陰陽道があったらしい。
  そしてその神門は、鬼門の考え同様悪霊のひそむ地であるとともに、同時に福徳の訪れる方角とも考えられていたとあった。
  屋敷の設計としても北西に蔵をもっていくのはなるほど合理的であり、神門の思想=戌亥蔵の思想は農家や商家の常識として広がっていったのではないだろうか。
  そして蔵のことであるから、悪霊の方角というよりも福徳の方角という認識が凌駕していき、より濃厚に広まったのでは・・・。
  と、なると、鬼門に向かって「鬼は外」、恵方に向かって「福は内」、その最後に「戌亥の隅にどっさりこ」で万歳!、万歳!、万歳!・・・ではなかろうか。
  ちっぽけではあるが、こんな『大阪地方における鬼やらいの掛声について』とでもいうような民俗学に関わる結論を、我が家族数人だけで結論付けて納得してお酒を飲んだ。
  外泊で帰って来ていた、90を超えた義母が「そうやろうなあ」と言うので間違いなさそうだ。
  って・・・・・、ちょっと強引すぎかも。
 「ホンマでっか!?」という程度に読んでいただければ幸いです。

2013年2月13日水曜日

雪洞に灯りを点けて

  今は亡き義父は大阪の大企業の技術畑にいた人で、頭に何かが付くほど〇〇真面目で堅物であった。
 だから、いわゆる出世はしなかった。
  そして、精神的な気風は祖先の出身地である農村文化を色濃く受け継いでいた。
  だから、そう、だから、私の長男である初孫が生まれたときに、五段飾りの五月人形を幾つかの大風呂敷にまとめて、新幹線に乗って、当時私たちが住んでいた千葉県にまで来てくれた時には本当にびっくりした。
  当時の私たちの住まいは6畳3畳キッチンの社宅だった。ああ。
  長男のときにそうであったから、長女のときには「兄と比べて僻んだらあかん」と、さらに大きな七段飾りの雛人形だった。ああ、ああ。
  だから、ご推察のとおり、何年か後には最上段だけを飾ったり、ついには別のもっと小さな人形等で済ませてきた。(すみません。)

  しかし、時は移り今や我が一族の主人公はおんとし1歳数か月の孫の夏ちゃんとなった。
  そこで、何年振りかで七段飾りを全て飾ることと相成った。
  私たち夫婦が子供のために飾った時代は子育て真っ最中であったから、人形の優雅さをしみじみ味わうこともなかったが、いつか来る孫のために今こうして老夫婦だけの家の中に飾ってみると、義父・義母の暖かい気持ちが濃厚に漂ってくるのである。(保管場所にも困るから保育園にでも寄付しようかなどと考えたりしてごめんなさい。)
 そうか、節句の飾りは爺婆のためのものだったのだ。

  さてさて、写真の雛人形だが、これは縦横奥行各12㌢ほどのミニ雛人形。ドールハウスという範疇のものらしい。
  15年ほど前、仕事の同僚である若く美しい女性から戴いたもの。
  手先の器用な彼女の手づくりの作品で、雪洞(ぼんぼり)が灯る仕掛けまでしてあった。
 私の感覚でいうと、ドールハウスはジオラマのパーツのようなもので、彼女の作った古民家や居酒屋はアニメの世界に吸い込まれるのと同じような夢があった。その域は趣味のレベルをはるかに超えていた。
  そして彼女は、今ではその作品に値段が付く堂々たるプロの水彩画の画家になっている。
  だからというわけではないが、これは私の宝物。でも、やんちゃな夏ちゃんがこの後どうしてくれるかは分からない。

2013年2月11日月曜日

今日という日の復習

  記紀によると、筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギノミコトの曾孫である神武(追号)の天皇即位は紀元前660年。逝去時の年齢は127歳。以下13代成務天皇までの各年齢は84歳、67、77、114、137、128、116、111、119、139、143、107。仲哀、神功を飛ばして15代応神111歳、仁徳143歳となっている。
  神武天皇は筑紫の日向を出発して東征した。大阪湾から河内湖に入るところは浪が速かった。その先でナガスネヒコと戦ったとき神武は盾を取り出して防戦した。その地が現東大阪市の盾津で、私は小さい頃ここで育った。(そんなことはどうでもよい。)
 転戦を余儀なくされた神武軍は熊野に迂回すべく大阪湾南部を航行し、兄のイツセが血にまみれた手を洗った。それでこの周辺を血沼海(ちぬのうみ)といい、私は思春期をここで暮らした。(そんなこともどうでもよい。)
  神武天皇陵は、古事記によると「畝火山之北方白檮尾上」、書紀は「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)と記しているが、江戸時代にはその場所が不明になっており、畝傍の北の方の塚山、平野部のミサンザイ(神武田)の地、畝傍山上近くの丸山の各説があった。

  幕末の孝明天皇はミサンザイ(神武田)を神武天皇陵と決定したが、記紀の記述の上からなら最も有力な丸山としなかったのは隣接する洞(ほうら)部落を移転させる時間的余裕がなかったためとの説がある。
  その後、ミサンザイ(神武田)の二つの土饅頭のような塚?は八角墳に、そして円墳に拡充、改造されたことは各時代の絵図に残っている。
  そうして、明治5年に「1260年ごとに大変革が起こる」という中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいて紀元前660年を皇紀元年と定め、明治6年の太陽暦導入で即位日つまり紀元節を1月29日と定めた。なお、翌年からは2月11日とした。さらに明治23年に橿原神宮が建てられた。
 その頃から「神園拡充整備」計画が進み、大正6年から9年にかけて洞部落等は「神武天皇陵を見下ろし畏れ多いことだ」と強制移転させられた。
  この強制移転の話は、小説ではあるが住井すゑ著「橋のない川」第二部の「ふるさと」の章に書かれている。

  戦前の教科書は「さうして、一羽の金色の鵄(とび)がどこからともなく飛んで来て、天皇の御弓のさきにとまった。そのきらきらとかゞやく光に、わるものどもは目がくらんで敗走した。長髓彦はまもなく殺され、大和は全くしづまった。天皇は、皇居(くわうきょ)を畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)にお建てになり、はじめて御即位(ごそくゐ)の禮(れい)をお擧げになった。この年がわが國の紀元元年(きげんぐわんねん)である。さうして、二月十一日の紀元節(きげんせつ)は、このお祝ひをするめでたい日である。」と、これら全てを考察や質問さえ許されない史実として教えてきた。
 そして戦後は、科学的態度で歴史教育を行うこととなり、私などの世代は記紀にほとんど触れずに暮らしてきた。
 だが政府は、昭和30年代から徐々に、しかし確実に「神話を通じて古代の人々のものの見方」を教えるよう指導してきた。

  さて、いじめや体罰問題を取り上げて現在の学校や教員や教育委員会をほゞ全的に否定し、管理統制を徹底すべきだという声が出てきている今こそ、心静かに建国記念の日誕生の歴史を考えてみようと私は思う。

 歴史書が物語る一番の真実は、書かれている内容よりも編纂者の意図だと言われている。
 記紀等の神話は非常に貴重な文化遺産だと私は思う。そして、これを政治的に利用する人々こそ、一見愛国者のようで、実は先人を冒涜しているように思えてならない。

2013年2月9日土曜日

鏡に何を祈ったの

  知人のブログに奈良の「山の辺の道を黒塚古墳まで歩いた。」とあった。
  凡そその地は巨大な前方後円墳が誕生した地、つまり、大王(天皇)と国家が誕生した地と言われている。
  黒塚古墳は33面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が埋納された状態で見つかったことであまりに有名である。

  その鏡の副葬だが、弥生時代の九州の墳墓や中国大陸の墳墓に全く副葬されていないわけではないがほとんどなかったものが、我が国の古墳時代(巨大な前方後円墳)の誕生とともに桁違いに爆発的に出現している。それまで近畿では全くなかったものである。
 これは、征服王朝説を唱えたいほどの大々大変化である。(唱えているわけではない。)

  それで、例によって、その鏡の副葬についてあれこれ空想の世界に遊んでみた。

  かつては、三角縁神獣鏡は邪馬台国の女王卑弥呼が魏から下賜され、それを卑弥呼なり卑弥呼の後継者が、各地の首長に服属の代償として分与(下賜)したもので、それほど尊い威信財であるから「あの世で困らないよう」副葬されたと書いてある書物が多かったように思う。
  日本書紀の記述から地方首長が服属する証に献上してきたものとの説も、結論は同様に、権威の象徴たる威信財と述べているものが多い。
 そういう説明を読んだとき、貧乏人の私は「遺産相続をせずに、本当にそんなもったいないこと(埋納)をしたのだろうか」と不思議であった。
 それには、古墳は単なる墓ではなく、葬送儀礼の会場、首長権継承儀礼の会場であったから、参列者に副葬を見せつけることに意味があったという説も読んだことがあったが、半信半疑の気持ちでいた。
 次に「武器庫(宝物庫)説」もあったが、発掘された状態からは一般論としては肯けなかった。
  それに対して、「道教では鏡は神仙界に昇る(昇仙)うえで必須の道具であった」から、黄泉の国でも首長たらんとする、神仙界へのパスポートだったという相当有力な主張もある。始皇帝陵もそのことを物語っていると言われると否定できない。
  さらには、道教に基づき不老長寿等現世利益を保証する鏡を供えて、亡くなって神に昇華した首長に、残された共同体の安寧を祈ったという説もある。これも有力だし猛き神を祀る神社への参拝を思うと感覚的にも理解できる。
  さらにさらに、「道教では鏡は魔除けの呪具」であるから死者が神仙界に昇り終えるまでに色々な妨害をなす悪霊を辟邪(へきじゃ)する機能を期待したとの説もある。これが現在一番多数説と言われている考えかもしれない。なるほどである。
  ところが、黒塚古墳では33面の三角縁神獣鏡が棺の外側に、鏡面を死者側に向けて並べられていたのである。
  これは、強大な呪術者でもあった棺内の大首長の霊に、「よみがえってくれるな!」とその荒ぶる霊力(荒御魂あらみたま)を封じ込めようとしたとしか考えられないと書かれている白石太一郎先生の説に私は今一番説得力を感じている。少なくとも黒塚古墳の三角縁神獣鏡に関しては・・・、鏡によって格が違い目的も異なっていたとして・・・・・?

  真実は解からない。証人は一人も残っていない。ひと口に古墳時代と言ってもその信仰にはバリエーションがあり、時代により変化がなかったと考える方がおかしいかもしれない。
  と、我が家のちっぽけな銅鏡を磨きながら早春の夜長を遊んだ。
 そして、天理参考館で三角縁神獣鏡に語りかけたが、仙人たちはただ微笑むだけだった。チャンチャン

2013年2月6日水曜日

気品がある

  立春を迎えたが、ツグミを見るとまだまだ「冬だなあ」と感じる。
  冬枯れの木にわずかに残った実を目指して、ケッケッと飛んで来たりすると、冬真っ只中を感じさせる。
  色合いからはスズメに、大きさからはヒヨドリに間違えられたりするが、写真のとおり、浩然とした姿勢にはスズメやヒヨドリが感じさせない気品が漂っている。と、私は勝手に思っている。
 絵に描いたように端正なスタイルだと思っている。好きである。

  そのように「気品のある鳥だ」と感じながら、私はどうしても伏見稲荷を連想してしまう。
  伏見稲荷の『寝覚め家』等のスズメの丸焼き、ウズラの丸焼き、ツグミの丸焼きである。が・・・ツグミは今はない。
  骨と脳みそと僅かな肉の何が旨いのかと聞かれると困るのだが、伏見稲荷参りには付き物の行事食であり野趣である。
雀の丸焼き ネットから
  もちろん、ツグミは捕獲禁止であるから今はもうない。あっても基本的には輸入物の肉らしい。ヒヨコとの説もあるが、すべて伏見稲荷のことであるから狐に騙されていればよい。まあ、堂々と養殖のウズラで楽しんでもらいたい。

  昔、スズメとウズラをわざわざ伏見稲荷まで買い出しに行って飲み会の卓上を飾ってみたが、やはりTPO、・・・参道で食べる野趣はなく空振りだった。

  近頃のツグミの激減ぶりを見ると、丸焼きはあきらめてバードウオッチングで満足するとしよう。

 なおスズメの方は、夏には虫を食べてくれるから益鳥と呼ばれ、秋には米を食べるから害鳥と呼ばれている。
 人間は勝手なものである。
 野鳥の会の人々に言わせると、差し引き圧倒的に益鳥だとおっしゃっている。
 しかし、秋の田から飛び上がる大集団を見ていると、農家の方の「害鳥駆除」の要望もわからなくもない。と、無責任な傍観者を決め込んで、「また伏見稲荷に行ったら食べてやろう」などと考えている。
 以前に肉の卸売店でスズメの丸裸のパックを見たことがある。そのパッケージにはSpainとあったので、少し偽善的にホッとした覚えがある。

2013年2月4日月曜日

戌亥の隅にどっさりこ

  2月3日、日曜、晴れ、節分。
  お祭りを見ると、祖先たちが何を恐れ、何を願い、どう祈ったのかが何となく理解できるときがある。
  立派な書物よりもよく解るときがある。
  そんな雰囲気が好きで、久しぶりに手向山八幡宮の御田植祭に行ってきた。
  さすが寺社仏閣がひしめく奈良。
 近鉄ニュースが各地の節分の行事をズラーッと並べている内には入っていない。このなんともいえない規模の小ささがたまらない。
  鼓と鉦をボンボン、カンカンと鳴らして世話役のような人々が謡いを謡うのだが、これが、「ええ加減にしなさい!」と言いたいほど下手なのも味がある。(鼓もポンポンではない)
  要するに能楽の形式で農耕儀礼をなぞりながらお祈りが進んでいく。
  クライマックス(と私が勝手に言う)は子供が扮した牛が「も~~~」と啼くところ。(上の写真)

  そして翁は、例えば「西の田に種を蒔こうぞ」と言って種をまく。
  その種である豆が私のところまで飛んできた。
  いわゆる豆まきの豆ではそんな気にもならないが、これはチョッとありがたい気になった。

  時間があったので、鬼(がごぜ)で有名な元興寺に廻ってみた。
  火気厳禁の国宝の境内で、そこまで燃やすか!というほどの柴灯大護摩供と火渡り秘供があった。
  やわな足の裏のため心配だったが、原発撤廃!、原発撤廃!と祈りながら火渡りに挑戦した。参加者が多くて私が渡るときにはほぼ完璧に冷えていた。フクシマもこうあってほしい。

  講堂跡かなんかの土檀の上で東北チャリティーの屋台が出ていたので、丸椅子に座ってカレーを食べていたら、その土檀の前に何かの供養塔のようなものがあったらしく、山伏の一行が法螺貝と錫杖を鳴らしながらやってきて、まるで壇上の私に向かって一斉に般若心経を唱えだしたので跳びあがった。(おいおい私はまだ佛になってないぞ!)これには本当にびっくりした。

  夜はもちろん、イワシを焼いて、恵方を向いて海苔巻をほおばって、イワシの頭をヒイラギに刺して表に掲げた。
  そして、大きな声で豆をまいたのは言うまでもない。我が家の慣わしにより、「鬼は外」「福は内」「戌亥(いぬい)の隅にどっさりこ」と大声をあげた。明日は春である。

2013年2月3日日曜日

気の早い訪問者

  まいど代わり映えもしない虫の話でお恥ずかしいが、2月2日は4月上旬並みに暖かくなった。
  と、「待ってました」とばかりに我が家を訪問してくれたのが写真のシジミチョウ。
  その華麗な衣装に、「もしかしてルーミスシジミ?」と胸が高鳴った。
  ルーミスシジミは春日奥山に生息?する天然記念物、絶滅寸前種。
  若い頃いくらか山登りをし、その関係で山の本を楽しく読んだことがあったが、ルーミスシジミはそんな山の本の中ではおなじみの登場人物だった。
  お察しのとおり、そんな夢のような出会いがひょっこりおこるわけはなく、もしルーミスシジミであれば然るべき報告が必要なぐらいの大事件であるから、やっぱりムラサキシジミというのが正解だろうが、素人の私には、正直に言ってルーミスシジミとムラサキシジミの見分けはつかない。

  それでよい。
  正月早々にブログに書いたが、今年初訪問をしてくれた鳥はルリビタキだった。そして今回、初訪問をしてくれた虫は、ユスリカには悪いがユスリカは除外して(申し訳ない)、それはこのムラサキシジミだった。
  二人とも、家主の老化と反比例して、揃って美しい訪問者だった。嬉しい。
  お坊さんに言わせれば「そんな良いことが続いた後にはよくないことも来るというのが諸行無常の意味である。」と言われそうだが、浅はかな凡夫は、「年の初めから綺麗な訪問者が続いたから今年は良い年になりそうだ。」と、ノーテンキに喜んでいる。
 だが気の早いムラサキシジミよ! 瞬間的な気温の後には驚くような寒気が下がってくるらしい。
 やはり諸行無常が真理なのだろう。

2013年2月2日土曜日

無視されてきた虫

  このあいだは厳冬のカマドウマの生命力に驚いたことを書いたが、私は常々この小さな羽虫にも感心している。
  風さえなければ気温8度はそれほど厳しくはないと言えば言えなくもないが、それにしても動いている虫はほとんどいない「寒中お見舞い」の季節である。
  だから、そんな冬空の下を、ゆらゆらと蚊柱を立てたり、弱弱しく飛び回っている姿は健気で感動的でさえある。(見ようによっては弱弱しくも女々しくもない。)
  私は小さい時からこの蚊柱の下で「う~~~~~~」と唸るのが好きだった。
  蚊柱が私の声に応じて降りてきて、顔の周りを回るのが、ペットを飼い慣らしているようで楽しかった。
  世間では、顔に近づく蚊柱は嫌悪の対象らしいが信じられない。(という私の感覚が信じられないというのが世の大勢ですか。)
  この主人公がユスリカであるらしいことは文献等で薄々は知っていたが、さりとて本当に確かめるようなこともせずに今日に至っていた。
  そこで一念発起して撮影してみようと思い、ようやく椿の葉に留まったところをパチリと撮ったら、なるほどやはりユスリカだった。(きっとそうだろう?)身長は約3ミリ。

 それにしてもいったい何処から湧いてくるのだろう。
 文字どおり湧いてくる感じである。 あの弱弱しい飛翔力で直近の川から飛んできたとは到底思えないし。

  その蚊柱をほとんどの人は知っているが、その名前はほとんど知られていない。
 もちろんその生態は言うまでもない。
 これほど徹底的に無視されてきた虫もいないだろう。
  ある本には「益虫でも害虫でもない虫」と書かれていた。
  無芸大食、何か身につまされる連想が働いた。

2013年1月31日木曜日

尋ねられる意味

  友人の『ひげ親父』さんから梅酒の梅をいただいた。
  外泊の義母に「友達の漬けた梅酒の梅やで」と言って食べてもらった。
  「梅酒には氷砂糖を入れるんやったかなあ」と言うほど年老いた義母であるが、齧るとすぐに「(梅を壜から出すのは)ちょ っと早いな」「もうちょっと黒(くろう)なるまで置いとかなあかんな」と、記憶というか感覚がよみがえってきたようだ。

  この話は何回かブログに書いたことなのだが、全く寝たきりに近かった義母が変化を見せたのは、そもそもが『ひげ親父』さんの梅酒だった。
 「友達に梅酒の梅の引き上げ時期を尋ねられているんやけど」と私が言ったのが最初だった。
  そして、その答えは「そんなんは飲んでみたらええねん」という予想外の大正解だった。
 さらにそれから暫く、義母は私に会うたびに「梅酒はこういう風に漬けまんねん」「飲んで美味しなったら上げたらよろし」と、何回も何回も梅酒の解説を繰り返した。これにはほんとうに驚いた。
  義母は、新しい情報を強迫的に受け止め苦しくなる症状のため、医師の指示により、できるだけ外界からの情報を遮断し、安静に寝たきりのように接してきたのだが、この梅酒の話は義母に、「私が娘婿に尋ねられている」「教えてやらなければ」という長い間封印されてきた前向きの気力を苦痛ではなく、ぐぐっと呼び起こしたようだった。
  それから、・・・・・・一つは義母の介護のために、もう一つは私自身の「目から鱗」の民俗学のために、無理のない程度に、ちょっとずつ義母の思い出話を掘り起こす旅を始めたのだ。これは全く予想外の楽しい展開だった。

  だから『ひげ親父』さんの梅酒の梅は、義母の介護のキーストーンであったのだ。
 今回は、いただいた梅が呼び水になって、我が家の梅酒と梅も持ち出した。
 と、「〽よよいのよい」と手踊りを踊りだしたあと、気持ちよさそうに居眠りを始めた。ああ、梅酒は人生の良薬である。
 
  当たり前のことであるが、人生は(介護など)知らないことを発見し続ける旅なのだ。
  皆そうして悩んで克服して歩いてきたのだろう。
  介護の先輩諸氏からささやかであってもコメントをいただけるとありがたいが。

2013年1月29日火曜日

時にあらずと声も立てず

我が家にやってきた鶯
  先日、「ウグイスの撮影は難しい」と書いた。
  私の経験から言えば、春に朗々とホーホケキョとさえずるときは暫し枝に止まってくれるときもあるのだが、夏になって木々に葉が茂ってからや、冬の笹鳴きのときはほんとうに姿を曝してくれない。
  笹鳴きの頃などは、私の手の下30㌢の植込みの中にいるのがわかっている・・・・枝は激しく動いている・・・・にも拘らず顔を見せてくれない。そのチラリズムが悩ましい。
先日のルリビタキの場所にきた鶯
   そして、見つけたと思ったその瞬間、せわしなく次から次へと移動するので、ピントを合わせる間がなく(オートフォーカスでなくマニュアルフォーカスのため)がっかりさせられてばかりいる。
  そんな中、珍しく瞬間的にピントが合った!と思ったら頭の先が切れていた。ああ・・
  で、新春のあいさつ代わりに、例によりややピンボケながら、やっと撮影できたウグイスを2枚掲載する。

  立春前で気が早すぎるが「ウグイスと言えば早春賦」が連想されるので、ネットで検索をしていたら1年前(2月7日)の自分のブログの記事が出てきた。
  そう、もう1年経ったのだ。

  春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず


     氷融け去り 葦は角ぐむ
     さては時ぞと 思うあやにく
     今日も昨日も 雪の空
     今日も昨日も 雪の空

        春と聞かねば 知らでありしを
        聞けば急かるる 胸の思いを
        いかにせよとの この頃か
        いかにせよとの この頃か


 暦の上では春になったと言うものの 名のみで風は寒い
 谷の鶯も囀りたいと思っているのだろうが
 まだその時でないと声も立てない
 まだその時でないと声も立てない


    張っていた氷も解けて、葦も芽吹くようで
    さあその時(春)かと思うがあいにく

    今日も昨日も雪が降る空
    今日も昨日も雪が降る空

       春だと聞いていなければ、知らないでいるものの
       聞けば気が急く思い廻らす胸の内を
       どうしろと言うのかと思うこの頃である
       どうしろと言うのかと思うこの頃である 

2013年1月27日日曜日

風評社会と名付けたい

  パソコンの画面が点いたり消えたりするのでメーカーに電話をすると「バッテリーを外してああしろこうしろ・・」と言う。
 そうすると、復旧するのだが、「何故こうなったのか」「どうすれば再発しなくなるのか」と尋ねても要領を得ない。
 「又なったら同じようにしてください」と言う。
 しつこく尋ねた結果解ったことは私の体の(衣服の)静電気が原因であるらしい。

 これに限らず、パソコンのトラブルは日常茶飯事で、あれこれ触っているうちに原因不明のまま回復したりしなかったりということも多い。
 だいぶ以前から言われている言葉だが、パソコンに限らず今日の電気製品はほとんどがブラックボックスで、操作方法は教えてもらっているが、どういう仕組みでそうなっているかは、もう私の頭ではついていけない。
 世の中には各種の操作方法だけが氾濫していて「仕組みが解らん」などと悩む者は落ちこぼれの烙印を押されている。繰り返すが、私などは、洪水のように与えられる操作方法を学習するのに汲々としており、仕組みを考える余裕さえ与えない「高度技術社会」「情報社会」に翻弄されている。
 そしてこの傾向は、電気製品だけのことではなく、現代人の全生活を覆うスタイルになっているようだ。

  だから、テレビで「ココアが良い」と放送されればスーパーのココアがなくなり、きな粉がなくなり、納豆が、ヨーグルトが・・・というような社会現象が生じているのだろう。
  それを学者は「フードファディズム」とか言っているが、要するに強迫観念を伴う不安やある一面を切り取った情報だけが大量に提供され、その情報を吟味するという思考が停止しているのだと思う。
 プラシーボ効果で満足している分には笑い話かもしれないが、トクホだ、サプリメントだと「健康食品依存症」さえ生じている社会は重症だろう。

 これを名付ければ「風評社会」だと私は思う。
 ものの本質や仕組みをじっくり考えることを飛ばして、テレビや雑誌から提供される短いフレーズの一見判り易い情報に誘導されて風評に置いて行かれまいと私たちは被強迫的に必死に行動していないか。
 私は維新の会の存在自体や先般の総選挙の結果も、そういったある種の風評現象だと思う。

 克服の道は、ブラックボックスに覆われた私たちの生活が「現にそのような風評社会にある」という自覚と、各種情報の本質を論理的に吟味する思考方法と、マスメディア以外の良質な情報の入手が非常に重要だと思う。
 複雑な物事を単純明快に語る者には気を付けなければならない。
 だから、モンドセレクションなどというのをうたい文句にしている商品には手を出さない方が良いと私は思う。
 政治・経済の場面では既に大きな風評被害が進んでいる。維新や安倍政権の先には重篤な社会の病が待っている。
 と、なぜか「血圧に良いと言われている???????」トマトジュースを飲みながら私は考えた。
 

2013年1月25日金曜日

社会の癌を封じたい

  大安寺は、古くは聖徳太子が奈良県の生駒谷の平群(へぐり)の地に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)で、のち百済大寺、高市(たけち)大寺、(飛鳥の)大官大寺から大安寺へと変遷した我が国最古の国家が造った巨大な官寺で、東大寺が建立されるまでは南都の筆頭寺院であったと、奈良文化財研究所編「奈良の寺」にある。
  私は、司馬遼太郎の「空海の風景」を読んだ後、その風景を共有したくて大安寺を訪れたことがあったが、その何とも寂れた様子にそのときは声を失った。

  この、かつての国立最高学府であった寺が今では「癌封じの祈祷」で有名というのも寂しいことだが、「笹酒祭り」は、元々は光仁天皇の「林間酒を温める」風流にあやかろうというお祭りであるので、23日に、どんなものかと覗きに行った。
  我が家からは、自転車、電車、臨時直行バスで30分もかからなかった。
 バスはお爺さんお婆さんでいっぱいで恥ずかしかったが、客観的には「あんたもいっしょや」と違和感なく溶け込んでいたのだろう。

  「笹酒」は、青竹の竹筒を焚火の周りに立てかけてお酒を温め、竹を切り取った御猪口でいただくのであるが、各テレビ局(ニュース)のカメラが絵になりそうな人の周りを走り回って、その場は宗教行事というよりも賑やかな有名イベントという感じであった。
  竹筒も御猪口もじっくり観察してきたから、青竹を加工して、そっくり真似たイベントをするダンドリは頭の中に十分蓄積した。あはははは・・そんなことを何処ですんねん。
 用意の良い人は何回かいただいた笹酒をポットに貯めていたが、病人さんに飲ませてあげようとの必死の思いなのだろう。
 ノウテンキな私は、写真の娘さんから何杯も注いでいただきホカホカした気分で楽しく大安寺光仁会(こうにんえ)を後にした。
 夕方、テレビのニュースを見ながら、妻の持つ青竹の御猪口にお酒を注いだ。


2013年1月23日水曜日

新しいシロハラ

  近くの大型ショッピングモールの中の床にラインが引かれていて、KYOTO/NARAと表示されているが、どちらかというとこの方が例外で、この街の多くのところではトラブル回避のために??府県境である丘の背の部分に緑地帯が残されている。
 それも野鳥にとっては住みやすさの一因になっているのかもしれない。
  そんな緑地帯を歩いていたら、珍しく目の前の芝地にウグイスが飛び出してきた。
  こんなときに限ってカメラはおろか携帯さえ持参していない。
  人生、だいたいがこんなものである。少し話が大袈裟か・・・・。
  そこで、柳の下ではないが万が一と言うこともあるので、・・・同じ場所に同じ鳥が現れる確率は確かに高いので・・・、後日カメラを提げて散歩に出かけた。
  やはりというべきか、ウグイスは同じ林でチャッチャッと笹鳴きを繰り返し、奥の方に飛び回るシルエットだけは嫌と言うほど見えるのだが、「はっはっは、そんなに甘くはないぞ」と素人写真家を嘲笑っている。
  と、・・・・ウグイスの笹鳴きと非常によく似ているが、ほんの少し大きな鳴き声が混じっている。ジェッ ジェッ というような。
  「なんやろ」「なんやろ」と目を凝らすと、 声の主らしい少し大きな鳥が飛んでいる。
  大型ツグミ類のシロハラだと思う。
  このあたりで昨年までよく見たシロハラよりは背が茶色いが間違いないだろう。
  去年よく見たシロハラは背が青黒い灰色だったし、声もキョロンと言うように可愛かったが。
  こんな色合いのシロハラとは初対面で嬉しいが、もう少し前方に出てきてほしかった。
  腕の拙さは棚に上げて、「このように思い通りにならないのが野鳥写真の魅力だ」とやせ我慢をうそぶくことにする。

2013年1月21日月曜日

初物は75日寿命が延びる

  春が待ち遠しいので極寒からカマスゴの話で失礼。

ネットから
  魚の名前は土地や人によって様々だが、私の感覚では、チリメンレベルがカナギ、釘煮レベルがイカナゴ、釜揚げで大好きなのがシンコ、チョッと癖が嬉しくなるのがカマスゴだろうか。
  そのカマスゴだが、関西では、茹でただけとかチョッと炙って合わせ酢等で素朴に食べるのが好まれる。(エッ私だけ?)
  お酒のアテとしてだけでなく、季節の料理として普通に食卓を賑わせる。(エッ我が家だけ?)

  近くの大型スーパーの品揃えがなってないので、時々デパートに足を運ぶが、さすがデパ地下、こんな極寒にカマスゴが出ていたので驚いた。
  およそ7㌢だからカマスゴにしては相当小振りだがシンコとは言えないやはりカマスゴ、それだけに大きなカマスゴ特有の癖が少なさそうだった。(表示もカマスゴだった、念のため)
  癖のある味が大好きな私が「癖が少なそうで美味しそう」と、そう考えたのも、このカマスゴは文句なしの初物に違いなく、「初物を食べると75日寿命が延びる」から孫の夏ちゃんに食べさせてあげようと考えたからである。

  他の地域の方々が、カマスゴの関西での素朴な食べ方にチョッと抵抗を感じられるのは、食べる者を見つめるカマスゴの姿かたち(含む:ハラワタ)と、頭、尻尾、ヒレ、骨等丸かじりのジャリジャリ感と、大きくなるとチョッと感じさせる味の癖だろう。(ほんとうはそこのところが美味しいのだが)
  というようなこともあるので「どうかなあ」と思いながら酢で洗っただけで食卓に上げ、大人たちがお箸で摘まんで「お魚、美味しいなあ」と食べて見せたところ、2歳に満たない素直な夏ちゃんは、指で摘まんでポン酢につけながら何匹も何匹もムシャムシャと美味しそうに食べてくれたのだ。もちろん頭から丸々食べつくしたのはいうまでもない。
  買ってきた爺ちゃんは大感激。
  夏ちゃんの両親は将来酒豪になりはせぬかと心配した。
  しつこいようだが夏ちゃんはカマスゴを指で摘まんでポン酢を付けてムシャムシャである。
  1歳数か月の子供がこんなものを食べるだろうか。
  あまりの感動に写真も撮らずじまいだった。
  ・・・・・と、春を待つ季節の話題(早くもカマスゴ登場)を書こうとして、ただの、ただの爺ばか日誌に終わったようだ。

2013年1月19日土曜日

こじゅうた 餅きり鉋(かんな)

  先日、入居している施設で餅つきのあった義母が外泊で我が家に着くなり、「餅つきをしましてん」と、〈返し手〉の動作を身振り手振りで私に報告してくれた。
ネットから「こじゅうた」
  「誰か!したい人!」との呼びかけに進み出たのだと自慢げだった。(実際には真似事のようなことをチョッとしただけだろうとは思うが)
 そして、その「餅つきをした」ということに触発されて、これまで何回も聞かされた昔の餅つきの思い出をまた語ってくれたのだが、改めてじっくり聞いてみると今までの私の理解と異なったところが少し見え出した。
 その一つが「こじゅうた」で、私は今まで単純に餅箱の別名だと信じていたのだが、「かき餅を作るときには餅箱ではなく「こじゅうた」で厚さ10㌢弱の大きな長方形の餅を作るのだ」と言う。

ネットから「カンナ」
  よくよく聞いてみると、義母の実家には餅箱やその蓋以外に「こじゅうた」というものがあったらしく、それは元々の「麹蓋(こうじぶた)」が訛ったものらしい。
  これまで、妻も普通に餅箱のことを「こじゅうた」と呼んでいたが、今回改まって母が解説したところ、それは微妙に違っていたということになる。

 さらに、餅きり包丁以外にかき餅用のカンナがあったらしく、尋ねる私にそれを絵にかいて説明してくれた。
 『かき餅はネコ餅を薄く切って作る』という程度の私の理解だったのだがそうではなく、「こじゅうた」で作った分厚い長方形のお餅を縦に立て、それを専用のカンナで削ぐのだと。
  おやつでも何でも自給自足であった戦前の農村では、それなりの道具やノウハウが想像以上に進化していたのだ。
 軟弱な町の子には初めて聞く話ばかりだった。

ネットから「カンナ」

 そして毛糸を使って乾し方も実演してくれた。
 さらにさらに、アラレのことをキリコと言っていたことも。
 ・・・・これらは戦前の生駒谷の話である。
 といっても、文化史的にはついこの間のことである。
 (ネットで見つけた写真は生駒谷とそれほど遠くない大和高田の旧家のものだからほゞ同じものだろう。遠ざかる記憶を語る義母の話からここに到着するまでには、実際には相当な時間が必要だった。)
 以前のブログに書いたが、私は餅つきについては半ば素人である。それに対して師匠筋にあたる妻もいざ聞いてみるとこれらは「知らなかった」と言う。
 何十年も前に柳田國男や折口信夫が「今のうちに記録しておかないと途絶えてしまう」と心配したこの国の伝統も、ほんとうに今では、音を立てて?忘れ去られようとしている。
 民俗学の対象は離島や僻地だけではない。
 私自身気づくのが非常に遅かったが、親がご存命の皆様は今のうちに私たちの文化の深層を記録すべきだろう。
 「介護民俗学」は時間との勝負になっている。

2013年1月17日木曜日

便所コオロギとはあんまりな

  1.17阪神・淡路大震災から18年。いろんな記憶がよみがえる。
  歳がいくと18年なんて昨日のことのようにアッと言う間であるが、同じ18年でも、自分が生まれる前の18年の歴史を実感することは難しい。
  それができるかどうかが、本当の意味での「歴史に学ぶ」ということなのだろうが、安倍首相や維新の橋下氏にはそれが欠けていると私は考える。
  と、マクラを強引に振っておいて、今や18年以上の歴史の彼方に忘れ去られようとしている昆虫の話に無理やり持っていく・・・・。
 
  左のこの虫を見て「キモい」と言うか「懐かしい」と言うかで実年齢が判るかも・・・・。
  もちろん、私は涙が出るほど懐かしい。
  第一に、昔は家の土間などに普通にいた。
  ところが近頃はほんとうに見なくなった。
  だいたいが土間らしい土間ももうないし。
  本には「跳躍力がすごい」と書いてあるが、私の感覚で言えば比較的動きは緩慢。
  だから此方が幼児でも捕まえられたという記憶がある。
  別に声が良いわけでなし、色が綺麗なわけでなし、大方からは特別に注目されることもない、地味で可哀相な?竈馬(カマドウマ)。
  まあ「竈馬(カマドウマ)という名前は風流」という文章もあったのがせめてもの救いだろうか・・・。
  それを俗称とはいえ「便所コオロギ」とはあんまりな。
  大寒波の日、木切れを動かしたら見つかった。
  写真を撮ってから、写り具合を見て、もう一度撮り直そうと思って行ってみたらすでに影も形も判らない。
  老人の懐古趣味になんかに付き合っていられるか・・・と言ったところか。
  それにしても、元々寒さが苦手で人家に忍び込んで来るんだと勝手に思い込んでいたが、こんな寒空の下でもノソノソとそれなりに動き回る生命力は凄いの一語。カマドウマ、オソルベシ。
  虫は世につれ~、パッとしない風貌から普通には不快害虫に分類されているのだろうか。
  その不当な評価を考えると、ちょっと助けてやりたくなる。
  16日朝日新聞夕刊に「日本家庭用殺虫剤工業会が虫慰霊祭をとりおこなった」と大きく書いていた。それもありだろう。

  書物によると、「一ト跳びにいとゞは闇へ帰りけり・中村草田男」というように竈馬と書いてイトドと読むらしいが私は全く聞いたこともなかった。その他の名前としては、カマドムシ、オカマコオロギ、ハダカコオロギ、エビコオロギ、オサルコオロギで、・・・やはり、ちょっとな~。

2013年1月15日火曜日

とんどのまねごと

我が家のプチとんど
  1月15日は小正月。
 だいたい我が家ではこの日に「とんど」の真似事をすることにしている。
 お正月飾り等一式はゴミに出すのも引っ掛かるので、近所に迷惑がかからない程度のプチ「とんど」をする。
 が、今年は義母の外泊に併せて13日にチムニーを用いてうやうやしく挙行した。
 そして、用意しておいたサツマイモをアルミホイルに包んで熾火(おきび)に埋めた。
 実は先日、熾火になるちょっと前に放り込んで見事な炭を作ったものだから、今回は慎重に慎重に「調理」した。
 この「調理」も、経験以外のレシピはないだろうから、出来るだけ早く子供たちにも伝えたいが、子供たちは「そんなことはどうでもええ」と乗ってきてくれない。なら、次は孫である。息子夫婦は「余計な迷惑だ」と思うだろう。
  「たき火で焼き芋」もほぼ死語になり、あの唱歌が音楽の教科書でなく歴史の教科書に載る日も遠くなさそうだ。
 焼き芋はほぼ完璧だった。おかげで義母が懐かしんで「美味しい」「美味しい」と喜んでくれた。
 よく考えると、こんな素朴な焼き芋は私にしてもほんとうに久しぶりである。
 我が家のお正月の行事もこれで無事終了と言ったところで、まずはめでたしめでたし。

 
 なんて言ってられない新しい年が始まっているが、小正月に免じて暫しお許しを。

2013年1月13日日曜日

もっと笑いを!

  11日に、初詣がてらに「初キンカン※」に行ってきた。(※..金関)
  金曜日の夜に関電本店前で脱原発を訴えるという市民運動で、誰に指示されたものでも依頼されたものでもない。
  動機はいたって単純で、原発事故は私が知っている、あるいは想像できる産業災害(労働災害等)とは質が違うと思うからで、孫の時代が悲惨な時代にならないようにと願うからである。
  地震大国上の(砂上の)原発は狂気の沙汰だと私は思う。
  結局のところ推進者の主張は、「利権を手放したくない。」「核開発技術を手放したくない。」以外になく、国民生活のためのエネルギーと言うのは真っ赤な嘘だと私は確信している。

  この運動の主催者もどんな人々か知らないのだが、私より若い人々が裏方をコツコツと継続しているのがいい。
  いつもは地下街を通って行くのだが、フェスティバルホールの新装を眺めるために地上を歩いたら、なるほど夜の「中の島」は美しく、素朴に感動した。
  東京の官邸前の行動では、選挙前には各党の国会議員も多数参加していたようだが、ツイッターで見た限りでは選挙後も愚直に参加しているのは共産党だけらしい。世の中というのはそういうものだろう。

  今回は、文言自体は問答無用の原理主義的で「ちょっとなあ」と好きではないのだが、あれだけ天下のNHKが前宣伝をしてくれたものだから『ならぬものはならぬのです』を自作ポスターに使わせて(パクらせて)いただいた。A4×2枚に印刷してA3のカードケースに入れたものである。
  私の希望は、味気のない「原発反対」のポスターだけでなく、毎回参加者が何かウィットに富んだ、あるいは美しいポスターを持参し合い見せ合う場になれば良いのにということである。
  実際、ペンライトの進化形のようなおもちゃや提灯その他、工夫を凝らした宣伝媒体も増えつつあり、それらを見物するのも楽しい。

  近所の大学の講義を聴講していたとき先生が、「東京の先生は勉強してそれをそのまま語るだけで良いので楽であるが、関西の先生はその上にどのようにウケる(笑わせる)かという技術が必要なので大変だ。」と言って笑わせたが、『市民運動にもっと笑いを!』も大切だと私は本気で思っている。
  お説教と自慢と嫌味からは運動は広がらない・・・と、はるか外野から小さな声でつぶやいている・・・というのが嫌味だろうか。
  6時半ごろから急に風が出てきて、安易な常套句過ぎるが体の芯まで冷え込んできたので、7時過ぎには「健康管理」を言い訳に友人と即効性のあるエネルギー補給のために地下に潜った。ああナントいう軟弱だろう。「こんなことでは原発は即時ゼロには出来ないなあ」と即効エネルギーの力を借りながら大いに反省を繰り返した。

2013年1月11日金曜日

青い目の福娘

  今年になって初めて電車に乗ってこの街から外に出て「えべっさん」(今宮戎の十日戎)に行ってきた。
  (ああ、なんという地味な日々だったんだろう)
 十日戎。 これは信仰というよりも体に染みついた習慣のようなもので、初詣には行かなくっても「えべっさん」に行かないと何となく1年が落ち着かない。
  露店を覗きながら、小さい頃、堺市戎之町の堺戎に行き、安物の土製の貯金箱を買うのが決まりのようなものだったことを懐かしく思い出した。
  そして、おたやんの福飴のことも・・・・・しかし、今は歯の詰物が怖くて手が出せない。

  ご存知のとおり、今宮戎では賽銭をあげてから先ず無料の笹をもらう。ここでエエカッコをして大きな笹をもらい、その笹にふさわしい縁起物を付けてもらうとエライことになる。
  私は「小ぶりの形のええのんをおくれ」と言って小さい笹をもらった。
  そして、「商売繁盛で笹もってこい」の喧騒の中を〝これと定めた福娘”に縁起物を付けてもらう。
  この、「ただの笹を持って行って縁起物を付けてもらう」というのも「笹もってこい」と言うぐらいの大前提と思っていたが、他の地のえべっさんでは最初から縁起物付きの笹を求めるようなところが多く、ほんのちょっとした違いなのだが、違和感を覚えたこともあった。
  で、・・・・今年は調子に乗って青い目の福娘に吉兆と箕を付けてもらった。ちょっとイチビリ過ぎたかもと少し反省。
  それから神殿の裏に回って思いっきりドンドンドンと叩いて「長谷やんでっせ。今年も頼んまっせ」と大きな声で「お参り」した。
  『えべっさんは耳が遠いから裏口から大きな声で頼まんとあかん』と言うのは大阪では絶対的な常識なのだが、西宮戎にはそういう習慣がなかったので、その時も、心の底から驚いたことがある。

  脱原発や平和、安全、安心を神頼みに丸投げするのは良くないが、ちょっとだけ「えべっさん」で今年も頑張ろうという気になった。あまりの単細胞ぶりがお恥ずかしい。

2013年1月8日火曜日

ロウバイは不思議不思議

  我が家のロウバイは冬至の頃からチラホラと咲き始め、右の写真は12月29日現在のもの。
  だから、太陽暦的に言って「1年中で一番早く咲く花」で「マンサクなんか目ではないな」と夫婦二人だけで自慢し合っている。(誰に対して自慢しているねん・・)
  そして、「それにしても、こんな極寒の、飛ぶ虫もいないときに、どうして花を咲かせるのだろう」とお互いに首を捻った。
  風媒花なのか、自家受粉か、真冬でも虫のいるような南方育ちゆえの体内時計か、もっと特殊な繁殖方法か、etc etc ・・・・
  そこで、「調査なくして発言なし」「1週間ほど二人でじっくり観察してみよう」ということにした。

  それにしても、・・・予想される仮説を考えると・・・・・・、
  多くの虫の飛んでくる季節は同時に花の季節でもある。
  花からすると虫をとりあうライバルも数多く、浮気性の虫たちをどう呼び込むかも厳しい競争社会。
  反対に、この季節は虫は少ないがライバルはほとんどいない。
  そこへ蜜を用意して香りをたなびかせればその虫を呼び込む確立は春から秋の比ではない・・と、ロウバイは踏んだに違いない。
  それは、ダーウィンの進化論を超えたロウバイのしたたかな意思、考え抜いた作戦では。
  ・・・・というあたりが模範解答にならないか。
 
  ところがところが、久しぶりの年末寒波ゆえか、予想していたアブ等は全く飛んでこない。全く飛んでこない。
  次に予想していたメジロは、ロウバイを余所に、冬枝に挿しておいた大して美味しくもないキワーノをつついて飛び去った。
  その次に予想していたヒヨドリは頻繁にやってきてロウバイの蜜を吸ったのはよいけれど、だが、コヤツの振舞は落花狼藉。蜜を吸ってから花を食べたり棄てたりする。つまりヒヨドリは受粉の仲人では決してない。
  う~ん、ロウバイの「実社会」も一筋縄ではいかないようだ。
  我が家のこの木は、毎年、少し汚らしい実(の袋)がはっきり生るから受粉していることに間違いはないのだが。
  だから、我が家の庭の極寒の特殊事情下の観察結果なのかも知れないが、真実はそれほどQ&Aのようには姿をあらわさない。
  にわか観察者の思い通りには世の中は行かないぞと、教えてくれている。
  よって、答はまた後日。

  「本には鳥媒花だとかいてあるではないか」「そんなの長谷やんの見てないときに虫が数匹は飛んできたに違いない。」・・・と怒るのは、ロウバイの香りでもかいで暫し待ってもらいたい。

  ロウバイは、凛と空気が緊張した冬空に素晴らしい香りを漂わせている。
  「甘い香り」と書いてある本もあるが、そんなありきたりの形容ですまない気品を感じさせる爽やかさである。
  鎮静・リラックス作用という薬効があると書かれている。

2013年1月6日日曜日

ルリビタキの初訪問

  本年初撮影にしては珍鳥だと思う。
  我が家から歩いて1分のいつもの歩道沿いである。
  藪の中でヒッヒッと声がしたので「ジョウビタキの♀か」と思って通り過ごしていたのだが、念のためと思い返して夕暮れではあったがカメラを持ち出した。
  すると、夕暮れの逆光の藪の中だから見間違いかもしれないが、尾の上が一瞬瑠璃色に輝いた。
  「ルリビタキの♀だ」と興奮してシャッターを押したのがこれ。
  別の後ろ向きのピンボケの方には尾の色が写っている。
  しっかりと撮影したいと、周囲の木になって藪から出てくるのをじっと待っていたら、妻が「なんか撮れたあ」と大声を出しながら散歩に出てきた。で、もちろんジ エンド。
  ルリビタキは、我が家の半径数百メートル内では今まで見なかった珍客だ。
  ♂なら背中全体が瑠璃色だが、欲は言うまい。
  何か今年1年良いことがありそうに思える初撮影となった。

2013年1月5日土曜日

葩餅(はなびらもち)は、むむむ

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
  義母、義姉、息子ファミリー(含夏ちゃん)、娘夫婦が帰っていった。
  我が家のお正月が終わった。
  夏ちゃんのことをいっぱい報告したいが、今日はじっと我慢する。

  さて、今年から我が家のお雑煮は、九割方妻の引き継いできたヤマトバージョンにした。
  白みそは大阪型だが丸餅を焼いて入れる、そしてきな粉をつけて食べるというところがヤマト型である。(大阪市内は丸餅は茹でる。きな粉はつけない。)

  お雑煮の型ほど地域性が感じられ伝統が感じられるものはないとも言われるが、地域の中だけで結婚していた時代でもなし、「亭主関白で〇〇家の決まりだ」でもないだろうから、これから大きく変化していくのは避けられないだろう。
  でも、大きく崩れるのはちょっと寂しい。(これホンネ。で、妻も白みそで大阪型を残してくれた。)

  お正月に娘夫婦が葩餅(はなびらもち)を提げて来た。
  茶道では初釜に用いられる。
  元々は菱葩餅(ひしはなびらもち)といって宮中の新年のお餅とか。
  それは、径15㌢厚さ6㍉の丸餅を火であぶり、その上に長さ14㌢厚さ9㍉のあずき色の菱餅のあぶったのを重ね、二つに折り、間に甘く練った白みそをまぶしたごぼうの砂糖煮をはさんだお餅と書かれている。
  まあ、それが洗練されて今の形になったのだろう。
  私たち夫婦には好きな和菓子の一つである。

  その種のしきたり等に全く無頓着に育った娘であるが、年相応に気もつくようになったのかと胸をなでおろしたが、話をしているうちに「初釜つまりお正月独特の和菓子であったとは知らなかった」と、ただ「ケースの一番前に並んでいたので購入した」と、むむむむ・・・・・・

2013年1月3日木曜日

初夢は


  『一富士二鷹三茄子』については諸説紛々であるが、一富士の目出度さは感覚的に納得できる。
  現役時代、上司と度々上京したが、その目的は半分が陳情、半分が陳謝のようなものだった。
  陳謝というと、名ばかり中間管理職のときなどは「謝ってナンボ」と自分に言い聞かせていた。
  いずれにしても、その折衝次第で大多数の働く環境が決まるものだったから、それぞれが真剣勝負といったところで、富士川を越えてくっきりと富士山が見えると「よし、目的は適うぞ!」と勇気を充電し、見えないときには「壁が厚そうだから気合を入れなければ!」と言うのがその上司の口癖だった。
  このジンクスは、経験的にも何となく胸に落ちるものだったから、その後の人事異動や昇進後は、今度は私が後輩に「今日は富士山が見えたから上手くいくぞ!」などと伝承した。
  そのジンクス?は、今も伝わっているだろうか。

  二鷹の鷹は鳥の王。この目出度さも説明はいいだろう。
  で、・・・つい先日、平城宮跡大極殿前で撮影した(鷹の一種)長元坊を掲載し、ブログ読者の皆さまの本年のご多幸をお祈りしたい。
  それほど高くない地点で猛禽類がホバリングする姿はゾクゾクっとする感動ものである。(「何にそんなに感動すんねん」という声も聞こえてきそうだが。)
  平城宮跡の大規模舗装で「地下の木簡の破壊が心配だ」と旧冬のブログに書いたが、ここ(平城宮跡)はそういう歴史的意義とともに野鳥の楽園、貴重な自然の宝庫であることも皆さんに知ってほしい。
  木簡も野鳥も目先の金儲けには役立たないが、それを守るのが知性ではないだろうか。

  先の選挙では、民主主義の理念と背反する小選挙区制の結果、民意と相当乖離した内閣が誕生したが、ご祝儀相場はそんなに長くは持たないだろう。
  三茄子が「成す」の語呂合わせなら、夏の参議院議員選挙では理性的な声の前進を「成し遂げ」たい。
・・・・・という初夢三題話では、夢は小さすぎるか?

2013年1月1日火曜日

頌春

  私が絵付け(の真似事)をした奈良の伝統工芸品である一刀彫の「巳さん(みいさん)」をここに掲載して皆様方の新春を言祝ぎたい。・・と、「寿ぎ」の押し売りをする。
  嘘でもよいから、ここは「こいつあ春から チョン 縁起がいいわえ」 と応じてもらいたい。
  奈良の一刀彫は平安後期に春日若宮おん祭に使用された木彫人形に源があり、能人形、雛人形、五月飾り、干支、鹿が彫られていて、このほかの題材は「奈良一刀彫」とは言わず単に「木彫」と呼ばれるようだ。(そんな薀蓄は知らなかった。)
  この写真の巳さんの材質は高級品ではないが、切口から素晴らしい香りの漂う楠である。
  「なら工藝館」の先生に「私も彫らしてほしい」と言ったが「必ず手を切るから」と、それは叶わなかった。これは誇張でなく工藝館の教室のたびに救急車が必要なほどの怪我人が出るそうで、労働災害関係の知識からすると、ここは安易な真似仕事はしないほうが善いと引き下がった。
  しかし、胡粉(ごふん)を膠(にかわ)で溶いて磨り潰したり、絵付けだけでも結構な作業で、これに岩絵具や金箔まで使用すると、あの結構な完成品の値段もなるほどと納得できる。
  「もっとリアルに彫りたくないですか?」と質問したら、「リアルな木彫は簡単だが、このデフォルメされた鑿(ノミ)跡の残る切口で躍動感や重厚感や静寂感を表わすのが難しい」との回答。現に、先生(作家)の一刀彫ではない方のリアルな木彫は見事な出来栄えだった。ふ~ん、そういうものなのか。ちょっとだけ目から鱗。
  正直に言うと私はこれまで奈良の一刀彫について、「あまりに彫りが粗すぎる」「彩色が木彫の好さを消している」「高価すぎる」とあまり好印象は持っていなかったが、ほんとうの職人(作家)の話を今回聞いて、心の底から反省した。先生に「こんな高額で何方(どなた)が購入されているのですか?」などとほんとうに失礼な質問をしてスミマセン。
  芸術にしても工芸品にしても政治にしても、近頃は紛い物が多く、かつそれが見事にホンモノであるかのような嘘や錯覚やムードがあるが、新しい年はじっくりとホンモノを応援したいと考えている。
  今年はこのブログも、「一見それらしい常識を疑いホンモノを探す」というのをサブテーマに据えようかと思う。
  後ろで妻が、「お父さんの話はいつも大袈裟やねん」とチャチャを入れているが。

  ・・・・今年はコメント欄がフォーラムのようになればと夢見ている。どうかよろしくお願いします。