2013年2月11日月曜日

今日という日の復習

  記紀によると、筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギノミコトの曾孫である神武(追号)の天皇即位は紀元前660年。逝去時の年齢は127歳。以下13代成務天皇までの各年齢は84歳、67、77、114、137、128、116、111、119、139、143、107。仲哀、神功を飛ばして15代応神111歳、仁徳143歳となっている。
  神武天皇は筑紫の日向を出発して東征した。大阪湾から河内湖に入るところはかった。その先でナガスネヒコと戦ったとき神武は盾を取り出して防戦した。その地が現東大阪市の盾津で、私は小さい頃ここで育った。(そんなことはどうでもよい。)
 転戦を余儀なくされた神武軍は熊野に迂回すべく大阪湾南部を航行し、兄のイツセが血にまみれた手を洗った。それでこの周辺を血沼海(ちぬのうみ)といい、私は思春期をここで暮らした。(そんなこともどうでもよい。)
  神武天皇陵は、古事記によると「畝火山之北方白檮尾上」、書紀は「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)と記しているが、江戸時代にはその場所が不明になっており、畝傍の北の方の塚山、平野部のミサンザイ(神武田)の地、畝傍山上近くの丸山の各説があった。

  幕末の孝明天皇はミサンザイ(神武田)を神武天皇陵と決定したが、記紀の記述の上からなら最も有力な丸山としなかったのは隣接する洞(ほうら)部落を移転させる時間的余裕がなかったためとの説がある。
  その後、ミサンザイ(神武田)の二つの土饅頭のような塚?は八角墳に、そして円墳に拡充、改造されたことは各時代の絵図に残っている。
  そうして、明治5年に「1260年ごとに大変革が起こる」という中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいて紀元前660年を皇紀元年と定め、明治6年の太陽暦導入で即位日つまり紀元節を1月29日と定めた。なお、翌年からは2月11日とした。さらに明治23年に橿原神宮が建てられた。
 その頃から「神園拡充整備」計画が進み、大正6年から9年にかけて洞部落等は「神武天皇陵を見下ろし畏れ多いことだ」と強制移転させられた。
  この強制移転の話は、小説ではあるが住井すゑ著「橋のない川」第二部の「ふるさと」の章に書かれている。

  戦前の教科書は「さうして、一羽の金色の鵄(とび)がどこからともなく飛んで来て、天皇の御弓のさきにとまった。そのきらきらとかゞやく光に、わるものどもは目がくらんで敗走した。長髓彦はまもなく殺され、大和は全くしづまった。天皇は、皇居(くわうきょ)を畝傍山(うねびやま)の東南、橿原(かしはら)にお建てになり、はじめて御即位(ごそくゐ)の禮(れい)をお擧げになった。この年がわが國の紀元元年(きげんぐわんねん)である。さうして、二月十一日の紀元節(きげんせつ)は、このお祝ひをするめでたい日である。」と、これら全てを考察や質問さえ許されない史実として教えてきた。
 そして戦後は、科学的態度で歴史教育を行うこととなり、私などの世代は記紀にほとんど触れずに暮らしてきた。
 だが政府は、昭和30年代から徐々に、しかし確実に「神話を通じて古代の人々のものの見方」を教えるよう指導してきた。

  さて、いじめや体罰問題を取り上げて現在の学校や教員や教育委員会をほゞ全的に否定し、管理統制を徹底すべきだという声が出てきている今こそ、心静かに建国記念の日誕生の歴史を考えてみようと私は思う。

 歴史書が物語る一番の真実は、書かれている内容よりも編纂者の意図だと言われている。
 記紀等の神話は非常に貴重な文化遺産だと私は思う。そして、これを政治的に利用する人々こそ、一見愛国者のようで、実は先人を冒涜しているように思えてならない。

8 件のコメント:

  1. 勉強になります。真面目に素直に記紀を視なければいけないのですね。神話的に解釈して天皇を「神」に仕立てたのは北畠親房の「神皇正統記」からでそれを利用したのが「維新」の明治政府と聞いていますが・・・

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  2.  真面目に素直に読んだら年齢も万世一系も天皇陵も支離滅裂だと思います。
     同時に、古代の残像や歴史の断片や何よりも編者の強烈な願望がチラチラするのが魅力です。
     奈良あたりで講演会等を聞いていますと、維新政府の神仏分離令の暴挙を昨日のことのように怒り悲しんでおられます。
     そんな折、当時の問答無用の暴挙が、現在の「維新」の言動とあまりに重なり合うのがおかしいくらいです。

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  3. 毎年二月十一日 国道24号線を大音響の街宣車が
    通ります 今日もお昼過ぎ聞こえました

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  4.  安倍首相や自民、民主、維新の靖国派の方々は、機関紙広告料等の名目でああいう街宣車の方々を応援しているのですね。
     暴力の影をちらつかせて異なる意見を封じようとするのは亡国の道だと私は思います。
     

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  5. 今日は集会に行きまして、フロアからの発言もおもしろいものがありました。80の齢は超えたとお見受けする方のお話です。戦前の小学校で海幸彦・山幸彦の話を先生がした時に、ある子が、人間が海に入って溺れないんですかと先生に尋ねたそうです。ほかの生徒たちはもう11歳くらいなので、ある程度、お話とお話でないものの区別がついていたそうですが、先生もウソだとは言えないので、誤魔化していたそうです。その方によれば、こんな馬鹿げた教育をしているから、子どもがホンネとタテマエの区別を覚えるのだということですが、ウソに騙されるよりもウソに慣れることの怖さ、それがウソの力というものかなと思いました。

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  6.  神武天皇は山幸彦の孫ですから海幸彦を疑うことは現天皇を疑うことです。
     多くの場合その質問は先生の苦笑では済まず、鼓膜の破れるほどのビンタという愛の鞭を受けたのでしょう。
     昨日私は津本陽著「名をこそ惜しめ(硫黄島 魂の記録)」を読んだのですが、あれは戦死というよりも膨大な自決だったのですね。
     神話を史実だと教えた皇国教育はそういう結果を生んだのですね。
     そういう反省が風化しているような、教育の統制管理や情報の統制管理が強まっていることに私は近頃怖さを感じています。

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  7. 小学生のころ戦前の教育を受けた先生が授業中に歴代天皇の名前や教育勅語を暗記したり神武天皇の話日本武尊の話などをされた。大和朝廷に従わない部族を計略を持って征伐した話卑怯な策略を使う部族の長を破った話などその時はわくわくして聞いていたが後で日本武尊も部族の長も同じようなことしているのに部族の長がするとなぜ卑怯や奸計になるのかともやもやして母に聞くと「勝てば官軍負ければ賊軍」と言われた。ダブルスタンダートとという言葉をその時は知らなかった。しかし授業中に脱線してそのような話ができるなんてまだおおらかな時代だったかも

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  8.  記紀では嘘や謀略が卑怯なものという意識は全くありませんね。
     それどころか、嘘や謀略も猛将の証というような、その限りではタテマエなんかくそくらえのホンネの世界です。
     そんな教科書でどうしてあんなタテマエばっかりの皇国教育ができたのか不思議です。

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