2011年12月6日火曜日

バトンタッチ

   我が家の朧梅は律儀である。カレンダーの最後の1枚、パラリと朧月へとめくる音を聞いた途端早速咲き始めた。
 その己が名の来歴に沿った生真面目さがとても好もしい。
 だが、見つめれば、確かに「蝋細工のような花であるので蝋梅という」との説にも強力な説得力が感じられて悩ましい。

 ところが、その横のグリーンカーテンの朝顔は木枯らしなどそ知らぬ顔で咲き続けている。

 その健気さがあまりに可愛いのでよう抜かずにいる。

 週末には真冬の気圧配置とテレビが繰返しているが、来週はどんな様子になっているのだろう。
  
 老朗介護の日々、こんな庭先を見つめていると、永六輔が作詞し晩年の三波春夫に歌ってもらったという「明日咲くつぼみに」が頭をよぎってゆく。

    想い出のふるさと
    想い出の人々
    明日咲くつぼみよ
    今日散る花びらよ

    想い出の笑顔よ
    想い出の涙よ
    昨日今日明日
    過去現在未来

    時は還らず世は移りゆく
    いつか別れの言葉さようなら

    想い出のあの町
    想い出のあの人
    明日咲くつぼみに
    今日の生命を

2011年12月4日日曜日

マレビトに思う

   折口信夫のマレビトの論を読んだのは相当昔であり、また相応に歳を重ねてからのことであったのだが、率直に言えば「古い詩人学者はそうも考えるか」という程度のものであった。
 それは、つまり・・・マレビトの論に激しい同意の感情が湧かなかったのは、私が、第一次産業から遠い存在で、しかも家や土地を継いだり家業を継いだりということと無縁であったからかもしれない。

 マレビトの論を私は十分理解していないが、古来、人々は遠くから時を定めてやってくる(やってきたと考える)マレビトを神もしくは神の使いと考え(信仰し)、神からのメッセージを携えて祝福に訪れたマレビトを歓待するしきたりの中から、祭りや芸能あらゆる文化が発生したのだと折口信夫は言っているようだ。

せんば淡路町御霊神社の大黒さん
 さて、「聞き書 大阪の食事」という本の中の「船場旧家の暮らしと食べもの」という箇所を読んでいたとき、「年初の初甲子(はつきのえね)に大黒さんの絵を掛けお神酒と白豆腐をお供えする」とあったので思い出したことがある。
 昔、船場の商人であった我が家では、年初に限らず毎甲子(きのえね)の日には大黒さんの掛軸を掛け、赤ご飯を炊いて山盛りに盛り上げてご飯茶碗の蓋を載せ、湯気の加減でその蓋がガチャンと落ちたら「大黒さんが喜んで食べてくれはった」と喜ぶ家庭内の行事があった。
 この信仰というかしきたりについて、101歳になる母に尋ねたところ「嫁いで来る前からのしきたりで由緒などは知らない」とのことで、特定の寺社の大黒さんに直結した信仰ではなさそうであった。
 そこで、そもそも商売人には大黒さんの信仰が盛んであったということは明らかなことであったから、船場の産土神である御霊神社に行って見ると、写真のとおり大黒さんも鎮座ましましてはおられたが、「甲子(きのえね)の日ごとにお祀りがありますか」と尋ねたところ「毎月18日にお祀りしています」とのことで微妙に異なり、直接的な我が家のしきたりのルーツでもなさそうな感じであった。
・・・で、とりあえず、調査はここで保留にした。

 そこで、ふと思い至って今回言いたいことは、折口信夫のマレビトは遠い僻村の祭りや古典芸能の世界だけでなく、実は我が家のこのしきたりも、直接的な発生は近世(江戸時代)かも知れないが、たまに(60日ごとに)やってくる大黒さん(マレビト)を饗応し、大黒さん(マレビト)は蓋を落とすことで「きっといいことがあるよ」と祝詞を述べ、60日後も穏やかにこの行事が行なえるよう正しく生きていくのだよと道しるべを指し示して帰っていくという、あのマレビトに由来する行事・しきたりそのものではなかったかという感慨である。
 直接的には近世に誰かが示唆したしきたりだろうが、マレビトの心象の裏打ちがあることで人々に馴染んできたものに違いないと思えてきた。
 そう考えると、俗っぽい御利益信仰ではないこの種のしきたりは、再興させて子供に承継しても悪くはないかも・・・・と思ったりする。そうすれば子供がマレビトの論を読んだ時に何か琴線に触れるかもしれない。ただ再興するかどうかのその答えはまだ出していない。

2011年12月2日金曜日

大正ロマンの風景

   大正時代の女学生(実母)に当時のオシャレ心について聴き取ったことをメモにしておこう。

 近頃は卒業式シーズンに街でいくらでも目にする風物詩になったので別に驚くような情報ではないのだが、大正時代の女学生(つまり母)は和服に袴姿であった。
 その袴は海老茶色で、襞(ひだ)が前に6~8本、後ろに3本ぐらいだった。
 資料によると、明治の中~後期に跡見女学校が紫の袴を制服に制定する一方、華族女学校が襠(まち)のない海老茶色の行燈袴(あんどんばかま)を採用してからこれが全国の女学校に広まったという。故に女学生のことを「海老茶式部」と呼んだりしていたらしい。・・・なら、跡見は紫式部と言われていたの?
 
 その海老茶式部であった母たちからすると・・・、
  何と言っても関西のファッションリーダーは宝塚歌劇団で、女学生たちは雑誌などでむさぼるように流行の流れを追っていた。
 その宝塚の袴はというと緑(オリ-ブ)色で、襞が10本から12本で、少し高い目に着こなし、その全てが憧れの的だったと、目を細めて当時を振り返る。
 だから、多感な女学生たちは、せめて襞の数だけでも・・・と、夜なべをして襞の数を増やしたもので、・・・もちろん見つかれば風紀の先生に叱られたというのだから、大正時代といえども女学生は女学生だったのだ。
 そして、お嬢様学校として有名だった樟蔭女学校がその緑色の宝塚風であったらしく、ここも宝塚同様に普通の女学生の半ばジェラシーに似た羨望の対象だったという。
 なお、母は5年生の時にセーラー服も可となったので早速セーラー服にしたというのだから、当時としては時代の最先端をいくハイカラさん、「跳んでる女性」だったのだろう。
 田辺聖子さんも書いていたが、歴史を振り返ると、太平洋戦争前のこの時代はそこそこに明るさの残っていた時代であったようで、母の記憶もそれを十分裏付けている。
 歴史入門というほどのことではないが、確かな近代史のひとコマを聴き取った気がする。ちょっと大げさかな。

 「間違ったところはないですか」と、このブログの原稿を母に見せたら、重篤といわれているのが嘘のように目を輝かせて、「このとおりや」と嬉しそうに顔がほころんだ。

2011年11月30日水曜日

カチハジキを植えてしまった

   生駒谷で育った義母が「おやつなんか買うたことがない」「カガミソ、コシキ、カチハジキなんかを採って食べていたんや」と言うので、それはいったい何のことかと調べてみて、カガミソ=ガマズミ、コシキ=カマツカ、カチハジキ=ナツハゼらしいと解るまでには相当の月日を要したし、未だに本当にそれらが正解かどうかはわからない。
 特にカチハジキは『オニハゼのことをカッチンバリキともいう』という文献からの類推だったが、先日ネットで『ナツハゼのことを信州ではキンタマハジキともいう』というのを見つけたので、ほゞ間違いないだろうと思っているが、写真を見せて義母に尋ねても「こんなんやったかなあ」というばかりで、挙句は「小さいときのことやから忘れてしもうた」である。というように、そのものズバリの文献は見つけられていないし、生駒市立図書館で調べてもらっても解らなかった。

 (因みにオニハゼはほんとうの櫨(ハゼ)で食用にはなりそうもないし義母に写真を見せたところ即座に却下された。ナツハゼは夏に櫨のように赤く色づくのでそう呼ばれるがツツジ科スノキ属とある。)
 こうなったら仕方がないので、馴染みのネイチャー志向の植木屋さんに頼んでナツハゼを取り寄せてもらったが、次の義母の外泊の際に「こんなんとは違うなあ」と言われたらどうしよう。・・・といって今更どうしようもないが。
 和製ブルーベリーのよう・・と書いてある本もあったが、あまりに素朴な味のため、若干自信が揺らいでいる。
 なお、キンタマハジキを見つけたのはクロスミさんのブログだが、この方は方言(別名)も丁寧に調べられており感心してしまった。
 あまりに立派なので以下に紹介させていただく。
 1 キンタマハジキの類
    ウシノキンタマ(岐阜)
    ウシノダンベイ(新潟)
    キンタマハジキ(長野、愛知)
    コマノハジキ、コマノマラ、コンマラ、コンマラハジキ(長野)
    テテマラ(福井)
 2 季節から
    アキグルマ、アキゴロモ(山形、新潟)
 3 実の色
    アカノキ(山形)
 4 花の形から
    アタマハゲ(福井、京都、和歌山、岡山)
    アンドン(愛知)
    ハゲノキ(和歌山)
    ハゲノミ(香川)
    ハゲモモ(和歌山)
    ハチマキモモ(静岡小笠町)
    ヤカン(山形)
    ブンブクチャガマ(新潟)
 5 実が酸っぱいことから
    カンカンスイバ(山口)
    シーコ(岡山)
 以上、方言のため若干品位に欠ける点はご容赦を・・・・・。

2011年11月28日月曜日

庭先の天使

 晩秋の家の周りには蟷螂(カマキリ)がじっと止まっていたりして、それはそれで楽しい世界がある。

 そんな時に、金柑(キンカン)の木の近くで見つけたのは右の写真の揚羽蝶の蛹。
 カラスアゲハかクロアゲハかオナガアゲハかは知識不足で解らない。
 明らかなことは「緑の蛹と茶色の蛹は背景の環境による」という保護色論は当たっていないということ。この蛹は汚れた茶色の簾に付いていた。
 それにしても、このケッタイで、とぼけたスタイルは造物主が「屋外の女王」になる前に与えた試練だろうか。・・・・みにくいアヒルの子?
 
 此の頃の子供たちはバーチャルリアリティーの世界の怪獣や虫に夢中らしいが、こんなに可愛いリアルそのものの昆虫を知らないなら可哀相である。

 それはさておき、原発問題を見るにつけ、科学技術の進歩に人間の倫理観等の成長が追いついていないこと、むしろ後退局面を感じさせることが現代社会の問題ではなかろうか。
 昨夜の大阪のニュースを見てもそう思う。
 ちょっとでも自分より得をしているように見える者にムカつく現象。
 公務員、教員、この後考えられるのは年金受給者、生活保護受給者、私学に行っている家庭・・・、仮想敵国は次々に登場するが、決して真犯人には到着しないという現象。
 そして社会のひずみの原因が挙げて彼ら公務員や教員等にあるという憎悪のアジテーションの合唱に加わることに野球の応援団のような擬似連帯を感じる。そういう社会が生れているように思う。

 とまれ、本題に戻ると、他者を思いやる情緒のようなものは、バーチャルリアリティーの虫を好んでも育つことはない。孫たちをリアルな虫に触れさせることが地球を救う道であろう。
 そう考えると、この揚羽の蛹が天使に見えてきませんか。

2011年11月26日土曜日

穴子の半助

   明石家さんまが入門当初、笑福亭松之助師匠に「角(の鰻屋)で半助を(買ってくるよう)」頼まれたが半助を知らなかったため、角座で「半助師匠はおられますか」と聞いたという話をテレビでしていたが、確かに当時でも半助はそれほどメジャーではなかったから無理もない話しだろう。
 ところが私は、小学生の頃は父の仕事柄穴子の半助を嫌というほど食べてきた。穴子の半助を焼豆腐か厚焼玉子のヘタと炊いたおかずである。
 まだ「戦後」と呼ばれていた時代であるから今から考えると有難いおかずだったのだが、当時はもっと違うものが食べたかった。
 そして今は・・・、それもまた懐かしい記憶の中に分類されるほどに年を経た。

ネットから
  近頃、寒くなって寄せ鍋や水炊きをする機会が増えたが、我が家では鍋に穴子を入れることが度々ある。
 その時はもちろん半助もほかさずに入れることは当然で、ゼラチンのように柔らかくなった身?をせせるとあの頃の記憶がよみがえってくる。
 しかし、遠い半助の思い出がなかったならこれはどう見てもアラというかガラだろう。

 本などには「大阪の味」などと麗々しく書かれていたりするが、だからと言ってわざわざ半助を買いに行く気はもう起こらない。私としては戦後時代の思い出で、もういい。
 しかし、半助豆腐に見るような堅実な大阪文化は残ってほしい。
 だから、大阪にカジノはいらない。それは大阪の文化にも経済にも馴染まない。

(注)半助=焼いた鰻や穴子の頭だけを切り落としたもの

2011年11月24日木曜日

癒されているのは誰

   ABCラジオの桑原征平アナウンサーの政治がらみのコメントは失礼ながら薄っぺらで好きになれないが、氏が、施設に入居されているお母さんを頻繁に見舞われていて、その様子を明るく電波に乗せて語る話題は、老朗介護の家族を大いに励ましているに違いない。この点は大いに大いに評価している。
 特にお母さんと少しトンチンカン(失礼)に歌を唄った日の明るい報告は、ラジオの此方でも笑ってしまうことが多い。

 私も実母の入所している施設で毎朝、合唱(正確に言えばテンデバラバラに歌っているだけだが)をしていることは度々書いたが、皆さんのその日その日の体調次第で何かノラなかったり、夫々が居眠りタイムに移ったりして、「一憂」することも少なくない。
 そして、唄った入所者が「昔を思い出すなあ」とか「思い出して涙が出るわ」と言われる時があったり、「おおきに、歌を唄ったら元気が出てきたわ」とお礼を言われた時にはじ~んと嬉しくなって「一喜」している。

 「今日は皆んな楽しそうに唄ってくれたわ」と、そういう報告を帰って行なうと、妻は「その合唱は、入所者を癒してるのと違って、あんたの方が癒されてるんやなあ」と直球で評論してくるが、それはズバリ正解なのでありましょう。

 追伸  先日、音楽療法士の療法を受ける集りに出席した。
      「高度難聴の方にはどうしているのですか」と質問したら、何を聞くのとばかりに「聞こえない人には何もできない」と回答があった。それ以上は質問はしなかった。

2011年11月22日火曜日

ミズキの実力

   ミズキというと近頃ではハナミズキ(アメリカハナミズキ)の方が大きな顔をしているが、純国産のミズキも忘れないで欲しい。

 春に幹を傷つけると多量の水が染み出すので「水木」というらしく、柔らかく白い幹は正月の祝い箸である柳箸となる。

 このミズキ、私の周囲の本には「紅葉が綺麗」と一切出てこないのはどうしてだろう。不思議である。
 近所の研究所の庭のミズキは、周辺の見事な紅葉・黄葉に勝るとも劣らない紅葉だと思うのだが・・・。

 薄く透き通ったようなピンクというか肌色のそれは、非常に控えめでいて、この木の周りが光の通り道であるかのような存在感を漂わせている。

 とかく世の中というものは、このように実力があるのに見向きもされない木がある一方で、中身がないのに名前だけが売れている二流品が大きな顔をしているものである。
 こんな素晴らしい自然を堪能しながら、木々の紅葉を大阪W選挙と重ねて考えてしまうのは二流の風流人なのだろう。はい分ってます。

2011年11月20日日曜日

滅びゆく山村は他人事でない

   奈良大学中原洪二郎先生の「吉野の過疎化と文化」と題する講義を受けてきた。
 奈良県野迫川(のせがわ)村をフィールドワークの対象にされてきたその結論は「限界集落ならぬ限界村の状況」であり「あと10年程で村ごと滅びかねない」現実だった。
 また、衰退しきった林業の結果、伐採したあと植林もしないまま土地を手放した山が放置されていて、これが、今般の土砂ダムの一因ともなっている事実だった。(植林とは言っても杉等の針葉樹の単一樹種の人工林が自然災害に脆弱である事実を横においても、そのまま放置とはあまりにひどい)
 この国は、かつては生産性の名の下に照葉樹の森を皆伐して針葉樹の人工林に変え、今は生産性の名の下に禿山を放置しょうとしている。

 この講義から連想したものは、昭和62年に出版された下村治著「日本は悪くない」(文春文庫)だった。
 著者は、池田内閣の所得倍増計画を立案したエコノミストであるが、この本の中で「この日本列島の1億2千万人に十分な雇用の機会を与え、できるだけ高い生活水準を確保する、これが国民経済の根本問題である」と述べ、「それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なし」と主張している。
 
 そう、生産性を唯一の価値基準にして米国の唱える自由貿易を神聖視してきた結論・結果が、現在の山村の実態であり、今後すぐ後の農村であり、一部の多国籍企業を除く産業の空洞化に陥るであろう都市の未来であるように思われる。
 
 原発災害を「国民全体の驕りの結果だ」と言い放った某知事の発言はいただけないが、今般の奈良・和歌山洪水・土砂ダム災害から真の解決策を導き出さないと、自然は再び三度私たちを鞭打つに違いない。
 都市の泡(あぶく)のような利便を享受しながら語るのは気が引けなくもないが、山村や農村の自然や文化が滅んだ先に都市だけが繁栄するはずもない。
 今回の講義は、吉野の素朴な山村文化を語ってもらえるのかと思って出席したが意に反して深刻な実態報告だった。
 ただ、いただいた資料の最後に「自由貿易という名の呪いと戦う必要もある」と先生の決意が認(したた)められていたことに希望の光を感じとった。

2011年11月18日金曜日

由来不明の父の笏

   今はいない義父の口癖は「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」だったが、当時はその意見(口癖)を「また言っている」と、年寄りの繰言のように聞き流してきた。その後悔を今頃になって噛み締めている。

 折口信夫の書いた「私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来り(しきたり)」によって、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える。」〔上野誠著「魂の古代学―問いつづける折口信夫」(新潮選書)から〕というような一文が首肯できるようになったとき(歳)には「親孝行 したいときには・・」ということになっている。

笏は古代学にはよく似合う
 そういう駆け込み乗車の心境で実母に「50年以上前に亡くなった実父はどうして笏(しゃく)を持っていたの」と尋ねても「ふ~ん」と考え込むだけである。
 実母の断片的な記憶を縫い合わせてみると、実父の恩師に多賀(おおが)先生という神道の先生がいて我が家によく出入りしていたこと。祖母等船場の商家の女子衆は唯一の休みとして「おたかさん参り」をしていたこと。確か実父は神職の資格?を持っていたということ。・・で、もしかしたら多賀大社の講の一員だったのだろうか。しかし、それにしては実母は多賀大社に行ったことがないと言うし、事実は霞の向こうである。これ以上は解らない。
 この笏は、掃除の際に実母が一旦は捨てようとしたのを私が「残しておこう」と言って残したもの。
 これからは、この由来不明の笏を持ちながら神社成立以前の神々の声を聞いてみようかと思っている。

2011年11月15日火曜日

堺の くるみ餅

   松露団子からの繋がりで、堺の「くるみ餅」を思い出した。
 ここも広い意味ではチンチン電車沿いにある。

 堺の「かん袋」は秀吉から貰った由緒ある屋号であり、ここの「くるみ餅」は有名な上に「なくなり次第閉店」のため、昨今は出かけて行っても食べられない(購入できない)ことも多い。

 しかし「くるみ餅」は、その昔の堺では比較的メジャーなメニューとして普通の喫茶店でも食べることができたから、夏の暑い日などは高校からの帰りに喫茶店で「氷くるみ」を注文したりした。
 当時宿院大通り(フェニックス通り)にあった喫茶「音楽」にええかげんな同級生と入った時には、お互いに相手が小遣いを持っているだろうと思って食べてから、実は二人ともオケラであったので、「氷くるみ」よりも汗が引いてしまったことがある。こういう恥ずかしい思い出はどうして消えてしまわないのだろう。

 恥ずかしいといえばこの「くるみ餅」。長い長い間「胡桃餅」だとばかり思っていた。
 100%ではないが餡の中に擂り潰した胡桃の入った胡桃餡だとばかり思っていた。
 人間信じ込むと怖いもので、胡桃の味や香りなど一切しないのに疑いもしなかった。胡桃餡とはこういうものかと妙に納得したりして・・・。
 実は「包み餅」だと理解したのは十分大人になってからだった。ああ。
 
 昔は「かん袋」の近くに住んでいたので、手土産用に購入したり、家用のお菓子としてしょっちゅう購入していてこの有様。
 おまけに、容器の壷を梅干入れの容器などとして今でも重宝にしているのに、・・・なんとも恥ずかしいことである。
 先日、堺の幼馴染から「たまにはくるみ餅を食べに帰っておいで」と手紙が届いた。あの味が懐かしくよみがえってくる。

2011年11月12日土曜日

忘れ物を見つけた 松露団子

   松露しょうろは、松林の砂地に生えるキノコで美味というから和製トリュフらしいが私は食したことがない。なお、トリュフを検索すると西洋松露とあったからあらためてそのイメージに納得、納得。
 だから、その昔白砂青松の堺の浜寺で松露が採れていたのは間違いなく、それが証拠に浜寺名物・松露団子がある。
南海本線浜寺公園駅舎


 その松露団子・・・。今から50年以上前のことになるが、病床の父が亡くなる少し前に「浜寺の松露団子を食べたい」と言い出して、母が浜寺まで買いに行ったことを何故か今でも憶えているが、当時、それがどんなものであったかは全く記憶にない。
 そして勝手に、それは、少し乾いた餡の周りに砂糖を固めた和菓子の「松露」の・・あれだ、と思い込み、和菓子の「松露」を食べるたびに「これが父親が食べたがったものか」と感慨を込めて食べてきた。

阪堺電車で

 父が亡くなってからの私は中学、高校へと進み、この間に友人たちと浜寺公園で遊んだり、松林の下で青春の悩みを語り合った機会は数限りがないが、その頃は松露団子のことは全く頭に浮かんでは来なかった。 当然か。
 
福栄堂

 その私も父の没年をはるかに過ぎ、先日、堺に行ったついでに阪堺電車(チンチン電車)で、遠い忘れ物の松露団子を探しに行ったところ、昔ながらの佇まいを残した福栄堂が駅の「まあ前」にあったので狐につままれたように驚いた。
 ここなら、何十回できかないほど前を通っていたはずの場所である。不思議なものである。 

松露団子

 そして、福栄堂のショーケースにあったのは和菓子の「松露」とは全く異なる「松露団子」・・松露のように小ぶりの「あんころ」だった。う~ん、知らなかった。
 お茶席の高級和菓子ではない、昔の行楽地のみやげ物そのもののような素朴な「団子」でしかなかったが、きっと、父には何か楽しい潮干刈や海水浴に繋がる思い出があったのだろう。 
  そんなあれこれを想像して、素朴な松露団子を味わった。

2011年11月11日金曜日

古都の催事

   古都の秋といえば正倉院展で、今年は『蘭奢待』が「目玉商品」か。
 妻も「ここが信長が切り取ったところか。足利義政はここを切り取ったのか。明治天皇はここを」と思いながら見ると歴史が生々しく感じられる・・との感想。
 私は『出蔵帳』に「陽宝剣ようのほうけん」「陰宝剣いんのほうけん」が書かれていて大僧都良弁の署名もあることに感動した。
 そして、奈良国立博物館本館の坂本コレクションの青銅器は、何回も何回も見ているものだが、何しろ紀元前1500年前後の殷の物などが多く、ワクワクして今回も離れがたかった。
 退館後「春鹿」の今西酒造で7種類ほどのお酒を利酒し、ほんわかとした足どりで奈良町を散策して帰ってきた。
 お土産は発泡性の春鹿で、
「はるしか ときめき SPARKLING SAKE」。
 あまりお酒の強くない子供たちが帰ってきたときのために冷やしておこう。

2011年11月6日日曜日

収穫の秋

 義母が外泊してきたので「がまずみ」と「しゃしゃんぼ」の実を少しばかり摘んできた。
がまずみ(カガミソ)
  3月20日のブログのとおり、義母が小さい頃おやつにしていたらしい木の実である。
 「懐かしい?」と聞いてみたら「コシキはもっと赤かった。ちょっと味が違うな」とのこと。
 とすると、やはり義母が食べていたコシキとは、シャシャンボではなくカマツカ=ウシコロシのようである。

しゃしゃんぼ
 
 すぐ窓の外には西洋カマツカがカガミソ=ガマズミ同様の赤い実をたわわにつけているが、ほとんど味がないのでシャシャンボを選択したのだが違ったようだ。
 義母はこんなの(カマツカ)を食べていたのだろうか。
 残念ながらそれ以上のことを聞いてみても、思い出ははるか遠い彼方で要領は得ない。


 先日、実母の施設に稲が飾られていた。入所者のご家族(農家の方)が持参されたものである。
 見事な稲のため、スタッフの皆さんに「飾るだけではもったいないからお米にして食べてみては?」と言い出した責任上、ネットで調べて、『コップの縁で籾をとる(脱穀)』『すり鉢+軟式野球ボールで脱穀(籾摺りを)する』らしいという情報を提供しておいたところ、今朝、「昨日してみたが上手く脱穀(籾摺りが)できない」と「抗議」を受けた。
 そこで、2月2日のブログのとおり義母から聞いた「昭和初期の木と粘土で作られた臼による籾摺り」をイメージしながら野球ボールで摺ってみると、立派な脱穀(籾摺り)が仕上がり、部屋中(といっても対応できる入所者は限られるのだが)からオーッという感嘆の声をいただいた。
 スタッフは全員が若いわけでもないが、誰も脱穀(籾摺り)のイメージが湧かなかったらしい。瑞穂の国はTPP以前に崩壊寸前なのだろうか? 
 もしかして、稲のバケツ栽培と手作業脱穀・(籾摺り)・精米は瑞穂の国の再生に寄与できるのでは? なぜなら、これ(脱穀・籾摺り)って、やってみると結構感動的だったのだ。
 11月9日写真を追加
母がすり鉢+ボールで
籾摺りを行なった

2011年11月4日金曜日

長玄坊 初見

 明日来る孫のための玩具を買いにイオンに行った。(ああ、この書き出しは、何かいっぺんに歳がいった様で抵抗があるなあ)
 帰りに、9月29日のブログに書いたイソヒヨドリ♀と再開した。ほんの近く(のイオンの階段の手すり)に留まって綺麗な声で鳴いてくれた。
 帰ってから、もしかしたら未だ近辺をうろちょろしていないかと、ダメモトでカメラを提げてもう一度イオンに出かけてみたが、当然、彼女には彼女の事情があろう・・・・。
 と、・・・はるか屋上の塔の上に留まったのが見えたので写真を撮ったが、こんな時に限って飛び立ちもせず(近くに寄ってくる気配もなく)、夕陽にシルエットを曝したままの持久戦となり、そのうちに反対側に去られてしまった。
 帰宅してから、パソコンに写真を取り込んだが流石に遠くて小さかった。
 そこでトリミングで拡大したところ、なななんと、それは思いもよらぬハヤブサ科のチョウゲンボウだった。(肉眼ではもちろんファインダーでも判らなかった。)
 この地に居住して約30年だが、こんな駅前にチョウゲンボウが留まっているのを見たのは初めてだ。
 パソコン画面を見てから興奮した。

 谷底(谷筋・川筋)を走る線路に沿って建てられたショッピングモールは、そういえば彼等の故郷の断崖そっくりだが、イソヒヨドリといい、チョウゲンボウといい、結構賑やかな急行停車駅前を行きかう人々の頭の上から「鳥瞰」されていることは誰もご存じないだろう。
 そんなちょっとした秘密を私だけが知っているというのも何故か楽しいものである。

2011年11月3日木曜日

隆達節

 先日、堺の顕本寺で隆達節を聴く機会に恵まれた。
 高三隆達(たかさぶりゅうたつ)は、堺の富商で同寺の住職の後還俗したが、彼の作った隆達節は、天正末から慶長年間(秀吉の全国統一から大阪冬の陣の頃)に大流行し、そこから、後の小唄等が進化したと言われている。故に小唄の元祖とも書かれていたりする。
 哥澤芝虎師匠の「皆さんもご一緒に」との言葉に誘われて謡ってみたのはよいけれど、残念ながら小生は、端唄、うた沢、小唄、常磐津等の違いも判らぬ邦楽音痴、歌詞は貰って帰ったが家では全く復唱できないのが悔しい。

  しかし同寺には、工藤晃著「エコノミスト歴史を読み解く」(新日本出版社)で紹介されていたボストン美術館所蔵「顕本寺屏風」のレプリカが飾られていて、遊里の情景の左右に隆達自身の筆による隆達節の歌詞があり、その筆頭が「君か世は千よにや千代にさゝれ石の岩ほとなりて苔のむすまて」であることを感慨深く鑑賞させていただいた。

 「君が代」とぴったり一緒の歌詞、それを謡っているのか相当はじけた様子の遊里の情景を眺めながら、「条例を定めて従わない教員を解雇する」といきまく人々たちとのこの距離感はいったい何だろうと考えさせられた。
 (写真は何れも本にあったもの)

2011年11月1日火曜日

奈良の贅沢

 例によって今朝、母の施設へ近鉄ニュース11月号を持参した。
大乗院庭園
 入所者の皆さんと一緒に読んでいる中で、目に付いた写真から、「そう言えば大乗院庭園には行っていないなあ」と思い至った。
 奈良公園から奈良町にかけては数十年にわたって散策してきたが、なにしろ国宝・重文がごろごろという地であるだけに、「また今度覗けばいいか」と後回しにしたままであった場所がまだまだ残っていることにふと気がついた。
大乗院庭園
 そんな訳で、丁度昼から奈良に出掛ける用があったので、大乗院庭園をぶらぶらすることにした。
 すぐ近くで正倉院展もあり、見事な秋空の下行楽客で賑わっていた奈良公園一帯であったが、予想どおりというか、この庭園にはほとんど人がおらず、気儘な散歩が楽しめた。

庭園のカワラヒワ

 出てから何げなく看板を見て、すぐ近所の福智院も同様に「この次の散歩に残しておこう」としたままであったことを思い出し発作的に拝観した。
 すると、周辺のウルトラ級の観光寺院と違い、お茶と飴玉を頂いてこれもゆったりと奥様の説明付きで落ち着いたお参りがかなって、短時間ではあったが、贅沢な時間を味わった。
 非常にさわやかなお寺だった。

福智院の地蔵さん

 それにしても、大乗院は言うまでもなく興福寺の門跡寺院。
 そして、今回知ったのだが福智院は元は大乗院の地蔵堂であったらしい。
 それぞれ辛うじて残ったからいいものの、明治の廃仏毀釈には背筋の寒くなるのを覚えた。

荒池
 大混雑の正倉院展のすぐ隣にあるこの静寂と控えめな歴史。
 奈良公園は贅沢極まりない。

2011年10月28日金曜日

ヤマボウシの秋

 6月4日のブログでその花を愛でたヤマボウシ(山法師)だったが、それが木枯らし一番の前後から急速に落葉していっている。
 昨日まで「いつまでも暑い暑い」と文句を言っていたのだが、気がつけば季節の移ろいの速さはすさまじい。ちょっ ちょっ ちょっと待ってくれ。
写真1ヒヨが完食したヤマボウシ

 このヤマボウシ。つい最近まで大きく綺麗な実が美しかった(過去形)。
 だから、丸々と美味しそうな実を「いつ摘まんでやろうか」と思っているうちにヒヨドリに見事に坊主にされてしまった(写真1)のは、今秋一番の悔恨事である。
 そもそもヤマボウシの実が食べられるなんて去年まで知らなかったのを今年本を読んで知って、ひそかに楽しみにしていたのに・・・。
 


写真2常緑ヤマボウシ月光
  ただ、こういう事態を想定したリスクマネージメントで植えていたわけではないが・・・、あまり期待をしていなかった背丈1㍍ほどの「常緑ヤマボウシ月光」の幼木の方が遅れて熟してきた(写真2)ので、お陰でほのかに甘いその実を今は日々楽しませてもらっている。
 決してジューシーな果物とはいえないが、文字どおり野趣という語が似合いそうな素朴な味で、小春日和の庭先で口にすると、何んとはなく嬉しくなってくる。
 周りでは、ヒヨやシジュウカラが虎視眈々と狙っている。
 「共生」とは言うが、自然界は偉大でかつ難しいものである。



2011年10月26日水曜日

高砂


 NHK朝ドラのカーネーションは、この後、父善作が根岸に対して糸子への洋裁の授業の代わりに根岸に謡を教えることとなるらしい。
 ところで、いろいろなジャンルの歌にはそのジャンルにふさわしい発声方法があり、テレビドラマなどで民謡や詩吟のような声で謡曲が謡われたりすると鼻白んでしまう。小林薫の好演を期待したい。
 今はいない義父は謡が得意で、まさに謡らしい発声ができていて、結婚式での高砂などは聞いていて心地よいものだった。もちろん私たちの結婚式でもそうだった。
 朗々たる「高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり」は、お能の知識を欠くと「なんのこっちゃ」という詞であるが、それでも何となく「おめでたい」気分になったものである。
 という解説ではあまりに軽薄なので「林望が能を読む」からつまみ食いをすると・・・、
 本曲には、私どもの「民族の記憶」が豊かに息づいている。
 「松」は、本曲の大主題であるが、その形而上的な意味は、すなわち神の憑り代(よりしろ)にほかならない。
 その松が、ここでは「夫婦松」として造形が施されている。
 そして、老体は、長く持続せる生命力で、それに「あやかる」呪力であったに違いない。
 こうして、幾重にもめぐらされた民俗としての祈りが、後段、若々しい生命力を備えた神体として出現するのである。
 とある。
 で、「なんとはなく」なるほど意義深いらしいと納得している。
 住吉大神を巡る古代史の疑問はいったん脇に置く。

2011年10月25日火曜日

乾杯

 昨日は母の入所している施設へ「愛燦燦」と「瀬戸の花嫁」を持っていって早朝合唱団を開いた。
 時々歌詞の世界が頭の中に広がって、孫娘が遠くへ行ってしまうと思い込んで涙ぐんだりするのだが、「これは歌の歌詞ですよ」と言うと「あっそうか」と戻るのが可笑しい。

 今朝は、「ちょっと難しいのを持ってきましたよ」と言って、昨日約束してあった長渕剛の「乾杯」を配ってみたところ、母は90%近く自分流に編曲して「エア熱唱」を行なった。(エア=声に出さずに心の中というか口の中での熱唱)
 そして、「これは男の子の歌やけど、感極まるわ」と言って泣いてしまった。
 ほかの入所者の方も「歌詞がいいわあ」「好きな歌だわ」と仰られ、「憶えたいからこれからも何回も持ってきて」と注文をつけられた。
 皆の期待に応えようと気持ちを込めて歌ってみたら、こちらまで胸がつかえてしまった。
 耳蛸だろうが、老朗介護の一番の薬は感動・感激だと信じて疑わない。

2011年10月23日日曜日

段取り八分

 度し難い親馬鹿の独白であるが、私の子は二人ともフロイト先生やユング先生の(心理学でいう)「父親殺し」を演ずることもなく、正直に言えば少々寂しさを感じさせるほど、とっくの昔にさっさと親離れをしていった。
 そして、「親はなくとも子は育つ」というか「子は親とは違う方法で山登りをするものだ」という名言を実感させられるように、いつの間にかそれぞれ一端の大人の真似をするようになった。
 22日に開催された娘たちがプロデュースしたパーティーは、あちこちに気配りと段取りがされていて感心してしまった。
 妻が「あれは私の〔段取り八分〕(だんどりはちぶ)の背を見て育ったからだ」と言うのだが、十分に親を追い越していってしまった感がある。
 ちなみに〔段取り八分〕とは、その昔仕事も人格も立派な上司から教わった言葉で、誤解があるかも知れないが、工事や製造や行事を問わず、段取りがしっかりできればその企画は八割方仕上がったも同然・・何ごとかを確実に仕上げるためには段取りに八割方の努力を傾注せよ・・といったような教訓と勝手に理解している。
 おまけに今回は、そういう段取りでは如何ともし難い天候まで味方に付けてしまった強運にも脱帽した。

 娘たちが企画と準備をしたパーティーの成功を祝って、今夜、46年前の年号ワインのコルクを抜いた。

2011年10月21日金曜日

猿頬貝を覚えてますか

 10月10日のブログの続きになるが、猿頬(サルボウ)貝について、親切な堺の同窓生から「たしかにサブロガイって言っていたよ」との証言をいただいた。

 小林利郷著「ちぬの海」(和泉史談会)でも、著者が昭和63年に当時81歳の泉大津漁協の寺島翁から「サブロウガイが・・・ぎょうさんいてた」と聴取っている。
 ただ、辞書的なものでは、国立国会図書館関西館で川名興編「日本貝類方言集」に「有明海ではサブローガイ」というのを見つけただけだった・・・。
 泉州弁の「サブロ貝」が辞書に出ていない理由をつらつら考えると、・・・・『「ざだら変換」という訛りは多くの場合、文字では「からだ」と書くのに「かだら」と発言する』(前のブログの同僚がそうだった)という性格のものなので、辞書をはじめ文字の世界では「サルボウ」だが発音では「サブロ」ということだったのではなかろうか。正確にはわからない。堺市立図書館からは回答がない。

 さて、こんな貝の話なんか現在の臨海大工業地帯の堺市ではあまりにリアリティーに欠ける話かもしれないが、私たちが小学生の時、漁師の網元の子の船の陸揚げを手伝っていたときには、トロ箱いっぱいのサブロガイを褒美に貰って、家中いや町内中大騒ぎをして分けあったこともあったのだ。
 そして同窓生によると、昭和2~30年代の堺の浜側では「家の前でムシロを敷いてサブロガイの身をむく内職があった」し「サブロガイは豆腐や大根と炊いたら美味しかった」という補足的な記録もいただいた。

 ちなみに平成の現在、赤貝の缶詰、庶民的な鮨屋の「赤貝のにぎり」は通常「猿頬貝」であり、彼奴はネームバリューはないが奥ゆかしい実力派である。
 はたまた、赤貝を詐称する大ペテン師か・・・・。


  21日12時補記
 堺市立図書館から丁寧な回答があったが結論的には「堺における猿頬貝の呼称について」の文献や資料はないようだった。
 わずか50年ほど前の事実が確かめられない。
 過去(歴史)というものは、このように淡く消え去るモノなのだろうか。少し感慨深い。

2011年10月19日水曜日

乙女心は消えない

 『老朗介護の音楽療法は「お富さん」から』・・と6月21日等々のブログに書き連ねたが、今日はきっぱりと訂正をしようと思う。
 私は毎日、8時30分頃に介護施設に着き、母の朝食を支援した後、実際の要介護度が比較的軽度の方々数人と「ゆめの部屋早朝合唱団」と全く勝手に自称して唄を歌うことにしている。
 「コーラスクラブのほうは(子供っぽい)易しい唄ばかりでつまらないわ」と仰る方もいて、この数人の間では私の「早朝合唱団」は「正しいコーラスクラブ」よりも人気がある。・・メンバー?なのだから当り前か??
 「どの方はどんな唄が好みか」や、その日の気候などをいろいろ考えて「今日はこんな唄を持ってきました」と始めるのだが、そんな中で意外に好評だったのが「女ひとり」。
 ♪ 京都 大原 三千院~ だった。
 「歌詞がいいわあ」「思い出すわあ」「こんな(歌詞のような)ときもあったわ」という皆さんのリアクションには正直に言って驚いた。
 ほんとうに驚いた。
 失礼ながら、90超の入所者がこんな風な喜び方をされるとは予想外だった。
 冗談気味に「乙女時代を思い出しましたか?」と尋ねてみると、冗談抜きの笑顔で「ええ」と返ってきた。
 ・・・・・・・・・。
 老人施設に入所していても、単なるお婆さんでもなければ幼児でもないのだ。この「合唱団」に加われない方も含めて、きっとどこかに乙女心は不滅なのだろうとつらつらと考えさせられた。
 読者の皆さま、ゆめゆめ乙女心を疑うことなかれ。
 いくつになっても、恋に疲れた想い出は切なく残っているのだ。

2011年10月18日火曜日

昴はさざめく Ⅱ

 今夜は、見事な・・とは言えないが、久々の星空だった。
 そこで、9月25日のブログで感激を
綴った昴を撮ってみた。
23.10.18 21:10 東の空
 もう一度言うが、昴は三等星以下の目立たない星の集まりである。
 しかし、明るく判りやすい数々の星座を抜いて、洋の東西を問わずこれほど多くの人に愛されてきた星もないようだ。
 それほど、昔の空が綺麗だったのだろうか、それとも、先人の感性が豊かだったのだろうか。きっと両方だったのだろう。
 片や私の過ごしてきた時代はというと、ずーっと空が汚れ、星を愛でる心の余裕が持てない時代だったように思う。
 今私は、星空を眺めながら生き急いでいる。

2011年10月17日月曜日

ヒッチョー

 京都のお人は京都弁を訛りなどとはこれっぽっちも思っていない。・・と巷間言われているが、10月10日のブログの続きを素朴に書いてみたい。七条についての「???」のことである。
 大原穣子著「京ことばの辞典」にはハッキリと(京ことば・・では)「七はヒチ」と書かれているし、京都府立図書館に問い合わせ、国立国会図書館関西館で確認したところ、中井幸比古著「京都府方言辞典」、真下三郎著「京ことば集」、井之口有一・堀井令以知著「京ことば辞典」、相馬大著「京ことば」に、京都旧市内のことば(京ことば)は「七条 ヒッチョー」とある。

 そこで、「おけいはん」の京阪電車。・・・お役所辺りがどう言おうと、と言っても市バスの停留所は「ななじょうけいはんまえ」らしいが・・・・、京阪の七条駅に「ヒッチョー」とフリガナを振れとは申しませんが、せめて「ヒチジョウ」と振られたら如何と強く言いたい。いやいや、やっぱり正しくは「ヒッチョー」かな。

 言うまでもないが、阪急は「十三」を「ジュウソウ」、「上牧」は「カンマキ」、JRは「放出」を「ハナテン」と、地元の発音どおりに表示し発音している。至極当り前のことである。
 先のブログにも書いたが、上方唄の〔松づくし〕は東京の人が唄うときでも「七本目(ひちほんめ)には姫小松」と唄うとある。

 連想ついでに、関西の鉄道の駅名のアナウンス。どうして地元のアクセントでないの? 通常それは植民地に対する仕打ちじゃないの・・・。
 アクセントが違ってもいいのは ♪放出中古車センタ~ だけでしょう!

2011年10月15日土曜日

松茸なんか

 ラジオで桑原征平と桂吉弥が「松茸かシメジか?」とリスナーに問うていた。
 「そんなの文句なしに松茸やろ」と夫婦で言うと、外泊中の義母がボソッと「松茸なんか匂いだけや」と否定した。
 おおっ! さすが生駒谷の山持ち地主の娘。山で採ってきた「シメジやイグチ、ハツタケ、ナメコ、自然のシイタケの方が美味しかった・・ 松茸なんかほとんど食べなんだ」との発言には重みがある。
 各種きのこは、そのまま鍋に入れたり、きのこご飯にしたらしい。

ネットから
 「そしたら、松茸はどうしてたん」と聞いたところ、「松茸は親類や知り合いに配って歩いてた」とのこと。 $■△*#¥●???
 「やっぱり昔から松茸は値打ちが認められていたんや」と夫婦で笑いあったが、義母の言う「味は他のきのこの方が美味しかった」という評価は、世間の金銭的雑音がない分正確なのだろう。

 「魚なんか滅多に食べなんだ 畑や山で採れるもんばっかり食べていた」という、こんな自給自足の生活が私の親の子供時分まであったなんて、私の子供たちにだって、もう歴史教科書の世界だろう。
 この貴重な経験を聞き残しておこうとするのだが、義母はいつも「別に何もありません」と答えるだけである。
 考えてみると、その時代の普通の農家で普通に農業をしていたのであって、本人にとっては何の珍しくもない生活を積み重ねてきただけだ。それらを知らない我々の世代以降のほうが、日本民族の中で突出して珍しい世代なのかもしれない。

2011年10月14日金曜日

カーネーションの時代

ネットから
 NHKの朝ドラで(岸和田高女)の女学生の糸子(小篠綾子)は昭和3年頃(15歳?)にパッチ屋のミシンを見て「これこそウチのだんじりや」と腰を抜かさんばかりに驚いていたが、私が今日母に尋ねたところ、堺高女では大正15年に学校にミシンが入り洋裁の授業が始まっていたという。(記憶違いがあるかも知れないが)

 そして同じ頃、驚くことに私の祖母(母の母)は月賦でミシンを買っていた。つまり家にミシンがあったのだ。
 赤貧の母子家庭でどう金策したのかは摩訶不思議なのだが、もともとは大阪の地主のお嬢さんで、大倉喜七郎の片腕であった夫と結婚し、上海でダンスパーティー三昧という浮世離れをした御伽噺のような人であったので、御伽噺のような買い物をしたのだろう。(当時は夫の早世などもあり赤貧だったのだが)
 その娘であった母は、淀屋橋にあった洋裁学校に行きたくて行きたくて仕方がなかったが、もちろん月謝が工面できず、あとは家で本を見ての独学で、製図をして大中小の型紙を作って、その型紙を基に形式上は祖母が、事実上は母がデパート勤めと併せて洋装店らしきものを始めたと言う。「糸子」がパッチ屋で働き始めたか、その少し前のことである。
 母が、そのように昭和の初っ端に白木屋デパートや松阪屋で子供服の販売とミシンを担当したモダンガールだったことは5月14日のブログに記述した。
 以上は・・・、朝ドラの時代に、祖母(曾祖母)がそんなふうであったことを、私の子や孫のために記録しただけである。
 末っ子である息子たる私は、母親の昔話など、ず~っと(全く)聞かずに過ごしてきたので、こんなつまらない昔話を「これも近代史か」と、この年になって少し楽しんでいる。

2011年10月12日水曜日

88年目のオリンピック

 「大正12年。88年前の関東大震災の折には堺市の大小路でも大きく揺れた」と母が言った時、きっと年老いた頭の中で情報がごっちゃになっているのだろうと思って聞き流していたが、3月11日に奈良市内のビルの4階で自分が体験してみて、母の言葉を疑ったことを反省した。

 今日は母の施設の運動会だった。
 体力がもたないので母が参加したのは1時間あまりだが、玉入れ2回とパン喰い競争に参加した。
 驚いたことは、本番になると見違えるように「勝ちに行く」母のガッツだった。
 「老人ホームのお遊び」なんかにしておけるものか!という気迫だった。
 これにはほんとうに驚いた。
 5月28日のブログに書いたが、大正12年、第6回極東オリンピック予選に出場した魂は101まで健在だったのだ。
 母よ、今日の貴方には、88年前の人見絹枝さんに劣らないオーラが出ていたよ。

2011年10月10日月曜日

ちょっと 聞いちゃってよ

 NHK朝ドラ「カーネーション」の泉南(岸和田)弁が聞いていて楽しい。
ネットから
 和歌山弁の「ざじずぜぞ」が「だぢづでど」となる「ざだら変換」と言われる訛り(?)は有名で、かつての同僚(和歌山人)が体のことを「かだら」と言うのを本人に指摘すると、「訛ってなんかないよ。体のことはキチンとかだらて言うてるよ」と否定するのが可笑しかった。
 泉南は、中世から紀州・根来寺の荘園等もありその影響なのか、それとも泉南訛りが紀州に伝播して進化したのか判らないが、泉南(岸和田)弁は和歌山弁とよく似た訛りである。

 が、訛り(?)などと言うと低級なもののように思われるが、所詮は標準語なる人造語に対する「非標準」であり、東京に住んでいたとき、歴としたインテリである東京人の先輩は潮干狩りのことを「ひおしがり」と言って、私が指摘しても「しおひがり」とは発音できなかった。

 このしとひの変換は全国に見られるが、大阪の七をひち、質屋をひちやと言って、看板にも大きく「ヒチ」と書いてある(あった)のに止めを刺す。   
 上方唄〔松づくし〕に「七本目には姫小松」とあり、これは「ひち」と読まなければ成り立たないし、もちろん七味唐辛子はひちみである。

 よって、京阪電車に乗るたびに七条駅のふりがなが「しちじょう」であり、社内アナウンスも「しちじょう」であることに、「この関西弁の裏切り者め」と強烈な抵抗を覚えるのである。
 南海電車は、関空開港までは「でんしゃりょう だせきしていの とっきゅうさだんで ごだいます」(全車両座席指定の特急サザンでございます)とアナウンスされていたと愉快に語り継がれている。(ほんまはそれほどでもなかったが)

 そこで、私の育った堺旧市街は、そもそも大和川が1704年に付け替えられるまでは住吉と地続きの、それこそ摂津、和泉、河内の「堺」であったので、大阪弁と泉州弁の微妙な位置にあり、正直なところ「泉南(岸和田)弁や和歌山弁といっしょにせんといて」といった気分が支配的であるが、思い出してみると、堺や出島の港にたくさん上がっていた猿頬貝(さるぼうがい)(小ぶりの赤貝のような貝)のことを、サボロとかサブロガイと言っていたような記憶が(昔のことゆえ自信はないが)よみがえってきた。
 固有名詞のことではあるが、記憶が正しければ、これは「かだら」と同じ文化圏の影響かもしれない。

 確かに、同じ「ちぬの海」である。

2011年10月8日土曜日

秋の声

 季語に「秋の声」というのがあるが、穏やかな秋の日中に、まるで耳鳴りではなかろうかと疑わせほどあちこちの木や草の奥から聞こえてくるカネタタキのチッチッチッチッチッチッチとの単調な鳴き声こそ、「秋の声」にふさわしく感じられる。

 遠い昔、ハイキングの折に手折ってきたサルトリイバラが庭にあるせいか、時々ルリタテハもやってきて目の方も楽しませてくれる。
 そんな時「ルリタテハ、ルリタテハ、カメラ、カメラ」とドタバタするうちに何処かに移って行ってしまっているのを、妻は冷ややかな目で無視しているのも、我が家の「秋の声」かも知れない。
 
 さて、非常に身近な場所にスズメバチが巣を作った。
 蜂の子を食べたい気もするが、ここは冷静な判断が必要だ。
 日本では、動物による死亡のトップがスズメバチであり、よくニュースに出てくる「熊が出た!」よりも多いのである。しばし悩んでいる。
 見たところオオスズメバチではなく物分りがよさそうだがそれほど親しくないので判らない。
 それよりも、表面には門番が居て入館者を生真面目にチェックしているのに感心してしまう。

 虫の事を書いているうちに思い出したが、「虫とる子だけが生き残る」(小学館101新書)は大好きな本の一つで皆様方にもお勧めしたい。理由は・・おもしろいから。

2011年10月5日水曜日

記紀に呪われた堺

 昨日、堺市博物館に行くと、受付の係員が、他の高齢者とおぼしき人には「65歳以上ですか?」と尋ねていたのに、私には全く聞かずに観覧料を要求してきたので少し気分がよかった。

 須恵器の時代、古墳時代、中世等々と歴史の重さが断然違う堺だけあって大方の展示には満足したが、例によって大仙陵古墳をほとんど文句なしで仁徳天皇陵と大々的に表示しているのには疑問が残った。
 なぜなら、別の場所の解説でははっきりと古墳の年代順を上石津ミサンザイ→大仙陵と書いて展示してあり、これが上石津ミサンザイ(履中天皇陵)→大仙陵(仁徳天皇陵)なら親子(仁徳・履中)が逆転しているのは明らかだ。付言すれば田出井山古墳(反正天皇陵)もヤマト王権の盟主墓としては貧弱であり、土師ニサンザイ古墳の方が天皇陵というのが定説だと思うのだが・・・、
 この博物館には、「伝仁徳天皇陵」と小さく付記するに留める程度の理性を求めたい。記紀の呪いは政令指定都市の博物館をも金縛りにしているようだ。
 
ネットから
 帰ってみると、堺の同窓生から「たまには堺に帰っておいで」と、文化財特別公開その他の資料が届いていた。ちょっとした以心伝心のような・・・今日は何という日だったのだろう。
 幼馴染はありがたいものである。

 遥か小さい時分の匂いや音の記憶は大きく、京都の南部、奈良の北部にも「ふとん太鼓」があるのだが、その太鼓のリズムが微妙に異なって馴染めない。おかしなものだ。