2011年12月4日日曜日

マレビトに思う

   折口信夫のマレビトの論を読んだのは相当昔であり、また相応に歳を重ねてからのことであったのだが、率直に言えば「古い詩人学者はそうも考えるか」という程度のものであった。
 それは、つまり・・・マレビトの論に激しい同意の感情が湧かなかったのは、私が、第一次産業から遠い存在で、しかも家や土地を継いだり家業を継いだりということと無縁であったからかもしれない。

 マレビトの論を私は十分理解していないが、古来、人々は遠くから時を定めてやってくる(やってきたと考える)マレビトを神もしくは神の使いと考え(信仰し)、神からのメッセージを携えて祝福に訪れたマレビトを歓待するしきたりの中から、祭りや芸能あらゆる文化が発生したのだと折口信夫は言っているようだ。

せんば淡路町御霊神社の大黒さん
 さて、「聞き書 大阪の食事」という本の中の「船場旧家の暮らしと食べもの」という箇所を読んでいたとき、「年初の初甲子(はつきのえね)に大黒さんの絵を掛けお神酒と白豆腐をお供えする」とあったので思い出したことがある。
 昔、船場の商人であった我が家では、年初に限らず毎甲子(きのえね)の日には大黒さんの掛軸を掛け、赤ご飯を炊いて山盛りに盛り上げてご飯茶碗の蓋を載せ、湯気の加減でその蓋がガチャンと落ちたら「大黒さんが喜んで食べてくれはった」と喜ぶ家庭内の行事があった。
 この信仰というかしきたりについて、101歳になる母に尋ねたところ「嫁いで来る前からのしきたりで由緒などは知らない」とのことで、特定の寺社の大黒さんに直結した信仰ではなさそうであった。
 そこで、そもそも商売人には大黒さんの信仰が盛んであったということは明らかなことであったから、船場の産土神である御霊神社に行って見ると、写真のとおり大黒さんも鎮座ましましてはおられたが、「甲子(きのえね)の日ごとにお祀りがありますか」と尋ねたところ「毎月18日にお祀りしています」とのことで微妙に異なり、直接的な我が家のしきたりのルーツでもなさそうな感じであった。
・・・で、とりあえず、調査はここで保留にした。

 そこで、ふと思い至って今回言いたいことは、折口信夫のマレビトは遠い僻村の祭りや古典芸能の世界だけでなく、実は我が家のこのしきたりも、直接的な発生は近世(江戸時代)かも知れないが、たまに(60日ごとに)やってくる大黒さん(マレビト)を饗応し、大黒さん(マレビト)は蓋を落とすことで「きっといいことがあるよ」と祝詞を述べ、60日後も穏やかにこの行事が行なえるよう正しく生きていくのだよと道しるべを指し示して帰っていくという、あのマレビトに由来する行事・しきたりそのものではなかったかという感慨である。
 直接的には近世に誰かが示唆したしきたりだろうが、マレビトの心象の裏打ちがあることで人々に馴染んできたものに違いないと思えてきた。
 そう考えると、俗っぽい御利益信仰ではないこの種のしきたりは、再興させて子供に承継しても悪くはないかも・・・・と思ったりする。そうすれば子供がマレビトの論を読んだ時に何か琴線に触れるかもしれない。ただ再興するかどうかのその答えはまだ出していない。

0 件のコメント:

コメントを投稿