(万葉集 巻14 3352)に、信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時すぎにけり という歌がある。この「時すぎにけり」について多くの解説は「もう時季が過ぎて夏になった」「あれから時は経ってしまったと思う」と述べ、それは「都に残してきた人・・」「旅から帰ってくる夫または恋人」「死別」から・・時すぎにけり・・などとされている。
ところが昭和44年、後藤利雄氏が「これはホトトギスの聞きなしだ」「東歌らしい農耕生活のにおいがする」と指摘した。
少なくない民話が「ホトトギスは田植えを促して鳴いている」とあるのと併せると説得力がある。
5月21日、忍び音を聞いた。私はホトトギスの注意に従って慌ててウスイエンドウを全部収穫し夏野菜を足して植えこんだ。
私はマンションであってもプランター菜園などをした方が良いように思う。
なぜなら、菜園を見ると意識は必ず未来に向かうからである。
夏野菜はいつまでに植えなければならないか。
夏野菜が終わったら秋には何を植えようか。(実際、タキイ種苗から夏秋のカタログが届いた)
至極普通にそのように考える。
想像だが、そういう自然と接していない大都会の人々の何人かは『外出自粛』でなすすべがないような気がする。
話をしていても未来を語ってこない気がする。
菜園をすると、植えた苗はこの先どうなるか、実物(みもの)野菜はいつごろから肥料を変えようかなど、意識は先へ先へと行く。
未来を語らない話は、炉端(か酒場)の政治談議と変わらない。
卯の花も満開だが、私は少し元気をなくしている。
心して杜鵑聴け時すぎにけり
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