『「天平」という名の非天平』とは千田稔著『平城京の風景』(文英堂)を監修された上田正昭先生の巻頭文の小見出しである。
一昨日は近代の感染症のことを書いたが、感染症というと天平時代(奈良時代)も避けて通れない。
長屋王の変の後、天変地異と飢饉が起る中、九州から西日本そして平城の都では、天平7年(735)から天平9年(737)に天然痘の大流行が発生した。
藤原四卿をはじめ高官たちもバタバタと亡くなった。
そのとき朝廷は・・・、
今日の外出自粛に相当する鈴鹿、不破、愛発の固関(こげん)をおこなったという史料はないが、比較的東進が抑えらた事実から、当然に固関がなされたと考えるべきとの意見もある。
そして朝廷からは、結構詳しい食事や薬や治療法が全国に発出され、隔離や衛生環境の注意も指示されている。
さらには、減税、免租、頻繁な米穀の支給、逃亡者・浮浪人の現在地戸籍登録等々を見ると、その積極さに私は驚くとともに、1200年余後の政権に落胆する。
何よりも、火事場泥棒的に怪しげな会社にマスクを発注したり、憲法改正を企てるなんぞの態度は、「その責任はすべて自分一人にある」と言った聖武天皇の風上にも置けない。
今の政権のほぼ全員が『日本会議』や『神道政治連盟』に所属し、「神武天皇は存在した」とかの発言を繰り返しているが、実は歴史や伝統を一番軽んじて片言隻句だけを利用しているかがよくわかる。
おぼろ月(づき)夜風に遠き蛙の音
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