2024年2月6日火曜日

木鐸

   「社会の木鐸(ぼくたく)」というようにこの言葉は使われるが、木鐸とは古代中国で法令などを民衆に知らせる際に鳴らした「舌が木でできた鈴」のことで、転じて新聞などメディアが社会に向かって警鐘を打ち、行く手を指し示す場合などに使用される。近頃では「それでも社会の木鐸か*」と批判的にも使われたりする。

 ところで黄檗宗満福寺には吊り下げられた「木魚の元祖」がある。開梆(かいぱん)、魚梆(ぎょほう)、魚板(ぎょばん)、魚鼓(ぎょこ)などといわれるらしいが、同じような叩いて音を出す板などを木鐸と書いてある本もある。
 だから長い間私は、この種の小型の板を叩いて民衆に周知していたと勘違いしていた。

 そこからの連想で、石川啄木の「啄木」はキツツキのドラミングを木鐸の乱打に掛けているのだと誤解していた。

 ものの本によると啄木は、故郷渋谷村で療養中にキツツキの声に慰められたからといわれているので、とんだ勘違いだったが、それでも私はキツツキのドラミングを聞くと、歪んだ社会に対するキツツキの木鐸だという連想が働くのだった。

 実際は囀りをしないキツツキは、ドラミングによって恋の歌を歌っているらしい。
 とんでもない勘違いで、実におめでたい事柄であった。
 通常は、コツコツ、コツコツと木を叩くが、ドラミングのときはドドドドドド・・・という感じである。やはり木鐸に聞こえる。

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