2021年5月31日月曜日

明日からJUNE(6月)

   孫の夏ちゃんが府県境を越えて(といっても自転車でも来れる距離を)見舞いに来てくれた。そして、まだMAY(5月)だというのに、わが家のJUNEBERRY(ジューンベリー:6月の木の実)を初収穫してくれた。

 今年は鳥よけのネットを被せたから順調に熟しつつある。

 いつもどおり、「初物を食べると75日寿命が延びるで」「だから好き嫌い言うたらあかんで」と妻が講釈した。

 さて聞いてみると、大阪市(市長)みたいな無茶苦茶は論外として、夏ちゃんも学校からPCを貸与され、けっこう使っているらしい。

 過日の誕生日プレゼントのリクエストが『ニンテンドープリペイドカード』であったが、老夫婦二人はまず書店で「こういうものはどこで売っているものなのか」と尋ね、家電量販店で売り場やそのものを尋ね、最後には夏ちゃんに「これをどのように使用するのか」と聞いたところ、夏ちゃんから「説明してもわからんやろ」と軽くいなされて、結局今も具体的にはわかっていないのだから、夏ちゃんは我われの想像以上にゲーム機やPCを使いこなしているらしい。

 夏ちゃんが来てくれて、初物のジューンベリーも数粒口に入れたから、負傷部位の快復も一層進むことだろう。 多くのお見舞いのメール等に感謝!

2021年5月29日土曜日

過信は大怪我のもと

   種々のご心配・激励に感謝申し上げます。
 右手の薬指・小指の挫滅創、剥離骨折で何針か縫いました。「壊死するかもしれん、その時は小指を落とす」と医師に宣告されましたが、指先まで血管が繋がり、連日の点滴と服薬で化膿もせずに快復中です。
 ただ、利き手なもので結構不自由を感じています。
 PCの入力も相当可能になりましたが、何というか「生活力」が低下していて「執筆」再開の気力が不足しています。

  身の程知らず
  油断大敵
  天狗の高転び
  生兵法は大怪我のもと
  石で手を詰める
  後悔先に立たず
  いつまでもあると思うな過去の体力

 ご同輩の皆様、もって他山の石としていただければ幸いです。ずばり、人生一寸先は闇、何が起こるか分かりません。

 後から考えると、ほんとうに大難小難 大難小難です。
 受傷時など妻は119番と間違えて110番をダイヤルしたほどでしたし、私は病院に着いた時は貧血状態でした。医師は「肉が欠けている」「縫合できないかも」と言っておりましたが、手術後は看護師さんに私から「記録写真を撮ってくれ」と頼めるほどでした。
 
 (写真では当初三角巾をしましたが、腕には異常ありません。あちこちの打撲傷や擦過傷は無視しています)

2021年5月25日火曜日

2021年5月24日月曜日

橋田寿賀子さんの遺産

   23日日曜日の朝日新聞の曽我豪編集委員の『日曜に想う』 のタイトルは『橋田寿賀子さんの応酬劇』。

 1999年秋、介護保険問題に揺れた。自民党亀井静香政調会長が「子が親の面倒をみる美風を残せ」と言い出し、介護の責任を負うのは社会か家族かとの本質論が再燃。曽我氏は亀井氏に取材を申し込み、「対談なら」と打ち返され、この海千山千の政治家に立ち向かえる人は・・・と困った。

 で、橋田寿賀子さんと自民党本部に乗り込んで対談は1時間に及んだ。橋田さんは、自信満々の政治家に向かい、「介護施設でおばあちゃんが幸せにしていたら、家族は、にこにこしておばあちゃんに接することができる。・・というのが介護保険の原点だったんじゃないかしら」と迫る。

 亀井「介護保険法は親子の関係を切って捨てている」 橋田「切ってません」・・・というようなやりとりが続いた後、曽我氏は、「橋田氏は世間一般の話だけで権力者を追い込めるのだ。亀井氏も「仮定の話だ」と逃げたりはしなかった。自助か公助かが問われるコロナ禍の今こそ、ああした応酬劇を国会で見たいものだが」と締めている。

 ちょっといい記事だった。

赤とんぼ

 歳を重ねたせいか、突然頭の奥底から過去の失敗や反省事項がフラッシュバックしてきて、ため息が実際の口から出たりすることがある。

   半世紀も前のことである。若くして全労働本部に出て最初のオルグが群馬支部だった。その交流会、要するに飲み会で私は「群馬というところはイチジク畑が多いですね」と発言し、皆に「何も知らない若造」と顰蹙を買ったことを覚えている。

 初めて乗った上信越線の車窓に拡がるイチジク畑それは実は桑畑だった。堺旧市街育ちのボンボンの知識にそれはなかった。

 長じて植物に詳しい妻にいろいろ教えてもらって、今では知ったようなことを言ったり書いたりしているが、そんなもので、遊歩道の脇に生えているそれが桑の木(山桑)であることを知ったのもここ10年以内のことである。

 知らないということは見ていても見えていないというか、それは社会問題でも同じで、興味を持つこと、これは何だろうと考える癖をつけないと、”そんなことも知らないのに、やれ、それもこれも知っていると言っている日本人のなんと多いことか”と森田美由紀アナに叱られる。

 今では、散歩のついでにポイッと口に放り込んで歩いている。

 〽 山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは まぼろしか

 三木露風によると山村育ちの姐やは街に出て、桑の実は遠い”思い出”になったようだが、私の場合は半世紀も前の恥ずかしい思い出として残っている。

2021年5月23日日曜日

一億玉砕

   昭和史の大家半藤一利氏の著作の中に次のようなくだりがある。

    朝日新聞は自社の70年史で書いています。「昭和6年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、柳条湖の爆発で一挙に準戦時体制に入るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた」とお書きになっていますけれど、違いますね。沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ。つまり、ジャーナリズムというのは、基本的にはそういうものでね、歴史を本当には学んでいないんですよ ◆

 この話を下世話な言葉でいうと、戦争に反対した方が新聞の部数が伸びるか賛成した方が伸びるかというのが商業新聞のホンネにあって、戦争で国民が疲弊すればするほど美しい戦争の欠片を賛美し、世論を煽る方が部数が伸びたのであった。

さらには、己が煽った結果の「熱狂」によってジャーナリズム自身が引き回され、理性的な主張は急激に部数を減らし、はては「これが世論の声であるから」と理由をつけて己を正当化し、結果はアジアの人々を殺し、凌辱し、略奪していった。日本国民を前線で餓死させ、沖縄では集団自決を強い、大空襲とヒロシマ、ナガサキへ導いたのだった。

そんなことを書きたくなったのは、YAHOOニュースの『週刊ポスト』(524日発売号)の記事に接したからである。

 その中に要旨次のようなくだりがある。◆ 4種類あるスポンサー契約のうち、3番目にランクされるオフィシャルパートナー(協賛金は約60億円)になっているのが「読売新聞グループ本社」「朝日新聞社」「毎日新聞社」「日本経済新聞社」で、4番目のオフィシャルサポーター(同約15億円)になっているのが「産業経済新聞社」と「北海道新聞社」である。それぞれ系列のテレビ局を持つから、事実上、国内すべての全国紙と全国テレビネットワークがスポンサーとして五輪を推進する立場にある。より大きなメリットは、オリンピックの盛り上がりに乗じたイメージアップや販売増、広告増で、そのために五輪批判ができないとすれば問題だ◆

◆週刊ポストが発したアンケートは、17月開催に賛成か、2、開催の場合は無観客にすべきと思うか、3、有観客で開催の場合、社員に会場での観戦を推奨するか、という3つの質問だった。そして、新聞各社はアンケートにどう答えたか。

読売新聞グループ本社「当社は『安全な大会の実現に万全を尽くすことが大切だ』と社説で繰り返し述べています。ただ、観客の有無については東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の結論が出ていない段階で、お答えしかねます」

朝日新聞社「お答えをいたしかねます」

毎日新聞社「新型コロナウイルス変異株による感染が拡大する中での東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催につきましては、選手やスタッフ、観客の安全が確保される一方で、医療体制に悪影響を与えることがあってはならないと考えており、51日付社説でも取りあげたところです」

日本経済新聞社「お答えはしません」

産業経済新聞社「回答は差し控えさせていただきたいと存じます」

北海道新聞社「ご回答を控えさせていただきます」

 読売と毎日はかろうじて回答を寄せたが、「安全が大事」とか「医療体制が大事」などというのは当たり前すぎて社説に値しない。菅首相が壊れたレコードのように繰り返す答弁ペーパーとほとんど同じ文言である。しかも読売は、組織委が結論を出していないことには答えないというのだから、もはや組織委の下部組織であることを自任しているのではないかとさえ感じる。

 そして、これだけの国民の関心事に当事者として回答しない朝日、日経、産経、北海道は、今後、自分たちはどんな理屈で当事者たちを取材するのか不明だし、もはや紙面で何を言っても読者の共感は得られないと覚悟すべきだろう◆

私は週刊ポストの記事に賛成する。

【追伸】 今日5月23日(日曜日)午後2時から日本共産党大阪16区オンデマンド演説会が開かれ、冒頭ゲストスピーカーとして加藤弁英住職が登場する。アドレスは下記のとおり。

https://www.youtube.com/watch?v=XWdwYvedpEA



2021年5月22日土曜日

野に咲く花の名前は

   寺山修司作詞フォークルの歌に〽野に咲く花の名前は知らない、という歌があったが、写真の花(草)の名前はご存知だろうか。わが家の庭を出たところ、隣家の縁の舗装の裂け目から頭を出している”ど根性野蒜”(ノビル)である。

 正確には野蒜はみんなこれくらい逞しいから、取り立てて”ど根性”と冠するほどの希少価値もない。

   世はコロナ危機であるが、こんな時こそ抵抗力を身につける必要がある。医食同源の言葉があるようにその基礎は食材にありはしないか。

 というほど大層な話でなく、この季節、街のあちこちに野蒜が伸びている。妻はこういう野草(山菜)を見つけるのが得意である。でもって、写真のとおり食卓に一品増えたわけで、味噌を甘酢で伸ばして生のまま齧った。ヒリリとした辛みはステイホームでだらけた五臓六腑を「しっかりせい」と叱りつけてくれた。

【追伸】 明日5月23日(日曜日)午後2時から日本共産党大阪16区オンデマンド演説会が開かれる。下記アドレスで冒頭に堺の加藤弁英住職が登場する。下記アドレスを左クリック(ドラッグ)で反転させ右クリックで「…へ移動」を出して選択してもらえれば簡単に見ることができる。テストしておいていただけるとありがたい。

https://www.youtube.com/watch?v=XWdwYvedpEA

2021年5月21日金曜日

加藤弁英師登場

   5月23日(日曜日)午後2時から日本共産党大阪16区オンデマンド演説会が開かれ、冒頭に加藤弁英師が登場する。

 下記アドレスで簡単にアクセスできるので、事前にアクセスできるかどうかのテストをしておいてください。

 スマホなどではチョンとタップするだけでOKです。

 PCの場合は、左クリック(ドラッグ)で反転させ右クリックで「…へ移動」を出して選択してもらえれば簡単に見ることができます。

 後日にも見ることができる予定。検索の場合は、JCP堺チャンネルを検索。You Tube。

https://www.youtube.com/watch?v=XWdwYvedpEA 

楝咲く道

   巣ごもり状態のため退職者会会報原稿に書けるようなテーマや出来事がない。しかし、毎日生きているのだし、その間に自然界は劇的に変化していっている。裸同然だった落葉樹が青々と茂るのに2週間あれば十分だ。考えればすごい生命力である。テレビから「ボーっと生きてんじゃあねえよ」の声が聞こえてきた。

   先日「16日に時鳥の忍び音を聞いた」と書いた。時鳥と来れば楝(おうち)とくるのが『夏は来ぬ』である。そんなもので時鳥の撮影には成功していないが街路樹の楝の花を撮影した。香りを添付できないのが残念だが、想像してほしい。

 図体の割に可憐な花である。街路樹として合格だと思う。

   先日ニュースで、奈良県南部のニュータウンで街路樹を全て伐採したと報じられていた。ニュータウンというのは一般的に人間同様老いてゆく。当初元気よく清掃していた住民も年老い「もう伐ってくれ」と自治会で決めたらしい。”なんと度量の狭いことよ”とはよう言えない私がいる。”家の前は綺麗にしましょう”というレベルではなくなったことも理解できる。高齢化社会では街の清掃も自治体が責任を持つ必要があるだろう。

 そんなことを考えながら、楝の街路樹の写真を撮った。

2021年5月20日木曜日

悪徳弁護士

 日本維新の会は「田中孝博容疑者個人の問題だ」と言っているが、リテラのFBに2020年6月3日のFNNのテレビ画面の写真があった。


   そして、リコール運動が本格的に進められている渦中の2020年7月29日に日本維新の会は愛知5区衆議院予定候補者と公認決定した。それでも「知らない」というのだろうか。日本維新の会という政党はそういうものですか。
 「僕は知らない」と言った河村市長も含めて、ちびまる子ちゃんなら例の口調でこう言うよ、「卑怯だね!」

維新は不正の宝石箱や

   愛知県の大村知事のリコール・解職請求に向けた署名の大半が有効と認められなかった問題で、愛知県警はアルバイトを雇って署名を偽造したとして、署名活動を行った団体事務局長ら4人を地方自治法違反の疑いで逮捕した。

 逮捕されたのは、署名活動を行った団体「愛知100万人リコールの会」事務局長の田中孝博容疑者(59)と、妻のなおみ容疑者(58)、息子の雅人容疑者(28)、それに団体事務局で経理などを担当していた渡邉美智代容疑者(54)の4人。

 田中孝博容疑者は署名偽造問題がマスコミに取り上げられるようになってから維新の会を離党になったが、それまでは愛知維新の会衆議院愛知第5選挙区支部長、早い話が維新の衆議院議員予定候補者だった。

   このことについて哲学者の適菜収氏はFBで、「維新の会の場合、政治家が犯罪に手を染めているのではなくて、犯罪者が政治に手を染めているんだよね」と喝破されている。

 またジャーナリストの吉富 有治氏は、『維新の吉村代表が「厳正に処罰されるべき」と述べてはいますが、そんなことは当たり前の話で、党としての態度はどこか他人事なのです。この手の不祥事が起こるたびに「個人の資格」とか「既に離党ずみ」といった、まるで自分は関係ないという態度を取り続けてきたわけです、維新は常に。「なぜ、このような問題が起こるのか」「党のどこに問題があるのか」「我が党から問題議員を出さないためにはどうすれば良いのか」といった自省と自己分析する能力に欠けているから、その結果が相次ぐ維新議員の不祥事の数々なわけです』と、東京新聞にコメントしておいたとFBにあげている。

 維新は不正の宝石箱や!


2021年5月19日水曜日

今日は雨

   人間界のコロナ騒ぎとは無関係に季節が巡り、子が生まれ、親が育てる。そんな雨空も悪くない。

 前の田圃から郵便局のガレージに低空飛行で飛び込んでくる。

 飛び込んでくる(帰ってくる)親を見つけると子ツバメたちが一斉に鳴いて自分をアピールする。

 親は巣にとまって休むこともなく次の狩りに戻る。子は何事もなかったかのように静かに次の機会を待っている。

 子も親も、巣の下で私がスマホを持って立っていることなど一切お構いなしというのも気分がいい。

おはようおかえり

   5月7日,8日,9日に『ことばは国家を超える』という本の印象を書いたが、その中で著者田中克彦氏が『差別語からはいる言語学入門』というなかなか大胆なタイトルの本を出していることを知ってネットで取り寄せて(行きつけの書店は閉鎖中であった)読んだ。
 その感想を書くには頭の中がまとまっていないが、言語学という切り口から参考になる視点が提供され新鮮でもあった。しかし、まとまっていない。

 『ことばは国家を超える』の方にあったが、表意文字である漢字は差別のオンパレードというか昨今の言葉でいえばジェンダー不平等の性格を色濃く備えている。さらには「御主人」だとか「奥様」だとかの言葉も常々指摘されているものの、ナルホドと圧倒的多数を納得させる決定打も見つかっていない。
 言葉は文字どおり社会の上部構造だから、社会の進歩とつかず離れず「進歩」していくことだろう。

 世界の多くの言葉がラジオ的な中にあって、漢字かな交じりの日本語はテレビ的言語といわれている。ひらがな、カタカナの文字の形には法則性はないが、とりあえず50音を知れば小学1年生でも文がつくれる。そして、長じて読めない漢字があってもなんとなく意味が解ったりする。そして長年同じ文字を使用してきたおかげで多くの人々が歴史的文書をどうにかこうにか読むことができる。こういう利点を残しつつ日本語はどうなっていくのだろう。

 『おちょやん』で「おはようおかえり」という台詞が分からないという声があったらしい。こんな関西弁は残ってほしいが、生活全般にゆとりがないと言葉は死んでいく。

2021年5月18日火曜日

収穫祭

   18日、イクジイの間を縫って昼食後ウスイエンドウの収穫を開始した。といっても、だいぶ以前から何回もたくさん収穫して食べてきたので、今回は夏野菜に土地明け渡しをする「収穫納め」といったところだ。

 しかし天気予報どおりに雨が落ちてきたので4回裏雨天中止となった。少し甘いが5回裏終了試合成立と見なして記録のために写真をアップしておく。

 孫の凜ちゃんは、祖母ちゃんが「何食べたい?」と聞くと、「豆ごはん」と答えてくれるから気分よく豆ごはんを炊いている。

大阪府民は人災に遭っている

   新型コロナウイルス感染者の16日(日曜日)午後9時現在の統計を見ると、新たな感染者は大阪府620人、東京都542人で、人口10万人比でみると、大阪府7.05人、東京都3.87人となる。法善寺の水かけ不動も怒っているように見える。

 感染者数の累計は、東京都152,239人、大阪府94,841人で、人口10万人比では、東京都1087.42人、大阪府1077.74人となる。

 死者数累計は、大阪府1958人、東京都1951人で、人口10万人比では、大阪府22.25人、東京都13.94人となる。大阪では感染後重症化しやすく死亡しやすい。

 人口は、2021年4月1日現在の統計で、東京1400万人、大阪880万人、全国12540万人であるから、大阪府の人口は全国の7%であるが、死者数は全国の17%となっている。

 以上のことから、大阪府が単に人口密度が高いからというような理由ではなく、明らかに政策の失敗とそれに伴う医療崩壊によって死者数が増加していることが見てとれる。

 思いつくままに挙げてみると、府立病院予算の大幅削減、千里救命救急センターの補助金廃止、大阪赤十字病院の補助金廃止、保健所の削減と保健師等職員の3割削減、住吉市民病院の廃止・民間病院の誘致なし、大阪府医師会や各医師会の看護専門学校補助金廃止による廃校、府立健康科学センター廃止、府立公衆衛生研究所と市立環境科学研究所の統合縮小、2月時点での医療機関への重症病床削減要請、そのほか、秋の重要な段階での住民投票実施、3月の重要な時点での一元化条例、府知事はテレビに出ずっぱり、大阪市長は「公務なし」で出勤なし、「大阪発のコロナワクチンの目途が立った」とか、「イソジンやカッパで感染が防げる」とか、・・・これを人災と言わずに何と考えればいい。

 多くの府民が重症化しても入院できぬままに死亡しているが、維新の大阪府議はどういうわけか即入院治療できている。ワクチンの不正な優先接種を報じる在阪テレビ局はそういう事実は報じない。医療崩壊と一緒に在阪ジャーナリズムも崩壊していないか。

2021年5月17日月曜日

梅雨入りの16日

   観測史上最速の梅雨入りと報じられていた16日、ホトトギス(時鳥)の初音(忍び音)を聞いた。昨年のブログ記事を当たってみると5月21日に初音を聞いたとあるから、やはり温暖化のせいだろうか少し早い。今夏は暑いとの予報もあるから雨空のせいだけでなく気が重い。それでも、わが家の卯の花も5分咲きで梅雨に向けての心の準備もできた。
 昨年の記事に、万葉人はホトトギスを「時過ぎにけり」と聞きなしたとの後藤利雄説があった。自分で書いて忘れていた。認知症かも。

   目を足下に転じると、ユキノシタの花が雨空に似合っている。「雪の下でも青々としているから」とか、「2枚の白い花びらが雪の舌のようだ」とか、その名の由来には諸説あるが、写真のとおり、「白雪が舞っているようだから」という説も捨てがたい。

 めちゃくちゃに元気に増える多年草だから「駆除?」しているが、庭のあちこちで咲いているこの時期はなかなかの園芸種である。

 ユキノシタは「すれ違い夫婦」で自家受粉を避けるためにオシベが先に熟して花粉を放出し、メシベが受精可能になったときには自分のオシベは萎れてしまっている。順序が反対の植物もある。自然界の不思議を見ると創造主を思ったりする。

 ユキノシタは薬草にもなり食材にもなる。天ぷらにして食べたことがあるが、愛想がないほど野草らしい癖がなかった。あまりに普通の野菜になってしまったので取り立てて食材にはしていない。考えてみれば贅沢な態度かも知れない。

2021年5月16日日曜日

感動するの?

   作家の平野 啓一郎氏がフェイスブックに書かれた次の投稿にいろいろ考えさせられた。

 曰く『僕は東京五輪反対だが、「感動」と言ってる人は、この状況で日本人選手が勝っても負けても、「感動」なんかするんだろうか? 国内の状況だけでなく、各国の状況を考えると、あまりにも複雑で、比較的恵まれた環境で練習できた国の選手が、練習できなかった国の選手に勝って、……どうなん?』と。

 話はスポーツや歌や芸術の話だが、人の情感に訴えるジャンルに私のような一般庶民はどう反応すべきなのだろうか。例えば、私などはいわゆるフォーク世代だが、フォークというかそれを継いだようなニューミュージックのシンガーソングライターの歌に、作者や歌手の発言や態度は好きではないが歌には心が反応するということがある。もっと言えば、フォークよりもさらに前にはうたごえの時代があったが、スターリン時代のロシアの歌にも、金日成時代の平壌を歌ったような朝鮮の歌にも心を打つものがあった。つまり、ともすれば歌の美しさゆえに歌手や背景さえも美しく感じてしまう怖さのことである。

 4月26日のこのブログ記事に書いたことだが、朝日歌壇の入選短歌をひいて私は、オリンピック予定選手たちや政権周辺の人々が、「オリンピックで感動を与えたい」という発言に如何ともしがたい嘘くささを感じている。一人ひとりの選手が高みを目指す努力の美しさにかこつけて、あえていうが嘘と金にまみれたオリンピックを粉飾しているように思ってならない。

 そこで平野氏のFBである。コロナに掛かっても入院できない、自宅待機中に亡くなった人も少なからずいる。この夏東京に来れる人といえば、いわゆる先進国の人、あるいはスポーツエリートたちだろう。その状況を「感動の祭典」と感じる精神には何かが欠けていないか。

 子曰く「巧言令色鮮し仁」。こんなオリンピックよりも、考えられる全ての力を結集してコロナを抑え込むことの方が感動的なことではないのか。

 補足的にいえば、一部の東京オリンピック反対論者が池江里佳子選手のSNSに「出場を辞退して」と書き込んだことを大きく情緒的に「酷い」という反論キャンペーンが進められている。それとこれとは別だと言っても見事な揚げ足取りに利用されている。こんな時だからこそ、情緒的な発言には冷静に思考する必要がある。

2021年5月15日土曜日

一平、館 直志

   個人の感想だが近頃テレビが面白くない。特に在阪テレビ局がパッとしない。なのでNHK大阪放送局(JOBK=BK)制作の朝ドラが道頓堀と浪花千栄子だと聞いた時は「またヨシモトの下手な芸をステレオタイプの大阪喜劇として見せられるのか」とうんざりしていたが、私のヨミに反して『おちょやん』はしっかりしたドラマであった。その『おちょやん』が幕を下ろした。

 内容は異なるが私には昭和40年代に放送された茂木草介作『けったいな人々』の大阪の匂いがした。道草ながら『けったいな人々』のタイトル画は加藤嘉明氏の切り絵であった。それはさておき・・、

 朝ドラでは浪花千栄子が岡田嘉子からノラの『人形の家』の台詞を通じて人生を学び、渋谷天外と浪花千栄子は岡田嘉子と杉本良吉のシベリア逃避行を手助けして警察に踏み込まれる場面があったが、ドラマの一平はダメ男だったし、天外も現在の倫理からは問題があったかもしれないが、現実には天外は左翼のシンパであった。
 天外の死後発見された『れきしおおじてん』という自叙伝風の原稿には、「笑わせるのが喜劇だと思っている役者と資本家と、そして批評家がいるあいだは、喜劇は笑わせるだけで終わるだろう」とあった。

 そういう意味では、『お父さんはお人好し』の作家長沖一もその親友の秋田実も戦時中は特高の拷問を受けたりした左翼のシンパだった。

 天外の喜劇作家としてのペンネームは複数あったが、一番有名であったのは舘直志で、その名の由来は「矛盾だらけの世の中を建て直したい」だった。

 そんなことを言いたくなったのも、昨今の在阪テレビ局がやたらにヨシモト芸人をコメンテーターなどとして登場させ、そのコメンテーターが嫌というほど権力者に媚びた発言を繰り返すのに辟易していたからである。もちろん、ヨシモト芸人全員というわけではないが、かつて大阪の芸人や作家は、米朝、龍太郎、義一、いとこい等々、そんなお追従はしていなかったと思うからである。こういうのを隔世の感というのだろう。

2021年5月14日金曜日

とっておきすぎた珍味

   最初はパチンコ店がさらし者にされたが、その後は飲食店がウイルスの親玉扱いされている。さらには飲食店だけでなく家族間の食事にまで黙食だとかマスク会食を言う偉い人が出てきた。馬鹿も休み休み言え!五人以上の大家族は毎日ルールを破っていることになる。

 ただ、そういう風潮は何となくわが家にも漂ってきて、ファミリーでパーティーなどもめっきり減った。先日はこどもの日にティーパーティーをしたが・・・。

 そんなもので、次にパーティーをするときのためにと思って買っておいた食品が出番もないまま隠れていた。そして先日、娘と孫が夕食に来る日に「そうそうあれを出そう!」と気づいて豆腐餻(とうふよう)を引っ張り出したら賞味期限は4月30日だった。これもコロナ被害だ。どうしてくれる!

 ただし!!、島豆腐を泡盛の古酒と紅麹で半年以上漬け込んだ発酵食品に賞味期限は笑止千万。味も全く問題なかった。当たり前だ。娘は半切れほどを口に入れてウワァと叫んでから「爪楊枝で食べてください」という説明書きを読んで反省した。妻は「よく漬かって美味しなったン違う」と、美味しい美味しいと大きな塊ごと食べた。まさに琉球王朝珍味である。

 珍味と書くと誤解が起こるといけない。味はクリーミーな最上級のチーズであり、世界中を食べ歩いた小泉武夫先生は「中国や台湾にも紅豆腐はあるが、正直言って沖縄の豆腐餻の比ではない」と書いておられる。

 豆腐餻は今般日の目を見たが、どこかに、まだ宴会用にとっておいた珍味が隠れているかもしれない。使用しない食器洗浄機がわが家の珍味蔵になっているのだが、底の方には怪しげな鰊の缶詰も転がっている。

2021年5月13日木曜日

大和黒条蛇蜻蛉

   大和黒条蛇蜻蛉(ヤマトクロスジヘビトンボ)(80~120ⅿ)は漢字を見るとおどろおどろしい。見た目はカゲロウの化け物だ。そして大顎で噛みつくというから(私は噛みつかれたことはないが)態度?も悪い。

 奈良市内に出たついでに人が全くいなくて健康そのものの奈良公園でお目にかかった。

 第一印象はトンボというよりもカゲロウの化け物でふわふわふわと飛んできた。実際、トンボ目ではなくヘビトンボ目が立てられている。写真は東大寺ミュージアムの傘立てにとまったところを撮った。

 珍しい昆虫で奈良県でも絶滅危惧種らしい。樹液を吸うというところもトンボとは相当縁遠い。幼虫は水中にいる孫太郎虫で、子どもの疳の虫に効くという漢方薬ならぬ和方薬。さらにはお酒のアテになったらしい。

 孫太郎虫という名前の由来は諸説あるが、奥州斎川の孫右衛門という後期高齢の老百姓と老妻が好んで食していたところ懐妊し、その子孫太郎は健やかに成長したという一説もある。毎日5匹1串をあぶって砂糖醤油につけて食べると滋養強壮に効くというから、高齢者が無計画に?食べるのはちと危険かもしれない。

 奈良公園は東大寺と春日大社に守られた森(山)のおかげで清流が保たれ、こういう希少な昆虫も生き延びているのだろう。

2021年5月12日水曜日

議席占有率22%強

   精華町議会議員選挙(5月16日投開票)が11日に告示され、共産党は定数18に4人を立てて選挙戦をスタートした。候補者は佐々木雅彦、坪井久行、松田孝枝、竹川ますおの各氏。

 コロナ下で菅自公政権の有害さばかりが目について町の選挙など霞んでしまいそうだが、考えれば、モリトモの財務省ではないけれど、町が政権に忖度して悪政の手先になるのか、町民の声に依拠して筋を通すのかがこれまで以上に問われている。

 つい先日行われたワクチン接種の申し込みも、私はインターネットでたまたま予約ができたが、多くの高齢者は「電話がつながらない」と悲鳴を上げている。共産党は直ぐに行動して第3次、第4次の受付ができることを明らかにさせたが、世間の言葉でいえば町はお役所仕事で、町民の不安にどう応えようかという姿勢が見えない。

 さらに、巨大災害並みのコロナ禍だというのに、町長は水道料金の値上げ案を撤回せず、政権の75歳以上の医療費2倍化にも、町民の防波堤になって対峙することもしていない。

 精華町の共産党は、20001年に4議席になった力で小学校までの子どもの医療費無料化を実現し、さらにその後は中学校卒業時まで無料を実現した。この実行力を未来につなげるためにも、この選挙は負けるわけにはいかない。新人で、名前も浸透していない竹川ますお氏を落とすわけにはいかない。

 ・・・と原稿を書いている途中で、(17時過ぎ)立候補者数が定数と同数で無投票当選の知らせが入った。基礎体力の勝利と一応は祝っておくが、下手な安住をすると4年後に足をすくわれる。議席占有率は18分の4で22.22‥%。コツコツとでも実績を積み上げることが求められている。

2021年5月11日火曜日

やはり褄黒豹紋

   珍しいヒョウモンチョウかとスマホで撮ったら珍しくはないツマグロヒョウモンだった。それにしても豹紋が鮮やかだ。

 秋冬春先までの花というとパンジー、ビオラが大流行りなもので、食草がスミレであるこの蝶が増えている。反対にキャベツが大好きなモンシロチョウは農薬のおかげで激減したように思える。

 各都道府県にはシンボルの樹木や野鳥などがアピールされているが、大阪府はこの蝶を大阪府の蝶に指定しないものかと思っている。

 大阪府下に多く生息しているし、なにしろ豹柄というのがいい。悪口をいうと、カバマダラという毒蝶に擬態しているというのが維新の府市政と似合っている。

 タテハチョウの仲間は「枯葉蝶」のように木の葉によく似ているものだが、「豹紋」というのは人間が勝手にイメージしただけで、やはりこれも「枯葉」に擬態したものかもしれないと、この写真を見直してからそう思った。

2021年5月10日月曜日

バードウィーク

   5月10日から16日は愛鳥週間(バードウィーク)。今年は春が暖かかったので恋の季節も早まったのだろうか、愛鳥週間を待たずに雀の雛がゴミステーションに「落ちていた」。

 朝出かけるときにスマホで写真を撮って出かけ、夕方帰って来たときには特段羽根が散らかってもいなかったから、猫や鴉に食べられずにどうにかして無事親雀の元に戻れたのだろうと想像しておく。

 日本野鳥の会などは「雛を拾わないで」というキャンペーンをするが、人間が「善かれ」と思って雛を拾って樹に返したりすると、親鳥が人間の匂いのする雛を育児放棄するらしい。

 それでも放っておけば親元に帰れなかったり猫や鴉に食われたりするではないかという反論もあるかもしれないが、それはそれで自然界のノーマルな掟とするらしい。

 椿の街路樹の中にはヒヨドリが巣を作っていた。親のいない時にこっそり覗かせていただいた。雛の声がしてからは近寄らないようにしていたが、しばらくして挨拶もなく巣立ちしていった。

 京都府ではあるが海なし県奈良県の北の端に接している。この街でイソヒヨドリを初めて見たのは12~3年前のことだった。磯鵯という名のとおり本来?は海岸べりにいたらしいが徐々に内陸部へ進出してきた。だから、背がコバルトブルー、腹が鮮やかに赤い婚姻色のこの鳥を初めて見た時には「これはきっとガイドブックにあったアカハラだろう」と思ったくらい珍しい出会いであった。ところがところが、近頃はこの街を代表する鳥ではないかと言いたいぐらい飛び回り囀りを賑やかに交わしている。

 明日は奈良市内に出る用があるので、少しの時間、奈良公園に夏鳥のキビタキが来ていないか探してみようと思う。バードウィークだ。

2021年5月9日日曜日

ウラル・アルタイ語からの異議申立て

   【昨日の記事から続いて】田中克彦著『ことばは国家を超える』を読んで新鮮な感動を覚えた中の一つに、「屈折語が優れているというのは誤り」という説がある。

 言語には大きくは3つの型がある。屈折型、膠着型、孤立型で、屈折型とは例えば単数と複数や形容詞と名詞が、あるいは過去形などが manーmen、foodーfeed、のように中の母音などを入れ替える(というように屈折させる)印欧語など。

 膠着型は日本語のように複数を表す場合は「タチ、ラ、ドモ」などを語尾にくっつける(ニカワ(膠)でくっつける)というようなウラル・アルタイ語。

 孤立語は文法専門の言葉がなく文字の位置でそれを示す、典型的には中国語。(以上のコメントは非常に粗っぽいコメントであることを付記しておく)

 そして少なくないヨーロッパの学者たちは、東洋に比べて西洋が進んだのは屈折型の言語が優れているからで、膠着型や孤立型の遅れた言語は遅れた思考・思想・文化を生むと主張した。あるいは孤立語や膠着語は屈折語に進化するだろうと。

 しかし著者は多くの論をひいて、屈折語の屈折(文法)には多数の例外があり、孤立語は文法上は舌足らずで、それに比して膠着語の文法の変化は規則的だと指摘し、ロシア語の文法の一部などでは屈折語が膠着語的な変化を示していて、孤立語も例えば中華的〇〇の「的」のような膠着語的な文字が生まれつつあることを指摘している。

 よく本やメディアなどで、「日本語は最後まで聞かないと賛成か反対かもわからない。それに比べると英語は・・」などと日本語(膠着語)が劣った言語であるかのような指摘を見たりしたことがあるが、「印欧語はアルタイ型膠着語の技術的完成度にはまだ遠いものがある」との指摘には、少し国粋的感情で溜飲が下がった。【後編へとつづく】

 【後編】その昔読んだ本では「日本語はウラル・アルタイ語ではない、世界でたった一つだけの例外的な言語」というのもあった。確かに非常に近接しているアイヌ語、朝鮮語、モンゴル語、そして中国語ともいろいろ近い部分もありながらたくさんの相違点があったことは事実である。しかし今考えると、脱亜入欧した日本の言葉が、「あんな奴らと一緒(親戚)にされてたまるか」という民族感情と表裏になっていなかっただろうかと思う。

 脳の中での思考は基本的には母語で行なわれる。そして母語には風土や歴史に培われた文化がくっついている。反語的にいえば、同じような言葉をしゃべり、よく似た感情を共有するものが民族というひとつの概念かもしれない。

 『ことばは国家を超える』の田中克彦氏は「言葉とアイデンティティー」の章で、2020年夏に中国当局が、内モンゴルの小中学校でモンゴル語を教えるのを禁じたことを告発されている。皮肉かもしれないが「中国ではおそらく、ウイグル語やモンゴル語のような非文明語は、(いずれもアルタイ語だ)ウイグル人、モンゴル人本人にとっても迷惑な言語だから、なるべく早く、こんな劣った言語はやめて漢語(シナ語)に入れ替えた方が本人たちの幸せになるのだという信念があるのかもしれない」と、そしてこの考え方はフランス革命時のフランスにもあったし、チョムスキーの言語観とも食い違っていないとも。

 一国内の少数民族ではなく国境を越えた民族には、スペインとフランスに分断されたバスク人、イラン、イラク、トルコ、シリア、アルメニア、アゼルバイジャンの6カ国に分断されているクルド人、モンゴル、中国、ロシアに分散するモンゴル人、そしてウイグル人や中央アジアの民族の中にはそういう民族も少なくない。ソ連時代にはチュルク諸語のローマ字化が進んだが、2002年プーチンは法令でもって「ロシア連邦の諸民族の言語はキリル文字を基礎にしなければならない」と命じた。

 国家、国境という魔物は言語のジェノサイドを現に進行させている。言語学の本を買ったつもりが世界の見え方まで変わってきた。(これは決して書評ではなく、この本を読むうちにいろいろ考えさせられた雑文である。)【一応おわり】

2021年5月8日土曜日

大野 晋 先生

   振り返ってみると大野晋先生の本はたくさん読んできた。1957年版『日本語の起源』、1994年版『日本語の起源・新版』その外いろいろ。・・記憶の奥底を探してみると先生がテレビで「万葉時代の人々はこんな風に会話をしていました」と言って、やたらにふわふわふわふわと話しているのを見て(聞いて)、大きな刺激を受けたところから始まったように思う。ちなみに母「はは」は昔は「ふ」でさらに昔は「ぱぱ」であったと、まるで卑弥呼の会話を直接聞いていたかのように語られていた。

 それに氏の話は、ユーラシア全般にわたる言語、歴史、考古学、民俗学、文化史等々に及び興味は広がる一方だった。現代風にいえば学際的な博識と緻密な論の詰め方も魅力的だった。ただ、タミル語(南インド)世界と日本人・日本文化の親近性については何となく無理がある感じがしたまま、次の展開はどうか?とよく似た本を探し続けてきた。

 そんな気分の続きで、先日書店で田中克彦著『ことばは国家を超える』(ちくま新書)という本を買って来た。選んだ理由には、私の西域、ユーラシアへの興味とも重なったからかもしれない。

 さて日本語の起源というとダーウィンの進化論のイメージが湧いてくる。数少ない生物から複雑で高等な生物が順々に枝分かれしていったというあれである。掲げた『ウラル・アルタイ語共通基語』(ソ連のアルタイ学者バスカコフ作)はそういうイメージに近いかもしれない。しかし著者は「それは意味がない」と大野晋先生をはじめとする「音韻法則に幻惑された日本言語学の科学主義」を一刀両断の下斬り捨てている。

 例えば定説のように広まっている印欧祖語(進化論の樹でいえば根っこ)についても、後にモスクワ大学総長になったトルベツコーイの論などをひいて、現実的存在としては考えにくく、印欧語成立のはじめの段階ではいくつもの消滅した未知の言語があった。それが相互に接触しながら印欧語(主としてヨーロッパの言語)ができていったと・・・

 ということで私の中の既成概念が殴打され、次々に提起されている新しい視角をワクワクしながら読み進んでいる。この本は私に買われるように書店に並んでいたのであった。(行きつけの書店はコロナ閉店中)【明日につづく】

2021年5月7日金曜日

ラ行は頭に来ない

   本を読んでいて、主旋律ではない道草の部分で笑ったり記憶に残ったりすることがある。
 まず掲げたのは上野誠著『万葉ことば』の索引で、限られた小さな本だが「ラ行」のないことが見て取れる。頭に「ラ行」が来る言葉は古典の日本語にはなく、「ラ行」は漢字語や西洋語ルーツに限られる。多くは漢字の音読みである。

 先の元号改元の際、典拠が漢籍ではなく万葉集だということで「画期的なこと」と礼賛する声が主として安倍首相(当時)ら日本会議の人々から発せられたことは記憶に新しい。
 このことについて一橋大学田中克彦名誉教授が、「令和という、こんなラ音で始まる本来の日本語にはなかった発音様式は困った名づけだと思った」と本に書いておられるのは新鮮な指摘であった。(ロシアと遭遇した日本は「おろしゃ」と呼んだし、ハンガリー語では今も「オロス」らしい)

 私は『漢字は日本語である』小駒勝美著の論を支持するから、そもそも元号が漢字であっても漢籍に基づくものであっても構わないと考えているが、上の指摘は、テレビなどで「日本由来だ、日本由来だ」と政権に見苦しい程忖度してよいしょをしたコメンテーター等が如何に薄っぺらであるかを指摘していて痛快であった。

 改元時に書いたことだが、万葉学者は「当時の梅はあこがれの中華文明の典型」「今流にいえばバタ臭い樹」だったと指摘しているから、どうでもいいようなことだが、「令和というのは日本的でよい」とはしゃいでいる人々は少しは落ち着いた方がよいと思う。【明日へ続く】

2021年5月6日木曜日

お茶請け

   「甘いものが好きなんて、まるで子どもみたい」というのは一寸おかしくて、私も妻も歳を重ねてから甘いものがより好きになっている。
 特に和菓子はそうで、内も外も餡子の生菓子なんて子どもの頃はこんな甘いものが好きな人がいるなんて信じられなかった。
 反語的にいえば、甘いものが好きなのは大人の証拠で、甘いものの味が判らないのは子どもなのかもしれないと思うようになっている。
 そんなもので、追々お茶請けのことも書いてみようと思う。

 第一段は柿もなか。柿の名産地、奈良は西吉野の柿専門店『いしい』の柿もなか(最中)で、近頃のわが家のお茶請けの定番になっている。
   この話の冒頭「甘いもの」を推しながら矛盾するが、中身は餡子でなく少し加工した干し柿で、あまり甘くないのがポイント。「やっぱり甘いのが苦手では・・」というよりも、ここは「上品な甘さ」と答えておこう。

   昨日は粽と柏餅を食べたが、コロナ自粛で出不精癖がついてイオンのそれらで間に合わせた。よって、それについては特記事項なし。

2021年5月5日水曜日

端午の節句

 端午の節句。江戸幕府が式日に定めてから武者の行事の色合いが濃くなったが、元々は中国伝来の宮中や貴族社会の節供と、農村の田植えの神迎えなどの素朴な神事が集合した行事で、戦後の「こどもの日」は先祖返りしたよい例だと思う。

 鯉のぼりも、元々は頂部の風車・杉の葉・目籠に依代や魔除けなどの意味があったのが、副次的な幟の方が元気や健康のイメージと合ったのだろう、いつの間にか主客転倒したようだが、これはこれで進歩・発展だと思う。

 きょうは午後に孫の凜ちゃんが来る予定で、上手く菖蒲の鉢巻きをしてやろうと思っているが、普通の帽子すら強烈に拒絶するから一大事になるだろう。

   写真はプラレール用の「踏切」を作ったもの。何日、否、何時間持つだろうか。遊び終わったら投げ捨てるに違いない。

  義父母には昔の話を何回か聞いたことがあったが、この季節には粽を手作りして親戚その他に配っていたらしい。

 最晩年に入居施設で義母にそんな話をすると、ほとんど居眠りばかりの中で、「こんな風に包みますねん」と嘘のようにてきぱきとそのしぐさを見せてくれて感動した。

 何でもある現代から義父母の時代を見ると、お金の話ではなく、季節に合わせて粽などを作って配ったという、その時代の方が本当に貧しかったのだろうかと考えさせられる。

   踏切、少し補充しました。


2021年5月4日火曜日

こんな時代もあった

   昨日は憲法記念日。朝ドラ『マッサン』の登場人物でもあった佐治敬三氏が「君が代に代わる国民歌」を作ろうとした時代があった。日本国民の多くが手探りで民主主義を育てようとしていた時代。その歌『われら愛す』を私は小学校で習った。

 民主主義指向にしては、文語の歴史的仮名遣いはそれもあの時代らしい御愛嬌かも。歴史から消え入りそうなそんな話を今日は書き留めておくことにしよう。

 『われら愛す』は、1953年(昭和28年)、壽屋(サントリー)の佐治敬三社長が中心となって呼びかけ公募し、君が代に代わる国民歌とすべく作られた曲。作詞:芳賀秀次郎、作曲:西崎嘉太郎、編曲:高浪晋一。 

1.われら愛す  胸せまる あつきおもひに  この国を

 われら愛す  しらぬ火筑紫のうみべ  みすずかる信濃のやまべ

 われら愛す  涙あふれて  この国の空の青さよ  この国の水の青さよ

2.われら歌ふ  かなしみの ふかければこそ  この国の  とほき青春

 詩ありき雲白かりき  愛ありきひと直かりき  

 われら歌ふ  をさなごのごと  この国のたかきロマンを  この国のひとのまことを

3.われら進む  かがやける 明日を信じて  たぢろがず

 われら進む  空に満つ平和の祈り  地にひびく 自由の誓ひ

 われら進む  かたくうでくみ  日本のきよき未来よ  かぐわしき夜明けの風よ


 明日は端午の節句。菖蒲湯に入って菖蒲を1本抜いて鉢巻きにするのがわが家の習い。こういう決して害にはならない行事・しきたりは子や孫に伝えた方がよい。社会の進歩や民主主義を願う人々は、同時に文化や伝統も大事にする心豊かな人であってほしい。賛同者求む。

2021年5月3日月曜日

黙すな憲法記念の日

感染(うつ)すな黙(もく)せ憲法記念の日

菅義偉首相とバイデン米大統領の日米首脳会談が416日午後(日本時間17日)に開かれ、共同声明に「日米同盟を一層強化し」「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調し、両岸問題の平和的解決を促す」と明記した。1969年の佐藤ニクソン共同声明以来52年ぶりに「台湾」を日米首脳の共同合意文書に盛り込んだ。

中国による東シナ海や南シナ海における覇権主義、香港や新疆ウイグル自治区などにおける人権侵害は、もとよりきびしく批判されなければならない。そのさいに何より重要なことは、中国による国際法に違反する主張と行動を具体的に指摘し、国際法の順守を冷静に求めていくことにある。

ところが日米共同声明は、中国のこれらの問題への対応を「日米同盟の強化」の文脈に位置づけ、国際法にもとづく冷静な批判を欠いたまま、軍事的対応の強化をはかっている。これは「軍事対軍事」の危険な悪循環をもたらすだけである。

 外交で解決すべきだというと「それはお花畑だ」と罵る意見があるが、台湾有事は沖縄米軍基地と直結している現実こそ重大である。米中戦争に巻き込まれない沖縄はありえない。そういう日本が問答無用で戦争に引きずり込まれる危険性を考えない方が「お花畑」だと私は考える。

 北朝鮮に対しては、日本政府は敵基地攻撃能力で対抗しようとしている。この論は、敵基地からミサイルが発射されてからでは遅いから、「撃ってくるかも」と判断した時点で先制的に攻撃するわけであるから、「自衛のためだった」と言えばいつでも戦争のできる理屈である。

 そもそも核抑止力というものはチキンレースである。時々暴発する野蛮な側が恐れられ、理性的な側の抑止力には恐怖感が生まれない。平和憲法を維持しながらの抑止力論はあり得るようでありえない。重ねて言うが、抑止力で相手をひるませるためには時々暴発することが絶対必要条件である。故に私は、核抑止力論も詰まるところ「お花畑」だと考える。

 冷静に歴史や現実を見ると、戦争というのは詰まるところ科学水準、生産力、人口、道理(大義名分)、地の利等の総合的な国力の差で結果が出る。PCR検査もワクチンの生産と接種も世界最低水準の政治力の国にどんな勝算があるというのでしょう。結局、軍事力強化論者の方が表向きは現実的に見えて実は夢想者だと私は思う。

  今日は憲法記念日。自民、公明、維新が憲法審で国民投票法改定案の採決を狙っている。コロナ対策で非常事態法など言うは、火事場泥棒というしかない。#国民投票法改訂反対

2021年5月2日日曜日

命の選別

   時事通信が報じたところ、慶応大の浜岡豊教授(応用統計学)が各都道府県の新型コロナウイルスへの対応や影響を統計学的に分析した結果(論文は専門誌「科学」(岩波書店)5月号に掲載)、大阪府が最低・最悪だということが明らかになった。

 その大阪府で、健康医療部医療監(次長級の幹部)が府内の保健所長あてにメールで、「年齢の高い方については入院順位を下げざるを得ない」「・・看取りも含めて対応を検討いただきたい」と求めていたことが明らかになった。この要請はその後撤回されたが、テレビなどで取り上げられたこともあり、世間には「いわばトリアージみたいなもので理解できる」という感想も耳に入って来た。はたして・・・

 トリアージについては門外漢ではあるが、文字どおり想定外の大規模災害の際の治療の順位付けと理解している。それが、1年前から想定あるいは問題意識が議論されていた病床確保について無策であった当事者・大阪府が、それを言うかとまずは指摘しておきたい。

 次にトリアージの順位付けは基本的には、次のとおりとされている。標準的トリアージタッグでは、 

黒(black tag - カテゴリー0(無呼吸群)

 死亡、または生命徴候がなく、直ちに処置を行っても明らかに救命が不可能なもの。

赤(red tag - カテゴリーI(最優先治療群)

 生命に関わる重篤な状態で一刻も早い処置をすべきもの。

黄(yellow tag - カテゴリーII(待機的治療群)

 基本的にバイタルサインが安定しているものの、早期に処置をすべきもの。

 一般に、今すぐ生命に関わる重篤な状態ではないが処置が必要であり、場合によって赤に変化する可能性があるもの。

緑(green tag - カテゴリーIII(保留群)

 歩行可能で、今すぐの処置や搬送の必要ないもの。完全に治療が不要なものも含む。

 そして搬送・救命処置の優先順位は、I → II → IIIとなり、0は最後に救護所へ搬出される。ここには高齢者つまり患者の社会的な要因は斟酌されていない。これが原則だということを確認しておきたい。

 これとは別に、患者によって優先順位をつける考え方もある。かつて米軍は、野戦病院で限られたペニシリンを、重篤な患者ではなく性病の兵士に優先して投与した。ペニシリンで性病が治った兵士は即前線に投入できるが、他の重症者は戦争目的に照らせば値打ちが低いということだった。これは戦争目的の活用度だとか、場合によっては一兵卒よりも上級将校の値打ちが高いというような順位付けになり、現代社会では首肯できない理屈ではないだろうか。

 しかし株式会社的「成果主義」あるいは「投資効果」でいえばある種「合理的」に見えるところがあり、「社畜」と呼ばれるように飼いならされた「勝ち組」には結構浸透している考えかも知れない。

 先のメールは、「高齢者施設の入所者で延命治療を望まない人」を例えにあげているが、私の場合親の介護の経験があるが、そのターミナルケアのあり方について、「手術や胃瘻措置を望まない」と決断、押印をした経験もあるが、それは文字どおり尊厳ある終末期の姿のためであり、決して、人間的価値が低下乃至無くなったと考えたためではなかった。

 そういう崇高な断腸の思いの決断を、「だから治療はもういいではないか」とつまみ食いするようなことは医道というか人の道に反する行為だと私は思う。

 私は以前に、入居している高齢者よりも施設のスタッフこそ優先的にワクチンを接種するべきだと書いたが、それは人間の順位ではなく、コロナ感染対策上の有効性を考えた場合の理屈であった。

 最後に、「将来性のある一般成人に比べて高齢者へのワクチン投資はもったいない」という論は、病弱者、障害者は生きている値打ちがない、低いという論に流れ、上級国民と下層国民という論にも結び付く。つまり人によって命の重い軽いがあり、より救うべき人間と捨ててよい人間とに選別する。

 日本国憲法のどこにそんなことが書いてあるか。非常事態を目前にすると正常な判断を困難にする人がいるように思う。

2021年5月1日土曜日

メーデー事件と全労働

 今日はメーデー。少し古い話を書かせていただきたい。

   今から50年(半世紀)前、私が全労働中央執行委員に選出され労働本省内の組合本部で働いていた頃、労働省内に、囲碁が大好きで大臣や次官やあるいは全労働委員長など片っ端から人を捕まえては囲碁を指南して回っている愉快なおじさんがいた。

 当時囲碁を知らなかった私にまで碁盤と碁石をプレゼントというか押し付けて、おかげで囲碁の基本のキだけは指せるようにしてくれた。

 囲碁の話は置いといて、この愉快なおじさんが屋宮為麿氏で、全労働単一以前の本省職組委員長その人であった。

 1952年(昭和27年)、政権は破防法体制を強化して労働運動の高揚に対決し、1月の白鳥事件、2月の青梅事件、6月の菅生事件、枚方事件、吹田事件、7月の芦別事件など多数の弾圧、謀略事件を引き起こしていた。その途中にあったのが「血のメーデー事件(メーデー事件)」であった。

 中央メーデーは1946年から1950年まで皇居前広場で行われていたが、1951年には占領軍が皇居前広場の使用を禁止し、1952年には官労傘下の本省職組、全基準、全商工、全司法などの組合員150人が「人民広場(皇居前広場)を使わせろ」と厚生省に押し掛けたが拒否され、東京地裁も「政府の広場使用禁止は憲法違反」として「取消し」の判決を下したが、政府は態度を変えないまま中央メーデーは神宮外苑で開催された。

 そして中部、南部コースのデモ隊が解散地点の日比谷公園からほゞ隣接する皇居前広場に入り解散集会を開こうとしたところ、武装警察官がピストル、ガス弾、警棒を用いて襲いかかり、2人を殺害し女性や子どもにも殴る蹴るの暴行を加えた。その上に、1232人を逮捕し、261人を起訴した。

 単一前の全労働は、本省職組の460人を中心に700人がこのメーデーに参加し、皇居前広場は日比谷公園から当時労働省や東京労働基準局のあった竹橋方面への帰り道にあったがこの渦中に入り、本省職組屋宮委員長ら4名が逮捕、拘留された。

 その後警察は、なんとか立件しようと屋宮氏の素性や日頃の言動を調べ回ったが、誰一人として氏を悪く言って材料を提供する者なく、警察も誰もが認める人柄に手をあげて、片や全労働の抗議行動と救援カンパ活動も進み、ついに6月に釈放を勝ち取った。

 以上のことは、もちろん私は聞いただけの若造だったが、当時の労働本省内部では誰もが知っている話題であった。屋宮氏はハハハハと笑っていた。

 1972年11月、東京高裁は「警官隊法違法、騒乱罪不成立」の勝利判決を下した。時代も各種の条件も異なるからこんな話は適当に聞き流しておいてほしいが、そんなこともあった。そして私は屋宮氏に可愛がってもらった。私が本部在任中のあるメーデーの後、屋宮氏から確か次のような俳句を投稿してもらって機関紙全労働に掲載した記憶がある。メーデーや子を負いて子の靴下げて

 今日は第92回メーデー。これは国連等によって認定されている国際デーのひとつである。

 新型コロナによって非正規労働者は生命の危機にある。ソーシャルワーカーは破裂寸前の緊張、過重労働にある。10時から12時に『#メーデー2021』でツイッターデモに参加してほしい。ツイッターを持っていない人は30分もあれば取得できるから挑戦してほしい。先輩たちが築き守って来たメーデーの心を引継ぎたいものである。先輩たちの苦労を思えば「ツイッターのインストールがしんどい」などという言葉は出せない筈である。