2015年2月28日土曜日

洞(ほうら)村の痕

  奈良県立橿原考古学研究所付属博物館へ行こうと近鉄畝傍御陵前駅で下車をしたら、駅前に「おおくぼ まちづくり館」への道案内の矢印が目についた。
 薄い記憶によると、もしかしたら2月12日の記事に書いた「洞(ほうら)部落強制移転」の史料館ではないかと、どこかでそのように読んだ気がしたので、行き当たりばったりで行って見ることにした。
 行ってみて判ったのだが、その地こそが洞(ほうら)村の強制移転先で、洞(ほうら)村の生業や移転問題を展示している史料館だった。

 そして、移転問題の展示も読み、説明も聞き、ビデオも見たが、大正、昭和のこととはいえ、史実はなかなか霞がかかった感じがした。
 というのも、そこで購入した本にも「天皇(制)による洞部落強制移転」とは書かれてはいるのだが、表層的には「識らず知らずの間に御陵の尊厳を冒するに至るなきや・・・今回住民あげて他に転住し、地域全部を御料地もしくは神苑地に・・・相当御下賜金を得て、献納いたしきことに・・・」と、村の方から「願書」が提出されて進行しているからで、それは単に強制を隠ぺいする姑息な手段であっただけでなく、「この機会に念願の部落の改善」を図ろうとした「融和運動」でもあったようだ。
 その本には、本村との再合併を通して洞(ほうら)村の改善を考えた村の指導者たち、神武天皇陵の拡張を考えていた政府・宮内省、洞(ほうら)村の移転を促す差別主義的な民間の動き、融和運動の全国的指導者の運動等がひとつに合わさって起こった出来事だと書いてあった。
 結果は、残念ながら土地は狭くなり御下賜金はインフレで相当目減りし、新しい土地でも露骨な差別に苦しめられたと言われている。
  やはり本質は、そこの「民間の動き」に露骨に示されたような、・・初代天皇の神地、聖蹟を見下ろす神山に穢多村があり、その土葬墓が存在するのは言語道断・・との主張に基づき、故地から抹殺されたものだと思われる。
 事実、移転反対者には警官が説得にあたったり、土葬墓の移転に際しては「一片の骨さえ残すな」と警官監視の下に掘り返されたとか・・・・。
 郡長の文書にも、「特に神武御陵兆域を眼下に見るの地位にありて、恐懼に堪えざること」と正直?に述べられている。

 帰りに、見当をつけて旧洞(ほうら)村と思われる方向に山道を入ってみた(下の写真)が、行き当たりばったりの探索ではこの目でその痕を確認することはできなかった。
 正確に言えば、途中でぬかるんだ小川のようなところを越えるのをズック靴のため諦めた。ハイキングシューズなら行けただろう。(後で確認したら、この道?で間違いはなかった)

 資料では、共同井戸の跡が残っていたり、丸山の地には「宮」と彫った石柱が今も建っているらしい。


  引用した文書に蔑称があったり、ここが移転先だと書いたりしたが、この地の現在はそういう事実を乗り越えて現代の「まちづくり」を進めてきたらしいので、そのようにこの記事でも記述した。記事の趣旨が不当な差別を告発している立場であることはお判りいただけると確信している。

2015年2月26日木曜日

上肢障害を実感する

  今は昔の昔話になるが、世の中では昭和30年代から事務作業の機械化・合理化が進み、その当初はキーを打鍵することで紙テープに符号化された数字を穿孔(穴あけ)し、その紙テープ(鑽孔(さんこう)テープ)をホストコンピューターへ送って電子計算機に読み取らせることでデータの処理をするものだった。
 その穿孔の打鍵作業をパンチともいい、その作業者をキーパンチャーと呼んだ。
 私も従としてそうした作業に従事したことがあり、当時の機械は性能がよくなかったため、1日かけて打ち込んだ紙テープがダメになったときなどはがっくりきたものだった。
 この作業従事者に発生したのがキーパンチャー病・腱鞘炎・頸肩腕症候群という職業病で、パンチャー以外の職種も含めて社会的に大きな問題となった。
 問題は労働組合や患者団体・支援団体が大きく取り上げる中で、労働時間や作業環境、そして機械そのものが改善される等によって徐々に改善されていった。そのうちに、そもそも紙テープの打鍵作業というものが無くなり、磁気テープの時代を経て大型コンピューターの端末機で直接入力作業をするようになって、これらの事柄も昔話になっていった。
 
 先日、友人が腕が痛いので医者に診て貰ったらテニス肘ですと言われたと言っていたが、要するに腱・筋の炎症・微断裂で、「腕を使うな」と言われたとこぼしていた。
 その時、私も棚等のモノを握って取り出すのが痛いので、肉離れを放置していたからだろうと話したが、指に魚の骨が刺さったうえに腰も痛いので、腕も含めて整形外科で3箇所のX線を撮ってもらって診断をしてもらったら、私も上腕骨外上顆炎つまりテニス肘だと診断された。
 自分では農作業か日曜大工の時に無理をしたのかなと思っていたが、それよりも振り返ってみると典型的なOA機器病に思えた。
 というのも、ひょんなことから3時間の講演を引き受けたため、そのレジメと原稿を寒い冬の間中、ああでもないこうでもないと第1稿から第6稿ぐらいまで、結構集中してキーを叩いて作っていたからである。
 紺屋の白袴と言ったところだろうか。
 こうしてこの話を格好よく締めようと思ったが・・・、
 しかし医師は、退行性変性・・・・早い話が「つまりお歳ですね」と断言した。嗚呼。
 そして、医師は「湿布薬を出しときますが要は腕を使わないことです」「リハビリめいたことは悪化させます」とピシャリ。
 といっても腕や指を使用しないで日常生活を送れる訳もなく、一向に改善しないので、今では医師の指導で肘のサポーターを装着している。
 サポーターというものは初めて使用したが、なるほど初体験とはこういうものか。

2015年2月24日火曜日

卓見に目から鱗

  「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」という中で酒井まど氏が高畑勲監督の言葉を解説しているのがあって感動したので、内容を孫引きのように書かせてもらう。内容の大意はこうである。

 『火垂るの墓』を撮った高畑監督は、反戦映画というものが、「戦争を起こさないため、止めるためのもの」であるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないかと神奈川新聞のインタビューに答えている。
 なんの罪もない幼い兄妹が戦争に巻き込まれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみ。優しいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという戦争のもうひとつの恐ろしさ。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない。・・・そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思われることが多い。
 しかし、攻め込まれてひどい目にあった経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始めるときは「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからだ。「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて再び戦争は始まるものだ。
 ほんとうの意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない。「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力になる。
 戦争が始まってしまえば私たちは流されてしまう。
 先の戦争について「一般国民は嫌々戦争に協力させられたのだ」と思っている人も多いけれど、大多数は戦勝を祝う提灯行列に進んで参加した。非国民という言葉は、一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉だ。
 「空気を読む」と現代の若者が言うが、この言葉は協調ではなく同調を求めるもので、歩調を合わせることが絶対の価値になっている。国民のメンタリティー、体質は70年前とあまり変っていない。
 だから絶対的な歯止めが必要なんだ。それが憲法9条だ。等々。

 卓見だと思う。
 そして思う、戦争がはじまったらもう遅いのだと、その時に異論を唱えることは何百倍も難しいのだと。
 だから、「解釈」などと言っている今こそが大事なのだと。

2015年2月22日日曜日

洗濯板を探して

  2月18日の記事で「民俗学者の神崎宣武先生は洗濯板を江戸の初めごろから使用していたと講義されたが、調べてみると明治の初期に移入されたものだった」と私が書いたところ、「それは何を調べた結論なのか」と友人から質問を受けた。
 実際、こういう採るに足らないようなものごとは、いざ調べようとしてもそういう書物になかなか巡りあわないもので、その時も、私の手持ちの本では見つけられなかった。
 ただ、こういう「昔の道具」のようなものは小学校の重要な教材でもあるので、Web(インターネットの世界)上に参考になる記事が多いもので、そこにはいくつもの真面目な文章があり、かつ「明治に移入された」と書かれてあった。それを私は「信頼できる」と判断して書いた次第である。
 だが、こうしていざ質問されたからには念には念を入れたいと思って、京都府立山城郷土資料館に行ってきた。
 丁度、「暮らしの道具いまむかし」という企画展中でもあったので、洗濯板(写真)もその説明書きもあったが、私が知りたい「この国で何時頃から使われ始めたか」は書かれていなかった。
 なので、学芸員に出て来てもらって質問したところ「明治の初期に移入されたことは間違いない」「神崎先生の説は知らないが江戸初期からあったと言うのは間違いだろう」ということだった。
 そうして、さらについでに2軒の図書館を巡ったら、ここも洗濯板の解説や絵や写真はあるものの、「何時から?」という、ほんとうに私が聞きたいことにはなかなかたどり着けなかったが、少し諦めかけた頃、河出書房新社版『民具の事典』というのに、はっきりと、「明治時代、洋式化とともに移入された。それ以前は、溝のない板や石の上で手で揉んだり足で踏んだり洗濯棒で叩いて洗った」と書いてあった。
 考えてみると、江戸時代には生活風景を反映した絵や文章も多数あるから、その上で「明治に・・」と書いてあることは信用できる説だろうし、江戸のそういう絵や文章の中に洗濯板があったならこんな文章にはならないと思う。よって答えは明治からで問題なかろう。(Webには1797年にヨーロッパで発明され1880~1890年(明治13~23年)頃日本に移入との記事もある)

 なら、宮崎県日南海岸の天然記念物「鬼の洗濯板」は幕末以前は何と呼ばれていたのだろう。
 誰かご存知の方は教えてください。
 それに、資料館で撮影して帰宅してから思ったのだが、展示の洗濯板、・・・普通は上下反対ではないでしょうか。これでは石鹸液がこぼれてしまわないですか?

2015年2月20日金曜日

平群広成の冒険

  テーマといい著者といい面白そうな本ではあるが、年金生活者が3,000円近い小説(本)に手を出すにはどうしても妻の顔が頭をよぎる。
 そこで、内容がよければそのうちに文庫本になるだろうと腹を据えて待っていたら、2015年1月に文庫本化の広告が出た。
 上野誠著『天平グレート・ジャーニー 遣唐使・平群広成の数奇な冒険』。
 大学教授が小説を書くか?との予想される疑問には「あとがき」で先手を打っているが、その中でいろいろ講釈しているが「師と仰ぐ折口信夫も小説「身毒丸」を書いている」という答えが核心のよう。

  内容は天平の遣唐使の判官・平群安朝臣広成(へぐりのあそみひろなり)が長安からの帰途林邑国に難破し、大冒険の後渤海を経て帰国する物語が、続日本紀等の記録を踏まえて綴られている。
 私の好きな陳舜臣の中国の歴史小説に負けず劣らず面白かった。
 学者としての冷静な目がそうさせたのだろう、唐の都での倭の地位の低さも淡々と書かれていた。
 奈良の地などにいると、やたらに奈良時代(や大和や天皇の歴史)を賛美する文に出会って食傷気味になるが、反対にこの冷静な記述が小説の世界を大きくしているように思う。
 広成たちは唐土の漢語世界に苦労したようだが、平成27年の冬の奈良公園の90%以上は中国語が占めている。
 これでいいのだ。
 先日も道を尋ねられて99%ジェスチャーで応えて、最後は再見(さいちぇん)と手を振った。

2015年2月18日水曜日

産土神はどこへ

  民俗学者・神崎宣武氏の講義を聴く機会があった。
 「日本の歴史の上で、私たち(講師並びに受講生の大勢)ほど変化の時代を生きた者はいない」との発言には、ほゞ同世代の参加者がうなずいていた。
 「ひと世代前の人は戦争前後の変化が大きい」というかも知れないが、そうは言っても昭和30年代までは、かまどで火を焚き、洗濯は手でしていた」「江戸時代の初めごろから昭和30年代までの人々の暮らし方は、明治維新といえども大きく変わらなかった」と指摘されていた。(私の感想を言えば、弥生時代から昭和30年代までは共通する匂いがする)
 先生は「洗濯板は江戸時代初期から使っていた」と述べられたが、少し調べてみたらこれは明治時代からだった。
 そんな誤り?もあったが、高度成長が日本人の生活をガラッと変えたこと、その生き証人が我々の世代で、次の世代は私たちが使っていた道具等を「昔の暮らしの博物館」等でしか知り得ないということも納得するものだった。

 さて、講座のテーマは産神(うぶがみ)、産土神(うぶすながみ)のことで、これは神社が生まれる以前からの神であること、通常は山にいて出産の時に産屋(うぶや)に降りてくること、それは田の神が田植のときに降りてくるのと同じ思想であることなどの説明があり、同時に、妊婦を労働から解放し、産飯(うぶめし)で栄養を補給し、夫たる男性からも隔離・保護する知恵であったと(如何にも民俗学的な)講義があった。
 ところで、高度成長という大変革で産屋や産飯が消滅したのは判ることだが、産土神はどこに行ってしまったのだろうか。神社の摂社や末社にも痕跡がほとんどない。氏神(うじがみ)という言葉が残っているのに比べて日常生活の場面で産土神は名前の上でも影が薄くなっている。
 これは結局、明治政府の神社合祀令の結果であって、廃仏だけでなく、修験道も弾圧され、神様の世界も国家神道以外の素朴な神々は冷遇され、一村(大字相当)一鎮守という合祀令で小字単位にあった産土神が吹き飛ばされたのだと先生は指摘され、無理やり合祀された神社の体裁が、その地の大きな氏族の氏の神だとか、少し前までの武士の守り神であった八幡神になっていったのだと説明があった。
 なるほど、そのために、本来意味の違う「氏神」が、現在では土地の神のように使われているのかとガッテンした次第だった。
 また別件では、世間では江戸時代の檀家制度が戸籍の役割を果たしていたとの誤解があるが、戸籍の役割を果たしていたのは氏子帳であり、その地の産土神の神主がその任にあたっていたとの説明は私には「へ~」という驚き(知識)だった。
 先生が「人生最初の通過儀礼である産湯を皆さんは(子供に)されましたか?」という質問に、私を含め会場の全員がノーだった。
 ああ、民俗学自体が歴史遺産になりつつあるようだ。

2015年2月16日月曜日

古代史の魅力

  1月27日に考古学者・古代史学者水野正好先生の訃報に接して記事を書いた。
 水野正好先生は元興寺文化財研究所所長でもあった。
 元興寺文化財研究所とは、出土品等の文化財の保存処理にあたる民間では唯一の機関。
 そして、1978年に「100年に1度の大発見」といわれた埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土の錆びついた稲荷山鉄剣の金象嵌の銘文を発見したことでも有名である。
 解読に合流した元奈良文化財研究所の田中琢先生の本などを読むと、このあたりは論文というよりも日記というかドキュメンタリータッチで当時の興奮が伝わってくる。
 そもそもの作業の最初に「もしかしたら?」とX線写真を撮ったのは西山要一先生で、ずーっと後には、2月12日の記事にある法善寺の火災痕から河島英五の描いた壁を剥ぎ取って保存処理をした文化財保存学の先生。
  さて、古代史好きの皆さんには今更というほど有名な話になるが、この鉄剣の銘文がなぜ100年に1度の大発見かというと・・・・、
 まず読み下し文を白石太一郎先生の著作から引用すると、・・辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名は、カサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を佐治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾奉事の根原を記す也。(※七月中は七月にの意。寺は役所の意)
 このヲワケの臣が古墳の被葬者か、被葬者に鉄剣を与えた者かは異論があるが、考古学的に5世紀後半に制作されたと考えられる鉄剣に、「自分はワカタケル大王に仕えた」「自分の8代前の祖先はオホヒコだ」と書いていて、西暦471年、日本書紀の記す大泊瀬幼武(オオハツセノワカタケル)天皇=雄略天皇(宋書にいう倭の五王の)に仕え、古事記の崇神天皇(初国知らしし天皇)の段が北陸道を会津まで遠征したと記す大毘古命(オオヒコ)が上祖だと言っているのである。
 (「そうは読まない」という説もあるが、おおむね定説とされている)
 戦前の、神話を史実として教えた皇国史観の反省から、戦後の民主的な学者や教育者の多くは、古事記や日本書紀を「全く史実とは遠い夢物語だ」と鼻にも掛けずにきたが(私なども100%そのように信じてきたが)、「記紀には史実も反映している」「記紀を考古学等で検討する余地がある」となった画期的な発見とされている。
 このため小笠原好彦先生などは、オホヒコ(大彦)と一緒に四道将軍であった武渟川別(タケヌカワケ)、吉備津彦、丹波道主も実在したし、オホヒコの後裔を称した阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫國造、越國造、伊賀臣も実在したであろうから、考古学の成果でその氏の長の墓(古墳)を検討することも大切で、そこを「記紀は信用ならぬから検討しない」というのは学者・研究者として逃げているのでしかないと言い切っている。
 このため私は、それ以降、関係する本を積み上げて悶々とした日々を送っている。
 が、これが実に楽しい。

2015年2月14日土曜日

青い鳥探し

手向山八幡宮神楽所
  奈良県知事が若草山にバスを走らせようとしている。
 そのバス道路のためには常識的に考えて相当な自然破壊を伴うし、文化遺産を傷つける。
 若草山は奈良の重要な借景であり、その意義が分からないのは(精神が)大いなる田舎者だと私は思っている。
 こういう知事を担いでいる者も同罪だろう。事実、2月のウイークデーに奈良公園を歩いてみると、戸を閉めている土産物屋や茶店が多い。計算上その方が得策だと考えているのだろう。
 一言で言って情けない感情におそわれる。
 流行り言葉のような自己責任などという気はないが、観光業者自身が考え直すことも必要ではないか。

 県別の国宝建造物の一覧表がある。
 国宝建造物が0件という県が16県、1件という県が11県、東京都でさえ2件という状況の中で奈良県の国宝建造物は64件でもちろんトップである。
 他県の人々にとって、動かせる国宝は展覧会等で見る機会もゼロではないが、建造物は奈良に行かなければ見ることはできない。
その観光上のアピールも上手でない。
 例えば、奈良公園の入口近く、興福寺南円堂の西奥に国宝の三重塔がある。
 興福寺の五重塔の前はいつも観光客でにぎわっているが、三重塔はいつも閑散としている。
 国宝建造物0件の16県の観光課の人は歯ぎしりしていることだろう。
 驕れるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

  もちろん国宝ではないが、東大寺南大門南西の「夢広場」に「TenTenCafe」があり、大阪法善寺横丁の火災痕から採取してきた河島英五の落描き?の壁がある。
 大仏も阿修羅像もよいが、私はこの落描きが気に入っている。
 落描きといえば、手向山八幡宮の神楽所には鎌倉時代と思われる源頼光鬼退治の落描き?(壁画)がある。
 ここも多くの観光客が振り向きもせずにその前を通り抜けている。
 いつも開け放されているが見向く人は100人に1人もない。
 菅原道真が腰かけた石に座ってこの絵を鑑賞するのもオツなものである。
 このたびは幣もとりあへず手向山紅葉のにしき神のまにまにの碑さえ無視されている。
 まあいい。私はこういうあっけらかんとした奈良が好きである。
 だから、知事に代わって隠れた観光ポイントをアピールしておきたい。

 さて、幾ら観光に役立つからといってやっていいことと悪いことがある。
 知事が後押しして国交省が、平城宮大極殿院を東西約177m、南北約318mの回廊を付けて復元する。
 平城宮蹟は「地下の正倉院」と呼ばれるほど木簡が水に漬かった状態で眠っているが、この復元工事で水位が低下し木簡類は朽ち果てることだろう。
 今でも奈良の人間は、南都焼き討ちをした平重衡が好きでないように(平家物語などでは文武に優れた公達とされているが)、後年奈良を訪れる知識人は、こんな暴挙に黙っていた平成の人間を嘲笑することだろう。

2015年2月12日木曜日

神武天皇陵

平成26年の橿原神宮紀元祭
  11日は建国記念の日であった。
  石部正志先生の講演資料から引用するが、日本書紀天武元年(672)に、壬申の乱の最中、大海人皇子側が神武陵に戦勝を祈願したとの記述があり、7世紀には神武陵とされる地があった。だが、それが何処かは解らない。
 その地を日本書紀は「畝傍山東北陵」と書き、古事記は「畝火山之北方白樫尾上」とそれぞれの神武記に書いている。
 古事記の記述のとおり尾根の上だとすると「丸山」があり、その北方の平地には「ミサンザイ(神武田)」と「塚山」がある。
 近世の修陵事業は元禄期、享保期、文化期、嘉永期にあったが、元禄期・享保期には塚山が、文化期・嘉永期には丸山が比定されていた。
 そして幕末の文久3年、当時有力だった丸山説と、ミサンザイ(神武田)説が朝廷に提出され、孝明天皇の勅裁でミサンザイが神武陵であると決定された。
 その理由は、尊攘派が朝議の実権を握り、急進派公家が蠢動し、孝明天皇が攘夷祈願の大和行幸、攘夷断行、長州藩が外国船砲撃、天誅組の乱などという幕末のあわただしい状況下で、丸山に隣接する被差別部落の洞(ほうら)部落を移転させる時間的余裕がなかったからだと解されている。
  後に「自主的」に移転させられたこの問題は「橋のない川」で「路部落の移転問題」として登場している。
 その後明治~大正の政府は大規模な改造工事を行い、当初小さな土饅頭二つであったものが八角形の墳形に改造され、6554坪の民有地を買収して拡張し、明治23年には橿原神宮が建てられ、紀元2600年(昭和15年)にはさらに大々的に整備事業が行われて今日に至っている。
 これが『建国の地』の事実である。
 古代史を愛する立場からしても、あまりに近代の政治が介入していて好きになれないが、そんなことを先輩のFさんに語ったところ、「近代の犯した無謀な歴史遺産として大事にしたらよい」と返事があり、Fさんの懐の深さに感心した次第。
 建国記念の日にこんなことを記録しておきたくなった。

 11日の朝刊には「ODA転換、軍支援解禁、国益明記、周辺事態法存続へ」等の見出しが躍っている。
 近代の鏡で現代を見つめ直すことの意義は大きい。

2015年2月11日水曜日

今日は祝日

  2月11日は建国記念の日という祝日である。
 日本書紀神武天皇の巻に「辛酉年春正月庚辰朔、天皇橿原宮に卽帝位。是歳を天皇の元年と爲す。」とあり、これが西暦の紀元前667年の2月11日だから建国記念の日というのであるが、明治13年までは教科書ですらが「神代ばくたり、遂に知るべからず」といっていた。
 それが明治14年に小学校教則綱領が定められ、19年に教科書の検定制度が始められると、神々の話が史実になり、現天皇が現人神になった。
 同時に、庶民は1銭5厘の赤子となり、戦場で死に、アジアの人々を殺し、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、外地や内地の都市で多くの市民が死んでいった。
 今日はそういう近現代史を振り返るための祝日と考えなければならない。
 そしてその鏡で現代を照らす日である。

2015年2月10日火曜日

ヒッチコックの鳥みたい

  1月30日に雀の丸焼きを食べたことを書いて「なんとデリカシーのない」とヒンシュクを買った。(ようだ)
 そこで「言い訳」のように31日の記事でヒヨドリが野菜の芽を食べることを告発した。
 どうもそのブログをヒヨドリが読んだらしく、・・・・そうとしか考えられないヒヨドリの復讐劇がわが身に出現した。
  写真のとおり、50羽程のヒヨドリが集団でやって来て、隣家のネズミモチに襲いかかったのは壮観だった。
 だから、ガラス越しに写真を撮ったりして楽しんでいたが、そのうちに我が家の大きくもないクロガネモチにまで襲いかかり、見かねた妻が窓を開けて追い払ったが後の祭りで、先ほどまで冬空に輝いていた木いっぱいの赤い実が見事に食べつくされていた。(写真の時点では赤い実も残っていたが今では赤い実は全くない)
  数羽のツグミも混じっていたが、こんなヒヨドリの大群に襲われたのは初めてだった。
 里山などで、はるか遠くにヒヨドリの群れが森に帰っていく風景などは風情を感じるが、我が家にまでやってこられると話は別だ。ヒッチコックの「鳥」を見たときのような気分になった。
 目の前で50羽程のヒヨドリが群舞する姿には可愛いなどと言っていられない。
 蛇足ながら家の周辺は糞だらけである。
 ふ~~ん。
 お口直しに、先日出くわしたルリビタキの写真を添えておく。(こんな時に限って広角レンズなのでこれ以上伸ばせない)
 

2015年2月8日日曜日

この保育士に拍手

 町内会の餅つき大会担当役員が児童公園の使用について役場に行ったら「消防署と保健所にも届け出るよう」に言われ、保健所は、「製造にタッチする者を届け出る」「素手で触らない」「その場で食べてしまうこと(持ち帰らない)」と指導したらしい。
 これは、本当に餅つきを知らないか、住民を馬鹿にした発想だと私は怒ったが、そういう(怒りの)声は少数だった。
 多くの場面では、防災活動のためには地域のコミュニティ活動が大事だと言いながら、こんな行事に直面すると、まるで、コミュニティ活動を委縮・尻込みさせるような・・何かあったら大変だ、・・何もしなければ何も起こらない・・と、そんな風に感じさせる指導だと私は思う。
 そして何よりも、そこには住民の安全に配慮した懇切丁寧なご指導と言うよりも、何かあったときの責任逃れ、・・「私は指導しておいた」とでもいうようなアリバイ主義、責任逃れの根性があるように見えてしょうがない。(この感想が誤解であればご指摘いただきたい)
 こういう精神は特殊例外的なものでなく、例えば中東での人質事件があった場合、それを「自己責任だ」と言い募ることで、本来国民を保護すべき政府機関が自らの責任を回避する言動にも同種の精神を私は感じる。

  先日、所要のついでに奈良公園を歩いていたら、浮見堂の池の周辺で保育園児たちが鬼ごっこをしていたので私は本当にびっくりした。
 何にそんなに驚いたのかというと、そこでは保育士(保母さん)たちが乳児を含む幼児たちを自然のままに(放ったらかしに見えるほど)遊ばせていたからで、きっと、この園ではそういうことが日常のスタイルなのだろうから、幼児たちは池の横の崖の上を自由気ままに歩き回っていた。
  この私でさえ???、おいおい崖から落ちたらどうするの!!と言いたくなるほど幼児たちは上ったり下りたりしており、よちよち歩きの児でさえ、それが当然のように少し大きな児の後を追いかけているのだった。
 保育士たちは全く動じず、ほんとうに放ったらかしで一緒にかくれんぼに動き回っていた。
 あっぱれの一言しかない。
 この児たちは将来立派な大人になるに違いない。
 私は、遠慮しながらも感動して写真を撮った。
 それこそ何かあっても、この保育士たちは絶対に逃げないだろうと確信した。
 こんな私の感想は、実際の保育士や幼稚園や学校の先生方には「現場の厳しさも知らずに気楽な感想を言うな」との反発があるだろうが、私の心が踊ったことは間違いない。
 
 このような、ある意味当たり前の出来事に私が感動したのも、近頃は少しでもリスクのあることから逃げる風潮が蔓延しているからで、それは、職場にあっては成果主義がそれを助長し、一般社会ではマスコミが被害者の代表面をしてクレーマーを持ち上げ、一緒になって二言目には「謝罪しろ」との大合唱を唱えるからである。
 それは、ほんとうの庶民が、弱者が、権力に対して抗議することとは似て非なるものだという気がしてならない。

2015年2月6日金曜日

庶民の矜持と責任

  2月3日の「星月夜と桃太郎」の記事を書いて、その余韻が頭の中にあったころ、本屋を散歩していると『歌謡曲から「昭和」を読む』という新書の背表紙が目に飛び込んできたので、思わず買ってしまった。
 著者はなかにし礼、NHK出版新書平成23年12月第1刷というもので、日本歌謡曲史といってもよいものだし、単にそれを時系列で披露しているのではなく、時代と照らして解説している素晴らしい内容だった。
 ただ、ここでは、「星月夜と桃太郎」で自分が感じたことを受けて、敗戦(昭和20年)の暮れ、「東京新聞」紙上で行われた作曲家山田耕筰氏と音楽評論家山根銀二氏の論争について、なかにし礼のこの本から引用したい。氏はこう書いている。
 さて、山根銀二は、山田は戦争中の「楽壇の軍国主義化」について責めを負うべき「戦争犯罪人」であると批判した。これに対して、山田はこう答えている。なるほど私は、「戦力増強士気昂揚の面にふれて微力」ながら働いた。祖国の不敗を希(ねが)う国民として当然の行動をとったのだ。戦時中国家の要望に従ってなした「愛国的行動」が戦争犯罪になるのなら、「日本国民は挙げて戦争犯罪者として拘禁」されなければならない、と。
 私(なかにし)は、「愛国的」つまり「日本のため」と言うこと自体、芸術家として根本的な誤りであると思う。問題を軍歌にしぼれば、作詞家であれ作曲家であれ、作家というものはどんな場面にあっても、最高の作品をつくろうと力を尽くすものである。それ自体はもちろん悪いことではない。しかし、その結果、作家の卓抜な技によって煽り立てられて戦地に赴き、戦死したり苦難を強いられたりした若者が大勢いたことに、作家たちは罪の意識を感じなかったのだろうか。感じていたら、次々に書くことなどできないはずだから、山田がそうであるように、ほとんど感じていなかったにちがいない。そこに彼らの罪がある。
 平成21年(2009)、イスラエルのエルサレム賞を受賞した作家の村上春樹は、授賞式で、「高くて硬い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」と自らの文学的信念を語り、列席していたイスラエル大統領の面前で、イスラエルによるガザ侵攻を非難した。私は一人の作家として、この言葉に共感する。・・・・・・・・と、

 なかにし礼の見解は厳しい。
 だがそれは、「人生の並木路」を「国を信じて満州に渡った者が身もだえしながら共感したのだ」と評論して、挙句は、「満州から引き上げる軍用列車で機銃掃射を受け、死体は列車から投げ捨てられ、行けども行けども、線路際には捨てられた死体がごろごろと転がっていた」実体験から発せられた言葉だと思う。
 余談になるかも知れないが、氏は「引揚船の中で聴いたリンゴの唄は私にとって残酷な歌だった。」「まだこうして真っ黒な海の上にいるのに。着の身着のまま、食うや食わず、命からがら逃げつづけた同胞が、まだ母国の土を踏んでいないのに。なぜ平気で、こんな明るい歌が歌えるんだろう。どうして、もう少し、私たちの帰りを待っていてくれないのだろう・・・。そんな、仲間はずれにされたような、おいてけぼりをくったような、悲しい思いがこみあげてきて、私は泣いた」とも綴っている。

 フクシマ原発事故の際、多くの日本人には「貴方は原発建設の際どうしていたのですか」と問われ、多くの人々は「まさかこんなことが起こるとは知らなかった」と答えたが、上記の文章は、「知らなかった」「想像が及ばなかった」なら、そこに罪はなかったのかと問うているようだ。
 いま安倍内閣は確実に戦争への道を歩んでいる。それは間違いない。
 そのことが、いつでも、どこでも、日本人がテロに巻き込まれる可能性を高めている。
 嫌な想定だが、そんな危険が現実化したとき、やっぱり一人ひとりの日本人に「戦争へ向かっていた一つ一つのステップのその時にあなたは何をしていたのですか」と問われることだろう。
 その時やっぱり「こんなことになるとは知らなかった」と答えるなら、私たちは歴史から全く何も学ばなかったことになる。

2015年2月4日水曜日

鬼追い式

  節分の豆まきのルーツは古く道教にあり、中国の宮廷行事(周礼)、日本の宮廷行事(延喜式)を経て神社やお寺の行事になり、ついには家庭の、幼稚園・保育園の微笑ましい年中行事に至っている。
 そのように広く支持されてきた遠因には素朴な正月行事として、春から始まる向こう一年の安寧祈願と重なるという解りやすさがあったからだろう。
 私の親は比較的こういう行事を大切にする人であったので、毎年「鬼は外、福は内、戌亥の隅にどっさりこ」と叫んで豆をまいてきた。
 なぜ「戌亥の隅にどっさりこ」というのかは解らなかったが、「そういうこと」となっていた。
 戌亥の方角は、丑寅の鬼門に対して、道教=陰陽道の神門といい、この方角に蔵を建てるなど福を迎え入れる大事な方角だったからだろうと勝手に理解している。
  妻の遠くない祖先が、鬼取という地名もある生駒山暗峠の街道で漢方薬を旅人に施していたと郷土史に載っているので、、役行者から製薬法を教わった鬼の末裔ではないかと想像する。
 そんなものだから孫に「福は内、鬼も内、戌亥の隅にどっさりこ」と教えたら、しっかりと大声でそのように発してくれた。
 ちなみに、恵方巻は昭和30年頃、大阪の鮓商組合や海苔組合が古い風習の復活に取り組んだもので、我が家では父の仕事柄その頃からこの行事を行い始めていた。
 だから私は、約60年前に最初に恵方巻を食した少数のトップグループの一人である。
 その後スーパーやコンビニまでもがイベントに組み入れて今日があるから感慨深い。
 
 今年は興福寺の追儺会(ついなえ・鬼追い式)に行ってきた。
 3匹の鬼が暴れまわり、毘沙門天が調伏し、大黒様が「福は内」と言って豆をまく宗教劇である。
 始まる前に道路で鬼と出くわしたから孫はびっくりしたが、その後徐々に慣れて、そのうちに大声で鬼を応援していた。
 お嫁さんが恵方巻を作ってくれたので、恵方に向かって作法どおり丸かぶりをした。
 鰯を食べて、柊の枝に刺して門口に飾った。
 どうか今年もよい年でありますように。

2015年2月3日火曜日

星月夜と桃太郎

里の秋・椎の実
  秋に老人ホームの家族会で「歌おう会」をしたとき、季節にぴったりの歌として「里の秋」を唄ったが、誰もが郷愁と共感を覚えたようで、みんなに喜んでもらえたのがこちらとしても嬉しかった。
 ただ、この斎藤信夫の歌詞は昭和16年制作時の元々は「星月夜」という題名のもので、次のようなものだった。
1)しずかな しずかな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
  ああ かあさんと ただ二人 栗の実煮てます 囲炉裏ばた
2)あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
  ああ とうさんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す
3)きれいな きれいな 椰子の島 しっかり護って 下さいと
  ああ 父さんの ご武運を 今夜も一人で 祈ります
4)大きく 大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな
  ねえ 母さんよ 僕だって 必ずお国を 護ります
 ・・ただ、この詩は作曲されないまま敗戦を迎え、3)4)が削除されて新たな3)として・・
3)さよなら さよなら 椰子の島 お船にゆられて 帰られる
  ああ とうさんよ ご無事でと 今夜も かあさんと 祈ります
 ・・が付け加えられ、題も「里の秋」と改題されて発表された。
 この歌のためには「星月夜」のまま作曲されなくてよかった。一つ間違えば戦意高揚の宣伝歌だっから、戦後このようにみんなで合唱されることもなかっただろう。
 こういう現代史の隅々を眺めると、歴史というものは一部の軍国主義者だけが時代を引きずり回し、庶民(詩人を含む)はみんな被害者だったというような単純なものでないということをしみじみと考えさせられる。
 だから視点をアジアに広げるとすれば、その時代の少なくない庶民は被害者であるとともに加害者でもあったのだ。
 国内でも、被害者であり(かつ戦争の)「協力者」であったという側面もあったことを正直に見つめなおす必要があるように思う。
 だから戦前の反省をすることを自虐史観だというような主張があるが、私はドイツの戦後と比べても、戦後日本の反省は不徹底だと・・「里の秋」を唄いながら考えた。

 戦前の歌といえば、孫とカラオケをして『ももたろう』をかけて私は驚いた。 
1)桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた黍団子
  一つ私に下さいな
2)やりましょう やりましょう これから鬼の征伐に
  ついて行くなら やりましょう
3)行きましょう 行きましょう あなたについて どこまでも
  家来になって 行きましょう
4)そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて攻め破り
  つぶしてしまえ 鬼が島
5)おもしろい おもしろい 残らず鬼を攻め伏せて 
 分捕物(ぶんどりもの)をエンヤラヤ
6)万々歳 万々歳 お伴の犬や猿キジは 
 勇んで車を エンヤラヤ
 ・・ええ!これが童謡・唱歌!
 戦前というものは、こういう小さなモノゴトの積み重ねで出来上がったという一級史料だろう。
 そして重要なことは、これが全くの過去のことではなく、よく似た「情操教育」が現代社会で進行していることである。
 
 テレビの向こうではやたらに「立派な日本人」がこれでもかと自画自賛されているのに、ひとたび人質問題が発生すると「自己責任だ」の合唱で、挙句は「自決しろ」との声が聞こえる国って何だろう。
 テロを擁護する気はさらさらないが、中東において、「米欧やイスラエルの爆撃等で何人、何十人単位の殺人が日常的に行われ」「出稼ぎ先では『橋のない川』のような格差の底辺に押し込められ蔑視されている」・・・この問題の解決の方向を冷静に考えずに、「イスラム圏は理解し難い」的な議論が広がり、「思い知らせなければならない」「償わせなければならない」「弱腰だと思われないように」と、「そりゃ進め そりゃ進め」と歌い出す日が来ないことを願っている。
 故ワイツゼッカー独大統領ではないが、過去に目を閉ざすと現代が見えなくなる。
 冷静な議論が「テロに屈するのか」というような短い言葉で書き消されるとすれば、あの時代と変わらない。

2015年2月1日日曜日

高浜原発から100kmもない

この円は約86km
  「今頃何を言うておるのか」とお叱りを受けると思うが、私の地理の感覚は落第点だったと今頃気が付いた。
 私だけかも知れないが、「関西電力は京阪神の都会のお客のために、田舎の福井県民の横っ面を札束で叩いて原発を押し付けた」と漠然と思っていた。
 しかし高浜原発で見ると、「地元」の福井県知事は約86km(地図上の円)離れた県庁で「同意文書」にハンコを押していたのだが、それに対して、京都府知事も滋賀県知事ももっと近いところにいて「地元ではない」と言われているのだった。
この外の円は100km
  さらに大阪府知事も福井県知事とほぼ同じ距離にいて、兵庫県知事も奈良県知事もあまり変わらず約94kmのところにいる。
 つまり福井の原発は近畿こそ危険だということだ。(西高東低の冬季だとしたら・・・、福井知事は高みの見物とまでは言わないが・・・)
 にもかかわらず、少なくない京阪神の人々は福井県知事より原発の近くにいながら、より危険な風下にいながら、「福井は可哀相やなあ」と漠然と思っていなかっただろうか。
 そんなことに今頃気が付いた頓馬な関西人が私だけならいいが。

 フクシマの地図は2011年12月現在、高さ1mでの放射線量で、濃い色から8~、4~、2~、1~、0.5~、0.25~、0.125~(マイクロシーベルト/時)。
 これを高浜と京阪神に当てはめると軒並み『1μSv/h以上』に当てはまる。大阪市なら白河と同じような距離だろうか。

 滋賀県の作成した大飯原発のシミュレーション(拡散予測)では、富田林・河内長野まで安定ヨウ素剤の服用が必要な濃度になる。
 
 福井の地方選挙で原発が議論されていることに違和感がないように、京阪神の地方選挙で原発が争点になっていなくても違和感がない。・・これって何かおかしくないですか。
 否、語られなければならないと思う。
 福井の原発銀座は、北陸の遠い地のことではない。・・・・(地理の読めない男の猛省)