先の衆院東京15区補欠選挙でえげつない選挙妨害をした某党は、その動画をアップすることで金儲けをしたらしい。
今般の一人を選ぶ都知事選でも大量の候補者を立て、公の「掲示板」を変な話題に使用しようとしているらしい。
どちらも、映える(ばえる)というか、炎上することを目的にしているように見える。
時代が閉塞感に包まれたときにエログロナンセンスが流行るに似た現象で、ネット社会が生んだ歪みに思える。
もっと広い世界でも、EUの選挙では右翼の大幅な伸張が報じられている。
EU諸国を十把一絡げに論じるのは正しくないだろうが、「連帯よりも己の利益」を優先する主張が広がっている。
それを進めているツールとしてネットの果たしている役割が大きい。
そういう風潮に眉をひそめている人々の一部に、「だからネットを制限すべきだ」とか極端なのは「ネットを禁止すべきだ」と語る人もいる。だが果たしてそうか。
また、冒頭の選挙妨害を見て、「厳格に取り締まって立候補を制限すべきだ」という意見も、例えば酒席などでは「そうだそうだ」となる。
となると、結局一番正義が実現するのは厳格な「警察国家」「取り締まり国家」ということでよいのだろうか。
究極の「小さな政府」はファシズムでもある。
それにリアルな話でも、国家公安委員長が某カルト集団とズブズブであったという現実から、「厳格に取り締まれ」という善意の主張が、民主主義弾圧の有効な武器になる恐れは非常に大きい。
民主主義とは邪魔くさいものだ。
先日「虎に翼」で憲法12条が紹介されていたが、第12条は、 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために、これを利用する責任を負ふ。と言っている。
つまり民主主義を守る責任は、私でありあなたである「一人一人の国民」であり、その責任を「ネット」に押し付けて「正論」のように語るのは責任転嫁ともいえる。
私はどこかで読んだ、「カールマルクスはジャーナリストであった」という言葉が好きである。
ネット社会は、規模は違っても国民人一人がジャーナリストになれる社会でもある。
そこでの努力を逃げて、「ネットは悪い」というような酒席での議論みたいな話を繰り返しても何も解決はしないだろう。
大いにネットで「普通の声」の発信を広げよう。