2019年4月30日火曜日

学園広場

   来月(といっても明日から来月)中旬に退職者会の新人歓迎パーティーがある。
 近況報告や歓談も大切だが、少しばかりバカ騒ぎもして楽しい思い出をつくりたい(ただこれには反対意見もあるのだが)。
 70歳以上の組の出し物は毎年ほゞ決まっていて「学園広場」の少しだけ替え歌にしたものだ。

 これはほゞ定番になってきたから、先日は友人から次のようなメールが届いた。
 『今日、四天王寺の古本市で、舟木一夫の「学園広場」のドーナツ盤を見つけました。1963年10月発売で定価300円と記されています。退職者会の集いも近づき、タイムリーなので、早速データ化し添付しました』

 こういう風に前向きに考えてくれるのは嬉しいかぎりだ。高齢者になると口は上手いが手が出ない傾向も否めない。

 ところが、この歌には難点がある。ゲストである新人退職者が60歳とすると1959年(昭和34年)生まれだから、この歌のヒットした1963年(昭和38年)は4歳である。舟木一夫って誰?と尋ねられる。ああ。

 こうなったら60歳代には別メニューが必要だが、それが上手く見つからない。
 今から20年ぐらい前のヒット曲はというと、私個人としてはついていけないアップテンポの歌ばかりだ。
 あえて探せば「世界に一つだけの花」だろうか。60代はノッてくれるだろうか。ああ出口が見えない。

2019年4月29日月曜日

連休始まる

 連休初日の27日に考えた。「みんな浮かれて行楽に行っているだろうから散髪屋は空いているに違いない」と。
 ということで質より値段の1,000円カットに行くと、なんと超満員であった。
 アベノミクスが嘘だとは知っていたが、超大型連休に格安カットに来る庶民のなんと多いことか。すごすごと帰ってきた。

   連休は我が家(夫婦)にとっては文字どおりの連休になる。
 上の孫も下の孫もそれぞれ両親と計画があり、イクジイ、イクバアから解放され、ホッとするやら寂しいやら・・・。
 ただ介護があるから青天井でもなく、なんとなく手持無沙汰の感じと言おうか。

 28日の天気予報はまずまずだった。で我が家(夫婦)も連休バージョンにギアをチェンジした。

 そしてグランピングに出かけたと言いたいところだが、渋滞を回避していつもの長谷やんBBQコーナーに落ち着いた。
 野菜は、ウスイエンドウの若いのを摘んでは焼いたから、贅沢と言えばこれ以上ないほどの贅沢と自画自賛。
 周囲はお花畑。これを「なんと貧しい」と笑うなら笑うがいい。本人は気に入っている。

2019年4月28日日曜日

悪なる創造物 蛙

   4月25日付け朝日新聞夕刊に、邪馬台国かとの有力意見もある奈良の纏向遺跡中枢部大型建物跡近くの穴から、人為的に傷つけられた可能性のある蛙の骨が12匹分見つかったという記事が掲載されていた。

 縄文から弥生時代の土器や銅鐸に蛙が少なからず表現されているが、これは大地の象徴として神聖視されていて神饌(神への供え物)だったのではないかという、辰巳和弘・元同志社大学教授(古代学)の言葉で記事はまとめられていた。

 私は、別にそういうオーソドックスな意見にほとんど異論はないのだが、全く違う可能性というか推論が頭をよぎって胸が大いに騒いだ。
 そこへ行く前に、そもそも新聞記事と辰巳教授見解に単純な疑問がある。
 神饌というと、時代は下るが、米、酒、餅、海の幸、山の幸、菓子、花、縁起物、貴重なものなど神様をもてなすイメージがいろいろ浮かぶのだが、ほんとうに蛙が神饌だったのだろうか。私にはそうそう単純には納得できないがどうだろう。・・・次に本題だ。

 そこで、昭和52年(1977)発刊の朝日新聞社刊『私のシルクロード』を書架の奥から引っ張り出してきた。
 52・2・18と日付のある松本清張著『文明の東西交流』という発言集(論文)を読み返すためであった。
 と、ここまで書くと、これまでの私のブログを読んでいただいた読者には、はは~ん、あれだな!と既に底がバレていることだろう。

 松本清張氏がこのシルクロードに関する講演(の発言集)の中で語られた内容を私が独断と偏見で摘んでみると次のようになる。若干私見もある。
 古事記などの神話の中には、遥か西域~メソポタミア~ヨーロッパの文化が混じっている。
 種々みられる太陽信仰もその一つで、飛鳥の謎の石製品もゾロアスター教の拝火壇などではないか。
 ゾロアスター教と道教は非常に似ており故に融合している。卑弥呼の鬼道はそういうものを含む古い道教だろう。
 後には、仏教も中国経由で入って来たのだから、ゾロアスター教的な、中国でいう祆教的な要素が日本列島に入っていないはずがない。
 密教の護摩や麻薬、そして多くの寺や神社の火の祭り、天皇家や貴族の血族主義、仏像彫刻、閻魔大王の審判と地獄極楽の思想、・・・・・それらの淵源はゾロアスター教にあるのではないか。

 お察しのとおり、別掲の新聞記事から私の意識は松本清張の「火の回路」へと飛んでいったのだ。

 もう一つ、実はこの読書の記憶こそが私の意識が飛んでいった直接の原因なのだが、それは、先日紹介した青木健著『ゾロアスター教』の次の箇所にある。私なりに要旨を摘むとこうである。
 ザラスシュトラ(ゾロアスター)は次のように唱えた。この世は善と悪の闘争の舞台であり、人間はこの闘争に参加する義務があると。
 そして師は、善なるものと悪なるものを、当時のイラン高原西部の習慣などを取り込んで明解に示した。神の啓示のようなものだから「何故!」というその理由など不要なのだろう。
 例えば、犬は善なる創造物で、蛙は悪なる創造物だと。
 このために、忠実なゾロアスター教徒は毎月蛙を殺す日を設け、熱心に蛙を探し出して叩き潰した。と。

 こんな蛙の話は、この本を読むまでどこでも聞いたことがなかったし読んだこともなかった。
 紀元前12世紀ごろからの、様々な世界宗教の源流と思われるゾロアスター教の教義にそういう教えがあったという。
 世界は広く歴史は深い。知らなかった事柄は山のようにある。

 とまれ、新聞記事では蛙の骨には人為的につけられた可能性のある傷が約3割の骨にあったという。
 だとすると、それは神饌などではなく、悪なるものを退治した証し、善行の成果表明の可能性はないのだろうか。
 卑弥呼の鬼道は基本的には古い道教であるが、その中には遥か西の方のゾロアスター教の呪術が溶け込んでいたはずだ。
 桃を供えて邪気を払い、殺した蛙を開陳して「忠実な神の僕である自己証明」を行なったのでは・・・。
 などと、いろんな可能性、仮説を頭の中でめぐらせるのは楽しくてしょうがない。

 今の日本では蛙から「無事帰る」などの文字遊びをして少なからず縁起の良い生き物とされているが、中国神話の嫦娥は月で罰せられてヒキガエルにされているのは、ゾロアスター教と無関係(ただ月の陰影を蛙にみただけ)だろうか。
 まあ、「そんなあほな」とお笑いください。
 でも、ほんとうに「お供え物」という解説に簡単に同意してよいのですか。

2019年4月27日土曜日

孫も孫なら爺も

 小二の孫に「バースデープレゼントは何がいい」と聴いたらただ首をひねるだけで即答がない。
 欲のないかわいい子!というよりも、もう欲しいものは持っている!という感じのNAで、挙句はゲーム機を離さないまま私に「現金!」というから、「わかった、現金50円以外一切あげない」と突っ返した。

 一回り大きな自転車ぐらいは買ってやろうかと心づもりしていたが、それは両親が対応するらしい。それ以外にこちらから提案するような案も思い浮かばない。

   そうしたら孫が、何か思いついたようでサッと私のスマホで検索をし始めた。このあたりの対応がまさに”今どき”の子である。
 で、これが欲しいと言ったのが『110個スライムキット水晶粘土・・・』で、それなら「これと上等の苺‼」と妻が宣言してプレゼントが確定した。

 孫は「いろんなところで売っているがEDIONが判りやすい」と祖母に購入方法までアドバイス。
 そんなもの、見に行っても何が良いのか此方は解らないから、結局それらしいものを私がネットで注文した。(同じようなものがいっぱいあってその全面理解はおよそ不可能)
 このように、孫も孫なら祖父(私)も祖父かもしれないが、今どきのバースデープレゼントは一件落着。
 客観的に見れば、孫も祖父母もけっこう俗世に毒されているというか、資本のIT戦略に取り込まれているのかもしれない。反省。
 スライムがゲル状のものであることぐらいしか私は知らないが、悪いイメージはない。
 皆さん方は孫のバースデープレゼントにどんな対応をなさっておられるのだろう?

2019年4月26日金曜日

カンサイタンポポ(関西蒲公英)

   直ぐ近くの遊歩道にカンサイタンポポが群生している。
 セイヨウタンポポでない在来種は珍しいともいわれる。
 セイヨウタンポポは自家受粉でも種をつけ、その数は在来種よりも多い。そしてすぐに発芽する。
 一方、在来種は他の花の花粉で初めて受粉し、その数はセイヨウタンポポよりも少なく、着地した種は秋まで発芽しない。
 そういう訳で都会では人間の土地開発によって在来種は駆逐され、繁殖力旺盛なセイヨウタンポポだけが目につくらしい。
 ニホンタンポポを駆逐した犯人はセイヨウタンポポでなく人間様だという。

   ちなみに、在来種とセイヨウタンポポの見分け方は、花の基部を包んでいる外総苞片(がいそうほうへん)が反り返っている(外来種)かどうかで、写真のとおり、全く反り返っていないから在来種で、しかも少々小ぶりでカンサイタンポポであることは間違いない。カントウタンポポならそれはそれで新発見になる。

 圧倒的にはカンサイタンポポだが、ポツリポツリとシロバナタンポポもある。
 シロバナタンポポは近畿以南(以西?)という。
 以前にシロバナタンポポが珍しいと書いた折、土佐ではシロバナタンポポが珍しくないとコメントを貰った。
   今日の話はクールジャパンとは関係ないし、まして外国に向けてのヘイトとも無関係である。
 ニホンタンポポを駆逐しているのはこの国の人間だというだけのことである。

2019年4月25日木曜日

根粒バクテリア

   Q.蓮華草というと、A.根粒バクテリア、窒素同化作用という試験問題を思い出すが、詳細はよくは知らない。
 知っているのは植物など生物の成長には窒素も必要なのだが、無尽蔵ともいえる空気中の窒素を取り入れることは普通にはできない。なので田や畑にはその種の肥料が必要だ。

 ところが例外的に、マメ科の植物の根に付く根粒バクテリアはその種の無機窒素を窒素化合物(窒素肥料)に同化してくれる。故に田圃に蓮華草を撒いてそれをすき込んで土を肥やすのだ・・という程度のことである。

 ところでそんな蓮華畑を近頃はめったに見なくなった。
 肥料が安く?なったことと、苗の改良で田起し(代掻き)や田植が(蓮華草の開花よりも)早くなったせいらしい。
 そんなことで蓮華畑の情緒を惜しむのはもう時代遅れかもしれないが、少し寂しい気がする。

 その代わりと言っては何だが、昨秋、庭に蓮華草の種を蒔いたのが、丁度開花期を迎えている。
 最初はボンボリのように丸いが、そのうちに蓮の花のように環状に開く。なるほど蓮華草だと納得している。

 「やはり野に置け蓮華草」という格言がある。
 しかし、みんなが野に居てもよろしくない。若いリーダーは思う存分力を発揮せよ。
 年寄は若い人に席を譲って野で咲くのがいい。

2019年4月24日水曜日

シチリア人になるぞ

 朝のBGM代りのテレビで「世界ふれあい街歩き」イタリア・シチリア島編(再放送)が流れていた。
   彼の地ではごく普通なのだろうが男3人が路上ライブ?をしていた。
   シチリア民謡として有名な?「しゃれこうべの歌」を歌っていた。
 カメラ側のインタビュアーが「とても陽気な歌なんですね?」と聴くと、男は「シチリアはさまざまな民族や国に支配されて来たからね」とさらりと答えた。そういえばスペイン風の建物やアラブ風の建物もあるし、もちろんイタリアもフランスも。

映画「越境者」の主題歌にもなった
   先日、中央アジアのアーリア人の文化やゾロアスター教の印象を書いたが、ユーラシア大陸の民族の興亡、早い話が侵略戦争と逃亡の歴史は極東の孤島の人間の想像をはるかに超えている。
 哀しいからと面々と泣いて後悔して愚痴を言う演歌の対極といおうか、あまりの哀しさは、それらを突き抜けてこんな陽気な歌になったのだろう。

 選挙の結果は少々私の気を重くしているが、私もシチリア人になろう。
 堺の市長選挙もあるし参議院選挙(場合によってはW選挙)もある。
 原点に立ち返って、自分の思いを語っていきたい。

 ネット上に「新春シャンソンショー」さんのブログを見つけた。
 そこには歌詞の直訳が載せられていた。転載させていただく。
 シチリアの男3人はこの歌詞をとても陽気に歌っていた。


〽私は大砲の上のしゃれこうべを見た
 興味を持って尋ねてみた
 するととても辛そうに答えた
 (葬式の)鐘も聞かずに死んだと

 俺の人生は終わってしまった
 終わってしまって もうどこに行ったかわからない
 ここに来てから もう80年になる
 生きている人が呼んでも 死人は答えない

 この寝床をなおしてくれ
 そしてよく見てくれ
 もしここで俺の罪をつぐなえないなら
 もう一度生まれて汚れた血を流すだろう

2019年4月23日火曜日

自然体

 先日の元号発表で国書だ!国書だ!と騒いだ人がいるが、いつの間に少なくない日本人はこんなに小人物になったのだろう。
 漢字の奥には重畳たる中国文明があり、同時に訓読みやひらがなカタカナ、和製熟語という日本独特の発明があるのだから、東アジアの文明の中に自らを卑下する必要もないし、夜郎自大になることもない。

 先日私は、鯉のぼりの由来は後漢書の龍門にあるが、鯉の形にして空に泳がせたのは江戸期の名無しの職人だと書いた。
 万葉集の評価も過不足なく行うがいい。
 中国文明も素晴らしいし、換骨奪胎して自国の文化にした日本も素晴らしい。過不足なく、過不足なく。
 武道の基本は自然体。

   わが家の庭にはそこそこの大きさの鯉のぼりが泳いでいる。もちろん息子ファミリーに居る孫と娘ファミリーに居る孫のためである。
 ところが、親切の押し売りとその代価ではないが、二人の孫は祖父母の期待ほどには喜んでくれない。
 まあ、自分に子どもが出来た時にしみじみ思い出すだろうとは信じているが。
 そして、小さな孫は百均で買ってきた小さな鯉のぼりを振っては喜んでいる。

 なるほど、大きな鯉のぼりに対して自分(孫)は単なる鑑賞者(観客)でしかないが、小さな鯉のぼりは自分が操っている主役なのだ。
 同じように、5月にはOB会のパーティーがあるが、出席者に主役になってもらう工夫がいる。
 難しいことだが、そのように考え抜いてくれているという熱意は伝わるはずだと信じたい。

2019年4月22日月曜日

うるい

   庭の植木鉢にギボウシを放り込んでいる。なぜ「放り込んでいる」などというぞんざいな言い方をするかというと、繁殖力の逞しさについていけず、植木鉢に隔離してあるというのが本音である。
 花は紫色で、橋の欄干に取り付けられている擬宝珠に似ている。観賞用の草花。
 球根で冬を過ごし、春に芽を出しぐんぐんと大きくなる。

 その若い茎と若い葉が「うるい」という名の山菜で、それが山菜にありがちな苦味・えぐ味などが全くなく、ぬるっとした感じは極上のワケギかもしれないが、サッと湯掻いて酢味噌もいいし、各種ドレッシングも合う。そのまま生食でサラダの一部にもなる。
   わが家では、春先までは庭の水菜がサラダの主役であったが、その後のサラダの名わき役である。主役と言えるほどは採れないので「わき役」。

 写真は一番姿のパッとしない「ぬた」。
 山菜の本には、「たくさん採れた時には茹でてから干すと保存できる。干瓢(かんぴょう)そっくりで「山干瓢」と言われる」とあるが、それはまだ試していない。

 一昨夜は鍋に入れてみた。これが正解だった。
 なんと言っても小さな孫がパクパク食べてくれたから毎違いない。
 球根付きの苗、欲しい方にはお分けします。

2019年4月21日日曜日

中西進氏の記事

   20日(土)の朝日新聞朝刊に中西進先生のインタビュー記事が大きく掲載されていた。
 いうまでもなく新元号『令和』の考案者である。

 氏は、「令の原義は善」で「一番近い日本語は『うるわしい』という言葉だ」と指摘され、
 「和には平和への祈りも込められている」と述べられて、
 「終戦から約70年、日本人は自国の軍国化を何とか防ぎ、おかげで平和が保たれてきた。難しい局面が立ち現れているが決して越えてはいけない聖なる一線がある。軍国化をしてはいけないという一線だ」と明確に主張されている。
 さらに、戦前の『海行かば』の歌などについて、「国家主義的・軍国主義的な便宜のために、権力者に古典が利用されてしまった。二度とあってはならないこと」ときっぱり批判し、「漢字という共通性を持つ東アジアという大きな文化の中に日本はいる。排他的であってはならない。また自分を失ってもならない」と。
 以上、このインタビュー記事を忘れないでおこうと私は思った。

 初春令月 気淑風和 梅枝鏡前之粉 蘭薫珮後之香
 【中西進現代語訳】 時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

 21日付け赤旗日曜版の『やく・みつるの小言・大言』は、安倍総理に対してインタビュアーが、「総理にゆかりの深い令が入って・・」「大手菓子メーカー創業家御令嬢の令」「これも一連の忖度かな」でつまみ出される。これも覚えておこう。

2019年4月20日土曜日

久しぶりに燃える ジョイナス

   確か黒田了一さんが「ウォームハートとクリーンヘッド」というようなことを言っていたことを思い出す。
 大阪衆院12区補欠選挙でいえば、彼の頭の中の葛藤までは想像できないが、きっと相当な逡巡の上であろう宮本岳志前衆議院議員の「男気」に私は惚れた。
 そしてネットで彼の地の運動(計画)を検索してボランティアで昨日も参加した。

 義を見てせざるは勇無きなり。
 放っておけないというハートと参加地を探すヘッドだと自画自賛。
 あえて言う! 世の中の変革を願うなら即、若かった頃を思い出し、即スマホに買い替えるべし。

 歳をとると時間の逃げ足が速くなる。
 気が付いたときに即実行しないと、手遅れになる。
 ”手遅れ”というと、自身の体力の低下を、がっかりするように昨日自覚した。
 宮本岳志さん応援の行動でバスや車で通り過ぎる人にコールをしながら手を振っていたのだが、なんと15分ほどで腕の疲れを覚えた。
 ええっ! こんな程度でわが腕は悲鳴を上げるんだ!

 声が出て足が動ける間に行動しないと人生に悔いが残るに違いない。それが昨日の教訓。
 心地よく疲れた昨日の行動だった。
 先日も言ったが、息子や後輩たちが財務局職員のように追い詰められなくても良いように私は政治を変えたい。
 安倍政治を止めさせたい。
 衆院大阪12区補欠選挙では、是非とも宮本岳志さんを国会へ送り返したい。

2019年4月19日金曜日

玄関から旅立つ

 昨日の介護施設の続きを書く。
 先日の統一地方選挙前半で、「家で死ねる街」というキャッチコピーがあった。
 非常に面白い提起であった。家族を包む地域のコミュニティーでそんな街を作って行きたいという政策と理解した。
 ただ、2030年問題を目前にして、私にはなかなか具体的イメージが固まらなかった。
 ズバリ言うが、家庭介護のどの部分を地域、つまり隣近所でカバーできるだろうか。
 ほんの一部、言い過ぎかもしれないが上っ面以上のカバーが正直想像できなかった。
 さらに、その政策の善意は理解するのだが、結局、「家庭介護が幸せ」、「施設入居は不幸」というような古い観念を助長し、「ポストの数ほど特養を!」という要望に水を差し行政の責任を免罪しないかとも心配した。前説おわり。

 先日、私の義母が入居している特養で亡くなられた方のご家族の話を聞いた。
 その方曰く、「葬儀社の方が、いろんな場所に伺うことがあるが、こんなに心のこもったお見送りは知らない」とおっしゃったということだ。
 実は以前に、私の実母も、参加できる限りの入居者とスタッフに送られて、お別れの会を経て玄関から送り出していただいた。
 そのときはそのことの良い意味での”特異さ”に気が付かなかったのだが、多くの病院や老人施設ではそうではなく、できるだけ「人目を避けて」裏口から出ていくということらしい。確かに、病院の玄関で、亡くなった方のお見送りはふさわしくないかもしれない。それも解る。
 だから、堂々と?玄関から旅立たせていただいた施設に感謝する。
 そもそも入居のときに、そのときはそんなものかという程度にしか理解していなかったが、他の人のお見送り用に黒い服等もできるだけ用意しておいてほしいといわれていた真意がようやく理解できた。

2019年4月18日木曜日

老人ホームの家族会

 全国的にも珍しいようだが老人ホームの家族会があり、過日の定期総会で役員を留任することになった。
 先輩諸氏の敷かれたレールの上を転がっているだけだから大層なものではない。
 ところで、414日付け朝日新聞・朝日歌壇に次のような歌があった。 
高野公彦選 三島市福崎享子さん
ロボットが介護担ふ世は遠からぬ 夢だが誰も見たがらないゆめ
同感である。介護はつまるところ”人”だと私は思っている。そして、その”人”とは介護のスタッフだけでなく、家族もまた当然その”人”なのだろうと思う。
入居者と施設を繋ぐ家族会があって、介護により心がこもってくると信じている。

深い洞察もなく「家庭介護が幸せだ」「施設への入居は可哀相だ」という声も聴く。ほんとうにそうだろうか。先の歌壇には次のような2首もあった。
永田和宏選 埼玉県 島村久夫さん 
死を願う心起こりしこと無きや母看る我に問いし人あり
同 大洲市 村上明美さん
親の死を待ってるような生き方はいやだがほかの選択がない
選者(永田和宏)評は、介護の精神的な辛さは明るい出口が望めないことにあろう。綺麗ごとでは済まない酷薄な現実がそこにはある。・・であった。

私が評すればこうなる。「どうして施設介護を選択しなかったの」。


   そういう「現実」に向かって我が家族会は何をしているかというと、夏祭りをしたり餅つきをしたりと、結構楽しくやっている。
   保育園の保護者会よりも自由に楽しんでいる。
「現実」の辛さに額を寄せ合って暗い顔をしていても始まらない。というか、そういう現実があるからこそ明るい発想を大事にしている。

あなたも私も必ず到着する終着駅だ。楽しい終着駅をもっと模索してみたい。

2019年4月17日水曜日

宮本岳志と join us


 4月5日の記事に書いたが、衆院大阪12区補選に無所属で立候補した宮本岳志さんのキャッチコピー join us ジョイナス。浅学の私はよく知らないのだが、「一緒にしましょう」、「仲間になりましょう」、「参加しませんか」、というあたりだと勝手に理解している。そしてそれは”素晴らしい”!

   join us を違う言い方ですれば、若者は若者で、女性は女性で、そして高齢者は高齢者の得意分野で頑張ればよいように思う。
 高齢者が若者に自慢話をしたりお説教をするのは愚の骨頂、最低だと肝に銘じている。

 そんなもので、私は労働運動の経験からコール(昔はシュプレヒコールと言ったものだが)は不得手ではない。で、16日の昼過ぎのツイッターで見つけた香里園の「練り歩き」に行ってきた。
 公選法でマイクは制限されているから地声で勝負だが、自分で言うのもなんだが、他の陣営には負けない自信がある。


 先日はOB会のハイキングで信貴山を歩き、日曜日には老人ホーム家族会懇親会で歌をうたい、そして今回は久しぶりに大きな声でコールをした。事務作業で感じる疲労感とは異質の心地よい疲れで自分自身元気になった気分でいる。

 蛇足になるが、香里園まで宮本岳志さんの応援に行ったのには訳がある。
 国会では、虚偽答弁、証拠改竄、ご飯論法(意図的な答弁そらし)が横行している。その結果、近畿財務局の出先職員が自死に追いやられた。殺されたも同然だと思う。
 彼の無念に寄り添うのか、見て見ぬふりをするのか、宮本さんの立候補を目の前にして私たちにはその二つの道の選択が迫られているように思う。

 公務員も、民間のサラリーマンも、何かの事案で結局トカゲの尻尾にされる可能性は増えている。息子の世代など現役の後輩たちにそんな状況をそのまま背負わさせてはならないと私は思っている。
 政治状況を少しはまともな状態に戻したい。常識が嘲笑の対象になるような政治は止めさせなければならない。
 時間が許せばさらに12区へ出かけるぞ。ただ、到着するまでに2時間近く要するのはもったいない。

2019年4月16日火曜日

畿内の要衝

 クイズで「近畿とはどこからどこまで」「関西とはどう違う」「三重県は近畿か」という問題が出されたりする。
 おもしろいのは国土交通省で、例えば三重県の木津川は近畿地方整備局だが、国道は中部地方整備局が管轄している。
 福井県の九頭竜川も何故か近畿地方整備局となっている。
 普通には、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山を指すことが多いが、三重、福井、徳島などが含まれることもあり、一部の法律では更に広い場合もある。

 近畿というのは畿内の近くという言葉だが、畿内とは、大宝律令が定めたいわば「首都圏」で、大倭,河内(後の和泉を含む),摂津,山背がそれで、その後一部変遷がある。
 古代の大倭を考えると、山背は今の木津川市などほゞ一体の文化圏だし、河内と摂津は大陸に向けた大倭の玄関口に当たる。
 いわゆる河内王朝論などは大倭の王朝に対しての河内と論を立てているが、河内(浪速津=摂津)失くして大倭はないのである。
 解り切ったようなことだが、現代の都道府県の中で暮らしているとそういう当たり前の実態が見えにくい。

   以上が前説(まえせつ)で、先日、信貴山・朝護孫子寺の舞台から眺めてみてそんなことをつらつらと考えたということ。
 
 朝護孫子寺の舞台から南を見ると二上山がすぐ目の前で、信貴山と二上山の狭い谷間に大和川が流れている。古代の物流の中心は川だから、大和川は国道であり新幹線でありといったところだろう。ちなみに古代の国道長尾街道も通っている。
 それは現代でさえ、国道25号線、西名阪国道、JR関西線(大和路線)、近鉄大阪線、近鉄南大阪線がひしめいているのだから、基本的には変っていない。

 そして、登って来た基点が河内山本で、舞台の眺望は大和盆地だから、古代人が東から西へ、西から東へと(大和ー河内間を)移動している様が目に浮かぶ。
 それ故、この地に古くから山城(やまじろ)が築かれ、戦国時代の天守を持った山城の先駆が建てられたということも腑に落ちる。
 それにしても、一口に山城とはいうものの、登城は登山と全く変わらず、平成最後の年の軟弱者は古代人の脚力にただただ恐れ入るだけである。

 その軟弱者は空鉢堂までの700mで完全に息が上がってしまい。この先に松永弾正の信貴山城の石垣があるはずという地点から、誰一人として「よし行ってみよう」の声も出ず、全員「見たこと」に共同幻想することにした。
 
 ちなみに、舞台からは東のすぐ下には法隆寺、その南には大和三山の耳成山と天の香具山、その間の平地は藤原京だから、古都のほゞ全域を眼下に抑えた松永弾正が信長さえ恐れなかった気分も解らないこともない。

 今は桜満開のお寺であるが、その昔は結構血なまぐさい要衝の地であった。

2019年4月15日月曜日

急々如律令

   一昔前の公文書の最後尾には「実施に当たっては遺漏なきを期されたい」というような決まり文句がよくあったが、中国は漢代の公文書のそれは「急々如律令」(この命令に基づいて速やかに行え)であった。
 それを道教が取り入れて、願いごとの末尾に急々如律令と入れ「神様よ!これを実行せよ!」という呪符になり、ついにはこの文字だけで魔よけの有難い意味をもつようになった。

 唯物論者の私から見るとナンセンスではあるが、その時代の人々が如何に心配事などのないようにと祈った気持ちが思い浮かべられて可愛い。
 そんな気持ちもあってわが家には、『阿多古祀符火廼要慎』などのお札が貼ってある。
 一般に呪符といわれるお札には楽しいものがある。

 先日信貴山の朝護孫子寺に花見に行ったが、その参道に「十二月十二日/信貴山」と書かれたお札が天地逆さまに貼られていた。
 本でしか知らなかったお札であった。
 十二月十二日は彼の石川五右衛門が三条河原で釜ゆでにされたという日である。なので、そのお札を天地逆さまに貼っておくと泥棒に入られないという、泥棒除けのお札である。
 そして私がもっと驚いたのは、岸和田の旧家の友人が、「うちにも今でも貼ったぁるでぇ」ということで、急速に消えゆきつつある民俗的旧習に目と耳で出会えたことである。
 
 西王母よ 世の中を清掃せよ 急々如律令。

2019年4月14日日曜日

苗代茱萸

   茱萸(ぐみ)には大きく分けて秋茱萸と夏茱萸がある。その夏茱萸の異称が苗代茱萸のようだ。
   丁度苗代をつくる頃に生(な)るのでナワシログミ。
 と言っても私は全くと言ってよいほど農作業を知らないので説得力は弱いが、少し離れた田圃の様子からしても、今は丁度苗代の時期だというぐらいは解っている。昔の人は的確に命名したものだ。
 ただし田植茱萸、麦茱萸、草刈茱萸などという名もあるから、桜前線ではないが地方地方の微妙な季節の早い遅いがそれも的確に茱萸の名前に反映されているのだろう。
 
 写真の茱萸は生け垣などではなく、毎日のように歩いている遊歩道の道端に自然に生えているもの。きっと、野鳥が運んできたものだ。
 専ら自転車を使用する妻は「そんなのあった?」というのだが、普通に散歩をしておれば否が応でも目につく程に木は大きくなっている。
 私はいつも歩きながら2~3粒口に入れている。
 そして、鳥ではない私以外のホモサピエンスも採って食べた痕がある。善き哉、善き哉。

 さて、イクジイと言っても孫の夏ちゃんは放っておくとゲームに支配されるので「茱萸を採りに行くか?」と誘ってみた。
 ホンの一部だけを採って帰ってきたのが上の写真。それも大分食べた後。
 夏ちゃんはゲームは止めたが茱萸をつまみながら漫画の虜になっていった。

 酸っぱい果物が好きな夏ちゃんは当然茱萸も大好きでよく食べる。(ちょっと収穫が早いので甘さ以上に酸っぱい)
 ただ私はよく知らないのだが、なんとなく大量に食べるのは良くないような気がして夏ちゃんに「食べ過ぎないよう」注意している。
 その根拠は食べた後の口の中のザラザラ感による。
 反対にいうと、店で売っている果物にはあまりないこのザラザラ感が野趣でもある。

 以下は『グミの実の効果と効能について』のコピペだが、ザラザラ感など心配せずたくさん食べても良いようだ。

  動脈硬化予防
 グミの実には、動脈硬化予防やストレスをやわらげる効果があるといわれているパントテン酸が含まれています。また、抗酸化作用を持ち、体内の酸化を防ぐはたらきをするビタミンやタンニンも豊富で、これらも動脈硬化予防につながります。食べ方は、生でそのまま食べるのがよいでしょう。
  生活習慣病予防
 アントシアニンは、糖尿病や視力の回復を促す効果もあるとされています。さらに、整腸作用があり、食物繊維も含んでいることから、生活習慣病の予防効果も期待できるでしょう。グミの実を食べていると自然と噛む回数も増え、あごが強くなったり、満腹感を得やすくなるといった効果もあります。
  美肌効果
 グミの実に含まれる抗酸化作用は、美肌効果も期待できます。また、グミの実に豊富に含まれるビタミンCには、抗酸化作用に加えてたんぱく質のコラーゲンを作るはたらきもあるので、お肌の調子を整えてくれるでしょう。
  ◆グミの実の持つ栄養素
  ビタミンE
 グミの実には、たくさんのビタミンEが含まれています。その量は、フルーツのなかでもトップクラスといわれるほどです。そしてこの成分には抗酸化作用があるため、体内で活性酸素の発生や細胞の酸化を抑える効果も。酸化を抑えることは免疫力の向上、動脈硬化やがんの予防につながり、さらに肌や細胞の老化も防ぐのでアンチエイジングにつながります。
  リコピン
 グミの実は、リコピンも含んでいます。これは、皮膚の表面にできる活性酸素というものを除去する働きをもっており、シミやそばかすの原因といわれるメラニンが作られるのを防いでくれるのです。お肌の悩みをもつ方は、グミの実を食べてみるのもいいかもしれません。
  βカロテン
 グミの実に含まれているβカロテンは、体内でビタミンAに変換され、目の神経を伝達します。生活習慣病、ドライアイ、髪の毛の脱毛予防効果があるといわれています。またβカロテンにも抗酸化作用が含まれているので、やはりグミの実は、動脈硬化防止や美容によく、積極的に食べたい果物です。

2019年4月13日土曜日

ボーダーファッション ジョイナス


   このブログの3月21日の「世界ダウン症の日」に『borderを着て越えて』とのタイトルで記事を書いた。
一言でいうと、「ボーダ(レス)ファッションで、障がいの壁・境界線(border)を乗り越えて一緒にファッションを楽しもう!」という#(ハッシュタグ)だということで、“春になったらボーダーを着るぞ!”と宣言した。
#というが、ムーブメントである。
そして4月12日のOB会の遠足には、もちろんボーダー柄のシャツで参加した。

そしたらYさんが、「(私が)そうくるやろうと思って」と言ってボーダーシャツで来てくれた。
もちろん何の打ち合わせもせずに・・である。
ありがとうYさん。その気持ちが嬉しい。

話は飛ぶが、今般の衆院大阪12区に現職を辞職してあえて無所属で立候補した宮本岳志さんのキャッチコピーが『 join us 』(ジョイナス)。 
私は正確には知らないのだが、「一緒にしましょう」「仲間になりましょう」「参加しませんか」という感じだと理解した。素晴らしい! 

ボーダーファッションのムーブメントもそんな風に広がってくれたら嬉しいな。join us !

2019年4月12日金曜日

擬態

 「生物が何か別のものに姿や声、匂いなどを似せることを擬態という」というのは丸山宗利先生の本にある。
 実態は私腹を肥やすのに汲々としているのに改革者の顔をしている維新などは擬態の最たるものかもしれないが、そんな低レベルの人間の話ではない。

 木の葉そっくりのコノハムシは「隠蔽擬態」と「扮装擬態」。
 見た目だけでなく体表の成分(匂い)まで似せる「化学擬態」。
 そのハイレベルな「ワズマン型擬態」。
 自分は無毒なのに有毒な「虎の威を借る」「ベイツ型擬態」。
 毒のある者同士、不味い者同士互いに似せ合って捕食者に「学習」させる「ミューラー型擬態」。
 自分が攻撃するための擬態と防禦するための擬態。
 その外、音の擬態。
 「警告擬態」等それらの混合型・・等々と本にはある。

 「擬態」のメカニズムを神(造物主)の力を借りずに考え抜くと、「突然変異と自然選択の膨大な積み重ねによる進化の結果」となる。
 実際に昆虫と捕食者の関係も単純ではなく、「マークシート型受験勉強」では追いつかない。

   こんな話を書いてみたくなったのは、庭にやってきた写真のヒメウラナミジャノメの「蛇の目」について確認したところ、昆虫図鑑には、「ジャノメチョウのグループは翅に目玉もようを持っています。敵である鳥は、生き物の眼を狙って襲うため、目玉もようを眼だと思って襲ってきます。翅は欠けてしまいますが、体の大事な部分は守られ、生き延びることができるのです」と書いてあり、・・・
 別の頁には、「昆虫たちの隠し業は目玉もよう。目玉もようを見せて敵を驚かす業です。中には、一度にたくさんの目玉を見せる種もいます」とあったから。

 少し大きな「目玉もよう」は田圃の鳥脅しにもあるが、それにしても一つの本の中でこれはないのでは。
 というほどに、擬態の理由は解っているようで解っていないことも多い。

 実験では、多くの鳥類が目玉もようを嫌うとあり、それは蛇やフクロウの目に由来しているのだろうという。
 また、ハエトリグモは目玉もように襲いかかり、結果としてチョウは生き延びるともある。

 誰か「子ども電話相談」に「永遠の5歳で~す」と言って尋ねてくれないだろうか。

2019年4月11日木曜日

イクジイの日々

   今週は月曜から木曜まで二人の孫のイクジイを入れ替えでしている。
 火曜は車でクーラーをかけていたが、水曜は氷雨の中で往生した。暖房を入れた。
 かろうじて体力が持つのはあと何年だろう。
 そう思うと貴重なイクジイだと思って大切にしたい。
 毎年のことだが鯉のぼりを上げた。写真は月曜日。
 孫が大きくなってから思い出してくれればいい。

 未だに鯉のぼりの確たるルーツが判らない。
 四角い布である幟に、逞しい絵や目出度い絵を描くまでは容易に想像がつく。
 しかし、それをほんとうの鯉にしてしまったのはある種のアウフヘーベンだ。賞賛の言葉を惜しまない。
 歴史に名を残してはいないが、こういう奇才、天才がいたわけだ。

 先日、国書、国書と騒いだ御仁がいるが、旗も幟も先行して外国の歴史にあるが、鯉のぼりだけは日本原産ではないだろうか。
 小さくてもいいから皆この季節には鯉のぼりをあげよう。

2019年4月10日水曜日

桜吹雪

   NHKラジオの「こども電話相談室」を聴くともなく聞いていると、「梅の花は長い間咲いているのに桜はどうして直ぐに散ってしまうのですか」というような質問があった。記憶は正確ではない。
 
 そう聴かれて大人はどう答えようか。はてさて難しい。
 先生の答の要旨は、
 ① 梅は桜よりもずーっと寒い時期に咲く。
 ② 寒い時期に咲く木は暖かい時期に咲く木よりも普通は長い期間花を咲かせる。
 ③ それはしっかり実をつけるためにはしっかり受粉しなければならないからだ。受粉は虫や風で受粉する。
 ④ なので桜は梅よりも花の期間が短いのだが、一番目立っているソメイヨシノという種(しゅ)の花の期間は特に非常に短い。他の種ではもう少し長いものが多い。
 ⑤ つまり桜というが、一斉に花が咲いて早く散るのはソメイヨシノという桜なのだ。
 ⑥ そのソメイヨシノは突然変異したものを人工的に増やした特殊な種(しゅ)で実をつけない。実をつける必要もないので早く散る。
 ⑦ 本来は増えるはずのない木が、実がないのにどうして増えたかというと、人間が接木というクローン技術で無理矢理に増やしたのだ。
 ⑧ だから全国のソメイヨシノは実は1本の同じ木と言える。
 ⑨ なので同じ環境下では同じように一斉に開花して一斉に散る。
 ⑩ ただソメイヨシノは実をつけるために花が咲くのではないので、木としては異常な多さの花をつけるので美しい。

 ・・・ざっと、だいたいそういう風なことを小学校低学年の子に説明するのだから、受粉にしても、種(しゅ)にしても、接木にしても、はては突然変異やクローンなんて言葉から解説が必要で、先生の冷や汗たっぷり?の説明と、些か頓珍漢な子どもの反応が面白い。
 全て「わかったかな」「はい」で終わるのだが、子どもの頭の中はくるくる回転しているに違いない。
 さて、この桜の話を桜吹雪の下で新2年生の孫にしようとしたが、「そんな話はええ」と頭から拒否されてしまった。
 この孫の方が子供らしくて良いと思うことにしよう。

2019年4月9日火曜日

西アジアの重畳の歴史

 読み続けるのがしんどい本には何度も出会ったがこの本もそうだった。
 浅学の私はゾロアスター教は歴史の書棚のもので、現代社会に存在しているとは思っていなかった。
   それが、映画ボヘミアンラプソディーでフレディとその家族がゾロアスター教徒であり、容姿以外にもその辺りがイギリス人ら欧米人の差別の対象であったのではないかと想像するようになった。
 なので、現代に生きているゾロアスター教のことを知りたくなってこの本を購入した。

 感想の第一は、日本列島という明らかに地政学上の辺境に暮らしてきた我々は、とても民族の大移動というか興亡を繰り返してきたアジア・ヨーロッパ大陸の「大陸の歴史」のダイナミズムが実感として湧かないということだった。
 顔つきも言葉もそして信じる神も異なる民族が興り、移動し、犯され、はたまた消えるのである。あるいは復活する。
 イランとイラクの違いを実感として理解できていないことなどに大いに反省させられる。

 感想の第二は、確か映画では“パキ野郎”と字幕にあったように思うが、イスラムの国と思っていたパキスタンにゾロアスター教が残存できたのが謎で、これは仏教が日本の神々と融合したようにイスラム教と融合したのか、あるいは妥協したのか。
 東南アジアの上座部仏教徒からすると、日本の仏教は「これが仏教?」と驚くかもしれないが、そういう風にゾロアスター教も分岐して「これが原理」とは単純に言えなくなっているようだ。

 第三は、私としては、よく似た時代によく似た場所(ガンダーラなど)を通過した仏教とゾロアスター教がどのように影響し合ったのか。もっと言えばどう混淆したのかが大きな関心だったが、この本ではその方向の分析は非常に少なかった。
 
 結局、これを機会に徐々にでも研究してみたいという感想で終わるのだが、民俗学に興味が惹かれる私としては、護摩木供養や火渡り、お盆の送り火、果ては修二会のお松明の源流にゾロアスター教を想像する。
 仏教もキリスト教もイスラム教も、ゾロアスター教の神学で育った気もする。
 この思索の先は長い。

2019年4月8日月曜日

忖度したと? この正直者めが

塚田一郎国土交通副大臣(自民党参院議員)は5日、副大臣を辞任したが、議員は辞職していない。
安倍首相も、彼の派閥の領袖である麻生氏も表向きは「辞める必要はない」としていたが、各種選挙を前にしてトカゲの尻尾は切り落とされたようだ。
西日本新聞によると、問題になった1日夜の北九州市での演説の内容は次のようなものだった。テレビ報道よりも生々しい。

 ◆ 麻生太郎衆院議員にお仕えして、はや20年近く。最初の総裁選は大変でした。その時代から、麻生太郎命、一筋でやってきた。筋金入りの麻生派です。
 実は公務で(福岡県に)来ました。福岡空港の民営化の開設式です。私は新潟の自民県連会長もやっているので、50人の同士の応援要請があったが、かわいい弟分の大家敏志参院議員(麻生派)の要請があり、おやじ(麻生氏)の顔が浮かんで足を運びました。麻生派は渡世の義理だけで動いている。ほとんどやせ我慢の団体です。私は夏に参院選があるが、自分の票を削って北九州に参りました。

 国交副大臣なのでちょっとだけ仕事の話を。大家さんが私が逆らえない吉田博美・自民参院幹事長と一緒に「地元の要望がある」と副大臣室に来た。下関北九州道路(の要請)です。これにはいきさつがありまして、11年前に凍結されています。何でか分かります? 「コンクリートから人へ」の流れで、とんでもない内閣があったでしょ(※事実上凍結した2008年当時は自公政権)。総理は悪夢のようだと言ったがその通りです。

 何とかしないといけないと。下関と北九州ですよ。よく考えてください。下関は誰の地盤ですか? 安倍晋三総理です。麻生副総理の地元でもある北九州への道路事業が止まっている。吉田先生が私の顔をみて、「塚田、分かっているな」と。「これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ」と。「俺が何で来たか分かるか」と。私は物わかりがいい。すぐ忖度(そんたく)します。「分かりました」と。

 そりゃ総理とか副総理はそんなこと言えません。私は忖度しました。この事業を再スタートするには、いったん国で調査を引き取らせてもらいます、と。今回の新年度の予算で国直轄の調査計画に引き上げました。
 別に知事に頼まれたからではありません。大家敏志が言ってきた、そして私が忖度したということですので。
 いろいろ計画があります。トンネルが良いという人がいるが、橋がいいのではないかということで、おそらく橋を架ける形で調査を進めて、できるだけ早く、みなさまのもとに橋が通っていけるように頑張りたい。◆

   当人は「事実と違うことを言ったので撤回する」と言ったが、事実を正直に話してしまったので辞任するのだろう。
 
 さて、4日の国会で共産党の仁比聡平議員が明らかにした本件要望書にはさらに腰を抜かさんばかりに驚いた。
 平成28331日付け石井国交大臣あてのその要望書に安倍晋三の名前があったのだ。
 法律に手取り足取り書かれていなくても、総理大臣である者が国交大臣あて要望書に名前を出すのは常識外れの振舞いだろう。
 問われるべきは安倍首相である。やっていいことと悪いことがある。
 首相の中国嫌いは、なるほど、漢籍には「李下に冠を正さず」というような常識の教えが少なくないからだろうか。

 忖度の名の下にこういう横車(政治の私物化)が堂々と通ってしまうと多くの国民は政治や選挙に無力感を感じてニヒルになる。そういう倦怠感がこういう政治をさらに助長する。
 卵が先か鶏が先か。今日は統一地方選挙の話題で消し飛んでしまいそうだが忘れてはならないだろう。

 ところで、在阪テレビ局のコメンテーターには吉本の芸人が多数起用されている。
 芸人だからダメだとは言わないが、「これは張り切り過ぎて口が滑ったのやろう」「私らも受けた時には調子に乗って口が滑るときがある」のコメントはないだろう。
 政治に対する冷笑主義(シニシズム)はニヒリズムを助長し社会を腐らせる。

 報道の自由度ランキングで日本はG7で最下位、世界72位、ということは途上国の独裁国家並みかそれ以下だと国際機関は述べている。
 茹で蛙は茹でられている事実を知らない。

 注【正直者めが】上方落語:禁酒関所、江戸落語:禁酒番屋

2019年4月7日日曜日

絵巻の春

   319日と26日に明恵上人のことを書き、そこでも紹介しておいたが、「明恵と鳥獣戯画」に関する特別展(前期)『明恵の夢と高山寺』を、大阪市内に出たついでに中之島香雪美術館で見てきた。期間は56日まで。比較的空いていた。
 なので有名な大展覧会のような混雑で疲れることもなくゆっくりと鑑賞できて満足した。皆さまにもお勧めする。

   今週はOB会の遠足で信貴山に行く。ここでは信貴山縁起絵巻を見る予定にしている。
 鳥獣戯画も信貴山縁起絵巻も作者は伝わっていない。
 一説にはどちらも鳥羽僧正覚猷の作と言われるが私にはよく判らない。神護寺ゆかりの絵師の集団が有力かもしれない。

 信貴山縁起絵巻は三つの巻からなっている。
 「飛倉の巻」は東大寺で受戒した法師(聖)が信貴山で毘沙門天を祈り麓の長者の寄進で暮らしていたが、米の寄進を嫌がった際、倉ごと空鉢が空を飛んで米俵を手に入れたという奇跡。
 「延喜加持の巻」は護法の童子を派遣して帝の病気を治したこと。
 「尼君の巻」は姉君がはるばる訪ねて来て静かな生活を送るようになったこと。・・である。

 鳥獣戯画同様、護法の童子など、現代アニメの原型が随所にある。
 そして、倉を背負った鉢が飛んできた場所が、本堂付近から片道20分程度の山の上にある空鉢堂。ここには水源がないので本堂脇から水を汲んでこれを持って山登りをする。
 口ばっかりのOBたちはどこまで挑戦できるだろう。(エスケープコースも用意してある)

 空鉢堂のすぐ横が、最後には信長に攻められた松永弾正久秀が名器・古天明平蜘蛛の釜を打ち砕いて自害した信貴山城の址。ただ山城であるのでその石垣等の跡を確認するためには相当の体力を要する。どこまで接近できるか自信はない。

 毘沙門天というとその使いは百足(むかで)であるが、信貴山の毘沙門天といえば使いは有名な寅。
 虎といえば開幕3戦目時点では首位であったが、あっという間に最下位になってしまった。
 巻き返しを期待される向きは丁寧に祈願されるがよい。

2019年4月6日土曜日

天平2年の令月 大伴と万葉集

 私はこのブログの42日の『漢字文化圏の教養とは』で「新元号に嫌悪感はない」と書いたが、それは振り返ってみて、安倍首相がもっと酷い政治的元号を決定するのではないかという心配が先にあったから、一種の安堵感でそのように感じたきらいがある。

   しかし、河北新報の記事がズバリ指摘しているとおり、安倍首相が元号発表を己が政権の浮揚策に最大限利用し、後進国のメディアでさえも恥ずかしくなるようなヨイショの報道が大手メディアからこれでもかと繰り返され、それによって実際に政権支持率が上昇したという報道を聞くと、徐々に「一言は言っておきたい」気持ちがふつふつと膨らんできた。

 だいたいが先ず「はい令嬢の令ですね」という前に「えっ命令の令?」と感じたのが私の正直なところで、それが私の教養の水準であったが、それを笑うなら笑うがいい。それにそんな話はまだいい。

 そもそも元号に好字が選ばれるのは当然のことで、まさか漢字二文字だからといって悪魔とはつけないだろう。
 だとすると、この二文字の向こうに平和で穏やかな世の中を期待する気持ちは解らなくもないが、冷静に見て、元号ひとつで社会が変わるわけでもなく、昭和だって、あの戦争、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、そして敗戦を願ってつけたわけでもないだろう。
 
 それに安倍首相が「国書」「国書」と言ったのも非常に不正確なことは2日に書いた。
 中国南北朝時代の文選に収められた張衡(78-139)の「帰田賦」を踏まえて今般典拠の序文が漢文で綴られていることは疑いの余地がない。
 それは安倍晋三個人の中国嫌いとは関係ない。返って、安倍政権の教養の程度が露見しただけだ。
 しかも、帰田賦は歪んだ政治への批判というから天に唾したようなものだろう。
 和歌にしても漢詩にしても「本歌取り」の技術があり、そのことによって作品に重層的な厚みが出るのである。

 また2日のコメントに書いたが、安倍首相は梅の花と日本人をつなげて”ニッポンすごい!”を言うが、高名な万葉学者犬養孝先生は「当時の文化人からみたら梅は新しい花で、こんにちの人が見る梅の感覚と違います。たとえばこんにちの人が西洋の花をみて楽しむような、ある種のエキゾチックな感覚もあったんだろうと思います」と教示されている。
 それでいえば、当時の文化人は梅の花を通して、その先に華やかな中国文化を見ていたのだろうと思われるのも首相にとっては皮肉なことである。

 さてさて私はというと、2日にも書いたが、私の孫の名前は万葉集から頂いたし、土地柄(山城南部は奈良文化圏)もあり、天平時代や当時の仏教文化には好きを通り越して「大好き」な感情を抱いている。
 しかし、しかし、あまりのヨイショ記事の洪水には些か鼻白んでいるというのが正直な今の気分である。なので、もう少し語らせていただきたい。

 奈良県には「長屋王の呪い」という誰もが?知っている言葉がある。
 多くの考古学者らの反対の声をよそに平城宮跡の一角に奈良そごう百貨店が建設されたが、ご存知のとおり程なく閉店した。その跡に入ったイトーヨーカドーも程なく閉店した。その土地は長屋王の屋敷跡であった・・・。すべては長屋王の呪いと言って話は盛り上がる。

 728(神亀5)年、官歴からいっても年齢からいっても下位の藤原武智麻呂が大納言になる一方、本命と目されていた非藤原の名門の大伴旅人が太宰帥に体よく左遷させられた。
 翌729(神亀6)年(天平元年)、非藤原の強力な皇位継承候補者であった左大臣長屋王と、吉備内親王や息子たち諸王もことごとく冤罪によって謀殺された。(長屋王の変)
 
 その翌年730(天平2)年正月13日に大宰府の大伴旅人邸で宴が催され、客人たちが梅の花を題にして歌を32首うたったのである。万葉集のその序文が・初春令月・・である。
 主人はもちろん非藤原の旅人。客人は藤原派、非藤原派いろいろ。皆んなできるだけ平静を装って正月を祝うように明るく振る舞いつつ、心は京(みやこ)のこの先のことだったに違いない。
 直木孝次郎著『万葉集と古代史』には、「この時点で京に赴いていた朝集使はまだ帰っておらず、もっと正確な情報を知りたいと、風聞にやきもきしていたことと思われる」とある。
 ただ正確な情報は届いていたとみる説(小野老が帰任していた説)もある。
 いずれにしても、京の大変動を旅人は大宰府であれこれ聞くだけであっただろう。
 それも平家物語ではないが、藤原の一派独裁が進んでいく風聞が・・・。
 上田正昭監修、千田稔著『平城京の風景』の中の小見出しに「天平という名の非天平」というのがあるのはさすがである。

 そういう古代史を考えると、歌の表面にはない古代人の気持ちが見えてこないか。
 そうすると、私は、安倍首相が長々としゃべった様に、典拠の歌や序文がそんなに能天気なものではないように思うのだが如何だろう。
 729天平元年か翌2年か不明だが有名な山上憶良の「宴を罷(まか)る歌」がある。
 「お先に退席させていただきます。家では子供が泣いています。・・・」というものである。
 再び直木孝次郎先生の説を牽くと、大宰府のこの宴の”冷気”を最も敏感に感じ取った憶良が、主催者の旅人の気持ちを考え、座をお開きにする役を買って出て、・・一座の人は憶良の歌にどっと笑いくずれなごやかにおひらきになっただろう・・というもので、なるほど万葉学者の読みは深いとただただ感心している。
 あの序文の時代はそういう陰鬱な時代であり、それ故に(それだからこそ)歌は美々しく飾られたともいえよう。
 文字の美しさに比例して影が暗いというべきか。
 それだけに、あの軽薄な首相のおしゃべりに私はうんざりした。

 重ねて言うが「令和」が良くないと言っているのではないが、あまりの天真爛漫なヨイショ報道に踊って「万葉スゴイ」というような軽薄な言動は控えてもらいたいと思うのである。
 私的には、上野誠先生に”純粋な恋の歌”などから提案してもらえばよかったのにと独り呟くのである。元号の要不要は別にして。

 蛇足ながら、安倍首相には理解できないかもしれないが、古文ひとつとってもこのように奥は深いのである。光の裏には影がある。
 近頃、トコーソーというような実体のないワンイシューで選挙民を誘導しようとする維新などがいるが、ものごとをスパッと単純に語る人間は胡散臭いものである。
 以上が前説(まえせつ)で、落ち着いて理性的にものごとを直視すれば、今の日本には共産党議員が必要なことは論を待たないと私は考えているが、皆さん方にもご賢察をお願いしたいが本論でもある。
 取って付けたような本論で申し訳ない。

2019年4月5日金曜日

ハンサムボーイ

 共産党の宮本岳志衆議院議員(比例近畿ブロック)が議員を辞職し、衆院大阪12区補欠選挙に無所属で出馬するという。
 当選後も無所属を公約し、そういう意味では全く本気で他の立憲野党との野党共闘を望んでいる。
 捨て身の作戦のようで私は男気を感じた。ハンサムボーイだ。

   宮本岳志議員といえば森友事件追及の第一人者であった。
 追及された籠池元理事長にさえ「尊敬する」と言わさせた人物で、「宮本岳志だけは国会から失ってはいけない」という声も多い。

 森友事件といえば、共産党が次々に繰り出す各種資料が話題であった。
 安倍や菅が、麻生や財務省がすっとぼけた答弁で逃げようとするのを、あそこまで追い詰めたのは、幾つかの内部告発等々であった。
 そこで国会周辺では「なぜ内部告発が共産党ばかりに行くのか?」と話題になったが、その答は「共産党は絶対に内部告発者を守ってくれる」という信頼だろう。
 事実、他の党にも情報が寄せられたが、握りつぶされたり、さらには提供者を相手側に教えてその人が報復を受けたようなことが多々あった。

 それに、企業献金による企業や、選挙丸抱えの労働組合等のしがらみのないのも決定的だろう。
 例えば原発だ。言っちゃあ悪いが、反原発が進まない裏には電力会社の政治献金があり、政党機関紙への広告料があり、そして代弁をする連合・電力労連がいるのは公然の秘密だろう。

 長いものに巻かれるような人間にはなるなと私たちは教わってきた。
 今般の選挙での投票は、この国の政治と地方政治にそういう倫理を取り戻すという性格を持っている。
 そういう風に考えて、私は共産党の議員の増加と、共産党が自主的に支援する候補者の当選を望んでいる。

2019年4月4日木曜日

スペイン風邪のことから

 明治生まれだった母の思い出話だが、近所の医院に受診に行ってスペイン風邪のときの話を先生に講釈してきたらしい。「医者なのにスペイン風邪のときのこともよう知らんかった」と怒っていた。
 そのとき(大正7・8年)は余りの大流行に火葬場が間に合わず、みんな何日も長い間待たされて大変だったと話してきたらしい。

 いま、日本人口の3分の1が65歳以上となる2030年問題が言われているが、スペイン風邪のときではないけれど、介護から火葬、はては墓じまいまでこの国はどうなるのだろう。
 のぞみ大事故直前だった問題では「正常性バイアス」が指摘されたが、この国の多数が「どうにかなる」「これまでもどうにかなってきた」という正常性バイアスに脳内が支配されていないだろうか。

 ポストの数ほど特養を!は喫緊の課題だと思う。
 それは贅沢でも何でもなく、人間として当然の要求である。
 いまから50年近く昔は、保育所の要求が贅沢だと非難する声もあった。
 「よく預けられるわね」と働く母親は嫌味に堪えなければならなかった。
 
 いま、「家族介護が幸せだ」的な意見は、50年前のそんな意見と変わらない。
共産党と宗教者との対話・連帯
   キリスト教のことはあまり知らないが「自分を愛するように隣の人を愛しなさい」という教えだと聞く。
 そこから、教会の慈善事業が始まり、それが行政に発展していったのではないだろうか。
 キリスト教の影響の少ないわが国で、福祉や富の再配分の評価が低いのはその辺にも理由がないだろうか。僧も神職も考えてほしい。
 弱肉強食は神の教えではないはずだ。
 統一地方選挙の本番中にそんなことを考えた。
 福祉や生活環境あたりを削って「行政手腕だ」というような論調に乗ってはいけないと思う。

 逆説的に聞こえるかもしれないが、現代社会で最も敬虔な意味で神や仏の声に寄り添っているのは共産党だと私は思っている。

2019年4月3日水曜日

寄り添うという言葉

 政府筋から発せられる「寄り添う」という言葉の寒々しさは多くの国民共通の感情だろうと思う。
 いま丁度地方選挙の最中だが、橋下徹氏以降維新らによって唱えられている「民主主義は多数決だ」とか「多数決が民主主義」という声を聞いて、先の言葉同様、私は大きな違和感を感じている。

   民主主義という社会学的な言葉の定義としても的外れであるばかりでなく、結局マジョリティーによるマイノリティー切捨ての免罪符になる危険性を感じるからである。
 民主主義成長の要諦は、異なる意見の尊重、異なる意見間の議論だと思うのだが、どうしてかマスメディアの論調にそういう声を聞くことは少ない。

   さて、学校には通常の小中高校とは別の特別支援学校がある。ここへ通う生徒は数でいえばマイノリティーといえよう。
 しかし、先日朝日新聞に載っていた大森梓氏の指摘のとおり、障害のある子供はゆっくり成長するのであって、成長しない訳ではない。
 ところが、「費用対効果」とでも言いたいのか、特別支援学校は需要にはるかに及ばず増やされず、教室も施設も放置されている。

 こういう箇所に光を当てるのが近代国家であり福祉国家でないのか。
 身を切る改革などと言って地方自治体を株式会社の論理で運営する。
 そんな政治ははっきりと止めてほしい。
 ナチスはユダヤ人ホローコーストの前に、「こういう障害者があなたの税金を食っている」という大キャンペーンを張ってホローコーストと同種のことを行なった。

 統一地方選挙の中で殺伐とした議論がされるのは止めてほしい。
 理性ある共産党の議員が延びてほしいと私が切に願っている所以である。

2019年4月2日火曜日

漢字文化圏の教養とは

 4月1日付朝日新聞の夕刊トップ記事はもちろん新元号で、巨大な文字の見出しが「典拠は万葉集」「国書に由来は初」であった。
 万葉学者上野誠先生のファンである私としてはことさらの嫌悪感はない。
 とりあえず幾つかの辞書で「令月」を引いてみたりしたが、和漢朗詠集ぐらいしか辿れなかった。
 もう一度朝日新聞に戻ると「大化から平成までは、確認されている限り中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としており、安倍政権の支持基盤である保守派の間には国書由来の元号を期待する声があった」と書いており、安倍首相の記者会見の論調も正にそのとおりであった。

   しかしネット社会とは恐ろしいもので、すぐ数時間後には、安倍首相の発言やそれを垂れ流した朝日新聞の記事の論調が大いに不正確であることを指摘する意見がネット上に開陳された。

 指摘の主旨は、中国南北朝時代の文選に収められた張衡(78-139)の「帰田賦」に、「仲春令月、時和気清」とあるのを万葉集の「詠み人知らず」が「初春令月、気淑風和」と本歌取りして語ったものだろうというもので、新日本古典文学大系「萬葉集(一)」の補注(写真掲載)にもあるというものである。

 私は非常に説得力のある指摘だと思う。
 だからといって万葉集の価値が下がるわけでもなく、本歌取りの思想は和歌の技法のひとつであろう。そのことによって内容がさらに深まったりする。

 結論は、安倍晋三氏は乾坤一擲「漢籍由来でない元号」を定めたつもりだろうが、所詮は彼の浅学を晒しただけだったということになる。
 古典といえばアジアの漢字文化圏の中で各民族が文化を紡いできたのであるから、ことさら「国書だ国書だ」というのは児戯に等しい。

2019年4月1日月曜日

沖縄に寄り添うとは

辺野古沖に生息していた3頭のジュゴンの内の1頭と
思われるジュゴンの死骸が3月18日に発見された
   2月に行われた沖縄県民投票は、辺野古基地建設反対票が43万4273票(71.74%)に達し、投票資格者全体の四分の一を超え、玉城知事の得票数も大きく超えた。
 これを沖縄の民意だと思わないならその眼は歪んでいる。
そして「沖縄の民意と本土の民意は違う」と一顧だにしない政権と政党(自民、公明、維新)には政治姿勢以前の”人としてあるべき感情”に欠陥があると私は思う。
さらには、地方自治に対する認識を決定的に欠いている。

 さて「沖縄の民意と本土の民意」ということで私が声を大にして言いたいことは、本土の一人ひとりの市民がただ政権の批判をしているだけで済むだろうかということで、それは本土の市民一人ひとりにも問いかけられているのではないかということだ。

 現下の地方選挙の場合は、ともすれば政策よりも「同じ町内から立候補している」「知人である」「親戚だ」などという浮世の付き合いも頭をよぎることだろう。その気持ちは十分わかる。
 でも、一呼吸おいて考えてもらいたい。沖縄の民意を土足で踏みにじるような自民、公明、維新に属する人々を当選させ、「沖縄は沖縄、ここはここ」でよいのだろうか。

 私が現職のときに所属していた労働組合(全労働)には「小指の痛みを全身で」という合い言葉があった。
 生臭い地方選挙の折りにそんなきれいごとを・・という意見もあるかもしれないが、私は今回の選挙は人としての理性を問われている選挙だとも思っている。 
 この選挙は沖縄の民意、そして地方自治と民主主義に寄り添う選挙でもある。