2011年11月30日水曜日

カチハジキを植えてしまった

   生駒谷で育った義母が「おやつなんか買うたことがない」「カガミソ、コシキ、カチハジキなんかを採って食べていたんや」と言うので、それはいったい何のことかと調べてみて、カガミソ=ガマズミ、コシキ=カマツカ、カチハジキ=ナツハゼらしいと解るまでには相当の月日を要したし、未だに本当にそれらが正解かどうかはわからない。
 特にカチハジキは『オニハゼのことをカッチンバリキともいう』という文献からの類推だったが、先日ネットで『ナツハゼのことを信州ではキンタマハジキともいう』というのを見つけたので、ほゞ間違いないだろうと思っているが、写真を見せて義母に尋ねても「こんなんやったかなあ」というばかりで、挙句は「小さいときのことやから忘れてしもうた」である。というように、そのものズバリの文献は見つけられていないし、生駒市立図書館で調べてもらっても解らなかった。

 (因みにオニハゼはほんとうの櫨(ハゼ)で食用にはなりそうもないし義母に写真を見せたところ即座に却下された。ナツハゼは夏に櫨のように赤く色づくのでそう呼ばれるがツツジ科スノキ属とある。)
 こうなったら仕方がないので、馴染みのネイチャー志向の植木屋さんに頼んでナツハゼを取り寄せてもらったが、次の義母の外泊の際に「こんなんとは違うなあ」と言われたらどうしよう。・・・といって今更どうしようもないが。
 和製ブルーベリーのよう・・と書いてある本もあったが、あまりに素朴な味のため、若干自信が揺らいでいる。
 なお、キンタマハジキを見つけたのはクロスミさんのブログだが、この方は方言(別名)も丁寧に調べられており感心してしまった。
 あまりに立派なので以下に紹介させていただく。
 1 キンタマハジキの類
    ウシノキンタマ(岐阜)
    ウシノダンベイ(新潟)
    キンタマハジキ(長野、愛知)
    コマノハジキ、コマノマラ、コンマラ、コンマラハジキ(長野)
    テテマラ(福井)
 2 季節から
    アキグルマ、アキゴロモ(山形、新潟)
 3 実の色
    アカノキ(山形)
 4 花の形から
    アタマハゲ(福井、京都、和歌山、岡山)
    アンドン(愛知)
    ハゲノキ(和歌山)
    ハゲノミ(香川)
    ハゲモモ(和歌山)
    ハチマキモモ(静岡小笠町)
    ヤカン(山形)
    ブンブクチャガマ(新潟)
 5 実が酸っぱいことから
    カンカンスイバ(山口)
    シーコ(岡山)
 以上、方言のため若干品位に欠ける点はご容赦を・・・・・。

2011年11月28日月曜日

庭先の天使

 晩秋の家の周りには蟷螂(カマキリ)がじっと止まっていたりして、それはそれで楽しい世界がある。

 そんな時に、金柑(キンカン)の木の近くで見つけたのは右の写真の揚羽蝶の蛹。
 カラスアゲハかクロアゲハかオナガアゲハかは知識不足で解らない。
 明らかなことは「緑の蛹と茶色の蛹は背景の環境による」という保護色論は当たっていないということ。この蛹は汚れた茶色の簾に付いていた。
 それにしても、このケッタイで、とぼけたスタイルは造物主が「屋外の女王」になる前に与えた試練だろうか。・・・・みにくいアヒルの子?
 
 此の頃の子供たちはバーチャルリアリティーの世界の怪獣や虫に夢中らしいが、こんなに可愛いリアルそのものの昆虫を知らないなら可哀相である。

 それはさておき、原発問題を見るにつけ、科学技術の進歩に人間の倫理観等の成長が追いついていないこと、むしろ後退局面を感じさせることが現代社会の問題ではなかろうか。
 昨夜の大阪のニュースを見てもそう思う。
 ちょっとでも自分より得をしているように見える者にムカつく現象。
 公務員、教員、この後考えられるのは年金受給者、生活保護受給者、私学に行っている家庭・・・、仮想敵国は次々に登場するが、決して真犯人には到着しないという現象。
 そして社会のひずみの原因が挙げて彼ら公務員や教員等にあるという憎悪のアジテーションの合唱に加わることに野球の応援団のような擬似連帯を感じる。そういう社会が生れているように思う。

 とまれ、本題に戻ると、他者を思いやる情緒のようなものは、バーチャルリアリティーの虫を好んでも育つことはない。孫たちをリアルな虫に触れさせることが地球を救う道であろう。
 そう考えると、この揚羽の蛹が天使に見えてきませんか。

2011年11月26日土曜日

穴子の半助

   明石家さんまが入門当初、笑福亭松之助師匠に「角(の鰻屋)で半助を(買ってくるよう)」頼まれたが半助を知らなかったため、角座で「半助師匠はおられますか」と聞いたという話をテレビでしていたが、確かに当時でも半助はそれほどメジャーではなかったから無理もない話しだろう。
 ところが私は、小学生の頃は父の仕事柄穴子の半助を嫌というほど食べてきた。穴子の半助を焼豆腐か厚焼玉子のヘタと炊いたおかずである。
 まだ「戦後」と呼ばれていた時代であるから今から考えると有難いおかずだったのだが、当時はもっと違うものが食べたかった。
 そして今は・・・、それもまた懐かしい記憶の中に分類されるほどに年を経た。

ネットから
  近頃、寒くなって寄せ鍋や水炊きをする機会が増えたが、我が家では鍋に穴子を入れることが度々ある。
 その時はもちろん半助もほかさずに入れることは当然で、ゼラチンのように柔らかくなった身?をせせるとあの頃の記憶がよみがえってくる。
 しかし、遠い半助の思い出がなかったならこれはどう見てもアラというかガラだろう。

 本などには「大阪の味」などと麗々しく書かれていたりするが、だからと言ってわざわざ半助を買いに行く気はもう起こらない。私としては戦後時代の思い出で、もういい。
 しかし、半助豆腐に見るような堅実な大阪文化は残ってほしい。
 だから、大阪にカジノはいらない。それは大阪の文化にも経済にも馴染まない。

(注)半助=焼いた鰻や穴子の頭だけを切り落としたもの

2011年11月24日木曜日

癒されているのは誰

   ABCラジオの桑原征平アナウンサーの政治がらみのコメントは失礼ながら薄っぺらで好きになれないが、氏が、施設に入居されているお母さんを頻繁に見舞われていて、その様子を明るく電波に乗せて語る話題は、老朗介護の家族を大いに励ましているに違いない。この点は大いに大いに評価している。
 特にお母さんと少しトンチンカン(失礼)に歌を唄った日の明るい報告は、ラジオの此方でも笑ってしまうことが多い。

 私も実母の入所している施設で毎朝、合唱(正確に言えばテンデバラバラに歌っているだけだが)をしていることは度々書いたが、皆さんのその日その日の体調次第で何かノラなかったり、夫々が居眠りタイムに移ったりして、「一憂」することも少なくない。
 そして、唄った入所者が「昔を思い出すなあ」とか「思い出して涙が出るわ」と言われる時があったり、「おおきに、歌を唄ったら元気が出てきたわ」とお礼を言われた時にはじ~んと嬉しくなって「一喜」している。

 「今日は皆んな楽しそうに唄ってくれたわ」と、そういう報告を帰って行なうと、妻は「その合唱は、入所者を癒してるのと違って、あんたの方が癒されてるんやなあ」と直球で評論してくるが、それはズバリ正解なのでありましょう。

 追伸  先日、音楽療法士の療法を受ける集りに出席した。
      「高度難聴の方にはどうしているのですか」と質問したら、何を聞くのとばかりに「聞こえない人には何もできない」と回答があった。それ以上は質問はしなかった。

2011年11月22日火曜日

ミズキの実力

   ミズキというと近頃ではハナミズキ(アメリカハナミズキ)の方が大きな顔をしているが、純国産のミズキも忘れないで欲しい。

 春に幹を傷つけると多量の水が染み出すので「水木」というらしく、柔らかく白い幹は正月の祝い箸である柳箸となる。

 このミズキ、私の周囲の本には「紅葉が綺麗」と一切出てこないのはどうしてだろう。不思議である。
 近所の研究所の庭のミズキは、周辺の見事な紅葉・黄葉に勝るとも劣らない紅葉だと思うのだが・・・。

 薄く透き通ったようなピンクというか肌色のそれは、非常に控えめでいて、この木の周りが光の通り道であるかのような存在感を漂わせている。

 とかく世の中というものは、このように実力があるのに見向きもされない木がある一方で、中身がないのに名前だけが売れている二流品が大きな顔をしているものである。
 こんな素晴らしい自然を堪能しながら、木々の紅葉を大阪W選挙と重ねて考えてしまうのは二流の風流人なのだろう。はい分ってます。

2011年11月20日日曜日

滅びゆく山村は他人事でない

   奈良大学中原洪二郎先生の「吉野の過疎化と文化」と題する講義を受けてきた。
 奈良県野迫川(のせがわ)村をフィールドワークの対象にされてきたその結論は「限界集落ならぬ限界村の状況」であり「あと10年程で村ごと滅びかねない」現実だった。
 また、衰退しきった林業の結果、伐採したあと植林もしないまま土地を手放した山が放置されていて、これが、今般の土砂ダムの一因ともなっている事実だった。(植林とは言っても杉等の針葉樹の単一樹種の人工林が自然災害に脆弱である事実を横においても、そのまま放置とはあまりにひどい)
 この国は、かつては生産性の名の下に照葉樹の森を皆伐して針葉樹の人工林に変え、今は生産性の名の下に禿山を放置しょうとしている。

 この講義から連想したものは、昭和62年に出版された下村治著「日本は悪くない」(文春文庫)だった。
 著者は、池田内閣の所得倍増計画を立案したエコノミストであるが、この本の中で「この日本列島の1億2千万人に十分な雇用の機会を与え、できるだけ高い生活水準を確保する、これが国民経済の根本問題である」と述べ、「それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なし」と主張している。
 
 そう、生産性を唯一の価値基準にして米国の唱える自由貿易を神聖視してきた結論・結果が、現在の山村の実態であり、今後すぐ後の農村であり、一部の多国籍企業を除く産業の空洞化に陥るであろう都市の未来であるように思われる。
 
 原発災害を「国民全体の驕りの結果だ」と言い放った某知事の発言はいただけないが、今般の奈良・和歌山洪水・土砂ダム災害から真の解決策を導き出さないと、自然は再び三度私たちを鞭打つに違いない。
 都市の泡(あぶく)のような利便を享受しながら語るのは気が引けなくもないが、山村や農村の自然や文化が滅んだ先に都市だけが繁栄するはずもない。
 今回の講義は、吉野の素朴な山村文化を語ってもらえるのかと思って出席したが意に反して深刻な実態報告だった。
 ただ、いただいた資料の最後に「自由貿易という名の呪いと戦う必要もある」と先生の決意が認(したた)められていたことに希望の光を感じとった。

2011年11月18日金曜日

由来不明の父の笏

   今はいない義父の口癖は「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」だったが、当時はその意見(口癖)を「また言っている」と、年寄りの繰言のように聞き流してきた。その後悔を今頃になって噛み締めている。

 折口信夫の書いた「私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思われる様式の、由来不明なる「為来り(しきたり)」によって、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与える。」〔上野誠著「魂の古代学―問いつづける折口信夫」(新潮選書)から〕というような一文が首肯できるようになったとき(歳)には「親孝行 したいときには・・」ということになっている。

笏は古代学にはよく似合う
 そういう駆け込み乗車の心境で実母に「50年以上前に亡くなった実父はどうして(しゃく)を持っていたの」と尋ねても「ふ~ん」と考え込むだけである。
 実母の断片的な記憶を縫い合わせてみると、実父の恩師に多賀(おおが)先生という神道の先生がいて我が家によく出入りしていたこと。祖母等船場の商家の女子衆は唯一の休みとして「おたかさん参り」をしていたこと。確か実父は神職の資格?を持っていたということ。・・で、もしかしたら多賀大社の講の一員だったのだろうか。しかし、それにしては実母は多賀大社に行ったことがないと言うし、事実は霞の向こうである。これ以上は解らない。
 このは、掃除の際に実母が一旦は捨てようとしたのを私が「残しておこう」と言って残したもの。
 これからは、この由来不明のを持ちながら神社成立以前の神々の声を聞いてみようかと思っている。

2011年11月15日火曜日

堺の くるみ餅

   松露団子からの繋がりで、堺の「くるみ餅」を思い出した。
 ここも広い意味ではチンチン電車沿いにある。

 堺の「かん袋」は秀吉から貰った由緒ある屋号であり、ここの「くるみ餅」は有名な上に「なくなり次第閉店」のため、昨今は出かけて行っても食べられない(購入できない)ことも多い。

 しかし「くるみ餅」は、その昔の堺では比較的メジャーなメニューとして普通の喫茶店でも食べることができたから、夏の暑い日などは高校からの帰りに喫茶店で「氷くるみ」を注文したりした。
 当時宿院大通り(フェニックス通り)にあった喫茶「音楽」にええかげんな同級生と入った時には、お互いに相手が小遣いを持っているだろうと思って食べてから、実は二人ともオケラであったので、「氷くるみ」よりも汗が引いてしまったことがある。こういう恥ずかしい思い出はどうして消えてしまわないのだろう。

 恥ずかしいといえばこの「くるみ餅」。長い長い間「胡桃餅」だとばかり思っていた。
 100%ではないが餡の中に擂り潰した胡桃の入った胡桃餡だとばかり思っていた。
 人間信じ込むと怖いもので、胡桃の味や香りなど一切しないのに疑いもしなかった。胡桃餡とはこういうものかと妙に納得したりして・・・。
 実は「包み餅」だと理解したのは十分大人になってからだった。ああ。
 
 昔は「かん袋」の近くに住んでいたので、手土産用に購入したり、家用のお菓子としてしょっちゅう購入していてこの有様。
 おまけに、容器の壷を梅干入れの容器などとして今でも重宝にしているのに、・・・なんとも恥ずかしいことである。
 先日、堺の幼馴染から「たまにはくるみ餅を食べに帰っておいで」と手紙が届いた。あの味が懐かしくよみがえってくる。

2011年11月12日土曜日

忘れ物を見つけた 松露団子

   松露しょうろは、松林の砂地に生えるキノコで美味というから和製トリュフらしいが私は食したことがない。なお、トリュフを検索すると西洋松露とあったからあらためてそのイメージに納得、納得。
 だから、その昔白砂青松の堺の浜寺で松露が採れていたのは間違いなく、それが証拠に浜寺名物・松露団子がある。
南海本線浜寺公園駅舎


 その松露団子・・・。今から50年以上前のことになるが、病床の父が亡くなる少し前に「浜寺の松露団子を食べたい」と言い出して、母が浜寺まで買いに行ったことを何故か今でも憶えているが、当時、それがどんなものであったかは全く記憶にない。
 そして勝手に、それは、少し乾いた餡の周りに砂糖を固めた和菓子の「松露」の・・あれだ、と思い込み、和菓子の「松露」を食べるたびに「これが父親が食べたがったものか」と感慨を込めて食べてきた。

阪堺電車で

 父が亡くなってからの私は中学、高校へと進み、この間に友人たちと浜寺公園で遊んだり、松林の下で青春の悩みを語り合った機会は数限りがないが、その頃は松露団子のことは全く頭に浮かんでは来なかった。 当然か。
 
福栄堂

 その私も父の没年をはるかに過ぎ、先日、堺に行ったついでに阪堺電車(チンチン電車)で、遠い忘れ物の松露団子を探しに行ったところ、昔ながらの佇まいを残した福栄堂が駅の「まあ前」にあったので狐につままれたように驚いた。
 ここなら、何十回できかないほど前を通っていたはずの場所である。不思議なものである。 

松露団子

 そして、福栄堂のショーケースにあったのは和菓子の「松露」とは全く異なる「松露団子」・・松露のように小ぶりの「あんころ」だった。う~ん、知らなかった。
 お茶席の高級和菓子ではない、昔の行楽地のみやげ物そのもののような素朴な「団子」でしかなかったが、きっと、父には何か楽しい潮干刈や海水浴に繋がる思い出があったのだろう。 
  そんなあれこれを想像して、素朴な松露団子を味わった。

2011年11月11日金曜日

古都の催事

   古都の秋といえば正倉院展で、今年は『蘭奢待』が「目玉商品」か。
 妻も「ここが信長が切り取ったところか。足利義政はここを切り取ったのか。明治天皇はここを」と思いながら見ると歴史が生々しく感じられる・・との感想。
 私は『出蔵帳』に「陽宝剣ようのほうけん」「陰宝剣いんのほうけん」が書かれていて大僧都良弁の署名もあることに感動した。
 そして、奈良国立博物館本館の坂本コレクションの青銅器は、何回も何回も見ているものだが、何しろ紀元前1500年前後の殷の物などが多く、ワクワクして今回も離れがたかった。
 退館後「春鹿」の今西酒造で7種類ほどのお酒を利酒し、ほんわかとした足どりで奈良町を散策して帰ってきた。
 お土産は発泡性の春鹿で、
「はるしか ときめき SPARKLING SAKE」。
 あまりお酒の強くない子供たちが帰ってきたときのために冷やしておこう。

2011年11月6日日曜日

収穫の秋

 義母が外泊してきたので「がまずみ」と「しゃしゃんぼ」の実を少しばかり摘んできた。
がまずみ(カガミソ)
  3月20日のブログのとおり、義母が小さい頃おやつにしていたらしい木の実である。
 「懐かしい?」と聞いてみたら「コシキはもっと赤かった。ちょっと味が違うな」とのこと。
 とすると、やはり義母が食べていたコシキとは、シャシャンボではなくカマツカ=ウシコロシのようである。

しゃしゃんぼ
 
 すぐ窓の外には西洋カマツカがカガミソ=ガマズミ同様の赤い実をたわわにつけているが、ほとんど味がないのでシャシャンボを選択したのだが違ったようだ。
 義母はこんなの(カマツカ)を食べていたのだろうか。
 残念ながらそれ以上のことを聞いてみても、思い出ははるか遠い彼方で要領は得ない。


 先日、実母の施設に稲が飾られていた。入所者のご家族(農家の方)が持参されたものである。
 見事な稲のため、スタッフの皆さんに「飾るだけではもったいないからお米にして食べてみては?」と言い出した責任上、ネットで調べて、『コップの縁で籾をとる脱穀』『すり鉢+軟式野球ボールで脱穀(籾摺りを)する』らしいという情報を提供しておいたところ、今朝、「昨日してみたが上手く脱穀(籾摺りが)できない」と「抗議」を受けた。
 そこで、2月2日のブログのとおり義母から聞いた「昭和初期の木と粘土で作られた臼による籾摺り」をイメージしながら野球ボールで摺ってみると、立派な脱穀(籾摺り)が仕上がり、部屋中(といっても対応できる入所者は限られるのだが)からオーッという感嘆の声をいただいた。
 スタッフは全員が若いわけでもないが、誰も脱穀(籾摺り)のイメージが湧かなかったらしい。瑞穂の国はTPP以前に崩壊寸前なのだろうか? 
 もしかして、稲のバケツ栽培と手作業脱穀・(籾摺り)・精米は瑞穂の国の再生に寄与できるのでは? なぜなら、これ(脱穀・籾摺り)って、やってみると結構感動的だったのだ。
 11月9日写真を追加
母がすり鉢+ボールで
籾摺りを行なった

2011年11月4日金曜日

長玄坊 初見

 明日来る孫のための玩具を買いにイオンに行った。(ああ、この書き出しは、何かいっぺんに歳がいった様で抵抗があるなあ)
 帰りに、9月29日のブログに書いたイソヒヨドリ♀と再開した。ほんの近く(のイオンの階段の手すり)に留まって綺麗な声で鳴いてくれた。
 帰ってから、もしかしたら未だ近辺をうろちょろしていないかと、ダメモトでカメラを提げてもう一度イオンに出かけてみたが、当然、彼女には彼女の事情があろう・・・・。
 と、・・・はるか屋上の塔の上に留まったのが見えたので写真を撮ったが、こんな時に限って飛び立ちもせず(近くに寄ってくる気配もなく)、夕陽にシルエットを曝したままの持久戦となり、そのうちに反対側に去られてしまった。
 帰宅してから、パソコンに写真を取り込んだが流石に遠くて小さかった。
 そこでトリミングで拡大したところ、なななんと、それは思いもよらぬハヤブサ科のチョウゲンボウだった。(肉眼ではもちろんファインダーでも判らなかった。)
 この地に居住して約30年だが、こんな駅前にチョウゲンボウが留まっているのを見たのは初めてだ。
 パソコン画面を見てから興奮した。

 谷底(谷筋・川筋)を走る線路に沿って建てられたショッピングモールは、そういえば彼等の故郷の断崖そっくりだが、イソヒヨドリといい、チョウゲンボウといい、結構賑やかな急行停車駅前を行きかう人々の頭の上から「鳥瞰」されていることは誰もご存じないだろう。
 そんなちょっとした秘密を私だけが知っているというのも何故か楽しいものである。

2011年11月3日木曜日

隆達節

 先日、堺の顕本寺で隆達節を聴く機会に恵まれた。
 高三隆達(たかさぶりゅうたつ)は、堺の富商で同寺の住職の後還俗したが、彼の作った隆達節は、天正末から慶長年間(秀吉の全国統一から大阪冬の陣の頃)に大流行し、そこから、後の小唄等が進化したと言われている。故に小唄の元祖とも書かれていたりする。
 哥澤芝虎師匠の「皆さんもご一緒に」との言葉に誘われて謡ってみたのはよいけれど、残念ながら小生は、端唄、うた沢、小唄、常磐津等の違いも判らぬ邦楽音痴、歌詞は貰って帰ったが家では全く復唱できないのが悔しい。

  しかし同寺には、工藤晃著「エコノミスト歴史を読み解く」(新日本出版社)で紹介されていたボストン美術館所蔵「顕本寺屏風」のレプリカが飾られていて、遊里の情景の左右に隆達自身の筆による隆達節の歌詞があり、その筆頭が「君か世は千よにや千代にさゝれ石の岩ほとなりて苔のむすまて」であることを感慨深く鑑賞させていただいた。

 「君が代」とぴったり一緒の歌詞、それを謡っているのか相当はじけた様子の遊里の情景を眺めながら、「条例を定めて従わない教員を解雇する」といきまく人々たちとのこの距離感はいったい何だろうと考えさせられた。
 (写真は何れも本にあったもの)

2011年11月1日火曜日

奈良の贅沢

 例によって今朝、母の施設へ近鉄ニュース11月号を持参した。
大乗院庭園
 入所者の皆さんと一緒に読んでいる中で、目に付いた写真から、「そう言えば大乗院庭園には行っていないなあ」と思い至った。
 奈良公園から奈良町にかけては数十年にわたって散策してきたが、なにしろ国宝・重文がごろごろという地であるだけに、「また今度覗けばいいか」と後回しにしたままであった場所がまだまだ残っていることにふと気がついた。
大乗院庭園
 そんな訳で、丁度昼から奈良に出掛ける用があったので、大乗院庭園をぶらぶらすることにした。
 すぐ近くで正倉院展もあり、見事な秋空の下行楽客で賑わっていた奈良公園一帯であったが、予想どおりというか、この庭園にはほとんど人がおらず、気儘な散歩が楽しめた。

庭園のカワラヒワ

 出てから何げなく看板を見て、すぐ近所の福智院も同様に「この次の散歩に残しておこう」としたままであったことを思い出し発作的に拝観した。
 すると、周辺のウルトラ級の観光寺院と違い、お茶と飴玉を頂いてこれもゆったりと奥様の説明付きで落ち着いたお参りがかなって、短時間ではあったが、贅沢な時間を味わった。
 非常にさわやかなお寺だった。

福智院の地蔵さん

 それにしても、大乗院は言うまでもなく興福寺の門跡寺院。
 そして、今回知ったのだが福智院は元は大乗院の地蔵堂であったらしい。
 それぞれ辛うじて残ったからいいものの、明治の廃仏毀釈には背筋の寒くなるのを覚えた。

荒池
 大混雑の正倉院展のすぐ隣にあるこの静寂と控えめな歴史。
 奈良公園は贅沢極まりない。