先日、京大人文科学研究所山室信一教授の講演を拝聴した。
メーンテーマは「憲法でつくる私たちの明日」で、【構造的暴力の廃絶としての憲法前文2項、憲法25条】【国家的暴力(直接的武力)の廃絶としての憲法9条】【個人の幸福追求権としての憲法13条】を、一体として捉えることの重要性を緻密な論理と各種データで教えていただいた。
そして、【格差・貧困・将来不安の「三本の失(矢ではない)」】【アベノリ(ミではない)スク】の実態の分析のうえに、【憲法改正―緊急事態条項と国防軍の一体性】【監視社会化と「テロ等準備組織犯罪準備罪(共謀罪)」の法制化】【集団的自衛権の施行―「抑止力」と防衛予算】の危険性について説明を受け、
さらに、改憲を許さないためにも、改憲の具体的手続きはどうなるかということを知っておくようにと教えていただいた。
さて、私の感覚をいうと、トンデモ安倍内閣がそれでも相当な支持率を得ている理由は、経済政策ではやはりトリクルダウンへの期待感があり、北朝鮮の核開発や中国の尖閣諸島周辺の動きがニュースで大きく報じられる中で、やはり軍事力増強による「抑止力」論が支持されているように思う。
なので私は、その後者の「抑止力」の問題について先生に文書質問を提出した。
そこで、ここに絞って山室教授の講演内容や回答内容を私見を交えて要約すると、
一つは、マスメディアの歪んだ報道に惑わされずに真実を知ることの大切さを先生は説かれた。
事実、集団的自衛権施行後「抑止力」は働いておらず、反って東アジアの緊張は高まっている。
北朝鮮の潜水艦からのミサイル発射も軍事専門家から完全な技術水準とはいえないとの指摘がなされている。
核実験も、地震波だけで所期の目的を達したというのは早計。
中国の艦船も基本的には太平洋に向けて通過している部分が大きい。
つまり、「北」等が誇張して成果を誇示していることと、それを逆手にとって政府が「大変だ」と誇張しているという事実がある。
二つは、実際に「抑止力」を信奉する国と国が対峙した場合、エンドレスの軍拡以外の道がなくなる。これは、冷静に議論すれば誰でもわかる。
軍拡で迎撃ミサイルを完備したとして、核搭載ミサイルを迎撃(できたとしても)した場合、核爆弾は日本海~列島上空で爆発する。それを防ぐとすれば、結局は抑止力ではなく、先制攻撃しかない。究極の抑止力論はアメリカ型の先制攻撃論となる。
詰まるところ、「自衛のための抑止力論」は成り立たず、軍事力で抑止力を働かせようとするならば、「危険を未然に防ぐ」という理屈の先制攻撃容認論でなければならない。理性的な日本国民はそれでいいのだろうか。
なので、軍拡下で不測の事態が起らぬよう、あのアメリカだって中国とチャンネルを築いているのに、日本政府には全くと言ってよいほど対話の努力、外交努力がない。努力というよりも能力かも知れないが?
冷静にそう考えれば、明日にでも「北」が攻めてきそうだと国内にアナウンスしながら、日本海側にずらりと原発を並べて再稼働するという政権の支離滅裂の素顔が見えてくる。ここがポイントだ。赤子でも解ること。
戦前の日本には、「こう不景気が続くんじゃ、ここらでいっぺん戦争でも起こってもらわないといけませんな」という会話が普通に飛び交ったが、そんな露骨な言い回しではなくても現在財界の一部にはそういう主張が生まれている。
安倍政権のホンネはここだろう。アベノミクスも、株の政治操作だけでなく、軍備輸出、原発輸出という死の商人として経済の再生を図ろうとしているという本質を見なければならない。
そこで私は思うのだが、「抑止力」論を支持する人の多くは、そんな悪気はなく純粋に国や国民を心配しているのではないだろうか。
だとすると、「その考えは浅い」と切って捨てるのでなく、「では、ほんとうにどの程度の軍事力を保持したならば抑止力が効くのか(そんな基準はあり得ない)」と冷静に討論することが大切なような気がする。
山室教授は、「日本会議は草の根の運動を広げている」から、対抗しようとすれば、”上からの目線”で語るのを戒め、SNSに取り組み世論を底から形成していくことだろう」と話を結ばれた。
さらに、先日亡くなったむのたけじ氏の言葉を引いて、現代社会にあっては、「沈黙していると滅亡する」「8月15日をただ黙祷するのでなく戦争絶滅の声を張り上げ続けるべきだ」「民主主義に観客席はない。あなたの立つそここそが民主主義の息づく場だ」と、高齢のむの氏が「今が人生のてっぺん」と訴え続けられた言葉を紹介し、SEALDsが提起した「誰かにやってもらうのではなく、自分がやるからしか何事も始まらない」の言葉で講演を終えられた。