2024年2月11日日曜日

日本語の一側面

   世界各地の戦争を考えると、もちろん政治経済のことはあるにしても、それだけでは割り切れない『民族』というものを無視して話を進めることができないと痛感している。
 そしてそのためには「民族とは‥」ということも避けて通れないし、そのことについてもほんとうに諸説あるのだが、大方の意見では「言語や宗教(文化)の一致」を同一民族の概念としている。

 例えば、ガザでいえば、イスラエル人の多数はヘブライ語を話しユダヤ教徒である。一方パレスチナ人の多数はアラビア語を話しイスラム教徒である。

 ウクライナではそれほどではないにしても、首都の表記がキエフからキーウになったようにウクライナ語が強調され、宗教もロシア正教からキーウ正教に替わった教会も少なくなく、象徴的には、これまでクリスマスがロシアと同じ1月7日であったものが、12月25日に大きく変化している。

 そこで話は日本民族の使用している日本語に移ると、日本語というのはアジアの周辺諸国の言語ともけっこう変わっている。
 そこで、たまたま読んだ『てんまる』という本に思いもよらぬ傑作な指摘があった。『てんまる』であるから主には句読点のことだが、引用すれば長くなりすぎるので端折ると、句読点のつけ方について大先生方の間に多くの説があり、それは今もって統一されていないという。

 文章を読んだときに正確に理解されるようにそれ(句読点など)を打つ派。文を読むときに生じるリズムやテンポなどに応じて打つ派。長い文を息継ぎするのに応じる派。意味の誤解を防ぐのを重視して打つ派。分かち書きを進める派。文法の構造を重視する派などなど。

 そして、自国の言葉の表記方法について、こんなに決まりがない(正書法が確立していない)先進国は外にないと言ってもよいというのが著者の指摘である。
 それは句読点だけではなく、数字の位取りにピリオドを使うかコンマを使うかだとか、数え挙げればきりがないくらい正書法がないというのが日本語の大きな特徴だという。
 そんなように言われると今迄考えたこともなかったが、だいたいが自国の表記をニッポンでもニホンでもよいとしていることが世界標準からすると「ありえない」ことかも知れない。
 そしてその「ありえない」だらけの言語が日本語の最大の特徴だというのだから、考えれば不思議で愉快な気分になってくる。

 それでも日本語で学術論文が成立しているし、科学技術も成立しているのがさらに愉快である。
 ついては私のブログの読者の皆さん、私はどちらかというと聴覚をベースに文章のイメージを浮き出させるためにいろんな方法を適当に採用する派なので、文章の稚拙さや文法のおかしなところはどうか大目に見てほしい。

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