「諸外国には素晴らしい紅葉があまりないとテレビで言っていた」と妻は言うが、カナダ楓、アメリカ楓、アメリカハンノキ、アメリカハナミズキ、ナンキン櫨等々があるのだから「ないことはない」と思う。
もし「ない」としたら、『枯れ落ちる直前の美』を愛でる感性やそれを許す穏やかな気候(秋)がないのかもしれない。
「紅葉には鹿」が定番でしょう |
同様に「紅葉イコールもみじ」という発想もちょっと薄っぺらな感じがし、諸々の「雑木もみじ」も棄てがたいのではないかと私は思っている。
「雑木もみじ」の身近なところは街路樹だが、転居前の家の幹線道路の街路樹はプラタナスで、その名が詩的でパリを思わせる情趣があり、私の世代などは「はしだのりひことシューベルツの風」と結びついてしんみりするのだが、一転これが落葉となるとどう贔屓目に見ても大量のゴミにしか見えず、幹線道路沿いの方々は毎年この季節にはタメ息をついておられた。
そして現在の家の裏の遊歩道は中央にケヤキが植えられているのだが、この大木たちが撒き散らす大量の落葉もなんともナカナカに微妙である。
私は溜まった落葉をザクザクと音を立てて歩いたりして楽しみたいが、ご近所の方が挨拶の際「かないませんなあ」と嘆くのも判らなくもなく、「ええ」とかなんとか当たり障りのない返事をして落葉掃きを行なっている。
私は、どちらかというとレレレおじさんのように竹箒で落葉掃きをするのは好きであり、公道の落葉掃きが不満というようなケチなことではなく、もっといっぱい落葉を楽しんでから掃きたいと心の中で思っているのである。
先日、老人施設の家族会として施設の庭や幹線道路の落葉掃きもしたが、ここでも内心ではもうちょっと落葉を楽しめないかなあと思ったりしたのだが、それはあまりに少数意見なので冗談めかして吐露するに止めてきた。(ただし、ここの落ち葉の量は半端じゃない。)
このように、住宅地と言われる街で落葉を楽しむという発想はかくも論外とされているようだが、そうだろうか。きっとそうなんだろう。
近頃の子供が『焚き火』の歌でどんなイメージを抱いているのかは、全く想像も及ばない。
さて、家の近所の幹線道路の街路樹は銀杏(いちょう)並木で、銀杏の黄葉と落葉の季節はこの道路が周辺よりも格段に明るく輝く。これは大袈裟ではなくほんとうにそうである。
で、歩道橋の上からそれを見ると、決まりごとのように『公園の手品師』を口ずさみたくなってくる。
フランク永井が歌った『公園の手品師』は名曲だと私は思う。
「歌は世につれ」と言われるが、近頃はこんな名曲が出てこないということについては妻も同感だと言っている。
それは、時代が殺伐としてきたためだろうか、それとも現代の名曲にヒットしなくなったほど私の感受性が衰えたためなのだろうか。
だが、そんな風に達観を装ってもいられそうもない。
自民党や維新の公約を新聞で読む限り、憲法や民主主義を巡って歴史が大きく逆流する危険が高まっているように私は感じる。
感覚を研ぎ澄まして、それらに待ったをかける理性的な世論が広がるよう、日本共産党の前進に期待したい。
「愛情の反対は無関心だ」とは元宇宙飛行士で今フクシマ難民の秋山さんの言葉である。
ある種の怒りもまたこの時代の大事な感受性であろう。