1872年(明治5年)11月に改暦されるまでの日本ではいわゆる旧暦が使用されていたが、それは「戊辰戦争」の「戊辰」のように、主として十干十二支(じっかんじゅうにし)によって呼ばれていたり記録されていた。より正確には六十干支であり、そのトップが甲子(きのえね)である。 そして子(ね)=ネズミは大黒天の使いとされていることから、甲子の日は大黒天の縁日とされ、戦後しばらく父が存命中のわが家では、甲子の日には大黒様の掛け軸をかけて赤ご飯を供えていた。
その習わしがどこの寺社にルーツを持つものか、最晩年の母に聞いたが解らず、ずーっと頭の奥に宿題として残っていた。
それが「灯台下暗し」で、もしかするとと軸箱の蓋の裏を見ると、予想通り「大正甲子年書く寶山」とあった。昨年が甲子園球場100周年であったが、つまり大正13年に「寶山」という師が書いたものだった。
その「寶山」=宝山師は以前にいろいろ検索したり、果ては生駒の宝山寺まで足を運んで調べたが全く分からずじまいだったのだが、今回「大正13年宝山」などといろいろ検索などしているうちに、【高梨宝山】師がヒットし、わが家の掛け軸と同様の軸の画像なども出てきた。
そして、師が幕末の仙台伊達藩藩士に生まれ、昭和5年66歳で亡くなっていることも分かった。
関連して宮城県図書館に「高梨宝山師のこと」という資料のあることも解り、取り寄せたところ、その中に菊田定郷著「仙台人名大辞書」昭和8年2月という抜粋があり、それによると「高梨宝山。奇僧、・・中年仏道に帰依し単身一衣、印度、西蔵の聖蹟を巡錫し大いにうる所あり。帰りて黄檗宗臨済院の住職となり、向山に聖地を開き印度より齎来せる丈六の釈迦涅槃像を安置し道俗の帰依を受く。又、一種の書法を宣伝し自ら日本一と称す。画もまた拙からず、世に奇僧を以て称せらる。・・」とあった。
それとは別に、関東大震災1週間前に「来るぞ」とのビラを約3000枚作成し各方面に配っていたことでも有名であるらしい。この辺りが奇僧たる所以だろうか。
雲をつかむような話であった「宝山書く」の大黒天、とりあえずはここまで解って少しすっきりした。
【余話】 宮城県図書館に資料の複写と送付を依頼する仕方についてメールで問い合わせたところ、「白黒複写A4版1枚10円+郵送料金140円=150円を添えて申請書を送付せよ」という。 問題は料金の送付方法だが、イ 現金10円と140円分の切手を同封して現金書留で送付するか、ロ 50円分の定額小為替と100円分の切手を同封して郵送するかせよ・・とのことで、どういうわけか150円分の切手同封で申請書を郵送(110円)という選択肢はなかった。
で、イの現金書留だと590円(専用封筒なら更に21円必要)はかかり、ロの定額小為替だと310円なので後者にしたが、どうして切手同封ではいけなかったのだろうと??であった。
コロナのとき今宮戎へは、十日戎のお賽銭と福笹代をネットでカード決済したが、それに比べると2~3周は遅れてはいませんかね。
この歳にして初めて定額小為替というものを利用したが、50円の小為替(まあ小切手みたいなもの)を200円で購入するというのもなんだかなあ!という気分が残った。
ただ、これまで全然知らなかった定額小為替なるものを知ったので、人生の勉強代と思うことにする。
郵送されてきた封筒には、「コピー代10円」のレシート(領収証)が同封されていた。この10円=(50円の定額小為替)のために余計に190円(200円で購入)必要な合理性はなかなか理解が難しい。まあ勉強、勉強。 ※これは50円、100円、150円という少額の問題。