2024年7月3日水曜日

軽登山部発足

   以前に、息子の嫁が私のアルバムを見て、「Wow お義父さん、若い!」と驚きの声をあげたのには苦笑したが、考えれば人生の出会いなど「そういうもの」だろう。
 私だって、妻の父母の若い頃の写真を見たならそう言うだろう。
 ・・・というように、次々の世代に思われていくのも人生の真理である。

 わが退職者会も世話人会に少し若い世代が加わった。
 その影響もあり、これまでの「遠足」以外に、「軽登山部」を発足させてさらに交流を深めることとなった。
 そして、会議の続きを居酒屋に移して、「あの山はキツ過ぎる」「この山はたよりない」と話が弾んだが、私自身は半歩引いて話に加わった。というのも、「途中で不整脈が発症したら」などという一抹の恐怖感のようなものが頭の底から覗いてくるからである。

 ここでも、「槍の先では」だとか「風雨の宝剣では」と語っても、ただただギャップに驚かれるだけである。
 記念すべき初回山行には「枯れ木も山の賑わい」で参加したい気持ちもあるが、正直なところ逡巡している。これが「老化」というものなのか。

2024年7月2日火曜日

八角形の思想

   6月12日の『謎の八角堂』の続きである。(写真は大阪歴史博物館の復元展示)
 (スマホなどの場合、一番下の「ウエブバージョンを表示」にして、その下の「前の投稿」をタッチすると幾らでも以前の古い記事が読める) 

 記紀によると、舒明天皇のあと即位したのが皇后宝皇女(皇極天皇)で、皇極天皇の下で、中大兄皇子と中臣の鎌子が蘇我蝦夷、入鹿親子を葬った皇極3年(645年)6月の乙巳の変(俗にいう大化の改新)というクーデターを起こした。(次の写真は遺跡上の藤棚で、八角堂の柱に基づいている)
 
   クーデターの翌日、皇極天皇は譲位の意思を発表し、中大兄皇子(後の天智天皇)は一旦身をひそめ、皇極天皇の同母弟が即位した。孝徳天皇である。
 この孝徳天皇が、日本で初めて天皇の住居を宮とするのを取りやめ、中国に倣って日本で初めての首都を大阪に築いたのが、難波長柄豊碕宮で、現在法円坂に史跡公園とされているいわゆる前期難波宮である。白雉3年(652年)。
 しかし翌年には孝徳天皇と中大兄皇子が対立し、先帝皇極、中大兄、皇后である先帝の妹間人皇后など群臣が飛鳥に戻ってしまい、一人残された孝徳は翌654年に憤死した。
 こうして、絶大な力を持っていた皇極が重祚して斉明天皇となった。
 元天皇であり、中大兄の母であり先帝の皇后の母である斉明天皇は、後に「狂心(たぶれごころ)」と記録される大工事を次々と行い、多武峰に道教の楼観と考えられる両槻宮を造ったり、水の祭祀場と考えられる亀型石造物などなどを造った。飛鳥の謎の石造物なども斉明の工事によるものかもしれない。
 そして百済の滅亡を受けて朝鮮半島へ出陣する途中、九州で死亡し、遺体は飛鳥に運ばれた。最終的に葬られたのは飛鳥の牽牛子塚古墳で、見事な八角形の古墳である。(3枚目の写真は牽牛子塚古墳)


   戦前の軍国主義の中心的なスローガンに「八紘一宇」というものがあった。全世界をひとつの家とするというもので、八紘とは、四方と四隅でこの世界全部となる。
 八角形古墳はこの時期の天皇に許された王の中の王の古墳にふさわしい。
 いわゆる三種の神器の八咫鏡も八角形の銅鏡と言われているし、天皇即位の重大行事、大嘗祭も八角形の高御座(たかみくら)で行われる。
 大嘗祭の際は、その前方に幡が並ぶが、太陽には三本足の烏、月には蛙が描かれている。つまり、これらは全て古代中国の道教の思想である。

 これ以上続けると「本」になってしまうからこれぐらいで置くが、言いたいことはこの時代に中国の思想、特に道教の思想が日本の朝廷に大きな影響をもたらしたということが言える。
 そこで、前期難波宮の謎の八角堂だが、性格は鼓楼、鐘楼というのが有力であるが、それが八角堂であるのは道教に基づく思想であろう。
 いろんな歴史書を読んでも、古代日本史における道教の思想をあまり本格的に論じているものに出会わないのが不満でこの記事を書いた。

2024年7月1日月曜日

怠りを諫める

   佐保山に何おか諫むる子規の声

 全くの駄句を恥もわきまえず捻ってみました。
 子規はホトトギスのことで夏の季語。
 佐保山は平城京の北東で、歴代天皇などの奥津城(墓域)。
 多くの言い伝えや民話などでは、ホトトギスは田植えの頃にあの世からやってきて、農作業(田植え)を怠(おこた)っていないかと諫(いさ)めて、けたたましく鳴いているという。

 佐保山の方向から今日もホトトギスのけたたましい声が聞こえてくる。
 さて田植えの季節も終わっているし、ホトトギスは何を諫めているのだろう。
 沖縄では米兵による性犯罪がまたしても複数発生した。
 それを知った政府つまり与党は、沖縄県議選があるのを考慮したのだろう、沖縄県やマスコミ、国民には隠蔽していた。
 いつまでこんな理不尽な犯罪が続くのだろう。そして売国的な政治が。
 沖縄県で起こった日本人被害者事件であっても米兵の裁判権は日本国にはない。
 沖縄はウクライナやガザの被占領地と変わらない。
 それを見てみぬふりをして、為替相場に文句をつけているだけでよいのか。

 「それでよいのか」、きっとホトトギスはそういう我々を諫めているのだろう。
 「夏は来ぬ」の3番は 〽 橘の かおる軒端の 窓近く 蛍とびかい おこたり諫むる 夏は来ぬ  と歌っている。
 (写真はネットの「鳴いて血を吐くホトトギス」にあったもの)

2024年6月30日日曜日

水無月の祓

   安倍晋三的右翼の皆さんが、片手で神社本庁など日本会議と手を結び、もう片手で統一協会と手を結んでこられたロジックは高等過ぎて理解不能だが、その一方の雄、神社本庁の財産の不正取引が話題になっている。
 そんなこともあり、鶴岡八幡宮に続いて金刀比羅宮も神社本庁を離脱した。
 これで結構有名な神社が相当数離脱していることになる。

 神道は教義のない宗教と言われたりするが、本来非常に素朴な宗教であったはずだが、それをやたらに権威づけたのは明治から昭和前期までの皇国史観であった。
 その夢をもう一度と策動しているのが神社本庁ではないだろうか。

 古代史が好きな私は神社を避けて通れないし、素朴な宗教の儀式も嫌いではない。
 だいたいが神や信仰を避けて日本文化特に歴史は語れないから、宗教は観念だ、非合理的だと勉強もしないのでは話が薄っぺらくなる。

 そのため、遠くない式内社の夏越の祓式に参加したことも数回あったのだが、あるとき、神社本庁の推進する憲法改正の署名用紙が送られてきてからは、少し距離をとっている。
 「本来の素直な神道に帰れ」が私の願いである。

 今日は水無月の夏越の祓である。
 昨日の記事のとおり、茅の輪はある。
 夜にはシャワーの水でみそぎをする。(それはただの入浴だの声もあるが)

2024年6月29日土曜日

蘇民将来

   「後の世に疫気あらば蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔り(みことのり)たまひき。
 6月30日は夏越の大祓、茅の輪くぐりの日である。
 簡単に言えば一年の半分が済み、この間にまとわりついた穢れの禊(みそぎ)という観念である。

 振り返ってみると毎年6月頃は体調を崩していた。季節がらビールの飲み過ぎが遠因であったかもしれないが、ここ数年を見ても、妻も孫の凜ちゃんもこの時期に何らかの不調を訴えている。
 今年も凜ちゃんは、先日来体調不良で学校を相当休んでいる。

 で、ずばり、年中行事には何らかの合理性が潜んでいるといえる。
 夏越の大祓で生活のリズムを反省もし、厳しい夏に備えるということになる。
 戸籍詐称の罪は横において、吾は云ふ蘇民将来之子孫也。
 〽 水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶと云うなり。


2024年6月28日金曜日

ジェンダーなこと

   例えば既婚者の相手をどう呼ぶかという問題がある。
 
 このブログの読者はお解りのとおり、私は普通に「妻」と書いている。しかし、実際に何処かの場所で妻を紹介するときには「家内です」と紹介する。また、知り合いに彼の妻の様子を尋ねる場合には「奥様は如何」などという。
 「家内」だとか「奥様」というのは女性蔑視だという「主張のある」のは知っているが、まだ「連れ合いです」とか「お連れ合いは」というような語彙は滑らかには出てこない。個人の感想だが「ツレ」などというのはいささか下品なイメージが拭えない。

 そもそも言葉というのは本来保守的なもので、漢字そのものにしても古代中国の思想を反映して作られたものであるし、語彙(熟語)もまた前近代の支配層の「常識」に色付けされているから、そこのところを突き詰めればジェンダーに限らず漢字表記をほぼ全面的に否定しなければならない。

 同時に言葉というのは時代によって大きく変化することもあるから、例えば漢字としては尊敬の意味さえある「貴様」が現代では喧嘩で使用されるということもある。
 だから「家内」とか「奥様」と言ったからといって「後方にいて主体性のない人間」だとは誰も思わないだろうし、さらにそういう意識はさらになくなっていくと思うのだが、それも所詮は「ご主人」の立場の人間の言い訳と捉えられるかもしれない。
 日本語というのは、文法はそのままで外来語をいくらでも取り入れられる言葉だから、相応しい造語を上手く作れば解決することもあろう。

 私の父母は明治生まれであったが、父は時どき母のことを「ワイフ」と言っていた。父は早死にしたからその所以は知らない。ただ、京都や大阪・船場にゆかりのある友人のSさんが「ワイフ」と語られたことがあるので、ある時期のそのあたりの旦那衆では広がっていたのかもしれないがよくは知らない。
 こういう風にスマートな新語を広める方が、漢字の形式にこだわって怒るよりも現実的な気もする。(この説は反発もあるだろうなあ)

 さて、あかたちかこさんの「人生相談」みたいなところに、『夫の方が大きい夫婦茶碗に腹が立つ』というのがあった。
 高級和食器などにはそういうものが今でもある。
 わが家の場合、お箸はやはり妻の方が短いが、これはちょうど体格と合っていてそれには女卑のイメージは感じていない。
 一方、塗りのお椀の方は大きくて黒漆塗りの男用に対して小さくて赤漆塗りの女用というのには古いジェンダー感覚そのもの以外の思想は感じられない。質問者の指摘どおりであろう。
 ただ、私は全くの嗜好の問題としてあまり汁物をたくさんいただく方ではないので、わが家では大きくて黒いお椀が妻用、小さくて赤いのが私用となっている。
 ちょっぴりはジェンダー平等を意識しているが、まあそんなところである。あまり偉そうな話ではない。

2024年6月27日木曜日

歴史は変わる

   映画『ちゃわんやのはなしー四百年の旅人」が上映されている。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』がベースらしいが、新聞批評のトップに「420年前、豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、大名らによって連行された朝鮮人陶工の末裔の苦難を追った・・」となると、一言だけ付言しておかなければならない。

 東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』にあるのだが、「同時期に連れてこられた数万人ともいわれる人々の中で、陶工であることを主たる理由として大名に連行されたことを、一次資料において確認できる例はない」とされ、18世紀から「鍋島家によって日本の宝とする目的で連れてこられた」と陶工が由緒を強調しはじめ、明治になってから「陶祖・李参平説」が広まったことを指摘している。
 現下の歴史修正主義者が戦争責任(加害責任)を逃れようと、「虐殺の事実はない」とか「慰安婦は商売女だった」というように歪めている事とは異なり、陶工側が自分たちの由緒を飾るために作り上げた物語というのが正確だという。

 誇張か善意かミスかは別にして、歴史の「定説」はこのように変化するらしい。
 そういえば以前、大阪の住吉大社の神輿が大和川の中を渡る祭事について某新聞が「太平洋戦争で中断していたが2005年(平成17年)に復活した」と書いていたことについて私が、「そんなことはない戦後高度成長期頃までは川の中の渡御があってそれを見物していた」と異議を申し立て、友人のK氏が住吉大社の宿院頓宮まで調査に赴いてくれた結果「昭和24年(1949年)から昭和35年(1960年)まで実施されていた」ことが判明したことがある。
 これは「神輿」について途絶えていた事実と錯綜して誤解した人の言説が広まったもののようだ。

   さて先日、土器のことを調べに大阪歴史博物館に行き、折角だからと見て回っていたら懐かしい『のぞきからくり』が展示されていて、そこの解説に「第二次世界大戦頃まで興行されていた」とあった。

 同博物館のHPなどでは異なる説明もあるが、これも私は、高度成長開始の1960年ぐらいまでは実際に興行していたのを知っている。だから「説明文は正確ではない」。
 私自身は「トラホームがうつるから覗いたらアカン」と言われていたので覗きはしなかったが、『不如帰』の 〽父は陸軍中将でえ~ というような口上などは聞いていた。
 もとい、歴史の定説というやつは、このように60年も経つと「堂々と」変るものだと変に感心したが、注意、注意。
 権威だとか、定説だとか、主流、多数、等々の説もまた同じ。

 なお、のぞきからくりの口上は、笠智衆の名口調がyou tube にあった。



2024年6月26日水曜日

生駒一揆

   近世・近代の生駒の歴史を学ぶ機会があり、幕末に「矢野騒動」と呼ばれる生駒の世直し一揆があったことを初めて知った。

 江戸時代、生駒の領主は複数入り組んで分割支配していたが、一番主たる領主は旗本松平氏(藤井松平氏の一族)5,000石で、代官は大庄屋の矢野氏が担っていた。
 どこの領主も江戸中期からは財政事情が悪化していたが、これといった特産品のない生駒はそれが顕著で、幕末には御用金の賦課、他地域への村人の徴発も加わり、開国後のインフレも相まって村人の暮らしはさらに困難になっていた。

 耐えかねた百姓たちは、新政府の有力藩の長州藩大阪役所に越訴することになり、首謀者が特定されないよう写真のような傘状連判状に署名捺印した。
 これを受け、長州藩兵50人が派遣され、領民数百人と合流して陣屋に向かい、代官矢野氏は身柄を拘束された。ただし、これまでの未払い代金は支払われたが、新政府も財政難で年貢は下げられなかった。
 このように不十分な結末ではあったが、自分たちで領主の悪政を告発し、あまり犠牲を出さずに領主を交代させたという、珍しい一揆の成功例であった。

 妻の実家は生駒であり、村の庄屋であったというからこの一揆には微妙な立場であっただろうが、村ごとに傘状連判状がまとめられたところを見ると、まとめ役として百姓の力になったのではないかと推測される。事実、代官派として追放されたりせず、マッカーサーの指令までは地主であった。(写真の連判状の村ではない)続きは追って・・・。

2024年6月25日火曜日

堺中心部の高低差

   ブラタモリが終わってだいぶ経つが、彼の「高低差から歴史を読み解く知識」には敬服する。
 確かに、等高線のない普通の地図によって生活している分には解らないことが、現地では一瞬に解ることもある。
 私の故郷堺のことを話すと、大阪市の中心部から南海堺東駅前を抜けて泉南まで通る幹線道路に大阪府道30号和泉泉南線がある。(地図の朱線)

 少し話を寄り道すると、昔はこの道路のことを市民はみんな(ほんとうにみんな)『13号線』と呼んでいた。誰もが国道13号線か府道13号線だと信じていたが、理由は結局不明で、昔『13間道路』と呼んでいたからではないかというのが一番「正解」に近いということになっている。それ以上のことは知らない。
 それにしても、旧称や愛称は大いに賛成だが13号と30号では紛らわしい。

   話を戻すと、平面の地図ではそういう南北を貫くひとつの幹線道路だが、大雑把に言うとこの道路から東側は丘陵になっていて、ここに高低差(段差・坂)がある。
 中世からの自治都市堺(旧市街地)は西側で、そこに住んでいたわが家あたりは土を掘ればすぐに砂地が顔を出した。だから、縄文に遡ればここが海岸線であっただろう。
 この段差の西側には弥生の遺跡があるからその頃にはもう平野であっただろう。

 ここからが本題だが、この東側の丘陵地帯に有名な百舌鳥古墳群があるのである。
 そのうちの巨大な古墳は大王墓(いわゆる天皇陵)であることを否定する学者はほとんどいない。
 だが、どの古墳が記紀のどの「天皇陵」と見るのかについては、いくつかの説がある。
 例えば、伝仁徳陵がその子の伝履中陵よりも新しそうだという重大な指摘がある。

   また、伝履中陵の南西の石津に巨大な乳岡(ちのおか)古墳があった(大きく破壊されている)が、この古墳がこの辺りでは一番古い巨大古墳だという指摘がある。この場合、ここが段差の西というのがポイントで、つまり百舌鳥の丘陵上ではない。(少し低い岡)

 ということを繋ぎ合わせると、弥生以降栄えてきた和泉の海岸線近くの豪族の完成形が乳岡古墳で、いよいよ従来の大和の王権をしのいで河内王朝を樹立した、後の大王墓(天皇陵)が伝履中陵以降の百舌鳥の丘陵上の巨大古墳でないかというのが故石部正志先生の説のように思われる。
 13号線もとい府道30号線の東西の高低差を身をもって知っている私は、こうして石部説に大いに魅かれているのである。(ただし、これは学界の定説ではない)

2024年6月24日月曜日

すし食いねえ

   6月16日の『退院祝い』に書いたとおり、孫の凜ちゃんはおすしが大好き。
 で、祖父ちゃんはこんな靴下を見つけると、つい買ってしまう。
 ただそれだけの爺ばか日誌。

 追記
 記録のために6月23日のわが庭

 1 タマムシ 今年の初見。
   だいたい7月だろうと思っていたのが6月中に飛んでいるので感激。

 2 電気トンボ(腰空とんぼ・コシアキトンボ)が何回も何回も旋回。それだけ蚊がいる?

2024年6月23日日曜日

理想は高く

   「民主主義とは邪魔くさいものだ。
 先の衆院東京15区補欠選挙でえげつない選挙妨害をした某党は、その動画をアップすることで金儲けをしたらしい。
 今般の一人を選ぶ都知事選でも大量の候補者を立て、公の「掲示板」を変な話題に使用しようとしているらしい。
 どちらも、映える(ばえる)というか、炎上することを目的にしているように見える。
 時代が閉塞感に包まれたときにエログロナンセンスが流行るに似た現象で、ネット社会が生んだ歪みに思える。

 もっと広い世界でも、EUの選挙では右翼の大幅な伸張が報じられている。
 EU諸国を十把一絡げに論じるのは正しくないだろうが、「連帯よりも己の利益」を優先する主張が広がっている。
 それを進めているツールとしてネットの果たしている役割が大きい。
 そういう風潮に眉をひそめている人々の一部に、「だからネットを制限すべきだ」とか極端なのは「ネットを禁止すべきだ」と語る人もいる。だが果たしてそうか。

 また、冒頭の選挙妨害を見て、「厳格に取り締まって立候補を制限すべきだ」という意見も、例えば酒席などでは「そうだそうだ」となる。
 となると、結局一番正義が実現するのは厳格な「警察国家」「取り締まり国家」ということでよいのだろうか。
 究極の「小さな政府」はファシズムでもある。

 それにリアルな話でも、国家公安委員長が某カルト集団とズブズブであったという現実から、「厳格に取り締まれ」という善意の主張が、民主主義弾圧の有効な武器になる恐れは非常に大きい。
 民主主義とは邪魔くさいものだ。
 
 先日「虎に翼」で憲法12条が紹介されていたが、第12条は、 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために、これを利用する責任を負ふ。と言っている。
 つまり民主主義を守る責任は、私でありあなたである「一人一人の国民」であり、その責任を「ネット」に押し付けて「正論」のように語るのは責任転嫁ともいえる。

 私はどこかで読んだ、「カールマルクスはジャーナリストであった」という言葉が好きである。
 ネット社会は、規模は違っても国民人一人がジャーナリストになれる社会でもある。
 そこでの努力を逃げて、「ネットは悪い」というような酒席での議論みたいな話を繰り返しても何も解決はしないだろう。
 大いにネットで「普通の声」の発信を広げよう。

2024年6月22日土曜日

よみがえった思い出

   桂ざこばさんの訃報を聞いて、彼がTV出演していた昔の『そこまで言って委員会』を思い出した。
 昨今のそれは観ていないので知らないが、昔は安倍晋三応援団みたいな自称学者や評論家が集まって、ある意味「歯切れよく」民主派を罵倒して、その徹底ぶりが「人気」だったような気がするが、当時の皆さんが今どんな顔をして暮らしておられるか見てみたい気がしないでもない。

 例えば、当時日本共産党が「大企業は過剰な内部留保の一部を賃上げに回して、国民(消費者)の購買力をあげて経済を巡回させるべきだ」と主張したことを捉えて、「政治(家)が企業の賃上げに口出しすべきでない」と出演者の多数は大合唱したものだが、現在、内閣自体が賃上げの必要性を説き、マスコミもこぞって賃上げの必要性を語っているのを、どんな顔をしてみておられるのかと興味がある。

 ふたつ目には、日本共産党の小池書記局長が「極端な大企業優遇税制を民主的に是正して財政の健全化を図るべきだ」と語ったのに対して、皆さんが揃って「そんなことをしたら企業は外国に出ていって日本経済は疲弊する」とこれも大合唱したが、その時は小池書記局長が半分笑いながら「大企業には愛国心がないのですか」と返して、皆さんが苦笑いするだけということで、その時は瞬時に勝負があった。

 で、ざこば師匠のことだが、例によって皆さんが口汚く朝日新聞を「口撃」してざこばさんに同意を求めた際、ざこばさんは「師の米朝が『朝日新聞はええ新聞だから読んでおきなさい』と言っていたので私はとってます」と雰囲気に流されずに言い切ったことに私は漢(女も含む)を感じた。

 同世代の訃報はしんどい。

2024年6月21日金曜日

雨読

   認知症になると昔のことは覚えているのに直近のことは思い出せないと聞くが、その伝でいくと昔のことも忘れてしまえばどうなるの。
 晴耕雨読の言葉があるが、梅雨の楽しみは雨読に限る。
 で、新刊ばかり手を出すと出費も痛いので、書架の奥から昔の本を引っ張り出す。
 そして冒頭の話になるが、読んだはずの内容がすっぽりリセットされていて、「もしかしたら購入したまま読まずになおしていたのでは」と思うほど新鮮で感動する本が幾つもある。

 写真の本は執筆陣のお名前からして「古典」に分類されそうだが、その執筆時と現代のタイムラグを超えてなお新鮮な内容だ。
 色川大吉氏によると、現代(執筆時は高度成長期)の日本人はなぜシルクロードにあこがれるのか、それは、日本人はどこか大陸のほうからやってきて、わが内なる原始人が騒ぎだして荒涼たる空間を、ひと一人いない森閑といた曠野をみんな夢見始める・・というのも愉快だ。

 で、モンスーン地帯の雨天の下で、一滴の水もない、トイレのできる小さな凸凹すらない砂漠の話を読んで楽しんでいる。

2024年6月20日木曜日

入梅近し

   象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉
 芭蕉は、象潟は松島に似て美しいが松島が笑うようであるのに対して象潟は恨むようだと述べている。
 遠い昔訪れたことがあるが、季節や気候が好過ぎたのか、きっと若すぎたからだろうが、私にはそんなインプットはなかった。
 ただ、梅雨時にまるで花壇の園芸種の花のような近所の合歓の木を見るたびに、確かに美女の趣だとこの句を思い出して毎年感慨深い。

   この季節のもう一つの楽しみはヤマモモだが、今年は出遅れたので、手で採れるようなところには全くなく、高い樹上で熟れてポタポタ落ちていた。
 道路上には汚れていない大きな実もたくさん転がっているのだが、どうも落ちた実は食べる気がしない。
 そんなもったいないヤマモモでこの季節の道路はけっこう汚れている。その道を横目で通り過ごしている。

 散歩先で、ようやく見つけた1本の木で、小ぶりの実だが採取した。
 購入した果物でも甘くもなく酸っぱくもない果物にあたることがあるが、それに比べてヤマモモの甘さと酸っぱさは個性的で立派な果物だ。実際ネットを開けるとヤマモモのネット通販があった。

   採ったヤマモモは朝食のフルーツの一部になっている。