2024年3月31日日曜日

中学進学記念講演

   29日、孫の夏ちゃんの中学進学祝のランチをした。
 書庫の奥から見つけ出した「窓ぎわのトットちゃん」をプレゼントしたら予想以上に喜んでくれた。

 気候も良くなったので『石のカラト古墳』に行って、私が、夏ちゃんに中学進学祝い記念講演?を行った。

 この古墳は石槨の形や築造時に埋まった土器の形状から、高松塚古墳、キトラ古墳とほぼ同時期で同等クラスのハイレベルな終末期古墳である。
 そのため、被葬者は8世紀の初めに亡くなった高位の人物である、などなど。

 遠からず被葬者の特定とその理由に関する論文が著名な先生から出るだろうから、その節は、今日この実際に見た古墳と祖父ちゃんの解説を思い出してほしいと「講演」した。はてさて・・・

 夏ちゃんが生まれたのは藤原京の跡であり、その名前も藤原京に因んだ和歌に拠っている。そして今は平城京のすぐ北に住んでいる。
 そんなこともあり、祖父ちゃんの講演?もけっこう真面目に聴いていた。記憶に残ってくれればいいが。

2024年3月30日土曜日

一言観音

   24日に、日本霊異記を牽いて「神(一言主神)が仏(僧)(役小角)に呪縛された」話を書いたが、これはどちらかというと例外で、そもそもこの国では神仏習合こそがスタンダード(普通)であったと考える。

 神仏習合では奈良の「興福寺と春日大社」も有名で、興福寺は明治の廃仏毀釈の大嵐で大きなダメージを受けたものの、現代でも興福寺の僧が春日大社に詣でてお経を読む行事がある。
 その興福寺の有名な南円堂のすぐ隣に、「一言観世音菩薩」のお堂があるのを知ってはいたが、この際、ちょっと待てよ!と考えた。

 「たった一つでよいというほどの大事な願いなら叶えよう」という趣旨だろうから、これは一言主神のパクリとは言わないが、仏教がそれを包摂したものではないだろうか。
 仏教ではあるが、大いに民間信仰の思想、神さんの思想をもって観音菩薩に肩書みたいに名付けられたのではないだろうか。
 あるいは、もしかしたら神仏習合が当たり前の頃、元々は「一言主の神」を祀っていたのかもしれないとは私の勝手な想像である。

 それはさておき、現代、イスラエルの現職の大臣何某は、ユダヤ教の旧約聖書を根拠にパレスチナ人を追放すべきだと主張し虐殺が行なわれている。
 先日はモスクワでIS(イスラム国)がキリスト教徒の多い場所で大規模なテロを実行した。
 バルカン半島では今でもキリスト教セルビア正教会信徒とカトリック信徒とイスラム教信徒による領土紛争を抱えている。
 インドではヒンディー至上主義の、アイルランドではカトリックとプロテスタントの・・、
 ・・・・などということなどを見渡すと、クリスマスを祝って、お寺で除夜の鐘をついて、神社に初詣に行く多くの日本人の宗教観はしばしばマイナスイメージで語られたりするが、いやいや、この「神仏習合?」の知恵は決して侮れないなどと私は思い直している。

 そういう観点では、現代、神仏習合ではないが、仏教、キリスト教、神道、天理教、他の新宗教の信徒らによる日本宗教者平和協議会(宗平協)が平和の問題で連帯し、日本共産党とも協力・共同の関係にあるのは素晴らしいことだと思う。

 友人がご住職である法華系のお寺は昔から「目(め)の神さん」と呼ばれていたらしいが、これについても何も違和感を覚える必要もないだろう。

2024年3月29日金曜日

2024春、奈良

   久しぶり(というほど昔のことではないが)に近鉄奈良駅周辺を歩いたが、街の風景は
インバウンドに上塗りされていた。 新しいラーメン店の前に行列ができており、そのほかにもパンフレットやSNSなどで取り上げられているような店に人だかりができていた。もちろん外国人観光客。 反対のことでは、南北で5~6件はあった古書店が殆ど姿を消していて、私としてはがっかり。 少し驚いたことには、近頃有名になっている餅つきの中谷堂のすぐ近所に、餅つきを見せたり、体験させたり、そして食べさせる店が開店していた。中谷堂も賑わっていたからまあいいか。それにしてもやるものだ。

 人ごみの状況からいえば、ほゞ100%外国旅行と変わらない。
 それでも、すぐ横の奈良公園では野鳥のイカルが囀っていた。嗚呼ここは日本だ、奈良だ。
 スマホで撮ったのでイカルの姿は見えない。声だけ。




 

 



2024年3月28日木曜日

アカタテハ

   4月28日。わが家にアカタテハ♂が飛んできた。
 
 昨日いっぺんに暖かくなったのでサスガ! と思ったら、本には「成虫で冬を越す」とあった。それでも、今シーズン(今年)初見。

 考えてみれば春分も過ぎ昆虫たちが大喜びしていても不思議でないが、先日までは天気が悪い上に寒かったので庭も寂しかった。

 その庭にウスイエンドウの花が咲き始め、文字どおり春だが、私はパソコンの不調が続いていて季節に取り残されている。ため息。

大和川の勉強

   27日、久々のお天気なので、鬱陶しいパソコンの修復は一切放っぽり出して、奈良へ、「大和川付替え」の歴史についての学習講座に出かけ、ついでに奈良公園を散策してきた。
 古代からの大和、河内、摂津、和泉の河川の問題から説き起こされ、大和川付替え要求活動の必然性とともに新大和川に該当する村々の反対要求も知った。
 その上で、付け替え要求が停滞・下火になったところから実現していったのだから、歴史はおもしろい。

 私は、あえて「堺では、大和川の付替えによって土砂が港を浅くしたので堺が疲弊していったという説があるが」と質問したところ、講師の万歳氏は「堺市立博物館でもそのような説明がなされていたことがあるが、今ではその説は正確でないとされている。事実、堺は土砂は埋め立てに使われ、新田も増え、さらにその先へ先へと港が整備されていった」という趣旨の回答だった。

 また、主に河内の旧河川跡の新田は稲作にあまり向かなくて、結果として「河内木綿」につながったというのは聴き初めだった。

 京、大阪に対する滋賀県民のジョークに「琵琶湖の水、止めてまうぞ」というのがあるが、大和川の龍田山の下の「亀の瀬」をちょっと止めたら奈良盆地は全て水没する(吉野から南は別)というのは滋賀と同じ恐ろしいジョークである。

 写真は27日の奈良公園、氷室神社の枝垂れ桜。

2024年3月27日水曜日

気力が萎える

   パソコンをシャットダウンしたら、問答無用・否応なく「更新」され、Word  や Excel が壊れてしまった。
 もっとひどいのは Outlook(メール)でこれは全く使えなくなった。その後プロバイダと半日やりとりしてメール機能は一部復旧したが、残しておいた記録や何よりもアドレス(住所録)が消滅したので、読者の皆さんには「お見舞い?のメール」を 旧Outlook 新Thunderbird(サンダーバード)にいただけるとありがたい。当方のメールアドレスは変更なし。
 マイクロソフトがえげつないのか、古いパソコンを使い続けている私が悪いのか。

 歳も取り、これからの各種修復に時間もかかるだろう。気力が萎えている。

2024年3月26日火曜日

人を幸せにする漢字

   七十七才がなぜ喜寿かというと、喜という漢字の草書体「㐂」が七と十と七であるから(左下が十)だが、この異字体を知らないと由来が理解できない。

 25日付け赤旗に早大笹原教授の「漢字学」の、それこそ「学問はおもしろい」話があったが、見出しのとおり「伝統は刷新しながら続いてきた」というのがおもしろい。

 小学校で「ガリ切り」をして謄写版で学級新聞を作ってきたわれわれ世代には、こういう異字体、略字、俗字というのは珍しくもなく、就職してからも、そして労働組合活動に参加してからも、冒頭の七十七才の「才」をはじめ、仂、耺、卆、巾、そのほかに、画数を減らして一部カタカナなども採用した、現在のJIS規格の文字では出てこない文字が普通に使用されていた。
 後世の人がこれらを読むときの感覚はある種の「古文」となるだろうか。

 近ごろ私などは文章を筆記するよりも打つ方が圧倒的になっているから、ある意味画数の多さは苦にならなくなり、結果として正字に戻りつつあるのも我ながら感慨深い。

 原理に近い台湾、独自の簡体字に進んだ大陸、そして独自の新字体の日本、キラキラネームも含めて漢字は将来どちらに向かって変身していくのだろう。
 笹原教授の「笹」は国字、長谷やんの「長谷」は枕詞に由来する。
 昔から先人たちはけっこう漢字で遊んでいたのでは。

2024年3月25日月曜日

依存症というやつ

   酒強き友はみな死に春の星
  
    長崎県小値賀町 中上庄一郎 
 24日の朝日歌壇、長谷川櫂選の俳句で、「おごれる者は久しからず。万事、春の夜の夢」が選者の評。
 私は酒が強い方ではないが晩酌は欠かさないクチだから、「友」とは私のことかもと少ししんみりと読んだ。
 そして、この「わかっちゃいるけど止められない」のが依存症というやつで、報じられているところでは、大谷翔平の元通訳水原一平がギャンブルで空けた借金が6億8000万円といわれている。

 水原一平の収入のことはよく知らないが、生活苦でつい手を出したとは考え難いから、ギャンブルの刺激と、「次勝てば取り返せる」という魔法の言葉に取りつかれたのではないかと想像する。・・それがギャンブル依存症で、そういう環境に近づくと誰でも「感染」してしまう病である。
 ギャンブル依存症は、浪費、怠惰で身を亡ぼすだけでなく家庭を崩壊させる。さらには借金の穴埋めに犯罪に手を貸すのは周知の事実である。

 近頃話題の、ホストクラブに入れあげた少女が売春を強要されるケースも、前段は一種の依存症である。
 私は現職の頃、精神疾患の労災認定にたくさん対応したが、人間とは人間の精神とは実に脆いものだという感想を持っている。

 古代史を紐解けば、685年(天武天皇14年)、天皇と貴族たちが宮中の正殿で双六ばくちに興じていたという記録があり、天武亡き後即位した天武の妻であった持統天皇が689年に即位後最初に発布したのが「双六ばくち禁止令」であったから、ギャンブルの恐ろしさ、その社会に与える悪影響は1300年以上前から明らかなことだった。
 で、大阪カジノ(IR)などという政策は亡国の政策と言わなければならないだろうと春の夜に思った次第。

2024年3月24日日曜日

役小角

   役小角(役行者)に関する講演を聴きに行ったが実に詰まらなかった。
 
 私としては、後の修験道に発展する思想の根源、例えば道教の影響や、大宝律令下の僧尼令に服さなかった私度僧や、今も残っている大峰山周辺の多くの習俗など、いろんな興味を持って講演の席に臨んだが、講演は続日本紀や日本霊異記に書かれている文言の平板な紹介に終始した。実に詰まらなかった。

 ただ、唯一笑ったことといえば、日本霊異記の「孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁 第28」にある、「役小角が葛城の一言主神や鬼神たちに、大峰山と葛城の山との間に岩橋を架けよと無茶な命令をしたため、一言主神たちは反発して文武天皇に「役小角は天皇を傾けんことを謀る」と讒訴(でっち上げ)した」とあった講演に対して、参加者から「春日大社の末社の一言主社は受験を前に必死の祈願者で溢れているが、一言主神は役小角を讒言した信用ならぬ神ですか」という質問だった。

 これは、歴史や思想史ではなく「神学論争」だから、講師もムニャムニャで終わったが、この話が唯一愉快だった。
 私は、現実の社会に害を及ぼさない神学論争は笑って過ごすことにしている。
 各教祖たちの為した奇跡の矛盾を解明しても何も解決することはない。ただしカルト教は除く。

 ほんとうはこの日は、別に非常にまじめなWEB講演もあったので、そちらを選択しておけばよかった。反省だけが残った。・・こんな日もある。

2024年3月23日土曜日

楽器の調達

   毎年恒例の退職者会のパーティーの日程が5月23日(木)に決定した。
 ゲストは「現職の退職者」で、世間では高齢者だがわが会からすると「若者」となる。
 ホスト役の世話人の方は、芸はないが「請われれば一差し舞う」覚悟はできている。・・筈だ。

 今年はホスト全員で『管楽器の合奏』をすることにしたので、担当として帰宅してからホスト全員分の楽器を購入する手配をした。
 その演奏の結果は、5月24日以降に報告する。
 K氏いわく「照れたら失敗する」と。・・名言。

 会員の皆さん、4月16日(火)の遠足(のだ藤)、そして5月23日(木)のパーティー、乞う
ご期待!

2024年3月22日金曜日

ガザに平和を

    購入して読み始めたが途中で投げ出した本はいくつもある。
 予想していた自分の興味と大きくズレていた本、レベルが合わずにバカバカしくなった本、難解で読み進める体力が続かなくなった本、性質はいろいろだが、この本も、いくら読んでも頭に残らないもので、ガザのことがあってまた引っ張り出したが一向にページが進まない。内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』。
 第1刷が2006年(H18)、第16冊が2010年(H22)。定価が750年だから相当長い間積んでおいたり読み返したりしたはずだが 、乱読、積んどくの見本のようなものだ。

 それでもまた引っ張り出したのは、既報のとおり、NHKのインタビューにイスラエルの現職の閣僚が、「パレスチナ人は全員追い出すべきだ」「何となればここは我々の土地だから」「それは2000年、3000年前から明らかなことだ」と語っていたからで、きっとそれは旧約聖書の記述のことだと思うが、そういう主張が現職閣僚を支えているとしたら、話し合いと寛容で秩序を成り立たせる展望が霞むように私には感じられた。

 私の理解の範囲では、反ユダヤ主義が中東の不安定を生んでいるとは思えず、共存こそが知恵だと考えるが、その知恵は他の書物を探すしかないのだろうか。

2024年3月21日木曜日

カリカンサスを植える

   ネット通販の便利さに溺れるのは危険! ということは解ってはいるが、つい検索してしまい、今回も庭木を1本購入してしまった。
 実際の植木屋の店に展示されている庭木は種類も数も限られているから、ネットで探すのは非常に効率が良い。
 一方で、庭木を簡単な説明文だけで購入するのは危なくないかという心配もあるが、普通には植替えは冬季(落葉期)がよいから、それで冬季に購入して見たら、実際の花の色や紅葉の具合が予想と違うということも少なからずあるから、リスクといえばまあまあ同じだと思う。

 今回購入したのはカリカンサスのハートレッジワインで、樹高約1m。ほんとうは、上手く根付いて花が咲くまでにいろいろ想像しているときが一番楽しい。
 それに私も歳をとってきたから、この木が大きく成長した姿は実際には見ることができないかもしれないが、昔、アファンの森をコツコツと造っていた故CWニコル氏の話を聞いたとき、「森の完成した姿を貴方は見ることができないのではないか」というシビアな質問に、「私には成長した森を想像することができる」と語られたことに感動したことを思い出す。

 近頃は「終活」という言葉が肯定的に語られたりするが、私はあまり惹かれない。
 私がいてもいなくても、そんな5年後10年後の樹木を想像しながら植えたり伐ったりしているのは楽しいものだ。

2024年3月20日水曜日

デジタル化に敗けないぞ

   退職者会の会員は当然に高齢者であるので、先の会報には「居酒屋の注文までデジタル化」を愚痴る投稿があり、それに「同意」の感想もたくさん届いている。
 

 私も以前に昼食をとりに食堂に入ろうとして、入口の券売機がデジタル化されていて戸惑ったことがある。
 要するに、食事か喫茶か、和洋中何か、ランチか軽食かなどなどなどを順にクリア(選択)していかないと前に進めないし、「訂正」で後戻りすると見慣れない画面になり、その内に私の後ろに順番待ちの列ができたから、恥ずかしくも途中で買うのを止めて逃げ出した。
 大きな声では言えないが、現代人半分失格の身である。
 なお、その店には比較的空いている時間に再挑戦し、とりあえずは普通に食べ物にありついた。

 そんな程度だから、ファミリーで食事会の時などは、孫の夏ちゃんがハイハイとみんなの希望を入力、送信してくれる。それをただ口を開けて感心している。

 そんなこともあったから、近くの大型スーパーのレジの機械化には、「できるだけ早期に慣れよう」と妻と話し、既報のとおり「レジゴー」なるセルフレジ方式を選択して使用している。
 気を抜いてスキャン忘れなどして万引きまがいに疑われるのも絶対に避けたいから、変な意味で注意力がいるが、そのためにも体にルーティンとして覚えさせる必要があると思う。
 今回は「以前に出ていたクーポン券」を使用する方法も一応クリアした。

 大型スーパーでは、日々機械化が進み機械自体も更新されていっている。それを横目で睨みながら「敗けないぞ!」と呟いている。
 世のIT化についていけてないことを自慢げに語る老人グループには入りたくないと思っている。

2024年3月19日火曜日

カレーは日本に限る

   先月、大阪市内に出かけたとき、新しい本格的インド料理店が開店していた
 店内の装飾は徹底して?本格的だし、壁ではダンスいっぱいのインド映画が流れていた。
 食べたのはべーシックなチキンカレーだったが、個人の感想をいえば私には物足りなかった。

 わが家では不文律でカレー料理は私の担当となっている。
 そして、多くの場合、少なくとも8割方は孫の凜ちゃん用とも共通して作っている。 だから私はカレールーを入れなくても料理として完成しているように作るのだが、その際の決め手はトマトソースとしている。
 それに比べてその店のカレーは、どうも味に深みが欠けていた。個人の感想ながら。
 「これこそ本場のカレーじゃわい」と言われればなんとも言えないが・・・。

 キーマカレーにしたり、ジャガイモゴロゴロのジャパニーズカレーにしたり、夏なら夏野菜カレー、冬はトロトロ牛筋カレーと一家言ある私には、正直物足りなかった。厨房にはインド人らしきコックさんが揃っていたのに。
 やっぱり「この淡泊さが本場のカレーじゃ」と言われるのだろうか。ほかのインド料理店ではこんな感じではなかったけど。

 私の舌の方が正しければ、豪華ともいえるその店は遠からず閉店になるだろう。
 18日夕食、凜ちゃんは、わが家の祖父ちゃんカレーを何回もボーノ!と言ってくれた。

2024年3月18日月曜日

殺すなかれ

   17
日(日曜日)の朝は5時前に起きたので、見るともなくNHK Eテレの『心の時代』を見ていると、明治学院大学阿満利麿名誉教授が親鸞の歎異抄の教えを語っていて、その(歎異抄の)実際の表れとして高木顕明(けんみょう)師のことを紹介していた。

 和歌山県新宮市のお寺の僧侶であった高木顕明師は、日露戦争当時の大逆事件のでっち上げに連座して獄中で死亡しているが、「仏の教えに人殺しはありえない」と徹底して非戦論を唱えた僧侶だったが故に弾圧された。阿満教授は「それこそ歎異抄の教え」と語られていた。
 その後の明治から昭和前期の時代は、大教団のほとんどが「戦勝」を祈る時代に入り、高木師も僧籍除籍などとなっていたが、真宗大谷派は実に90年後の1996年(平成8年)、僧籍復帰・名誉回復の措置をとった。(大逆事件では他に曹洞宗、臨済宗妙心寺派の僧侶も弾圧されている)

 私はウクライナやガザを思い浮かべて、「徹底した非戦論」の実践についてあれこれ考えたが、・・・一般論だが、昔、職場の先輩TMさんと話し合ったとき、先輩は人を殺すよりも殺される方がましだと言い切ったことを思いだしたり、片や、ウクライナの青年が祖国のためにと家族と別れて前線に向かうのを「君は間違っている」とはとても言い切れないなどと迷ったり、結局、結論の出ぬまま卑怯かもしれないが、ただ真の宗教・宗教家とはそうなのだろうと、ただただ尊敬し、首を垂れるのみだった。

 さて15日には、公明党と自民党が武器輸出の大幅緩和について合意した。
 早い話が憲法9条は仏壇?の奥に引っ込めて、公然と、日本人の作った武器で人殺しが世界各地で展開されることになる。言っておくが、歯止めなど嘘八百だろう。
 宗派を問わず仏教界には不殺生という重要な戒律があると考えていたが、現世の「ご利益」のためなら不殺生戒もなんのそのと説く教団?もあるようだ。
 歴史の勉強が今ほど大切な時はないのではないだろうか。
 過去に目をつぶっていては明日は語れない。諸兄のご意見を賜りたい。

2024年3月17日日曜日

虚像と実像

   虚像というかイメージというものは、時に独り歩きをして、まるで実像であるかのように語られる場合がある。
 テレビから「清流の女王といわれるカワセミが・・」などと流れると、あのコバルト色の美しさからいって、多くの人々は清流を疑わない。
 しかし実際は、わが家周辺の溝みたいな小川やため池みたいな場所にもいて、贔屓目で見てもそこは清流とは言えない。
 カワセミは決して清流の女王なんかではない。

 清流かどうかの話はそんなものだが、灘中高から東大に行った秀才も、有名私大の理事長も「知らなかった」と言うに及んでは、その実像に首をかしげる。
 「李下に冠を正さず」とか「ノブレス・オブリージュ」という言葉も、「知らなかった」「記憶にない」と言い張る気だろうか。

 さて、カワセミに比して可哀相なのは写真のカワラヒワで、けっこう可愛らしい小鳥であるのにカワセミほど人気はない。

 今週には、一陽来復の冬至を起点に考えると1年の4分の1(四半期)が過ぎたことになるし、夏至に向けてなら、もうその半分となる春分の日が目前。
 朝晩は寒いけれど、沈丁花の前で、「花を見ていると春ですなあ」と近所の方との挨拶も春めく。
 目の前の電線からは、ジューイ ジューイ、ヒリヒリヒリとその声も気分のせいか春の声に感じる。

 それはさておき、虚像といっても害のないイメージもあるにはある。ブギウギで内藤剛志が刑事になって出てきたのに腰を抜かして笑ってしまったのは私だけ?

2024年3月16日土曜日

拝火教徒になる


   3月になると、奈良周辺の、否、全国の歴史や伝統を愛する人々は拝火教徒(ゾロアスター教徒)になるのではないかと想像する。
 昨日、15日未明に満行を迎えた東大寺二月堂でのお水取りの行を見ると、そんな風に信じたくなる。
 二月堂、その場所は、隣の法華堂も含めて周辺だけでもどこかの県一県にある以上の国宝が並んでいる。そういう木造建築の堂内外で、こんな火祭りが許されていいのだろうかと凡人はただただ恐縮する。
 そして、その火の粉の中で、日頃の諸々の反省点が少しは浄化されるような気持ちになってくるのである。

 もとよりインドを出発した(大乗)仏教は、ガンダーラ地方など中央アジアの文化を吸収しつつ東進して日本列島に辿り着いたのだから、仏教の中に、先行していた世界宗教である拝火教の影をを感じるのは異なことではない。護摩供にもそれを感じるし、そもそも火とは獣と人間を分ける境界線でもあろう。

 話は変わるが、孫の凜ちゃんは私の顔を見ると「焚火!」といい、焚火をしてほしいと要求する。祖父ちゃんもその焚火ほど楽しいことはない。
 そこでもう一度言うが、3月には人々は拝火教徒になるのが正しい。

2024年3月15日金曜日

高松塚古墳から

   2月に文化財保存全国協議会の講座で森岡秀人氏の講義を受けた。
 その日のテーマは関係なかったが、森岡氏といえば高松塚古墳発掘調査で有名な方である。

 また高松塚古墳発掘調査の責任者故網干善教先生は、私がここへ転居する前は近くにお住まいだったが、当時の私は古代史にそれほど深い関心がなく、地域の勉強会にも参加していなかった。今思うと惜しいことだった。

 高松塚古墳の被葬者は今も特定されていないが、私などは壁画の東壁南側男子群像が、四隅に緑色の房を垂らした蓋を持っていることから、一位の人物である石上麻呂が有力だと考えていたが、「一位といえども藤原京の真南に造営などできないから皇族(天皇と皇子等)である」との反論に阻まれていた。

 さて3月12日、小笠原好彦先生の講座に参加して、① 中国では漢代以降都市には墓を造らせなかったこと、② 中国に倣った『養老喪葬令』(残っていないがきっと大宝律令でも)、「皇都及び(幹線)道路の側近には墓の築造を禁じた」ことを学び、やはり高松塚古墳は、皇都ではないものの特別な場所だと考え、忍壁皇子説に変わりつつある。

 さて、有名な終末期古墳というと、キトラ古墳、マルコ山古墳、石のカラト古墳、高松塚古墳があり、石槨の工法や出土した土器片から制作時期がほゞ特定されつつある。
 そして私がこのブログで度々触れてきた石のカラト古墳は、私の住居のそう遠くない散歩道にある。
 
 そして、以前に講義を受けた白石太一郎先生は、被葬者は、年代からいって藤原不比等が一番有力だが、公卿補任(くぎょうぶにん)という書物に「不比等は『葬佐保山椎岡』と書かれていることに合致せず、この地が広義の佐保山と書いてある書物がないかどうか探している」と述べられていた。

 このことについて、小笠原先生は、12日の講座で明快に解答を出されて、私は大いに納得したのだが、そのことは先生が著書等で正式に発表されてから書くこととする。
 私は私で、方角等を重視した陰陽道(道教)についてもう少し勉強することとする。
 (写真は石のカラト古墳)

2024年3月14日木曜日

神々のルーツ

   6年半ほど前、2017年の秋に退職者会の遠足で西宮神社に行った折、神職から 三連春日造りの本殿について説明を受けたが、それは「東に蛭児(えびす)大神、西に須佐之男大神、中央に天照皇大神と大国主大神がまつられていますが、その昔は蛭児大神が中央でしたが、いつの間にか東に移りました」という不思議な説明だった。

 帰宅してから昭和4年出版の『年中事物考』という本を開いてみると、「古く延喜式に大國主西神社と見え、夷宮はもと西神社の配祀であったが、その社が次第に有名になったので、いつの間にか之を主神として専ら夷宮と申すに至った」とあった。つまり、昭和初期までは天照皇大神は特筆されていなかった。
 となると、昭和15年、紀元2600年頃の皇国史観絶頂期に蛭児大神は東に移され、中央に天照皇大神が据えられたのではないだろうかと私は思う。

 このように古い歴史と伝統のようにに見えるものも、後の為政者たちによって大いに「修正」を加えられていることが多いということになる。

 そういう「歴史の修正」に注意しつつも、どの町でどんな神様が祀られているかというのは、為政者の編纂した公的な歴史書にはないこの国の歴史をあぶりだしてくれる。

 豊富な写真で紐解いてくれるこの本は、気楽に読み進めながらそんな欠片を教えてくれる楽しい本である。
 片岡伸行著『神々のルーツ 「祈りの場」から見た古代日本』新日本出版社

2024年3月13日水曜日

時よ止まれ

   孫の夏ちゃんはこの春小学校を卒業し中学生になる。
 そのため、スマホはこれまでの子ども用スマホから普通の簡単スマホにワンランク昇格した。
 そして専用のパソコンも両親に買ってもらったが、それがクロームブック(Chromebook)なので、わが家で使用するときのためのWi-Fi 接続にやってきた。

 クロームブックは聞き初めだったが、Windows Mac に次ぐ第3のOSの Google のもので、インターネット接続を前提としているらしい。だから、春休みなどに持参してゲームなどをしようとWi-Fi 接続にやってきたようだ。本人は何も言わないが・・・

 クロームブックは何よりも動作が早く、その上に安くてセキュリティーが良いらしいが、私がWindows から乗り換えるとなると解らないことだらけで研究しなければならない。
 今でもスマホの操作などは夏ちゃんの方が詳しいが、もうすぐパソコンについてもそうなるだろう。
 技術の進歩の時間や夏ちゃんの成長の時間に比べれば、私などは停滞以外の形容が見つからない。

 どなたかChromebookをお使いの方はおられませんか。メリット、デメリットを教えていただけないでしょうか。そしてWindowsからの乗り換えのあれこれについて。
 
 現在のパソコンの動作が非常に遅いので近いうちに買い替えなければと考えていたところだが、これでさらに勉強して考える課題が増えた。(ため息)

2024年3月12日火曜日

核の脅威を乗り越えるには

   昨日一昨日と3.11事故に関わって原発の危険性を書いてきたが、平和の問題や政治の問題に発言し行動してきた理論物理学者故益川敏英先生はその著書で、非常に冷静な議論を呼びかけられているように私は感じている。
 その要点を私の理解の範囲で紹介すると、

 🔳 当面の課題は、使うにしても止めるにしても、まずは安全確保の研究は必須だ。 使用済み核燃料の処理の方法も重要だ。 原発事故の収束作業や廃炉作業、そして廃棄物処理作業でいい加減な作業をされたら日本列島は恐ろしいことになる。 そのための原子力研究には資金と優秀な人材が重要だ。 そして、開発途上国や独裁国家が核兵器を使用する可能性は低くない。それを止めるのは、難しい問題だが広い意味で国際世論を形成するしかないだろう。🔳

 他に、エネルギーの安定供給という意味で、安全性が担保された原発なら容認も有り得るととれるような言葉もあるが、そこには私は同意できないが、研究の継続という意味でその種の原子炉の必要性は否定できないという主張は首肯できると私は考えている。

 今こそ、腐敗し切った自公政権を引退させ、「核兵器で戦争を抑止できる」という「誤答」を乗り越えて、憲法9条を鮮明に打ち出して頑固にそれを守り抜き、ASEANが切り開いている、軍事同盟ではなく「対話と協力」の国際関係構築の先頭に立つ日本国を打ち立てたいものだ。

2024年3月11日月曜日

3.11で反省したこと

   3.11でショックを受けたことの一つは、自分の勉強不足のことだった。
 その種の問題については若い頃から本なども読んでいたが、反対に、だからからも知れないが、一言でいえば「原発と原爆は違う」という理解で、原発の危険性を見逃していた。

 さて、日本経済の成長を誰もが信じていた頃は、会社が健康保険組合などを通じて、いわば政府の福祉政策を企業が肩代わりするような側面もあり、多くの「保養所」などを作って、互いに利用し合っていたりした。どこにも部内者の外に、部外者料金があった。
 そんな中に電力会社の「保養所」もあり、そこを使わせてもらって忘年会などをしたときは、鯛の刺身に舌鼓を打っていたが、その鯛は、今思えば、原発の温排水のお陰で成長した健康優良児?の鯛だった。

   原発というと何かとてつもなく難しい仕組みのような誤解があるが、原理は火力発電所が石油等で「お湯を沸かしている」のを、ウランという燃料の核分裂で「お湯を沸かして」タービン→発電機を回すのである。

 そして、そのために発生した熱の3分の2は海に捨てられている。
 原子核工学の専門家であった水戸厳氏からは「原発は海温め装置」だと教えられたと小出裕章氏は述べている。

 気候危機、地球環境の問題は、斎藤幸平氏に言わせれば文明崩壊の危機直前といわれているが、だとすれば、「地球環境は重要だが原発はCO2や環境に優しい」は虚偽宣伝であり成り立たない。気候危機解決という視点からも原発と人類は共存できない。
 「安定供給」だとか「クリーンなエネルギー」という大嘘に騙されてはいけない。
(なお写真のお刺身はネット上にあった美しい写真で、原発やこの記事とは無関係です)

2024年3月10日日曜日

明日は3.11

   私にとっては、二つの点で阪神大震災よりも東日本大震災の方がショックが大きかった。
 阪神の場合は、古いビルの9階だったので事務所が無茶苦茶になったし、数時間後には前例のない業務対応で必死になったので、言葉は悪いがショックを感じている暇もなかった。
 それに比べて東日本でショックだったのはテレビのライブだった。つまり、録画でもないリアルな画面の中で人々が津波に飲み込まれ、死んでいっているのだった。
 そしてもうひとつは、フクシマ第1原発の爆発だった。

 そのことについて若干振り返っておくと、日本共産党の吉井英勝衆院議員(京大原子核工学科卒)が、23年間の国会議員生活中200回以上原発の危険性を発言し、東日本の前の2006年にも、地震や津波で冷却機能が失われるとメルトダウン(炉心溶融)が起こる危険性を政府に問うたが、安倍内閣は「安全の確保に万全を期している」との回答に終始した。

 それが未だに「実際のメルトダウンの状況は誰にもわからないまま」今日に至っている。
 語れば長くなるので私が一番言いたいことだけを指摘することにするが、大飯原発運転差し止め訴訟を指揮した樋口裁判長(当時)はフク1事故に関わって次のとおり指摘したことは非常に重要だ。

 🔳 事故当時、4号機は点検中で貯蔵プールに使用済み核燃料があった。隣の原子炉ウェル(上部の空間)との仕切りが、本来はズレるはずがないのに何故かズレて、さらには本来はないはずの水、工事の遅れにより抜き取られていなかった原子炉ウェルの水が、貯蔵プールに入り、結果として核燃料を冷やした。
 1~3号機は地震の影響でモーターが停止。非常用電気も津波で使えず、冷却用の水が送れなくなり、核燃料は自らの熱で溶け落ちた。
 それにより2号機の格納容器は蒸気でいっぱいになり、爆発すれば放射能が飛び出し、東日本壊滅も予想された。
 ところが、格納容器の底にあってはならない欠陥部分があり、そこから蒸気が抜けた。 
 このように、2、4号機の奇跡(あってはならない欠陥)で、首都圏を含む半径250kmへの放射能被害は免れた。🔳
 
 つまり、ジャパンアズナンバーワンとも技術立国とも言われていたこの国で、「想定外」の欠陥商品であったから21世紀の日本人は助かったというのだから、これほど皮肉な悲劇(喜劇?)はない。
 原因は、アメリカに尻尾を振る一部日本人も日本人だが、基本的にはアメリカのお古を押しつけられた・買わされたからである。

 この怖ろしい事実が今も軽視(無視)されていないか。(欠陥商品でなかったら日本列島の半分以上が壊滅していた)
 3.11を迎えて、この事実を直視したい。

 2011年事故直後は私のブログにも多くの人々から「そうだ語り続けなければ」とコメントをいただいていたが、近年はそれも減っている。
 私の発信の下手さ加減もあるが、読者の皆さんにも初心に帰った発信を是非ともお願いしたい。

2024年3月9日土曜日

木に登るな

   わが家からそう遠くないところに、ちょっとした広さの公園がある。
 その公園の半分というか公園の隣というか、そこには元々自然の小山があり雑木が茂っている。遊歩道もある。
 私はその公園をよく散歩するのだが、そこにはそう珍しくもないものだが「注意書き」の看板が立っている。
 それを見ると、これもそう珍しくもないが「木には登るな」との注意(禁止)事項もうたわれている。

 確かに、桜などの細い木に子どもが登って枝を折れば花見に支障が出る。いや、近頃のことだから、子どもが木から落ちて怪我でもしたら行政(自治体)の管理責任が問われるのが怖いかもしれない。
 でも、古くは「おはなはん」ではないけれど、子どもは木に登るものではないのかと私は違和感を覚えた。そしてそんな感想を妻に語ったら・・・

 『「木登りは木を傷つけず自分も気をつけて」と書いていても、近頃の子どもは誰も登ろうとも思わないだろう』と返ってきた。
 そうかもしれない。
 転居する前の家では道側にブラックベリーを植えていて、「黒く熟れた実は自由に採ってください」と表示したが、大人は採ったが子どもたちは逡巡し、そんなところに私が出ていこうものなら子どもたちは驚いて逃げ出したという記憶がある。

 でも、それでいいのか。あれも禁止これも禁止と書いておけば責任はないという社会は健全か?
 なにか嫌な世の中のような気がする。
 自然の木にロープでブランコを作って、「すべて自己責任」と表示しておきたいが無理だろうなあ。

2024年3月8日金曜日

盛山大臣は辞任せよ

   3月6日文部科学省(盛山正仁大臣)は旧統一協会に対して指定宗教法人に指定することを決定した。反対にいうと、特別指定宗教法人には指定しなかった。
 朝日新聞の記事によると、ある教団関係者は「『特別』で来ると思っていた。『指定』で止まってくれた。・・『指定』であれば大したことはない」と語っている。

 これではエバの国日本の教団関係の財産がアダムの国韓国の本部等に持ち出され隠匿される恐れが十分にある。

 写真は盛山大臣が署名したいわば「誓約書」。
 灘中・高から東大の秀才が「記憶にない」一筆。

 例の裏金問題といい、与党政治家の倫理観の崩壊は甚だしい。倫理観は学歴や学力とは関係ない。

 いま大切なことは、国政でも地方選挙でも、こんな政党に属したり選挙協力を受けたりする候補者を落選させることだろう。

 

2024年3月7日木曜日

すき焼き鍋

   ラジオで女性アナウンサーが「すき焼き鍋なんか持っていない」と語っていた。 聞いていると、アブラがハネルのが嫌だから普通の鍋で出汁で作るというから、それでは「すき焼き」ではなく「すき煮」だろう。

 「すき焼きのたれ」など論外と考えて生きてきた関西人としては言葉が見つからない。
 また、普通の鍋で肉を入れて砂糖を入れてから始めると肉が底にこびりついてしまうから、そうそう使うものではないが、やはりこの鉄鍋は必需品であろう。

 孫の凜ちゃんのイクジイの日は、凜ちゃんファミリーの夕食分もわが家で作っている。
 ちょうど、そのタイミングだったので凜ちゃんファミリー分のすき焼きを作ったのが写真のものである。
 凜ちゃんの父親、母親の誕生日近くだったので、少し牛肉を張り込んだ。
 凜ちゃんは学校などで食べ物の名前を語るのが好きなので、たまには牛肉を教えておかないと、肉というと「鶏肉」「豚肉」「ラム」しか語れなくなるので、「牛肉やで牛肉!」と教え込んだ。

2024年3月6日水曜日

奈良のシーサー

   岸田首相のニュースを見ていると頻繁に「丁寧に説明をする」旨の言葉が出てくるが、その実は、木で鼻をくくったような空虚な答弁を繰り返して無内容な時間を積み上げたことをもって丁寧と称している。
 そのことは、政治の課題で許せないことであるとともに、日本語や日本文化を卑しめ劣化させていると私は思う。

 沖縄の辺野古新基地の工事を巡る議論が2月26日の衆院予算委員会であったが、日本共産党赤嶺議員が諸問題の中のひとつとして「埋め立てに沖縄本島南部の土砂を使うな」と要求したところ、首相は「地元、遺族の思いに寄り添った対応は大変重要」と述べながらも「使わない」とは言明しなかった。

 このことの何が問題かと言えば、この土砂採取地は沖縄戦激戦地の糸満市、八重瀬町などで、今も1700人を超える方々が遺骨を探し続けている地である。
 例えば誰かが「こんなものただの石でないか」と言って貴家の墓標に唾を吐いたり小便をかけたりしたらなんと感じるか。
 この地の土を埋め立てに投入するということはそういうことでもある。

 桁違いの時間が遺族の心の中で土に還るまで、この地の土は戦没者の無念と遺族の墓標だとなぜ想像できないのか。
 
 奈良の東大寺戒壇堂の屋根に珍しい鬼瓦(飾り瓦)を見つけた。全くシーサーそのもののように見えた。
 沖縄の痛みは本土の痛みだと感じながら生きていくべしと教えているようだった。

 

2024年3月5日火曜日

括弧と句点

   写真の本類はここ1カ月ぐらいに読んだ本だが、なぜ1か月もかかったかといえば他の本を読んでいる間の息抜きに読んできたからで、こういう本を常に「待機」させて暮らしている。
 要するに、何か探し物のような目的があって読んでいるわけでもなく、一種の時間つぶしみたいなものなのだが、そんな中に「ナルホドそうだったのか」というものを見つけると嬉しくなる。

 そんな一つが、(丸括弧)には「。」をどこにつけるべきか・・という箇所で、私の場合は「鍵括弧」だったが、少しばかりモヤモヤが解消した。
 私のモヤモヤを先に言うと、新聞の編集ではだいたい1段を9字か11字で割り付けるのだが、こんな少ない文字数の中で話し言葉の終了ということで  を付けた上で、直接話法の終了ということで  を付けたり、さらにその小節の終わりで 。 を付けたりすると非常に間延びする。
 そんなことで、  の前の 。 は原則として省いてきているのだが、これはいったい正しいのかどうかという疑問が常にあった。

 その疑問の根拠は約70年前に示された「公用文作成の要領」が頭の底にあったからであるが、今回知ったのは、令和4年に「公用文作成の考え方(建議)」が建議され、そこでは、主として丸括弧のことではあるが、【文末に括弧がある場合、それが部分的な注釈であれば閉じた括弧の後に句点を打つ。二つ以上の文、又は、文章全体の注釈であれば、最後の文と括弧の間に句点を打つ。】とあることだった。
 さらには、【なお、一般の社会生活においては、括弧内の句点を省略することが多い。】ともあった。

 2月11日の『日本語の一側面』でも書いたが、日本語には例外が多いというか「原則」なるものに固執すると、返って伝え辛くなる。
 この歳になって、こんな小学生みたいな「日本語の書き方について」悩んでいるが、ほんの少しだけ理解が進んだ。

   関連して、「。ハラ(まるはら)」という新語、新現象がある。写真のとおり朝日新聞でも結構大きく取り上げられている。
 ラジオでは年寄りが「何を言うか。日本語には日本語のルールというものがあるのじゃ!」と叫んでいた。
 で、私はというと、全面的ではないが若い者の新しい感性を認める派である。

 文章の基本が文語体であった時代から、日本語も多くが横書きになった時代、文章を紙以外にデジタル機器で読む時代、・・日本語は成長?変化してきたし変化しつつあるのである。
 私のこのブログ記事にしても、パソコンやスマホで読む場合、A4横書き40字で「べた書き」すると何となく読み辛いという印象を受けた。
 なので、これまでの日本語の「原則」にはない、『一行空け』をけっこう頻繁に使用している。

 何年か後には、「公用文は。で終わること。私的な文章は絵文字でもって区切るのが相応しい」となるかどうか。
 もう曾孫と話すことはないだろうが、「ひい祖父ちゃんは、こんな読みにくい文章を書いてたん!」と驚かれる時代が来るかもね。

2024年3月4日月曜日

ストップ万博

   3日に『万博ストップ府民大集合』という集会が『エル大阪』で開かれ、主催者が用意した資料があっという間になくなるなど、超満員だった。
 願望や「予想」ではなく事実に基づいて考えるにこの万博は大失敗間違いない。

 最近の話では例のリングが邪魔で重機や資材が運び込めないという。大阪弁で言うとアホちやうかというような話題が噴出している。

 株など投資の世界などでは「損切」という言葉があるが、大阪と大阪経済のためにも早急に中止の決断をすべきだろう。

 集会参加者の年齢層は高かったが、翁(高齢者)の知恵を大事にするのが日本文化だというのは折口信夫(おりくちしのぶ)も指摘していたことだ。

 私はちゃっかり「公共の充実」を目指す署名用紙を持って行って、瞬時に5名分の署名をいただいた。ふふふふふ。

 メーントークで大阪経済の対案として「省エネ、再エネによるグリーン・ニューディール」を強調していたのはいい。参加者のどれくらいがそう感じたかは知らんけど。
 願わくは、住民投票の際に「大阪市廃止反対」と訴えたように、シンプルなキャッチコピーが共有出来たらよい。

2024年3月3日日曜日

大阪上町台地の近現代史

   2月25日の『歴史の曲がり方』で粕汁を論じた際、「伏見は京の公家文化というよりも伏見城の城下町として発展した街」「伏見の酒造業の歴史は言われるほど古くなく明治の末期に陸軍第16師団の本拠地になってから」と書いたが、ことほど左様に「歴史」というものは徐々に美しく飾られるものらしい。さて、ならば、その種の「色眼鏡」は大阪にはないのだろうか。

   大阪城の南、法円坂に難波の宮(なにわのみや)跡公園があるが、ここには敗戦まで陸軍歩兵第8連隊の兵舎(隊舎)があった。写真は公園の東側にあるその石碑である。
 建物は昭和40年代前半まで残っていて、各種公営施設の庁舎として使われていた。私などはそこにあった労働組合書記局(事務所)に通っていた。

 その前身の8連隊は、〽また敗けたか8連隊。金鵄勲章9連隊。と世間で歌われていた。そのこと、・・8連隊が弱かった・・という俗謡が事実に反するということについては種々語られているからここでは深入りしない。

 私は、その旧兵舎に出入りしていたにもかかわらず、私の理解はただその程度であった。・・・伏見を京といい、その酒造業を室町以来と語るようなものだった。

   そんなことを考えたきっかけは、8連隊の碑の向かい側、国立医療センター(旧国立大阪病院)にある石碑を読んで驚いたからである。そこには『歩兵第37連隊』とあった。8連隊? 37連隊? 私の知識には37連隊というものはなかった(まあ、ただ知らなかっただけのことではあるが)。

 それらはネットの検索で断片的には判るが、ナカナカ全体像が理解できなかった。編成替え? 名称変更?
 いろいろ調べ、さらに判らないかと『ピースおおさか』に尋ねると、「歴史的には兵舎の場所も移動しているのだが、約めて言えば8連隊も37連隊もそのあたりに並んでいた」という。

 伏見の誤解を笑っていられない。
 大阪城天守閣横には陸軍第4師団司令部庁舎があり(子供の頃は市立博物館で行ったことがあるし建物は今もある)、大阪城北側は全国トップクラスの大阪砲兵工廠があったから、大阪城周辺は一大軍事施設街だった。数え上げればもっといろいろあったようだ。

 なんとなく、生臭い政治や軍事とは程遠い平和な商人の街が続いていた大阪というイメージは、私だけかもしれないが、全く的外れであった。
 テレビの番組で若い女性にマイクを向けて「70数年前まで日本はアメリカと戦争していたのを知ってる?」「ウッソー!」というのを笑ってなんかいられない。
 「前向き」という言葉をよいことに、この国は歴史を持たない根無し草になっていないだろうか。自分自身の勉強不足を恥じつつ・・・・・。

2024年3月2日土曜日

それをいっちゃあ

   今日これから書く記事の論点は間違っているかもしれない。私自身全く整理できていないが書いてみる。 
 組織にあっての専決事項と責任の取り方についてである。

 会社であっても他の組織であっても、ワンマン零細企業でなければそれぞれの中間管理者等にも権限の委譲がある。普通には専決事項などという。
 それは当然で、例えば市長は、市長名で発出する毎日数百、数千の書類の全てを確認して決裁を行うことなどできない。だから、この種の事案は副市長が、これらは部長が、これらは課長が市長に代わって判断する・・ことになっている・・はずである。

 しかし、一旦その判断に誤りがあった場合、第一義的には担当の長の責任は当然にしても、基本的にはその名前の者、つまりこの例なら市長が誤ったとして謝罪と対応を語るのである。
 そこで、「実際は課長の責任なので私は知らぬ」と言えば組織は成り立たない。実際に、トップには任命責任や管理責任がある。
 このことは、資本主義の下でのまともな会社であっても同じである。

 そこで、2月29日の政倫審に出席した二階派事務総長の武田良太氏のことである。
 氏は、「経理は事務局長に全て任せていた」、つまりは自分は知らぬ、自分たち議員には責任はないとの立場を繰り返した。
 私は、この発言は虚偽で、二階会長、武田事務総長が知らないはずがないと考えているが、このブログの文意は、どの程度の認識や指示があったかどうかは別にして、どんなことがあっても「それをいっちゃおしまいよ」ということである。

 株式会社のような資本主義の根幹をなす組織であっても、「それをいっちゃおしまい」で、本気でそれを言うなら、そんな人間は組織人おしまいなのである。

 昔たしか橋下徹氏が「大臣や知事や市長などが全部見ているわけではない」と、これと同じような論法で責任をかわすような発言をしたのを聞いた記憶があるが、それの第二幕を見た感じがする。

 自民党を支持しているであろう企業人はこんな武田氏の態度を許すのか。
 資本主義を大前提にしても、そこであっても必要なモラルの根幹を否定する倫理の崩壊ではないか。
 それを許すなら、許す側のモラルも疑われる。・・と、半分以上ある種企業人として生きてきた人間は怒るのである。

2024年3月1日金曜日

金貨の輝き

   虹の柱の下には金貨などの財宝が埋まっている‥という話(言い伝え)は世界中にある。
 こういう自然現象は多くの場合吉であったり凶であったりするものだが、虹についてはその美しさ故か凶の話は聞かない。

 中でも中国の話、虹がその家の水がめの水を飲みほした。酒を入れるとその酒も飲みほした。そして金貨を吐き出した・・というのはいい。

 私の後ろの太陽が反射しているというのは嘘である。
 あの柱の下の金銀財宝が反射しているのであることは間違いない。