「オオカミが来るぞ!」と騒ぐつもりはないが、原発が「想定外?」の地震に襲われた場合、避難できる保障などどこにもないことを私は確信した。
フクシマの事故が津波中心だったことで地震本体の怖さを忘れていたかもと反省している。
さて、敦賀の原発銀座は一般に福井=北陸との誤解があるが、地図でいえば北近畿そのものだ。
そして、地図を見れば一目瞭然だが、道路も鉄路も限られており、それが熊本のように遮断された場合は袋のネズミ状態になる。遮断される可能性は極めて大きい。
また、愛媛の伊方原発ならほぼ100%閉じ込められる。
そもそも、日本列島の大地震はヨーロッパの2000倍の頻度で起っている。
孫崎亨氏の計算では14日夜の益城町の揺れは1580ガルで、川内原発の設計は最大620ガルを想定している。
仮にこれが北近畿だとしたら原発事故で琵琶湖の水は使えない。
お笑いでは滋賀県民が京阪神「民」にいう「琵琶湖の水止めたろか」がお笑いでなくなる日が来る。
なぜ、熊本の地震から近畿の話をするかといえば、今回の地震は中央構造線に関わっているからで、故に慶長の大地震の再現もあり得ると想像すべきだろう。
だから近畿の人々も今の状況を「九州の話」と思わない方がよい。
私の好きな古代史だと、真の継体天皇陵といわれる高槻の今城塚古墳がこの地震で大きく崩れている。
以下、慶長地震をまとめた文をネットで見つけたので引用する。
●慶長大地震
慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震。慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されている。
1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、豊後地震を9月1日とするものもある。1605年慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され[1][2]、従来三陸沖が震源とされた1611年の地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出される等[3]、震源域に諸説あって不明なものが多い。
その内訳
慶長伊予地震 - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0、寺社倒壊等。中央構造線沿いと推定される地震。
慶長豊後地震(大分地震)[4] - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。M 7.0~7.8、死者710人。中央構造線と連続している可能性がある別府湾-日出生断層帯で発生した(上記地震との)連動型地震とされる。
慶長伏見地震[5][6][7][8] - 1596年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0~7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。有馬-高槻断層帯、あるいは六甲-淡路島断層帯における地震とされる。上記二つの地震に誘発されて発生した可能性がある。
慶長地震[9] - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9~8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4~8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1~2万人を数えた。
会津地震(慶長会津地震) - 1611年9月27日、会津地方をおそった直下型地震。M
6.9。寺社損壊、死者3,700人。
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波)[10][11] - 1611年12月2日に三陸沖を震源として発生した地震でM8.1。ただし、津波の痕跡の範囲などから、この従来の定説に疑義があるとされ、千島・色丹沖の震源と連動した大地震・津波だったとする説もある。この大津波による北海道・三陸の死者・被害甚大。
慶長十九年十月二十五日の地震 - 1614年11月26日に起こった地震。従来高田領大地震とされたが、会津から松山に至る日本各地に被害記録があり、震源は不明。
最後に・・・、地震に便乗して菅官房長官は「大災害時の緊急事態法(条項)」を口に出した。
秘密保護法といい、「緊急事態法の企み」といい、そうなればこのような私のブログはしょっ引かれて閉鎖されるのだろうか。
大地震も怖いが近頃の自公政権も怖いものだ。