昨日一昨日と学術会議会員任命拒否問題に触れ、朝ドラが丁度このタイミングで描いている戦前と重なることを書いた。そんなことで私の趣味である古代史に関わって「天皇機関説」と「津田左右吉事件」のほんの一面について付記させてもらいたい。
井上光貞著『わたくしの古代史学』という「研究自叙伝」がある 。井上光貞氏は古代史家の間では
井上皇帝(光貞)と揶揄される大家である。学問と家柄なんぞは関係ないが井上馨、桂太郎の孫である。
さて、先の本の中に「美濃部達吉博士の思い出」という小さな章があり、次のように書かれている。
◆美濃部先生が、天皇は国家の機関であるとする天皇機関説のために貴族院の右翼議員の槍玉にあがったのは1935(昭和10)年2月中旬で、4月『憲法撮要』以下の三書が発禁になり、9月には貴族院議員を辞した。・・父は貴族院議員(侯爵・陸軍少将)であったので、先生が2月25日に貴族院でなされた「弁明」の演説を聞いたそうである。父は先生が滔々と自説を述べ、学説を一歩も曲げなかったので、議場は粛然として先生の去るのを惜しんだ、とも聞かしてくれた◆
このとおり、天皇機関説は明治政府が驚くほどの学説でもなく、天皇は国を法人とすればその代表者(職)だというような、貴族院の議場が粛然として先生の去るのを惜しんだような説であった。しかし学問を軽視する右翼は、叛逆、謀反人、学匪、国賊と決めつけ、あげくは右翼暴漢に銃撃されるまでに及んだ。これが学術会議任命拒否とシンクロする戦前の現実だった。
次の話は津田左右吉事件である。1940(昭和15)年2月、津田博士の主著『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及び思想』が政府によって発禁とされ、早大教授も辞職させられ、挙句は皇室の尊厳を冒涜の罪で有罪とされた。これも無知な右翼が悪魔的虚無主義、不敬罪と騒ぎ立て、追認した政府が強行したものであった。
この四書も天皇機関説同様、驚くような内容のものではなく、あえて簡潔に言えば、記紀等の古典を絶対として歴史を解釈するのでなく、古典の不合理を分析批判し合理的解釈を与えるという学問としては初歩的な常識に類するものであった。さらには片言隻句をとらえるのでなく全体を読めば、当時の帝国と皇室を擁護、敬愛するようなものであった。復刻のなったその著作を読めば、なぜこのようなものが発禁になったのかと信じられないようなものだが、軽薄無知な右翼諸氏は自分の理解の及ばないものは許せなかったのだろう。
政府の方針に賛成できない公務員はパージする、真相を求めるジャーナリストは意図的に排除する、耳に痛い提言をする学者は任命しない、そういう強権を「見える化」することで公務員やジャーナリストや学者の委縮を狙う。その先には・・・
私が戦前とシンクロする、この(任命拒否)件の持っている問題は危険極まりないと考える所以は以上のことだけでも明らかだろう。
【おまけ】古代史から近現代史の専門家に話を移す。任命を拒否されたうちの一人は近現代史の東大加藤陽子教授である。私が氏の有名な『それでも日本人は「戦争」を選んだ』という著作を読んでの印象は”いささか歯切れが悪い”というものだった。非常に実証的だが戦前の「戦時体制」の批判が歯がゆいものだった。だから、政権はこの程度の見解でも許せないと考えたのかと半分信じられないくらいだった。
ただ思い当たることと言えば、この本の「おわりに」のそれも終わりの方にこうあった。
◆本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句(じゃっく)のものが少なくありません。しかし、このような本を読み一時的に留飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉(えぐ)る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません◆
私の想像では、こういう控えめでで冷静な指摘が、日本会議に支えられた政権ととりまきの文筆家には許せないと思われたのだろう。
そういう意味で、今回の学問の自由への介入は、民主主義にとって相当危険な水準に達しているように私は考える。