タイトルのスレイマン山脈の尾根筋は、アフガニスタンとパキスタンを隔てる国境(軍事境界線)線である。
一昨日に中村哲医師のことを書いたが、私は今でもアフガニスタンや中村医師のことはよく解っているわけではない。若い頃、陳舜臣氏の本が好きで、その縁もありシルクロードの中央アジアと周辺諸国に何となく親しみを感じてはいたが、どうしても陳舜臣氏を通じて、その眼は中華帝国を通しての眼であったようである。そんなもので、ユーラシアから見たユーラシア、ユーラシアから見た中華及び日本を見ようといろいろを本を読んでいるが、そもそもの基礎的理解が乏しいので四苦八苦している。
例えば、著名な歴史学者阿部謹也氏が中村医師を評している文章の中に「アフガニスタンの古都ペシャワールで」と書かれているが、普通にはペシャワールはパキスタンの都市である。もっと言えば、つまらない疑問だが、中村医師が診療所を建設したり用水路を建設されているのはアフガニスタンなのに何故ベースがペシャワールなのか、もちろん名前もペシャワール会なのか。
このブログ記事ではそんな細かな解説を試みるつもりはなく、ただ中村哲著『アフガニスタンの診療所から』※を読んで感じたことをメモしておくこととする。
さて『日本辺境論』は、2010新書大賞第1位となった内田樹氏の有名な著作の題名だが、ユーラシアの民族の攻防、民族大移動の歴史を見ると、ほんとうに日本列島は世界の辺境、世界史の例外だと屡々思わされる。つまり、そんな眼(日本の眼)でユーラシアを見ると大きな勘違いをしてしまうということをこの本でいろいろ学ばされた。
※この本の発刊されたのは1993年なのでその時点という注釈付きではあるが、アフガニスタンを概括しておくと、民族的にはスレイマン山脈のパシュトゥン部族が支配的民族で母語はパシュトゥ語である。国際語として通用力のあるのはペルシャ語で、スレイマン山脈ではパキスタンの国語であるウルドゥ語と拮抗している。
北方にはトルコ系のウズベク族、トルコマン族、タジク族が主力で、ほとんどはペルシャ語化している。山岳地帯の少数部族は、ハザラ、モゴール、チトラール、ヌーリスタン、フンザ、ギルギットなど、それぞれ独自の言語を持つ小部族~部族集団を形成している。群小の民族を入れると30以上にのぼる。
ローマに討たれて散ったユダヤ人、古代ペルシャのゾロアスター教徒、アレキサンダー帝国を継承したギリシャ系住民、侵入したサラセン帝国やモンゴリアの末裔、モンゴル人に追われたイスマイリ教団、東方から追われて南下したトルコ部族、ジプシー……
対立と群雄割拠とでも呼べそうな見事なモザイクと、その上に乗っかるインターナショナリズムとしての「イスラム教徒」。
1893年、イギリスとロシアによって引かれたアフガニスタンとパキスタンの国境(軍事境界線)はパシュトゥン部族の地を人工的に東西に分け隔てた。ここにも中東と同様の近代の大国の勝手気ままが問題を残している。
実際、パキスタン側のこの地は「北西辺境州」で、非常に高度の自治が許されている。ペシャワールは、パキスタンではあるが、パシュトゥンの地、北西辺境州にある。
高度な自治と書いてはみたが、自治というよりも掟(おきて)、慣習法であり、近代的な国家や法の概念をよせつけない。復習、もてなし、聖戦、名誉、旅行者の保護、会議などである。そしてその一つ一つに本音と建前があったりするらしい。日本でいえば中世の感じがする。
以上がアフガン問題の予習であり前書きである。ただ、この感覚が解らないとアフガン戦争、テロリスト、そして中村医師の苦労も功績も理解し辛いようにつくづく思った。今日はここまで。