大嘗祭については12月1日に記事を書き、秋篠宮の発言は常識的・理性的だと私は評価した。
折角なので大嘗祭について私の考えを少し述べると、私は折口信夫説とは少し違っている。
前提として古代からの日本の宗教観を見る場合、復活・再生のエネルギーは陰と陽の合体によって生まれるという道教(陰陽道)が基底にあると思っている。
大嘗祭は先代の天皇の死去あるいは引退によって途絶えた『天皇霊』の復活・再出発そのものの最重要な儀式であるから、陰と陽の合体は不可欠だと考えられていたと思う。
飛鳥坐神社の御田祭りをあげるまでもなく、その種の素朴な祭りは全国にある。
民俗学的に考えれば、それらは「いやらしい」ことでも「恥ずかしい」ことでも何でもない。
それを「いやらしい」というなら古事記はポルノ小説だということになる。
ちなみに写真は奈良の春日大社の子授け石であり、日本宗教のおおらかさの表れだと肯定している。
さて大嘗祭であるが、この儀式の根本中の根本は新天皇がアマテラスの子孫つまり「神(天孫)」となることにある。
その場合、アマテラスの神霊を先ず呼び降ろす必要があるが、それは精進潔斎した巫女(処女)が神がかり(憑依)して呼ぶのである。これはほゞ常識に属する事実である。
そうして、すでに一巫女ではなくアマテラスとなった処女と合体することで新天皇は『天皇(神)』に昇華するのだと私は考える。
折口信夫は、昭和3年の大嘗祭からはこの巫女の役割を皇后が担ったと考えているようである。
それ以前は、アマテラスとなった処女と実際に
媾(まぐ)わったと言っているように読める。(ただし折口の文章は難解である)
以上の説は、宮中の秘儀とされているので、私の見解が当っているかどうかを確かめることができない。
ただ、大嘗宮に湯屋や寝所があるのは誰もが認めている。まさか湯治や物見遊山のためではあるまい。
そして私は、そういう秘儀があったとしても、ある意味では日本列島の宗教観の当たり前の姿であるから、宗教である以上、それらを「古臭い」とか「いやらしい」とかは一切思わない。
故に、大嘗祭がその種のものであっても何らかまわない。
ただし、日本国憲法はそういう側面を持った天皇制を残しながらも近代国家の諸原則を導入した。
なので、そういう矛盾を常識的・理性的に解決する能力がわれわれ現代人に課せられている。
そういう意味で、国家的行事ではなく皇室内の宗教行事として、「身の丈にあった」規模の行事にしたいといった秋篠宮の意見を私は首肯する。
想像すれば、その考えは現天皇、皇太子、秋篠宮に共通していて、きっと深く検討されたものだと私は思っている。
それを鼻で笑って小馬鹿にしたような安倍政権は傲慢の極みのように感じている。