2月25日の『歴史の曲がり方』で粕汁を論じた際、「伏見は京の公家文化というよりも伏見城の城下町として発展した街」「伏見の酒造業の歴史は言われるほど古くなく明治の末期に陸軍第16師団の本拠地になってから」と書いたが、ことほど左様に「歴史」というものは徐々に美しく飾られるものらしい。さて、ならば、その種の「色眼鏡」は大阪にはないのだろうか。
建物は昭和40年代前半まで残っていて、各種公営施設の庁舎として使われていた。私などはそこにあった労働組合書記局(事務所)に通っていた。
その前身の8連隊は、〽また敗けたか8連隊。金鵄勲章9連隊。と世間で歌われていた。そのこと、・・8連隊が弱かった・・という俗謡が事実に反するということについては種々語られているからここでは深入りしない。
私は、その旧兵舎に出入りしていたにもかかわらず、私の理解はただその程度であった。・・・伏見を京といい、その酒造業を室町以来と語るようなものだった。
そんなことを考えたきっかけは、8連隊の碑の向かい側、国立医療センター(旧国立大阪病院)にある石碑を読んで驚いたからである。そこには『歩兵第37連隊』とあった。8連隊? 37連隊? 私の知識には37連隊というものはなかった(まあ、ただ知らなかっただけのことではあるが)。
それらはネットの検索で断片的には判るが、ナカナカ全体像が理解できなかった。編成替え? 名称変更?
いろいろ調べ、さらに判らないかと『ピースおおさか』に尋ねると、「歴史的には兵舎の場所も移動しているのだが、約めて言えば8連隊も37連隊もそのあたりに並んでいた」という。
伏見の誤解を笑っていられない。
大阪城天守閣横には陸軍第4師団司令部庁舎があり(子供の頃は市立博物館で行ったことがあるし建物は今もある)、大阪城北側は全国トップクラスの大阪砲兵工廠があったから、大阪城周辺は一大軍事施設街だった。数え上げればもっといろいろあったようだ。
なんとなく、生臭い政治や軍事とは程遠い平和な商人の街が続いていた大阪というイメージは、私だけかもしれないが、全く的外れであった。
テレビの番組で若い女性にマイクを向けて「70数年前まで日本はアメリカと戦争していたのを知ってる?」「ウッソー!」というのを笑ってなんかいられない。
「前向き」という言葉をよいことに、この国は歴史を持たない根無し草になっていないだろうか。自分自身の勉強不足を恥じつつ・・・・・。
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