2023年5月17日水曜日

平城京の紀寺

   平城京の紀寺跡の璉珹寺(れんじょうじ)については13日に書いたが、今日は『続日本紀』の小笠原好彦先生の講義の一幕を書く。

 天平宝字8年(764)孝謙天皇の条に、たまたま紀寺に居住して台所で働いていた娘二人が、戸籍確認の際奴婢とされたので、訂正を願い出た。
 結果、他の奴婢を含む76人が良人とされた(この不思議についてはとりあえず不問)。
 天平神護元年(765)、そのうちの一人である紀朝臣益麿は従6位上から従5位下となった。これは全くの破格の大出世。
 神護景雲元年(767)、陰陽員外助であったその紀朝臣益麿は正5位下となった。
 宝亀元年(770)。陰陽頭兼伯耆介。同年従4位下となった。

 この後没落するのであるが、古代史上他に見ることができない大出世があった。
 続日本紀には、何故こんなことが起こったのかという理由は記されていないが、孝謙天皇、陰陽寮、大出世というキーワードからその理由が何であったか・・・、はい、長谷やん。と指名された。

 答をいうと、その証拠はどこにも残ってはいないのだが、紀朝臣益麿は「仲麻呂 謀反」を申し出たに違いない。

 指名された私は、頭の中ではほゞそのように考えた。しかし咄嗟の指名で仲麻呂の名前が出てこない。頭の中のイメージは確実に仲麻呂なのだが出てこない。その上に、謀反という言葉が今度は出てこない。仲麻呂の乱に寄与したに違いないし陰陽寮だからそれ以外にない。しかしその言葉が出てこない。

 解らないとか間違ったわけではないが、咄嗟に答えることができない自分に愕然とした。
 帰ってから、「そんなショッキングなことがあった」と妻に話したら、「歳相応や」と慰められた。
 先日、紀寺(璉珹寺)を拝観しながら、済んだ日のそんな記憶が蘇ってきて苦い味がした。

 なお、そうではなく、道鏡関連であったかもしれないが、そこを推理させる記録は一切ない。

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