コロナ越え春の芝生に乾杯す
春陰や骨格標本吾に似て
ニュースを編集途中で見せていただいたところ、編集長は「コロナ越え」の句を遠足の感想文にふさわしいとして採用し、「春陰や」はボツと相成った。
そういうことは編集長の権限だからいいのだが、念のため、私としては「コロナ越え」は前文みたいに添えたもので、「春陰や」の方が、博物館見学で結構本気で愉快に思ったことだから、作者としては1句にせよと言われれば「春陰や」の方だとメールをした。
その後、結局2句と、関連する写真を採用してくれたのだが、私の前側にある記事の写真を大きくして私の俳句欄は縮小したらどうかとさらにメールをして、後は編集長任せとなった。
そして最終的には、私は「俳句のところを縮小」と言ったつもりだったが、結果は、その俳句の文字部分は縮小でなく、「写真俳句」であるのだがその写真の方が縮小されていた。
写真は猿人の骨格標本の展示だったのだが、コントラストも弱く、それが縮小されたものだから、ほとんど目的を達しなかった。
仕上がったニュースを読んだ妻の感想は、「骨格標本」の意味が判りにくい、写真がそれを補う「写真俳句」とは全く見えなかったというものだった。
ただただ自己満足の一幕だった。反省、反省。
念のためだが、このブログは編集長に対する不満でも何でもない。文芸のようなものが如何に伝わりにくいものか、プレバトではないが、如何にヒトリヨガリなものかを自嘲しているのである。
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