小笠原好彦著『奈良の古代仏教遺跡』に、「紀寺跡(小山廃寺)—造営年代と氏族を考える—」という章があり、一言でいうと定説に近いとされている「小山廃寺が紀寺の跡だろう」という定説?に[「おかしい」と異議を唱えられている。
その理由を私なりに要約するとこうなる。
1 17日のブログの奴婢の話だが、天智9年(670)の庚午年籍(こうごねんじゃく)のときに紀寺の二人が誤って奴婢とされたと書紀に書かれている。
ということは、天武5年(678)に計画された藤原京以前に紀寺があったということであるから、藤原京の条坊とぴったり一致している小山廃寺が紀寺であった可能性は極めて低い。
また藤原京の条坊に合わせて建て替えられた痕跡もない。
2 小山廃寺は左京八条二坊で、対称に近い位置に薬師寺(本薬師寺)がある。藤原宮の門が六条であるから宮のまん前となる。
紀氏は古墳時代までは紀ノ川沿いの豪族で、後、値(あたい)姓と臣(おみ)姓の2系統に分かれ臣姓は平群(へぐり)に進出したものだが、いずれも藤原京以前からの豪族で、それ以前に氏寺を立てていた可能性は高い。よって、藤原宮のまん前に条坊に沿って建立した可能性は低い。
3 薬師寺は天武が持統(鵜野皇后)の重病平癒のために僧100人を得度させ建立を誓願したものだが、その14日後に天武もまた重病となり、僧100人を得度させた。日本書紀はそれ以上は記していないが、僧100人得度ということは寺院の建立を誓願したのであろう。皇后が大病直後だったので藤原不比等が行なったのだろう。
こうして、宮のまん前左右に寺院が造営されたのではなかろうか。
つまり、小山廃寺は持統皇后の意を受けて藤原不比等が建立した大寺院(官寺?)だろう。
4 瓦の文様、制作方法には非常に特色・個性がある。ところで紀ノ川筋の古い紀氏ゆかりの寺院跡から発掘された文様の瓦は小山廃寺からは出ていない。
小山廃寺の瓦を見ると、山科の大宅廃寺、山階寺、久米寺、後の興福寺と同系列の文様が多くあり、それらはこの寺と藤原氏とのつながりの深さを物語っている。
なお、写真の雷文縁軒丸瓦が斬新なデザインで特徴的だが、この瓦の祖型は近江の園城寺と河内の九頭神廃寺から出ている。九頭神廃寺は北河内の河内馬飼(かわちのうまかい)が建立した北河内最古の渡来系氏族の寺院である。
天武の皇后・持統は、鵜野(うの)皇后、讃良(さらら)皇后であり、乳部(みぶ)であった鵜野馬飼、讃良馬飼に養育されたと推測されている。
このデザインは、持統の乳部の氏寺の瓦ー天武の大病平癒のための藤原京門前の寺の瓦ーその後各地の寺の瓦へと広がった。このことからも、小山廃寺が紀氏という一氏族の寺院ではなかったことになるだろう。
以上が、骨子のまた骨子といえると思う。
では、紀氏のほんとうの氏寺は・・・この話は別の機会に。
書紀に書かれていることをただなぞるのでなく、このように研究結果を発表される小笠原先生の話はワクワクするほど面白い。
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