先日は、平城京の紀寺、そして飛鳥京~藤原京の紀寺について書き、特に藤原宮の門前のいわゆる紀寺跡(小山廃寺)は実は紀寺ではなかっただろうと書いた。
当然、では飛鳥時代の紀寺はどこにあったのかというのが テーマになるが、小笠原好彦先生は次のような理由で、「平群(へぐり)の尼寺廃寺(にんじはいじ)」がそれである可能性が高いと指摘されている。
1 紀氏の故郷紀ノ川沿いの古代寺院跡の瓦、特にその文様から、その祖型は飛鳥の坂田寺にあり、坂田寺は鞍作氏の氏寺とされていて、巨勢路を通じて繋がっていた。その文様の瓦が尼寺廃寺から出ている。
2 尼寺廃寺の塔の礎石群は一辺が3.8m、塔の基壇が一辺13.8mという巨大なもので、法隆寺式伽藍であった。
3 紀氏系図は推古以前は平群氏の系譜でそのあと紀氏系譜を繋いでいる。
4 平群には平群坐紀氏神社(へぐりにいますきしじんじゃ)があり、明らかにこの地に紀氏が進出していた。
凡そそんなところだったが、鞍作氏とは蘇我氏であり、平群氏も蘇我氏の傍系であったように思う。
ただこの説は、義母が平群の出身である私には実感があまり湧かない説だった。
そこで、地図で確認したところ、その場所は現在の奈良県生駒郡平群町というのではなく、当時の平群の郡はもっと広かったこと、そして当該場所は現在の住居表示でいうと香芝市で、王寺町に接する場所であることがわかって、「なるほど」と私は膝を打った。
現代の高速道路あるいは鉄路にあたるものは古代では川であった。飛鳥京、藤原京、平城京、いずれの都もそれは大和川(平城京の後期には淀川水系の木津川も利用されたが)であって、難波津に出る(難波津から大和に入る)大和・河内間の窓口はこの寺の近く、ここだった。
さらに、大和川の最大の難所、戦後も長く大規模な地滑りが続いた「亀の瀬」があった。難波津から登ってきた船もここで小型の船に積み替えなければならなかった。物流の拠点みたいな地だった。
また俗に古代の国道一号線(推古朝813年)竹ノ内街道は二上山南麓だが、この道は枝分かれした二上山北麓廻りの「龍田(たつた)越」街道。
こういう交通の急所を押さえる(治める)ことは、瀬戸内海の村上水軍のようになることであり、大和の豪族達もそれぞれが河川の支配権を持っていた。この辺りは長く蘇我氏の勢力圏だった。
私が膝を打ったのはそのことであり、紀ノ川を牛耳っていた紀氏が大和川にも手を伸ばした結果に違いない。
尼寺廃寺は、亀の瀬を見下ろすような立地にあった。
ちなみに、聖徳太子の上之宮・法隆寺はもう少しだけ大和の京寄りで、ほゞ隣通しの場所となる。つまり、飛鳥京・藤原京の玄関口であり、決して京から離れた「田舎」ではない。
少し話は飛ぶが、私は奈良弁は和歌山弁とよく似ていると感じている。もしかしたらキーワードは紀氏かもなどと想像は広がる。
平群に生まれた義母が豪族平群氏や紀氏にどう関わるのかは全くわからないが、法隆寺近辺にも親戚があることだし、ちょっとこの辺りの古代史も見過ごせなくなっている。
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