2019年12月27日金曜日

再び三度 喪中について

   忘年会の折、親しい友人から「貴方のところからは喪中欠礼葉書がまだ届いていないが年賀状は止めておいたよ」との話を受けた。
 私としては(少なくとも私に限っては)友人たちがそんな気遣いをせず、普通に皆の新年の抱負などをしたためてくれたそれを読みたくて、あえてその種の葉書の投函を遅らせていたのだが、もはや『喪中欠礼』は世間の標準?であるらしい。

 ただ世間標準ということでいえば、バレンタインもハロウィンもきっと世間標準だろうから、無批判に世間標準で生活を律するというのは私としては面白くない。それに・・・、

 そもそも忌服とは、近親者が死亡したとき一定期間「喪に服する」ことをいうが、原点に返れば、忌は死の汚れ・穢れを忌む(避ける・嫌う)ことであり、服は喪服を着けていることである。
 つまりは死を汚れや穢れと考え、汚れや死霊が外に及ばないよう家に籠って、基本的には髭もそらずに人に会わないというもので、事実そうしている期間に年末を迎え「当方喪中につき」というのならそれはそれなりに道理がある。

 しかし、死別といっても多様で、高齢の祖父母や父母が順にいくのは当然のことであり、故に私の知っているほとんどの仏教やキリスト教ではそれを「仏(神)の元に旅立った」ととらえ、汚れや穢れとはとらえていない。
 イスラム教については浅学にして知らないが多くは変わらないと思う。唯一、死を汚れ、穢れとしてとらえているのは多くの神社(神道)である。 
 医学知識もない時代に、感染症を恐れたが故の思想ではないかとそれを善意に想像するのだが、少なくとも現代社会でそれを言うのは的を射ていないと私は思う。

 先に述べたとおり、死別(血縁、親疎)も千差万別であり、その期間(その年の始めのころか最近のことか)も千差万別であるから、ほんとうに身を慎んで「当方喪中につき」というのは大いにありうるが、少なからず宴会や観光やクリスマスはやりながら「喪中欠礼」というのも何かよそよそしいと私は思う。

 ところで、この喪中という考えは古くは中国の古典にあり日本にも伝播してきたものだが、現代につながっているそれは明治7年太政官布告『服忌令』に基づく習慣といえよう。
 これを因習であるととらえるかどうかは少し横において千歩も万歩も譲っても、そこでは兄弟姉妹も子も喪(服)は「何十日」とされているから、こんなに誰も彼も十把一絡げで1年単位でやたらに「喪中欠礼」とするようになったのはここ30年ほどのことではないだろうか。
 そうなったのは、印刷業界の宣伝のせいで「とりあえずそうしておけば無難だ」という「空気を読んで従っておく」精神といったら言い過ぎだろうか。

 とまれ、安倍政権下で神社本庁などが主体になっている日本会議などが戦前を賛美し復古を画策している今日、こういう因習を無批判に世間標準だと首肯していてよいのだろうか。
 チコちゃん流に日本国民に問う。明治の服忌令は「夫の服は(妻が)13月、妻の服は(夫が)90日」と定めているし「妻の父母」にいたっては「ナシ」というようにガチガチの男尊女卑の代物であるが、そんな思想を現代国民は肯定していてよいのか。

 「ええーっ、そんなことは知らない」「そんなに厳密に準拠したわけでない」といわれるかもしれない。まあ、そうだろう。
 でも、掲載した『青鞜』の表紙の写真を見ながらじっくり考えてほしい。
 「世間標準」?に唯々諾々としていては2019ジェンダーギャップ指数121位/153を批判もできなくはないか。
 本来人生に挑戦的であるはずの若者たちまでもが、自分自身の頭で考えてみるということをせず、とりあえず大勢に従っておれば・・・という風潮がないかという問題意識があったのでこんな無粋な記事を書いた次第である。
 自覚的だと思われる人々からこんな紋切り型の葉書が来ると私の心は少し曇る。
  

5 件のコメント:

  1.  言い訳ではないが、私もけっこう世間の空気を読みながら身を処している。そういう市民社会の付き合いを大事にするという点から一言いえば、リベラルという人の中に世間というか市民社会の付き合い、心配りに鈍感な人もいて気になることがある。でもって、つまらぬ世間の「欠礼」のような形式的な「流行」に無批判に従っているように見える。それでいいのだろうか。

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  2.  私も「ハガキ」を出した。すぐに何人かから「心のこもったハガキだ」とメールがあった。

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  3.  喪中はがき・・・ずっと気になっています。喜八のように世間に流されているなんてふつう考えないよ。身近な親族を失って、"新年おめでとう"なんて出さないよ。年賀状にしろ喪中はがきにしろ、ただの印刷で手書き一言もないのは味気ないし、意味があるのかと思う。世の中、多様な人集まりなんだから、それを
    世間に迎合なんて、少し固すぎる発想じゃないかな?多数の納得を獲得できないよ。
    "家族を想うときの鑑賞後に"労働者はそんなに弱くない"とフェイスブックにコメントした人(関西の人)がいたが、ケンローチが描きたかったのは労働者の弱さではなく、弱者がここまで追い込まれている現実社会(新自由主義の果ての感)であるように思うを観たなら、感想を!
    なにか関西人が頑な見方が多くなってきたように思います。(fbのコメント転載)

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  4.  恭やん、コメントありがとう。
     本文に書きました通り、喪中といっても千差万別で、ほんとうの?「喪中欠礼」は多いにありうると考えています。
     そしてコメントに書いたように、市民社会の付き合いなどは非常に大事にしています。反対にリベラルな人々の中に鈍感な人がいて怒ったりしています。
     「でもねえ」と一石を投じたいのです。この時代の同調主義?の蔓延に。

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  5.  年の暮れに旧友から「配慮が足らん」と叱られた。
     大いに反省!
     こんなことを指摘してくれるのも旧い旧い友人なればこそと感謝! ありがとう。

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