2019年12月17日火曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか4/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ4/

8 石津ヶ丘古墳VS造山古墳を比べてみると
 ここで石津ヶ丘古墳と造山古墳とを客観的な目で比較してみましょう。
 石津ヶ丘古墳は墳丘の周りを同一平面でめぐる堀を巡らせ、周囲の地形から切り取ったような整美な形態をしています。これは陵墓として保存整備され、営繕的な修陵の手も加わっているからでもありますが、大方は築造当初の原形をよく残していると考えられます。
   造山古墳の方は墳丘の南側が大きく蚕食され、そこに人家が密集して建てられています。これは北風から家を守るためにそうした集落ができたのですが、全体の地形をよく観察すると、西から延びてきた低い丘陵地形を利用し、後円部は丘陵の端を墳丘に取り込んで形成し、前方部で丘陵を切り通しで切断して墳丘が出来上がっています。墳丘の周囲には同一平面でめぐる堀は現状では認められません。この古墳は秀吉の備中高松城水攻めの時、城の救援に出陣した毛利方の陣城が置かれたらしく、後円部上に土塁などが残されていますが、陵墓の巨大古墳が見られない現状では、巨墳の墳丘とはどんなものかを実際に見る貴重な文化財です。
 かつて岡山県史が刊行された時、筆者らは共同研究として造山古墳などの築造企画研究を1990年代の初めに発表しましたが、県史に掲載された墳丘実測図は航空測量によるもので、現地を踏査して墳丘に検討を加えましたが、墳丘原形を確定するのは困難でした。しかし墳丘の設計の原則は石津ヶ丘古墳に共通するものを検証し、基本的には同一設計、同大の可能性を提起しました。
 その後岡山大学の新納泉教授(当時)がデジタル測量による墳丘実測図の成果を発表されて、今回はそれを使わせていただいて石津ヶ丘古墳との比較検討をしています。
このように地域が離れた巨大墳丘の古墳を比較する場合は、21世紀の今でも正確な実測図がなかなか揃いにくく、比較検討のむずかしさがあるのです。1600年も前の倭の時代、口コミの風評だけで実際の大きさの比較などできるわけがありませんが、建前として設計や大きさの計量の数値が驚くほどの速さで駆け巡っていたことが推測されます。

9 二大巨墳の造営で吉備を圧倒したヤマト王権
   ヤマトの大王が地域の王に同一設計、同大の古墳を造られてしまえば、大王の優越した権威や霊力は相対化してしまって、ヤマト王権の覇権の行使や統治に重大な障害となってしまいます。倭の時代では武器を取って戦うだけがタタカイではなく、霊力や呪力を注ぎ投げ合うこともタタカイであったと考えられます。しかしヤマト王権がとった対応は素早いものでした。
 造山古墳をさらに上回る二基の巨墳を古市と百舌鳥に相次いで築造し、吉備首長連合の対峙姿勢を圧倒したのが古市の誉田御廟山古墳(「応神天皇陵古墳」)と百舌鳥の大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)でした。この時代、吉備のこの対峙姿勢は「吉備の反乱」とまでは認識されなかったのでしょう。ヤマトが兵力を出して鎮圧するというヤマト王権絶対的一強の時代ではなく、どこで折り合いを付けるか、というヤマト王権と吉備首長連合が相対的な優劣関係に止まる段階にあったとみられます。
 ただヤマト王権がこれだけの巨墳を続けて造営するだけの力は、奈良盆地から河内平野に流れていく大和川流域と、木津川から淀川を経て河内湖に連なる広大な水系と、その周辺に広がる稲作可耕地を整備統合して、王権の基盤を確固としていたヤマト政権の総力があったからでした。人を集め、働かせたエネルギーを集約して覇権行使へと結集していく。そのためには集め働かせる人々を≪食わせ≫なければなりません。農村から農民を集めてきて働かせるだけなら、農繁期にはその都度帰農させなければなりませんが、集めてきた人たちを農耕歳時に関係なく働かせ食わせられる体制を整備すれば、ヤマト王権下では年中覇権遂行のための人海戦術のエネルギーが引き出せる、あたかも兵農分離で年中戦える軍団を作った織豊時代の統治経営にも共通するような、支配領域の安定した統治をおこなうことにヤマト王権が成功していたのではないかと考えられます。
 ここで前方後円墳を設計した技法や、墳丘の大きさを決めた物差しとその計量方法を具体的に見ていきましょう。

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