何歳になっても勉強をして、知らなかったことを聞くのは楽しいことだ。
写真のとおり、宮川徏先生の『大山古墳はなぜ巨大化したか』という講演を受けての感想である。
家に帰ってから妻にタイトル通りの質問をぶつけてみたら、「瀬戸内から大阪湾に到着した百済や新羅、唐の使節団に見せつけたのでしょ」ということだったが、私自身その日の朝まではそう思っていた。
古代史の最新の見解はだいたいそういうものだった。
しかし宮川先生は、「外国の使節に見せるためにだけあんな巨墳を造っただろうか?」「ヤマト王権にはそれだけのものを造らざるを得なかった理由があったはずだ」と論を展開された。(それをここで書くには紙面のキャパシティーが全く足りない)
結論を急げば、好太王碑文のとおりの高句麗から受けた敗戦のダメージの下で、倭国内で卓越した権威と霊力を示すことこそが最大のテーマであっただろう。
そしてヤマトは大山古墳の時代に吉備を凌駕した。
そのため大山古墳築造の後半戦はいわば「消化試合」のような手抜きがされ、同じ上町断層帯の地震によって、他の古墳以上に大きな損傷を受けた・・と先生は考えられた。
その他充実した講演内容であったが、紹介すると大論文になるので割愛。
写真は石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵)の南にある大塚山古墳から出土した鉄製鉤状武器の先端部分のレプリカ。明らかに対騎兵戦の武器であろう。
百舌鳥古市古墳群、奥が深い。
宮川先生は堺で私の先輩でもある。
講演後先生に「そうすると大きさではなく(大きいことは大きいが)形によって壮大な宇宙論で古墳がつくられた土師ニサンザイ古墳は倭王武ですか」と尋ねると、「倭王武しかいないでしょう」と答えられた。
一応、現在の多数意見に従えば倭王武は雄略天皇と言われている。倭王武も雄略(ワカタケル)大王も実在は疑われていない。それを宮内庁は島泉丸山古墳に治定しているのであるが元々疑問の多い治定である。勉強はますます楽しくなってきた。
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