2019年12月14日土曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか1/6

 標記の講演レジメを6回(6日間)に分けてアップする。
 時間に追われて流し読みするのは惜しい気がする。
 ゆっくりと読むと色々と面白いと思う。
 明日以降はフェースブックには転載しないので、興味のある方は直接このブログにアクセスしてほしい。

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ1/


1 巨墳だけが世界遺産の価値ではない
 本年の76日に百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録が、ユネスコの世界遺産委員会で正式に決定されました。これまで長い間取り組みをされてきた方々の努力に、敬意を表したいと思います。
 世界遺産登録の評価では、墳丘の長さで日本一の前方後円墳・大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)が、世界遺産の中心的価値であるかのように位置づけられた報道がなされてきました。
 しかし21か国からなる世界遺産委員会のうち、クウェートやスペインなど6か国が発言し、ジンバブエなどは1950年代に宅地開発で取り壊しの危機に直面した前方後円墳、イタスケ古墳(堺市・全長146m)が、市民らの保存運動で守られた歴史に触れ、『運動によって古墳は往時の姿をとどめている。先駆けとなった市民らの努力に感謝したい』と述べた(77日読売)。
 またスペインなどからは『開発圧力に対する住民運動によって保護された古墳が構成資産に含まれているなど、地域にも根差した資産』といった意見も上がった(同 産経[共同])と報道されていて、巨大古墳だけが注目され評価されたものではないことを伝えています。

2 外国の使節に見せるためにあんな巨墳を造ったのだろうか?
 百舌鳥古墳群の大山古墳(「仁徳天皇陵古墳」)は、墳丘長では日本一の大きさを誇り、それがクフ王のピラミッドや、秦の始皇帝陵との比較でも墳丘長が長いことから世界一とか世界三大古墳とか持ち上げられて、その大きさが存在価値であるかのように喧伝されています。また海に面した百舌鳥野に築造されたところから、巨大な墳丘が海外から来た使節が船の上から見ることを意識して造られた・・と、さもあったかのように説明しています。
 5世紀の当時の倭が、いつ来るかも当てのない外国の使節に見せつけるために、膨大な労力と時間のかかる巨墳を造るでしょうか。
 倭のヤマト王権にはそれだけのものを造る、あるいは造らざるを得なかった理由があったはずです。その巨墳を造った歴史的な背景を探るために、百舌鳥古墳群とはどんな古墳群か、あらましを見ていくことにします。

3 多様な古墳で構成されている百舌鳥古墳群
   大山古墳が造営された百舌鳥古墳群とはどんな古墳群なのでしょうか。図1に百舌鳥古墳群の概略図を載せていますが、古墳群は大きく分けて三つの部分からなっています。
 第一は茅渟の海(ちぬ:大阪湾の古名)に面した。海岸平野に分布する「茅渟古墳群」です。4世紀末の古墳が多く、なかでも乳ノ岡古墳は墳丘規模から地域の王クラスの墳丘を持つ古墳で、この地の海岸平野の生産力や、そこに拠る海士族の力だけでは造営できない規模の古墳と考えられますので、ほかからの力、おそらくはヤマト王権の働きかけで、船の建造や船の操船技術を利用され、ヤマト王権の覇権遂行の負託を受けた水軍的性格の人たちと考えられます。
   第二は、この海岸平野の東、標高15から20m前後の百舌鳥野の台地上に広がる百舌鳥耳原古墳群です。この耳原という地名は。百舌鳥よりも早く古墳群の形成が始まった古市古墳群から見て、茅渟の海岸平野に面した端=ハシ=ミミに当たるところからついた呼び名ではないかと考えています。
 この台地の上に5世紀初頭と考えられる百舌鳥大塚山古墳が築造され、次いでヤマト王権内でもそれまで見られなかった巨墳が造営されます。それが石津ヶ丘古墳(「履中天皇陵古墳」)ですが、百舌鳥にはこれより大きい大山古墳があるところから、「前座」扱いされて№2に甘んじていますが、百舌鳥古墳群の成立と5世紀のヤマト王権の覇権や倭の五王の歴史を考えるうえで、むしろトップクラスの評価がなされなければならない巨墳なのです。
 これに続いて大山古墳が造営され、規模は小さくなりますが田出井山古墳(「反正天皇陵古墳)や御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)、イタスケ古墳なども築造され、耳原古墳群には大王墳とそれを支えたヤマト王権の覇権の負託を受けてそれを遂行する軍事的な武人層や、初期的官僚層の古墳が集中します。
 第三は、この百舌鳥野の台地が百舌鳥川で浸食されて切り離され、その東に当たる土師台地に造営された土師古墳群です。
 百舌鳥古墳群という全体を一本化した目で見てしまうと、土師台地の古墳も百舌鳥の東側としか見えませんが、詳しく見ると土師台地には巨大な土師ニサンザイ古墳以外、ほとんど前方後円墳は見られず、前方部の短小な小型の帆立貝形古墳だけがニサンザイ古墳の周辺に点在しているだけで、これらの古墳は大王であったニサンザイ古墳の被葬者に直属した親衛隊的な武人の古墳と見られます。ニサンザイ古墳の被葬者は先の大王たちの「手垢」が付いた耳原の地を忌避し、無垢な土師台地に身近に寄り添った帆立貝形古墳の被葬者だけに古墳築造を許し、死後も我が世界だけの空間を造ったと考えられます。
 このように見ていきますと百舌鳥古墳群の成立は、時代を追って単純に形成され発展してきた古墳群でないことが読みとれます。茅渟の海岸平野に地域の海士族だけで形成されてきた古墳群が、次第に勢力を大きくした海士族によって、百舌鳥野の台地の上に古墳を築造するようになり、その中から巨大古墳が生まれてきた、というような自律的で進化論的な形成の仕方ではなかったことがわかると思います。
 それは茅渟以外の外からの勢力、ヤマト王権の力がこの地の地域に政権の覇権を発進するための足掛かりになる基盤を置き、覇権を負託してその行使を代行させた統治の跡を残している≪政治的≫に構成された古墳群だと指摘されます。

1 件のコメント:

  1.  天皇の代替わり行事がありました。先日も初代?神武天皇陵参拝がありました。伊勢神宮も・・・。
     そういう行事を利用して戦前の諸制度を復活させようと企てる安倍首相や日本会議など右翼の動きもあります。
     彼らの精神的バックボーンは皇国史観ですが、世論では何となく伝統だというように戦前の「前例」を容認する空気もあります。
     そんな皇国史観の批判は「荒唐無稽だ!」というだけでは不十分だと思われます。科学的な目で古代史を見つめ語ることが大切だと思います。

    返信削除