—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019年12月7日講演レジメ6/6
11 覇権の主導権を二大巨墳で守ったヤマト王権
ヤマト王権は石津ヶ丘古墳に次いで古市に5区型の設計で誉田御廟山古墳を造営します。1区20ヒロ、1ヒロ約160センチの誉田御廟山古墳は、後円部直径8区約256m、墳丘長13区約416m、前方部幅(復元)9.5区約304mの規模をもっています。ついで百舌鳥に大山古墳7区型、1区20ヒロ、1ヒロ約165センチ、後円部直径8区約265m、墳丘長15区約495m、前方部幅10区約330mの規模をもっています。二つの古墳の墳丘規模と大きさの数値は、外形研究の現状から類推される数値で、将来墳丘の発掘調査が行われた時には修正される要素を含んでいます。
しかしそれにしても限られた期間で、これだけの巨墳を2基も造営したヤマト王権の統治力は注目されます。
大山古墳が7区型の設計をしているのは、6区型の石津ヶ丘古墳の系譜を引きながら、吉備が石津ヶ丘古墳と同じ6区型で造山古墳を築造したため、ケガサレタ6区型を忌避して1区多い7区型でケガレを避け築造されたと考えられます。
この覇権主義をめぐるヤマト王権と吉備首長連合の対峙は、ヤマト王権の在り方を大きく変えることにもなりました。5世紀に入り倭王はしばしば南朝に使節を派遣して朝貢外交を行っているのは、東アジアでの倭の国際的地位を南朝皇帝の叙爵で高め維持しようとした、というよりは、古墳の大きさで他の地域首長よりもヤマト王権の大王が抜きんでている、という原始性を残している倭の大王と地域の王との階層秩序を、制度的に決まる身分秩序に整備するため、ヤマトの大王が南朝皇帝から大将軍号を叙爵され、倭のその他の地域の王たちには将軍号が叙爵されて、南朝皇帝の権威による倭国内での階層秩序を制度的に確立させようとした朝貢外交ではなかったかと考えます。
しかし石津ヶ丘古墳、誉田御廟山古墳、大山古墳の三大巨墳を造営したにもかかわらず、三大巨墳の威力という効果は倭国内に限定されたもので、東アジアの国際舞台では通用するものではなかったのではないかと考えられます。
倭王「武」の時の上表文が全文記録され、安東大将軍号が叙爵されたのは、この時の倭からの上表文が形式と礼式でも正式な外交文書として認められたからこそ、南朝に記録として残されたのではないかと考えます。この段階で倭もやっと、東アジアの国際社会で一人前と認められたわけです。
12 古墳の大きさでなく制度として大王権の確立へ
しかしその実態は大きく変貌してきたことが古墳の在りようから知ることができます。それが土師ニサンザイ古墳です。
先の大王たちの古墳でケガサレタ百舌鳥耳原の地を避け、だれの古墳も築造されていない土師の台地に、1区13ヒロ、1ヒロ162.1センチの設計で古墳を造営しました。この設計では後円部直径が168.6mになりますが。基本的にはヤマトの渋谷向山古墳の設計を継承する古墳です。特に注目されるのは古墳全体を立地させる「墓域」を、後円部の円弧を縦横3つづつ計9個敷衍(敷き詰めた)1辺約506mの正方形区画に二重濠を含めた古墳全域が収まるように造営されています。
ニサンザイ古墳の大王は、日輪を9敷き詰めた敷地の上に死後の世界を造り上げた壮大な宇宙観をもった倭王だといえます。前代までの巨墳造営の競い合いから、制度としてヤマト政権の覇権が確定してきた時代の様相を物語る古墳です。
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