2019年12月16日月曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか3/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ3/

6 大塚山古墳は中心埋葬の被葬者を欠いた空墓か
 大塚山古墳でもう一つ重要なことは、後円部の埋葬主体に中心埋葬されるべき被葬者が埋葬されていないのではないかと考えられることです。後円部中心点より南側(墳丘左側)に並んだ1号~3号の粘土槨のうち1号槨には鏡2面、玉類の副葬があり人体埋葬の可能性が考えられますが、槨内のその他の副葬品は鉄剣、直刀など20数振り、いずれもを西に向けて収められ、手斧も13丁ありました。槨外には衝角付冑、襟付短甲各1、矛、槍などで、これだけの副葬品とおそらくは木棺直葬の粘土槨の埋葬施設では、大塚山古墳中心埋葬の被葬者のものとしては墳丘規模にそぐわない粗略さを感じます。
 棺内に装身具の玉類と被葬者の両側に8振りの剣が切っ先を西に向けて並べられ、足元と推定される位置に鉄鏡、銅鏡各1が置かれ、その先にはやはり切っ先を西に向けた直刀群と鉄鏃、手斧13丁を副葬していました。槨外に衝角付冑と襟付短甲がセットで粘土槨に寄り掛かるように置かれ、切っ先を東に向けた矛1と槍先または剣身3が粘土槨に添えるように置かれていました。この1号槨は大塚山古墳の主被葬者の埋葬施設ではなく、あるいは後継者たる人物かもしれませんが、剣などの武器は遺体の周りに配置されているものの、甲冑一式が槨外に納められず槨外に置かれているなど、成人に達しない若年であった可能性を示唆しています。また直刀や剣などの短兵(白兵戦で戦う武器のこと)の切っ先が西向きにそろえて埋納されているのは、朝鮮半島の戦場から生還できた大塚山古墳被葬者の配下たちの≪敵愾心≫の表れなのかもしれません。百舌鳥にはこのような1600年前の倭と高句麗との海を越えたタタカイがあったことと、その生々しい記憶を封印したような遺物がそのまま残されていたのですが、そうした歴史を顧みることもなく、公的な保護の手立てを取られないままに破壊されてしまったのは今も残念でなりません。
 中心埋葬については、おそらくは大塚山古墳の先代に当たる可能性のある乳ノ丘古墳の埋葬主体が、和泉砂岩の組合式長持形石棺を石室を造らないで直葬しているので、大塚山古墳は中心埋葬施設を欠いた、つまり中心埋葬されるべき被葬者が当初から埋葬されなかった古墳である可能性を発掘当初から考えていました。これは発掘を指導したリーダーの森浩一さんは主体部についての見解を示していないので、調査に参加した筆者が当初からもっていた見解を、調査参加者の一人として明らかにしたものであることを断っておきます。
 大塚山古墳の被葬者はどうなったのでしょうか。推測の域を出ないのですが、朝鮮半島の戦場で仆れ所在が分からなくなったのか、あるいは対馬海峡で遭難して行方不明になったか、百舌鳥に地域の王クラスの古墳を築造することをヤマト王権から許されながら、百舌鳥には遂に帰葬されることのなかった悲劇の武人なのかもしれません。大王の覇権遂行を代行する負託を受け朝鮮半島に進攻することは、戦闘による死傷だけでなく行き帰りの航海も、大きな危険のリスクをおかしてやり遂げなければならない責務であったことを物語っています。

7 朝鮮半島での敗戦の衝撃にヤマト王権はいかに対応したか
   倭が朝鮮半島に進攻した4世紀末、古市古墳群に仲津山古墳が造営された時期であると考えられます。仲津山古墳はヤマトの渋谷向山古墳(「景行天皇陵古墳」)の系譜を引く同一設計・同大の古墳で、ヤマト王権の大王墳として最大の規模を示す巨大古墳です。(前方後円墳の形態や古墳の大きさを決める設計と計量の話はこの後、10以降で話します)。倭はこの大王の時に朝鮮半島で高句麗に敗れ、ダメージを受けたと考えられます。
ヤマト王権が次に大王墳を造営したのは茅渟の海を臨む百舌鳥野の台地の上でした。古市からだと海に面した西の端、ミミに当たる台地の縁辺に仲津山古墳を上回る巨墳の造営が始まりました。それが百舌鳥耳原の石津ヶ丘古墳です。
 なぜ仲津山古墳よりも大きい古墳を築造したのでしょうか。それは先の大王の時に受けた敗北という不祥事—つまりケガサレたヤマト王権の権威と大王の霊力のケガレ―を払拭し、新たに賦活させる呪術的な手続きでもあったと考えられます。そしてケガサレタ前のモノより、より大きなモノを新たに造りあげることで、前のケガレを払拭し新たなケガレのない霊力と権威を復活させ、≪不祥事≫を乗り越えた呪術的なミソギでもあったことを物語っています。
 ヤマト王権はそれとともに百舌鳥から約600キロも離れた日向の王に石津ヶ丘古墳の設計の1/2で古墳を築造することを許し、日向の王をヤマト王権の大王と擬制的な同族関係に組み込み、南九州の水軍の力をさらなる朝鮮半島への侵攻に利用しようと働きかけたと考えられます。
 このようなヤマト王権の動揺と巻き返しの動きに、吉備首長連合は吉備の総力を挙げて造山古墳を造営し、ヤマト王権に対峙する姿勢を示します。
 瀬戸内海の中央部にあって当時海上交通が最も重要な移動の手段であった時代、ここを対峙する勢力に押さえられることはヤマト王権にとっては、覇権遂行の死命を制せられることになります。
 造山古墳は石津ヶ丘古墳と同一設計、同大の巨墳を造営してきたことを知ったヤマト王権は、朝鮮半島での敗北のダメージを乗り越えようとしている矢先に、吉備がこのような対峙姿勢に出てきたことで大きな衝撃を受けたと考えられます。

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