2019年12月15日日曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか2/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ2/

4 ヤマト王権はなぜ百舌鳥を覇権発進の拠点にしたか
 奈良盆地を中心に発展してきたヤマト王権は海に開けていない内陸部にあるため、覇権を広げて行くためには陸上交通だけでは限界がありました。特に西日本や当時倭ではまだ生産ができなかった鉄を手に入れるためには、朝鮮半島へ進出し、朝鮮半島の諸国と交渉、取引する必要に迫られていました。
 そのためには外洋航海に耐える船を造船し、朝鮮半島まで航海させ、倭自身が主体的に乗り出す機構や組織を作り上げねばなりません。そしてその基盤となる「基地」をヤマト王権の統治力が十分およぶところに置く必要がありました。古市古墳群形成に始まり朝鮮半島に進出した倭は、百済など倭と友好的な国と結びつく一方で、百済と敵対関係にあった高句麗とは軍事的に衝突する事態に向き合うことにもなったと考えられます。

5 朝鮮半島での軍事的衝突―百舌鳥大塚山古墳の鉤状武器
   現在の中国吉林省集安にある丸都城の【好太王碑】には、高句麗の広開土王(在位391412)の功績をたたえた記念碑があり、391年と399年に倭と百済連合軍が敗退し、404年にも倭が敗退したという碑文が刻まれています。この時期は古市古墳群の仲津山古墳の被葬者が大王だった時期に当たるかもしれません。碑文は王の功績をたたえるために建てられたので、倭が惨敗した表現も割引して考えなければなりませんが、朝鮮半島に進出した倭が高句麗と戦い敗北したという事実は変わらないでしょう。
   百舌鳥大塚山古墳は、かつて石津ヶ丘古墳の南側にあり、後円部直径約103m、墳丘長167m、前方部を西に向けた古墳でした。地域にあれば王クラスの規模の古墳ですが、敗戦直後から土取り工事がはじまり1949年ころには後円部の破壊が大きくなってきましたので、森浩一さん(当時同志社大学生)をリーダーとして、高校2年生の考古少年が春休みに緊急調査し、筆者もその一人でした。
 後円部から4基の粘土槨が発掘され、そのうちの1号粘土槨は人体埋葬が確認されましたが、あとは武器や甲冑、鉄枠(覆輪)を嵌めた大楯、手斧(チョウナ)などの工具類を埋納した粘土槨でした。これらの粘土槨は後円部中心に深く掘られた直径約6ⅿほどの円錐形にぐり石を張り付けた遺構の上に並んでいて、張石状の円錐は排水溝の可能性がありました。この北側に1基離れてあった4号粘土槨は長さ約4ⅿ、幅およそ50センチで、槨の東側に切っ先を西に向けた二群の直刀を主とし、剣を添えた100振り余りの刀剣が収められ、槨の西側には靭などの容器に収納された鉄鏃が1500ほど、それ以外には手斧群、鍛冶用工具類などが粘土槨いっぱいにきちんと並べられていました。その中で1点特異な武器が目につきます。鋭くとがった先端を釣り針状に曲げて鍛造し、長柄を差し込む袋に鍛接した「鉤状武器」です。長さ33センチ、曲げた尖頭部と袋状との幅は16センチで、袋部には差し込んだ柄を固定する頑丈な目釘が差し込まれていました。
 ただ袋の中には柄は差し込まれてはいなくて、鉤状本体だけが埋納されていました。
 また2号槨からは4領の甲冑とともに、上面に頑丈な鉄枠(覆輪)を嵌めた長さ約1.8ⅿの大盾が埋納されていました。日本の古墳からの盾の出土例は多くありますが、鉄の覆輪を嵌めた例はほとんど類例がありません。これは馬上から戦斧などの斬撃に対応する実戦的な盾の構造を示していて、倭国内のいくさなどには必要ない盾の構造です。鉤状武器とこの大盾の組み合わせからも、朝鮮半島でおこなわれた戦闘の熾烈さを想起させる遺物だと思います。
 この盾に続いて西側に、鉄の細板を革綴じした草刷1具と、4両の短甲が1列に並べられていましたが、西の端の短甲には胴の中に冑は収められず、竹ひごを丸く曲げて作った小形の竹櫛が、何十個となくばら撒くように出てきました。実用的でない祭祀や呪術用の櫛だと考えられますが、竹ひごを曲げて糸で綴った部分に塗った黒漆が残っていたのでよくわかりました。
 ただ、冑がなかったのは、革冑の場合痕跡を残さないこともあるので、たくさんの黒漆の櫛との関連も課題です。その次に置かれた短甲の胴の中には衝角付冑が収められていましたが、冑に飾りつけられた鳥の尾羽が冑に巻きつくように、たくさんの鉄さびになって短甲の内側に繍着していました。発掘した当初、冑を飾る羽飾りで冑を包み込むように短甲の胴の中に静かに収めた状況が手に取るように感じられて、調査者としてそうした現場に居合わせられたことは幸せでした。 
   4号槨から鉤状武器が出土したときは、遺構の実測図が書きあげられてから、手に取って何度も撫でまわしその形態と重量感を記憶に焼き付けました。1500年(発掘当時の年代観として)も土中に埋まり、鉄さび化しているにもかかわらず、手のひらを突くと突き刺さりそうな鋭さを残していました。その用途については、①船戦の時、対戦相手の船べりの盾や水夫を引っ掛け引きずり落とす。②対騎馬兵との戦いで、徒歩立ちの歩兵が騎乗の騎馬兵を引っ掛け引きずり落とす。の二つの用途を考えていました。ただ発掘後、保管場所が転々としたことや、保存処理がされないままに放置されていたことなどで、堺市博物館に保管されたときには鉄さびで崩壊状態になっていました。
   筆者は5世紀の倭と朝鮮半島との関連を具体的に示す遺物が、百舌鳥の古墳に残されていることを検証するため、元の遺物が崩壊状態にあるので、原形を模式的にでも記録するために手に触った感触の記憶がまだ鮮明に残っているのをたどり、遺構に書かれた実測図を実物大に拡大し、歯科用硬石膏で実物大模型に復元しました。重量は完成した模型を水槽に沈め、溢れた水の容積から鉄の比重計算すると、約1.7キロ超~1.8キロ弱という結果が出ました。
 現在まで日本の古墳から発掘された遺物で同類のものはまだ発見されていませんし、朝鮮半島の遺物にも見当たりませんが、やがては発見されることを期待しています。ただヨーロッパの資料で、12世紀から16世紀に使われたバトル・フックという武器は鉤状武器にそっくりなことを知りました。その使途は訓練が十分でない市民兵が、戦闘プロの騎士や鎧兜を着用した兵士を相手に、引っ掛け引き倒す武器として使われた、ということで、基本的には共通する機能があったことが分かりました。
 馬に乗る文化がユーラシア大陸で一番遅れた倭で、馬に乗ることよりも前にまず馬とタタカウことから事始めが始まった、という歴史があったことや、その特異な武器が乗馬の歴史の古いヨーロッパよりも、700年も前に使われていた可能性が出てきたことは、文化伝搬が必ずしも進化論的に伝わるものではなく、一番遅れているところで新しい動きが始まることもあるという歴史の面白さが示されていると思います。
 この武器を振りかざして懸命に高句麗の騎馬兵と渡り合い、闘った徒歩立ちの倭の兵士は百舌鳥から進発していった一人だったと思うと、いとおしさを感じます。その他後円部から30丁、前方部から1丁、合計31丁の手斧(チョウナ)が発掘されています。片手で木を抉(えぐ)るのに使われたとみられますが、日本の古墳から出土した手斧の総数の60%が大塚山古墳から出ています。これは大きな木を半分に割り、それを丸木舟のように抉ってくりぬき船の船底とし、波切の船首や舷側の側板を組み立てて準構造船を建造する造船用の木工具だと考えられます。
 大塚山古墳の被葬者は、ヤマト王権から覇権を遂行するための造船を命ぜられて、造船する一方で海士族を水軍に編成し、朝鮮半島まで進攻する役割を負託された在地の首長だったのでしょう。その見返りとして地域の王クラスに相当する大塚山古墳を、茅渟の海岸平野を見下ろす百舌鳥野の台地に造営することを許され、朝鮮半島へ進攻していったとみられます。

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