2019年12月18日水曜日

大山古墳はなぜ巨大化したか5/6

大山古墳はなぜ巨大化したか
—百舌鳥古墳群成立のナゾをさぐる—
文化財保存全国協議会 宮川徏(すすむ)先生
2019127日講演レジメ5/

10 前方後円墳の設計と大きさはどのように測ったか
 巨大古墳という用語は森浩一さんによって提唱されましたが、「巨大」という量的な表現を使いながらその明確な基準を示さなかったために巨大という言葉だけが独り歩きしてしまった感がありました。今では墳丘長200m以上というのが大方の共通認識のようになっていますが、なぜ200mが巨大とそうでないものの境界になっているのかについては曖昧さが残ったままです。
 また前方後円墳の設計はどのようにしていたのか、古墳の巨大さはどこから始まったのか。思い切ってその始まりまでさかのぼってみましょう。
    定形化した前方後円墳は巨大化で始まる—その源流は箸中山古墳から―
   定形化とは明確な設計の原理と、古墳の大きさを決める尺度単位が検証できる、と言い換えてもいいかもしれません。つまり古墳造営(築造の過程が全体に整備されて行われている状態を検証できる古墳)です。その最初の古墳が箸中山古墳(箸墓とも)。
14で示した箸中山古墳の設計の復元図は、後円部を正円に描き、その直径を八等分しその1マスを「区」として8区、前方部はこの区で6区の長さに計量されています。つまり前方後円墳は後円部の円弧を基準として、前方部の長さを決めて設計しているのです。この原理を図にすると図16のようになります。
後円部を八等分するのは、倭人は「八」という数詞を「佳き数」年、大きいとか数が多いという表現に使うだけでなく、連綿と続く、というような精神世界にも連なる思想性を持っていたと考えられます。倭人は拇指を折りたたんで前に出した片手の指4本を「片の数」、同じく両手をそろえて出した指8本を「全き数」としていました。倭人にとって「八」という数は「佳き〔良き〕」数でした。
後円部を正円に描くことは日輪(太陽)を象徴し、そこ(後円部)に葬られる被葬者は「ヒノミコ」であったと考えられます。そして後円部(日輪)に付随させる前方部は水田稲作農耕の水の祭祀に関わる部分で、前方後円墳は「日輪プラス水の祭祀」を合体させた構造物に農耕祭祀者である首長(被葬者)を葬ることで、稲作農耕の祭祀と安定した収穫を祈念する倭人の祈りを完結的に具現化したモニュメントであったと考えられます。
墳丘の設計は「日輪と水」を結びつけた空間を表したものだとして、古墳の大きさはどのように決めたのか、という問題が残っています。
    古墳を測る物差しは身体尺度であるヒロ
   図16に古墳設計の基本となる「方形区画図」を示しました。これがどんな前方後円墳でも自在に設計できる基本設計の骨組みです。
古墳の大きさを決める物差しヒロは「両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離(広辞苑)」で、古墳時代の倭人は類モンゴル人のモンゴロイドですから、ヒロはほぼ身長と同じ大きさになります。つまりヒロは身長を表す単位で、身長はその人の「霊力」を表徴していると古墳を築造した倭人は考えたと思われます。つまり本来、目には見えない権威や霊力という形のないものを、ヒロという長さに具現化することで、古墳の墳丘に大きさとして目に見える形にして表した倭人の大変な知恵であったと思います。
後の制度化され固定化するものを「尋」とするために、「ヒロ」と表記します。
ヒロには163センチを数センチ前後する「大ヒロ」と、153センチを数センチ前後する「小ヒロ」の二通りあって、大ヒロは古墳時代成人男子の推定平均身長に相当し、小ヒロは同じく成人女性の推定平均身長に相当します。
定形化した最初の前方後円墳の箸中山古墳は、この身長尺度(または身度尺)で測って1区を13ヒロで築造していますので、この13という数は何を意味するのでしょうか。
先に倭人は8という数詞を佳き数としていた、と書きました。それに対して13という数詞は何となくそぐわない感じがします。長い間その不整合に頭を悩ませましたが、13は太陰暦の閏13ヶ月=1年のことではないかと思い至りました。
箸中山古墳の被葬者は、日輪と水の祭祀の前方部を一つに結合させた墳丘を1区閏13ヶ月の数詞で計量して造営された古墳で、後円部が4段築盛なのは四季を表している可能性がある。その墳丘の上の大円丘に葬られた・・・
最近では箸中山古墳の被葬者を邪馬台国の女王卑弥呼とする見解が高まってきています。魏志倭人伝は卑弥呼のことを「鬼道に事え(つかえ)、衆を惑わす」と書いています。
古代日本が暦を普遍的に使いだしたのは6世紀から7世紀とされていますので、この時代に暦の情報を独り占めして農事の歳時や日常を切り盛りして、人々を煙に巻くように幻惑したことを「鬼道に事え、衆を惑わす」と見えたのでしょう。
定形化して出現してきた前方後円墳が、最初から巨大古墳として造営されたのは倭の社会が稲作農耕を歴史的に最も重要な生産基盤とし、その祭祀や収穫にいたる農耕歳時が社会の存亡にかかわる重大事と考えられていたからでした。
    大王の古墳は稲作農耕の祭祀を象徴する最高の舞台装置
箸中山古墳に始まった定形化した前方後円墳の巨大化は、以後ヤマト王権の中で「正式に」大王に即位した王は、113ヒロで古墳を築造する、という倭社会のルールを定める最初の規範になったと考えられます。
跡継ぎの大王がスムーズに継承されないような事情があったときには、中継ぎの王が継承し、その王の古墳は113ヒロではなく12ヒロとか11ヒロというヒロ数で、準大王墳として造営されたこともあったと考えられます。
このように万世一系的に王権が継承されなくても、大王が決まれば古墳の設計はその王統の伝統的な設計に委ねるとして、113ヒロという数値は厳密に守られることで倭国内の統治秩序は守られ、大王は稲作農耕の安寧と豊作をもたらすことを最も重要な統治の機能として、倭国を支配してきました。
しかし覇権を拡大させ、支配領域を広げていくためには鉄の農具による生産の拡大や、統治領域を広げていくためには鉄の武器がより多く必要になります。このようなヤマト王権の覇権の発展が朝鮮半島での高句麗との衝突を引き起こし、その結果敗北したことによって生み出された王権の動揺は、大王の機能が稲作農耕の祭祀者だけには止まっていられない軍事や外交の分野を、統治の専権事項とせざるを得ない状況をもたらせたと考えられます。
    農耕祭祀を至上とする権能をかなぐり捨てて軍事・外交を権能に
石津ヶ丘古墳の被葬者たる大王は、先代の大王・仲津山古墳の被葬者の古墳の113ヒロを超える116ヒロの前代未聞の巨墳を、百舌鳥に造営して倭国中に知らしめました。特に瀬戸内を経て西日本や朝鮮半島へ進攻するためには、西へ向けた情報の発進が重要で、茅渟の海を見下ろす百舌鳥野の台地の縁辺は絶好のロケーションでした。
 このヤマト王権の動きに対して瀬戸内海の中央にあたる吉備は、首長連合の力を結集して6区型、116ヒロという石津ヶ丘古墳と建前では同一設計、同大の巨墳・造山古墳を造営してきました。
 ここでヤマト王権は朝鮮半島での高句麗から受けた敗戦というダメージに加えて、倭国内での覇権を懸けた対峙関係入に向き合わざるを得ない立場に立たされることになり、さらなる巨墳を造営して吉備を圧倒しなければ、倭国内で他より卓越した権威と大王の霊力は色あせて失墜してしまいます。

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